フレミングの左手を廻る半永久回路

   三

 落ちてきた壁によって強制的に作られた室内の真ん中でベッドに寝かされた銀次は、重苦しい溜息を吐きながら自身の腕に刺された管を流し見ていた。
 半透明な管を満たす赤い液体は確実に真空パックの中に入っていき、その嵩(かさ)が増すのを視覚として実感するたびにぐったりとした疲れを感じざるを得ない。そもそも扉すらない壁に囲われた室内。これからサンプルの回収を始めますとアナウンスがあった時も、一体どうやって採取するつもりなのだろうと疑問に思ったものだった。
 しかしそれがどういう経路にしろ、誰かが入ってきた時点で軽い電撃を以て怯ませての脱出を企てていたのも記憶に新しい。
 ただ、地響きと共にゆっくりとずらされていく天井と、開いた僅かな隙間から年若い女性が大きめのカバンを抱えてワイヤーで吊り下げられてくるのを見た瞬間に全ての計画は霧散した。
 男性相手であればそれでもどうにか一計を案じたのかもしれないが、女性、それもなかなかの美人が相手ともなればそうもいかない。ここまでくると普段の癖までもが調べ尽くされているような気になり、その時点で反抗の意思も萎えた。半ば自暴自棄に陥り、もう好きにしてくれと言われるがままにベッドに身を投げ出して、監禁前に聞かされていた通り献血めかして血液を抜かれている現状へと至る。
 ただし、雲母製の拘束具で両手足をベッドに縛り付けられる形でのそれにもやもやとした思いは消えない。より安全性を高めるためにという機械的な解説を受けて冷たい圧力に流されたものの、銀次は力を入れても動かない両手足に不満を募らせ、疑わしげに女性研究員を見た。
「あのー。俺、ホントに研究協力で連れて来られたんですよね……? やけにたくさん血を抜かれてるような気がするんスけど、サンプルだけじゃないんですか?」
「研究に使うことは間違いありません。この程度の血液量は少ないくらいです。成分解析だけじゃなく、輸血にまで使わなければいけないんですから」
 素っ気ない態度に、またしても溜息が出る。身を投げ出したのは銀次本人ではあるものの、作業を進める研究員の言葉数は少なく、茶目っ気の欠片もない。その代わりかのように問答無用で口内へ綿棒を突き入れて壁面を擦ったり、爪を切り甘皮を削り取ったりという各所の細胞採取作業が淡々と行われていた。
 どれも激しい痛みなどは感じないものの、こうも黙々と進められると研究協力者と言うよりはモルモットと表現したほうが正しいのではないだろうかと項垂(うなだ)れざるを得ない。
「……ドーブツ実験されてるみたい」
 ぽつりと呟くと、それまでひっきりなしに各所を弄(いじ)っていた手が止まる。それと同時にむず痒(がゆ)いような感覚に襲われた不思議に視線を上げると、どこか驚いたような顔の研究員が銀次を凝視していた。
 それでもなお破られることない沈黙に、気まずい思いで様子を窺(うかが)う。
「えーっと。……俺、なんか変なこと言いました?」
 引き攣(つ)った愛想笑いを浮かべても、明確な返答はない。それどころか必要サンプルの採取を終えたことを確認するや否や、研究員は最後に貧血防止の造血剤だと告げて一本の注射を打ち込み、銀次の拘束を取らぬままそそくさと機材を片付けて離れてしまった。
 入室時と同じく大きなカバンを抱えて壁際に寄ったその姿に、自身の状態を顧(かえり)みて慌てて声を投げる。
「っ、あの! これ! 外してくださいよ!」
 ベッドごと跳ねる勢いで暴れ、必死に解放を要求する。しかしそれが受諾されることはなく、研究員は天井から降りてきたベルトとワイヤーを装着し、するすると室外へ消えていった。
 幽閉された時よりもさらにおざなりな対応に、茫然として天井を見上げる。
 約束の献血も終わったのにと針の抜かれた後を不意に目に留め、銀次ははたと我に返った。
「そうだよ! 献血も済んだんだから、俺もう帰っていいんじゃないの!? いるんでしょ、鮫島さん!」
 声を限りに叫ぶと、室外から拡声器のハウリングが聞こえる。不快で甲高いそれに思わず顔を顰(しか)めると、時を置かず、せせら笑うような鮫島の声が響いた。
「なにを騒いでいるんですか天野さん。協力すると言ってくださったのはあなた本人じゃありませんか」
 それは嫌な声色だった。
 媚びていながら酷く見下し、丁寧でありながら押し付けがましい。ただこの時はっきりと彼の立ち位置が、蛮が普段言うところの雑魚(ザコ)、あるいはありふれた悪人なのだろうと認識し、銀次は静かに目元の温度を下げた。
 口調からしてここから出すつもりはないのだろうことも予想し、嫌悪感に眉間を寄せる。よく思い返してみればサンプル採取の協力を要請されたものの、それが終われば帰すとは一言も言われていない。従っていつまでという期限が定められていないことになり、先程の女性研究員の反応も、まさに自分が実験動物として連れて来られたからこそだったのだと奥歯を噛んだ。
「……俺の研究なんかしたっていいことないよ。電気が使えるってだけで、あとはなんにも出来ないんだから」
 吐き捨てたものの、外からはそれでも楽しげな笑いが届く。
「君は自分の価値と魅力に、まったく気が付いていないようだ」
 嫌らしく歪んだ目元と口元が容易く想像できるような声音で、鮫島は続ける。もはや繕(つくろ)う必要もないと判じたのか、これまで遜(へりくだ)っていた口調が一転して上段からの物言いに変わっていた。
「食事や休養を取るだけでなんの器具も用いず電力を作り出せる生き物というのはね、我々のような者にとっては願ってもない存在なんだよ。貧困地域において、電気というのはとても貴重なものだ。照明、通信、音響、索敵……どれをとっても今や電気がなくては用を成さない。しかし貧困な地では、日本ではごく当たり前に手に入るそれも到底入手が困難になる。もっとも、そのおかげで我々の開発する自家発電装置が高値で売れるんだがね」
 くくと僅かに漏れ聞こえた嗤いの合間に、気になる言葉が散りばめられていたことに片眉を上げる。その沈黙になにごとか察したのか、それとも外にいる他の誰かに耳打ちでもされたのか。どちらにしろ突然思い至った感嘆詞を呟くと、鮫島は改めて喉の調子を整えた。
「もしかしたら言い忘れていたかもしれないが、私達は少々、非合法な商売もやっていてね。なに、無償か有償かの違い程度で、やっていることはさして変わらないさ。援助する相手が日本の善良な市民から、様々な理由の下に銃撃戦をやらかす攻撃的な他国の市民へシフトはされているがね」
 まるで冗談でも口にするような軽々しい口調に、銀次の目が見開く。ゲリラ活動を相手取っているのかと表現しようのない感情に拳を震わせたとき、鮫島はさらに言い募った。
「なんにせよ、だ。かなりの重量でも自力で持ち運ぶしか手がなく、しかも発電量も微々たるものだった従来の発電機に比べ、君の能力は本当に素晴らしい。人間として当然の行為を行うだけで発電能力が持続し、しかも人間であるから運搬の手間もない。さらに、電気を吸収することによって自らの身体的ダメージを回復してしまうという特殊体質だ! 常に命の危険に曝されている者にとって、これほど魅力的なことはない。君の遺伝子配列や細胞構造をサンプルに、他者へもその性質を受け継がせることが出来れば、人は外傷による死の恐怖から解き放たれるかもしれないんだよ!! これが実現出来ればゲリラどころか軍隊、いや、どんな国の政治家だっていくらでも金を積む!!」
「ふざけんな! だいたい、他の人も同じようになんて出来るわけ……!!」
 そこまで叫んで、ぞわりとする予感が背筋を駆け上がる。
「さっきの女の人が言ってた輸血って……まさか」
「そう、きっと君が今想像している通りだ。これまでにも君の噂だけを頼りに電気ウナギや電気クラゲなどの細胞移植を試みていたんだが、人体には拒絶反応が強すぎてね。電気ショックを与える前の段階であまりにも無駄に数が減ってしまった。そこをクリアしたと思っても、今度は君のように雷ほどの高電圧には到底耐えられない。しかし今回は君という生ける完成品が手元にあるからね、期待は膨らむばかりだ。もう少しで世界中が私に賞賛の言葉を贈る」
 恍惚とした言葉が室内に反響する。しかしそんなものはもはや銀次の耳に入ることはなく、静寂だけが白い部屋の中に満ちていた。
 ぱちり、と小さな実が弾けたような音が落ちる。それはゆっくりと一つ、二つと音の数を増やしては大きくなり、やがて弾ける音と共に紫電を走らせた。
「なんで……なんで! 人を殺してまで……!!」
 銀次を縛る拘束具が、パキパキと音を立てて細かく剥がれ砕けていく。力を込めた腕や足には血管が浮き、時折、砕けた破片がその皮膚を傷つけていた。
「あぁあああああああ!!」
 咆哮と共に、拘束具は完全に砕け散る。戒めが解けて立ち上がった銀次から迸った紫電は壁に弾かれて跳ね返りつつもそれを駆け昇り、未だ閉じられていなかった天井の隙間から室外を攻撃した。
 激しい音と共にコードや機械をショートさせていく強い電撃に、浮き足立った騒ぎが聞こえる。慌てふためいた声が何度か叫ぶのが聞こえると、再び地鳴りに似た音が響き、天井がゆっくりと閉まり始めた。
「無駄な足掻きだ! そこにいる限り、君には何も出来ない!」
「うるさい! お前なんかに、お前なんかに! いいようにされてたまるか!!」
 焦りながらも自信を滲ませる鮫島に罵声を返し、より電撃を強めていく。しかしその最中、突然くらりと廻った視界に、思わず銀次は膝をついた。
「― あ、れ?」
 ぐらぐらと酷くなっていく眩暈。頭を押さえてみても止まることのないそれに、銀次はごく最近似た状況に陥ったことを思い出した。
 ここへ来ることとなるその瞬間に赤屍に打たれたあの注射針と、先程の研究員が最後に打っていった注射とが重なる。
「造血剤ってのも嘘か……! アンタらの言葉は嘘ばっかりだな……!!」
 落ちそうになる意識を必死に繋ぎ止め、滴る脂汗で濡れた掌を握り締める。天井が閉まっていく地響きは既に終わっていたものの、眩暈からくる吐き気に苛まれ、銀次は立つことすらままならなくなっていた。
 放電が治まったことに安堵したのか、余裕を取り戻した鮫島の嘲笑が再度降り注ぐ。
「ようやく薬が効いたか。どうも君のお友達が遊びに来てしまったらしく、面倒なことが起こる前に別場所に移動するんだ。任意で君についてきてもらおうかとも思ったんだが、どうもそこまで愚鈍なわけではなさそうなんでね。眠ってもらうことにしたんだよ」
 小馬鹿にした言い方の中に聞こえた一単語に、銀次の呼吸が止まる。
「友達? ……蛮、ちゃん?」
 途端、最後に見た後姿が脳裏に過る。元はと言えばいつも通りの他愛ない口論だった。恐らく弁当と薬を買って帰っていれば、多少気まずくはあってもものの一時間程度で修復されていたはずの仲違(なかたが)い。
 自分が帰らなかったことで想像以上の心配をかけ、そして自責の念にも苦しめただろうことを思い、思わず言葉に詰まる。
 口が悪く、調子に乗りやすく、守銭奴で女好き。けれど銀次に対しては時々過剰なまでに甘く、過保護で心配性な。
 恋しい声が聞こえたような気がした。
 ふるりと拳を震わせ、精一杯の力で床を押す。
「蛮ちゃん。待って、蛮ちゃん……! 大丈夫だから。俺、自分でなんとか出来るから……! 自分で、蛮ちゃんのとこに帰れるから……!!」
 落ちる汗も気に留めず、必死に片膝に力を入れる。がくがくと震えるそこを手で抑え込み、断続的な呼吸を繰り返して立ち上がると、銀次は一度だけ深く息を吸い込んだ。
 無理に意識を保っているため顔色は蒼く、足元は未だふらついて覚束(おぼつか)ない。それでも必死に床を踏みしめ、琥珀色の瞳が白い壁を睨み付けた。
 絶縁性が高いと言ったところで、限界はある。いつぞや赤屍の手袋を溶かした時のようにはいかないかもしれないが、それでも何かの突破口にはなるはずだと信じて銀次は静電気を弾けさせた。
 不機嫌な後ろ姿が。金を前にした時のいっそ下品な笑い声が。自信に満ちた表情が。柔らかく緩んだ双眸が。記憶の中にある全ての蛮の姿と声が背中を押す。
 薄情かもしれないという思いもある。人として間違っているかもしれないとも考える。しかしそれでも銀次にとって、今は実験の犠牲になった誰かのことを考えるより、蛮の隣に帰ることこそが優先された。
「蛮ちゃん。蛮ちゃん。蛮ちゃん。蛮ちゃんっ!」
 一度呼ぶたびに電撃は強さを増し、激しい音を立てる。
「俺は蛮ちゃんのところに! 帰るんだぁああああああ!!」
 これまでのものとは比べ物にならないほどの電気量が銀次から放たれ、室内を暴走する。完全に閉ざされているその外側からでも聞こえるほどのその大音量に、鮫島は引き攣りながらも乾いた嗤笑(ししょう)を浮かべた。
「はは……やはりあんな野蛮な場所にいた人間は馬鹿なんだな。無駄だと言っているのに理解もしない。もっとも、だからこそ扱いやすいとも言えるがね」
 強化ガラスの向こうから見える激しい光に目を細め、銀次から採取したサンプルを丁重にアタッシュケースへとしまい込む。自分達の研究課程から生まれた絶縁物質に絶対の自信を持っているのか、男は楽観的なまでに事態を静観していた。
 だがそのうちに、鼻先に異様な臭いが漂っていることに気が付き眉間を寄せる。成形される前のガラス液か、焦げたゴムのような喉を焼く悪臭。その臭いの正体にふと気付き、鮫島は慌てて銀次を幽閉している壁を見返った。
 白かったはずのそこは、今やゆっくりと茶色く変色し始めている。それどころか絶縁体であるはずのそれは明らかに静電気の弾ける音を立て、やがて近辺の機械類へと紫電を走らせた。
 至近距離で弾けたそれに、思わずびくりと腕を引く。
「馬鹿な……絶縁破壊を起こしただと……! 実験データでは落雷にも耐えると……!!」
 信じられない目で壁を見つめたまま、じりじりと後ずさる。中から聞こえる叫びと雷光は未だ途切れることはなく、そして壁の焼け焦げはゆっくりと範囲を広げながらその色を濃くしていっていた。
 化け物めと呟いた声は自失寸前と言っていい。ごく小さな音はもはや拡声されることもなく銀次には届かないが、絶縁体としての機能をなくした壁に勝機を見出し、荒い呼吸を吐き出す唇は静かに吊り上がった。
「もう少し! もう少しで! 焼け落ち ― !!」
 脱出を確信した刹那、ぷつりと糸が切れたような感覚に襲われる。
 静寂と暗闇に閉ざされる錯覚。なにが起こったのか理解も出来ず、言葉すら続けることもかなわない体はゆっくりと前へ傾(かし)いだ。
 もはやごく軽い静電気すら起こせない。指の一本すら動かない現状と勝手に斜めに動いていく視界に絶望し、銀次の目が熱く潤んだ。
 震えない声帯で、会いたい背中を呼ぶ。翻った白いシャツが必死の形相で駆け寄って手を伸ばす幻想に、痙攣するように人差し指が反応した。
 縋ろうとしても持ち上がらない腕を悔やみ、泣きながらごめんと呟く。その目はあと少しで、床だけを映した後静かに閉じられるところだった。
 だが、それは轟音によって遮られる。
 砕け跳んだ白い瓦礫よりも早く強い腕が銀次の体を掻き抱き、冷たい床を滑ろうとしていた頬を掬い上げる。柔らかな感触とは言い難いまでも、夢の中で縋ろうとしていたままの暖かさと嗅ぎ慣れた匂いに、重なりかけていた睫毛がか弱げに震えた。
 霞む視界の中で、やはりこれも幻視した通りの必死な表情が銀次を覗き込む。
「銀次、オイ銀次! 生きてるだろうな! 銀次!!」
 気遣っているのが分かるほどの軽さで頬を叩く手に、ぼんやりと中空を見ていた焦点が合う。目尻を濡らす涙は未だじんわりとした熱さを持っているものの、正気を取り戻したらしいその輝きに、蛮の唇から安堵の息が漏れた。
「……蛮ちゃん」
「おうよ。呼ぶのが遅ぇぞ銀次」
 目を細めて髪を撫でる温もりに思わず表情を緩めるも、先程までの激昂を思い出し、途端にくしゃくしゃと銀次の顔が歪む。
「ごめん、蛮ちゃん。俺、こんなところだなんて知らなくて」
「気にすんな、その分の文句は全部赤屍に言ってやる。……電撃が枯れるほど放電したんだ、疲れただろ。あとは俺様に任せてちっと休んでろ」
 軽く抱き締め、火照った目蓋をそっと閉じさせる。神経を張りつめて耐えていただけでとっくに限界が来ていたのか、銀次はたった一秒にも満たないその仕草の合間にゆっくりと脱力し、蛮に身を預けて静かな寝息を立て始めていた。
 信頼されているからこその遠慮のなさにそろりと額に接吻け、慎重に床に寝かせる。
「銀次。すぐ終わらせて連れて帰ってやるから、もうちょっとここでイイ子にしてろよ」
 言い置き、蛮はサングラスを押し上げて立ち上がる。室内に飛び込んでくるなり脇目も振らず、銀次を幽閉する分厚い壁を一撃のもとに殴り砕いた得体の知れない男。崩れた壁の内側から踵を鳴らして振り返ったその姿と威圧感にたじろぎ、鮫島は小さな悲鳴を漏らした。
「いよぉ、オッサン。たった一人監禁するためにこんな大層なモンまで作りやがって、このご時世にえらく景気が良さそうじゃねぇか」
 取り出した煙草を咥えて鼻白んだ声がまっすぐ自分を相手取っていることにたじろぎ、咄嗟に周囲に助けを求める。しかし他の研究員達はあらゆる意味での危険を敏感に感じ取ったのか、既に室内には鮫島だけが取り残されていた。
 孤立に気付きガマガエルのごとく冷や汗を浮かべる姿に、面白くもなさそうに蛮が嘲笑する。
「そりゃあよォ、どう見たってヤバい研究させられてる上に、こんなヤバそうな奴が乗り込んできたんだ。普通は我が身第一でとっととケツ捲(まく)って逃げるもんだぜ。銀次のデータに固執したテメェ以外はな」
 憎悪すら滲ませ、咥えた煙草に火を点ける。
「― 人のモン、随分勝手に遊んでくれたようじゃねぇか。鮫島サンよォ」
「なん、なんで、私の名を……!!」
 情けないまでにガタガタとうるさい音を立てる奥歯の震えを堪えることも出来ず、後ずさった場所に横たわっていたコードに蹴躓(けつまず)いて尻餅をつく。そんなことに構わずゆっくりと間合いを詰める蛮の冷たい視線に既視感を覚え、鮫島は必死で記憶の糸を辿った。
 やがて行き当った一枚の写真と添えられていた書類内容に、光明を見出したかのように表情を華やがせる。
「っ、そうだ! 君はあれだ、彼の仕事仲間の……! 提案が! 提案がある!!」
 敵意も露わな足音に制止を促し、目線を対等に戻そうとオロオロと立ち上がる。提案という言葉に心惹かれたのか思惑通り一旦足を止めた蛮に隠れてニタリとした笑みを浮かべると、どうにか余裕を取り戻した鮫島は数度咳払った。
「美堂君、だったかな。君のことも資料で見させてもらったよ。常人とは比べ物にならない握力を持っているとか、なにやら非科学的な力も……いや、そんなことはどうでもいい。君は天野君と違って様々な方面に才知を持ち、しかもビジネスに関しては懸命だと報告を受けている。どうだろう。奪還屋などという野蛮で不安定な裏稼業を廃業し、この施設のガードを……いや、君なら研究員や、各地での交渉人としても才能を発揮できるはずだ。もちろん報酬は一般家庭の収入などとは比べ物にならないほどに弾ませてもらう。君だって分かっているんだろう? 天野君の存在にどれほどの価値があるのか! 君のように頭のいい人間が、あんな素晴らしい素体の近くに居ながらなぜもっと早く私達のような研究機関に売り渡さなかったのか……本当に理解に苦しむよ。彼の能力を知れば、きっとどんな研究機関、いや、それが例え国家であろうとも君の言い値を支払っただろうに」
 最初は蛮の機嫌を窺うように、しかし話を進めるに従って段々と調子を取り戻し、最後には先程銀次に対していた時のような高笑いで締め括られる。その下卑た嗤いに蛮は顔色一つ変えず、煙草だけがジジと音を立てて燃え進んだ。
 長く細く紫煙を吐き出し、なるほどと小さく言葉が漏れる。
「確かにテメェの言う通りだ。この稼業は入るとなりゃあそれなりの金が入るが、ない時にはからっきしだ。十円で依頼してくるふざけた餓鬼もいりゃあ、馬鹿みてーに危ない仕事ばっかり持ってきやがる仲介屋もいる。銀次のボケは底なしのお人好しで、気が付きゃいつも大赤字だ。左団扇の生活が目的なら、そいつも立派な選択肢なんだろうぜ」
「そうだろう! なら……!」
「でもな」
 好意的な返答を期待して上げられた声をぴしゃりと撥ね付ける。
「餓死しそうになってた俺達に飯を恵んでくれたホームレスのオッサンはいい人間だったし、お人好しが過ぎて受け取り損ねた報酬も、まぁ依頼人に大事な用途があったから悔いはねェ。面倒な仲介屋はイイ女でイイ乳だし、もう揉めはしねーが少なくとも目の保養だ。最初に奪還屋を起ち上げた喫茶店のマスターが淹れるコーヒーは美味(ウマ)いし、安定した収入なんざなくてもそれなりに楽しくやっていける。それになにより、鮫島のオッサンよォ」
 途端、男の眼前五センチの場所に蛮が現れる。
「俺から銀次買いたいってんなら、宇宙の果てに届くくらいの金を用意してみろや」
 鼻先から食い千切らんばかりに犬歯を剥き、忌々しげに恫喝(どうかつ)する。ゆうに五メートルはあった距離をたった一瞬で零(ゼロ)にしたその速さに、鮫島は恐怖することしか出来ずにへたり込んだ。
 蔑(さげす)みの目で一瞥(いちべつ)し、踵(きびす)を返す。静かに寝息を立てたままの銀次の髪をふわりと掻き上げると、蛮は慣れた仕草でその身を背に負った。
 弛緩しきった体はずっしりと重いものの、僅かに見返るだけで至近距離にある寝顔に表情が緩む。
 外へ通じる扉近くには未だ座り込む鮫島の姿。いったい何を見ているのか挙動不審に視線を彷徨わせては尋常でない様子を晒すそれに、蛮は不愉快さを隠すこともせず言い捨てた。
「― あんだけ欲しがってた特異体質だ。悪夢の中でくらい、殺そうとしても死なねぇゾンビみたいな連中に囲まれて、テメェも実験される側に立ってみろ」
 二人が部屋を出たあとには狂ったような絶叫だけが響き、広い施設中に反響する。騒動はどこまで広まったのか、少なくともやましい研究をしていた区画から正気の気配は失せていた。
 ただ一人、扉の脇に背中を預けていた雪彦を除いて。
「お疲れ様。銀次くんの目の腫れ、治まったかい?」
 今到着したというわけでもなさそうな余裕のある呼吸に、蛮の表情が先程までとはまた違った趣(おもむき)の嫌悪に歪む。
「覗き見たぁ趣味の悪いヤローだな。追いついたんなら中に入りゃよかっただろうが」
「追いついた時にはもう君が銀次君の傍にいたし、僕が出る幕はないなと思ってさ。それにほら、好き好んで馬に蹴られたがる人はいないだろ?」
「一人で帰らせんぞテメェ」
「理不尽だなぁ。人目も憚らずに抱き締めてたのはそっちじゃないか」
「うるせぇぞデバガメ野郎。お前マジでこっから一人で帰れ」
 やけに楽しげな気配を振り切るように、赤面したままむくれて先行する。しかし本気で言っていないことは明白なのか、雪彦は忍び笑いを漏らしながら蛮の後ろをゆっくりとついて歩いた。
 むずむずと居心地の悪い感覚に、蛮はじっとりとした視線で振り返る。
「……そういやお前よ、不動の奴はどうした。簡単に勝てる相手じゃねぇだろ」
「え。……あぁ、どうにかね。僕が近接戦闘術の使い手なら難しかっただろうけど、遠投戦闘術だから。それでも雪月花を使わされちゃったけど」
「あー。あの野郎、サトリの能力だけで強さが五割増しだからな……。ごくろーさん」
 いつものように馬鹿にするわけでもなく素直に労いの言葉を投げる蛮に、雪彦も素直に応じる。そして蛮の足が施設に入った時と同じくエントランスに向かっていることに気が付くと、待ってと制止の声が投げられた。
「さっき見たんだけど、どうもこっち側にいた研究員達には別の出入り口が用意されてるみたいだよ。表の側にも騒動は伝わっているかもしれないし、念のためそちらを使ったほうが得策じゃないかな。廊下を戻って、不動さんの目が覚めてても面倒だし」
「ん? あぁ、そうだな。これ以上疲れるのは御免だ。この何日かの忙しさは正直異常としか……って、そうだ雪ン子。今俺が言ってたこと、銀次にゃ言うなよ」
「今のって?」
「この何日か忙しすぎたっつったろ。そんな愚痴聞かせた日にゃ、最後の一日分は自分のせいだとか何とか言って変な責任感じるに決まってるからな」
 ずり落ちそうになっている銀次を背負い直し、安心しきった寝顔に眉尻を下げる。雪彦は明快なその解説と結果予測になるほどと納得したものの、半ば自分を度外視しているとしか思えないその雰囲気に、無自覚な惚気(のろけ)というものは本当に怖いと隠れた溜息を吐いた。