フレミングの左手を廻る半永久回路
終
閉店後のホンキートンク店内。未だ煌々(こうこう)と電気が点(つ)き騒がしさを残すそこでは、まるで嵐のような勢いで、皿に盛られていた軽食は次から次へと銀次の口の中へと消えていっていた。
ガツガツと食い散らかしていく姿は周囲の目など気にも留めていないらしく、食器類ですら行儀悪く喧しい音を立てる。軽食の共にと出された冷水ですら二杯三杯と注ぎ足させていく見覚えのある暴食ぶりに、ピッチャーを手にしたレナとフライパンを手にしたままの夏実は困ったような笑みと、そしてある種の尊敬に目を細めていた。
明言はしないまでも、互いに離れていたにも拘(かかわ)らずまったく動作をして見せる奪還屋二人の息の合い方に感動しているらしい沈黙にこっそりと同意し、新聞を広げていた波児が苦笑して銀次に向き直る。
「ホンット、仲良いなぁお前ら」
「ふへ? はひは?」
まるでハムスターの如く口の中に大量の食糧を詰め込んだまま話す銀次に、横から拳が軽く側頭部を小突く。
「オラ、行儀悪いことすんな。ちゃんと飲み込んでから話せ」
昼間の自分を棚上げした言い草に、銀次を除いた店内全員が噴き出す。それをまったく気にも留めず聞き流し、蛮は食べ滓だらけの口元へ強引にペーパーナプキンを押し付けた。
「ったく。いい歳して、ホントに餓鬼みてーだなお前はよ」
「へへへー、ありがと蛮ちゃん! で、マスター。さっきのなんの話?」
食欲を満たせることと蛮に構ってもらえたことの双方が機嫌を良くさせているのか、至極幸せそうな笑顔がふにゃりと咲く。蛮と雪彦が銀次を連れ、例の研究所から戻っておよそ二時間。最初こそぐったりと眠り続ける銀次を心配したものの、目が覚めて起き上がるなり盛大な腹の虫を鳴らしてへなへなと崩れ落ちていた育ち盛りに、波児はやれやれと肩を竦めた。
「そういうところを全部ひっくるめて、仲が良いって言ったんだよ」
「ふーん?」
あまり理解していないながらも、悪い意味ではないようだと納得したのかまたパクパクと軽食を口に運び始める。その食べっぷりによしよしと満足げな頷きを見せ、蛮はくしゃりと金の髪を撫でた。
「今のうちに好きなモンたーっくさん食っとけよ銀次。なんせ今回の会計は全部雪ン子持ちだからな。なんせ雪ン子がもっと早くあの研究所からの依頼を俺達に話してりゃー今回の件は避けられたわけだしなー、そりゃー詫びさせてくれって言うのが、まーフツーだわなー。なぁ? そうだろ雪ン子」
扇子片手にへらへらと笑って見せる言葉に、雪彦からは引き攣った首肯が返る。食事をメインメニューとしない喫茶店の軽食は意外と割高で、昼間に蛮が食べた分も合わせると既にかなり財布事情を寒々とさせていた。
しかし言い分はもっともで、特に蛮に奢った手前、実害を被らせてしまった銀次に奢らないわけにもいかない。
「んー。でも雪彦君が教えてくれたから、早く帰って来られたんだよね? ホントに全部奢ってもらってもいいのかなぁ」
「いーんだって、気にすんな。この場合はむしろたくさん食ってやるのが礼儀ってモンだ。俺様が許す」
「お前になんの権限が……」
得意げに胸を張る蛮の姿に、呆れた様子で波児が呟く。しかし聞こえていない様子で盛り上がり続ける奪還屋二人の目を盗み、店主はこっそりと雪彦の前へ身を乗り出した。
「悪いんだがこいつらのツケが溜まっててな、負けてやれねーんだわ。財布の中、大丈夫か?」
ぼそぼそと耳打ちされる気遣いに、はいと照れ笑いを返す。しかし思わぬ出費のため支払いを翌日まで延期したいと申し訳なさそうに告げると、波児は何も言わずに雪彦の頭に手を置いた。
昼間も見た光景に、どちらの仲が良いのやらと密やかに蛮の肩が竦む。
「そういえば蛮ちゃん、あの研究所……どうなるのかな」
「あ? あぁ、まぁ心配いらねぇだろ。ここに戻る途中にちゃんと警察にゃあ匿名で通報しといたし、ついでに藪北のオッサンに案件任せてくれって言っといたからなー。今頃は新宿御苑所から遠征してイライラしてんだろうぜ」
「えー? 藪北警部を名指ししちゃったら、匿名の意味半分以上なくなるんじゃないのー?」
けらけらと笑い合い、最後のピラフを口の中に放り込む。大量に積み上げられた皿を目の前にしていながらも、銀次は最後の一口すら幸せそうに噛みしめて満足げに飲み下した。
「っはー、美味しかった! 抜かれた血の分、しっかり回収ー……って、そういえば蛮ちゃんどうしよう。俺の血とかその他いろいろ、あそこに置いてきたままだよ。取り潰されるとは思うけど、悪用されたりしないかなぁ」
「大丈夫だって。お前みたいなデタラメ生物の噂を信じてマジな研究始めるような頭のトンだ人間はそうそういねぇよ」
「そうかなぁ。だといいけどなぁー」
いまいち腑に落ちない様子の銀次をあえて気にしない素振りで、蛮は取り出した煙草に火を点ける。それをちらりと流し見、波児はばさりと音を立てて新聞を開いた。
銀次の眠っている間に、例のアタッシュケースは蛮が一度取りに戻っている。通報した直後で明らかな騒ぎになっているであろう場所に戻る危険を諭したものの、聞く耳も持たずスバルを走らせたことはどうやら言うつもりはないらしいと小さく溜息を吐いた。
銀次から奪(と)られた物を奪(と)り戻してきただけだと嘯(うそぶ)いてはいたが、さてどこまでが本音だろうかと唇を吊り上げる。奪(と)り返すという気持ちに嘘はなくとも、恐らく心情的には他の誰にも触らせたくないという気持ちのほうが強かったのだろうと幽(かす)かに笑った。
アタッシュケースは今は波児の足元にある。取ってきてからその保管や使用用途がないことに思い当たったのか、翌日、自分達がいないときにでもと卑弥呼への受け渡しと無限城への運搬仕事依頼を託(ことず)かっていた。
確かにあそこであれば血液の保管にも困ることはないだろうと、一ヵ月分のツケを早急に支払うことを条件に快諾したのがおよそ一時間前。
この溺愛ぶりを本人に知られるのを恥じ入るくらいなら、いっそ捨てるという選択もあっただろうにと凝り固まった肩を鳴らす。
しかしここに至って、大音声が店内を揺らした。
「あぁあああああああ!?」
耳をつんざく大声に、真横にいた蛮が最大の被害を受ける。それでなくても反響で全員の耳が打撃を受けるほどのそれに、一瞬店内が沈黙に包まれた。
「……ん? どしたのみんな?」
その静けさに気付いた銀次がきょろきょろと周囲を見回すと、隣から延びた手がその頭を鷲掴みにし、カウンターに叩きつける。
「ふべう!?」
「だからテメーは……急にでっかい声出すなって! 言ってんだろーがこのボケがぁ!!」
「んあぁあああ!? ごめん! 蛮ちゃんごめんなさいぃいい!!」
カウンターに押し付けられながらびちびちと暴れての謝罪に、憤慨した様子で蛮が大きく息を吐く。ようやく放されたものの赤らんでしまった顔の片側を労わって目に涙を浮かべた銀次に、それでと不機嫌な声が降った。
「へ?」
「へ? じゃねぇよ。さっきの大声、なんだったんだ」
回答を促し、顎で指図する。しかしそれを気にした風もなく、銀次は困った様子で頬を掻いた。
「やー、昨日からカラスにやられた傷、まだ手当てされてないなぁって思って……。ほら俺、蛮ちゃんの薬買いに行ったときに攫われちゃったじゃんか」
「……あー……。まぁ今になりゃあこんなもん、もう痛くもなんとも……」
「駄目だよちゃんと手当しないと! 待ってて、俺ちょっと薬局まで行ってくるから!」
言うや否や立ち上がり、扉に向かって一歩踏み出す。しかしその腕はがっしりと掴まれ、それ以上一歩も進めなくなっていた。
はてと見返り、掴んでいる手の主に首を傾ぐ。
「蛮ちゃん?」
問い掛けに返答はなく、代わりに静かに立ち上がる。
「閉店時間過ぎてんのに悪かったな波児。こいつの腹も膨れたことだし、そろそろ帰るわ」
煙草の火を揉み消す蛮に、店主は極めて短い返事で本格的な閉店準備に取り掛かる。山と積まれた食器類を慌ただしげに流しに放り込み始めたレナと夏実の姿に、雪彦もそれとなく手を貸した。
自分一人が一時的に外出するつもりだった銀次は、展開に目を白黒と泳がせる。
「あれ? え? もう帰るの蛮ちゃん?」
「ったりめーだ。これ以上居座ったらさすがに迷惑だろうが。オラ、ぐずぐずすんな。じゃあな波児」
軽く混乱状態に陥っている銀次を引きずるようにして扉を押し開け、振り返りもしないままひらひらと手を振る。今や完全に振り回される役回りに甘んじている銀次もとにかく別れの挨拶くらいはしなければと思ったのか、扉が閉まる直前に慌てて手を振った。
そのまま、放り込まれるようにしてスバルに乗り込む。ここに至ってもまだ蛮の行動の意図が掴めず頭を捻っていた銀次だったが、エンジンをかけてなお触れ合ったままの手に気付き、もしかしてと目を瞬かせた。
「蛮ちゃん」
「あぁ?」
「もしかして心配してくれてる?」
覗き込んだ琥珀の目に映る蛮の顔色は、夜の帳(とばり)に紛れてよく分からない。しかし沈黙を選んだそれこそが肯定なのだろうと推測し、銀次はへへと照れ笑いを浮かべた。
それきり会話もないまま、スバルは走り出す。仮の寝床にしているあの慣れた公園へ帰る途中に立ち寄ったドラッグストアを皮切りに、それから数日の間、どんな些細な用事であろうとも二人が別々に行動することはなかった。
−−− 了.