フレミングの左手を廻る半永久回路
一
まるで嵐のような勢いで、皿に盛られていた軽食は次から次へと蛮の口の中へと消えていっていた。
ガツガツと食い散らかしていく姿は周囲の目など気にも留めていないらしく、食器類ですら行儀悪く喧しい音を立てる。軽食の共にと出された冷水ですら二杯三杯と注ぎ足させていくあまりの暴食ぶりに、ピッチャーを手にしたレナとフライパンを手にしたままの夏実は、驚愕と、ある種の畏怖に目を見開いていた。
慄きからくる沈黙を憐れみ、新聞を広げていた波児が眉間を寄せて蛮に向き直る。
「お前ね、もうちょっと上品に食べられないの」
「うっせぇな、ンなこと気にする奴がこの店くんのかよ。それより今は腹膨らましとかねぇと動けるもんも動けねぇだろ」
「だからってなぁ」
溜息を吐いた波児が目線を落とした先には何枚もの皿が汚れたまま積み重ねられている。かつてそこに美しく盛られていたはずのナポリタンやクラブサンド、グラタン、ホットケーキ、ピラフ、その他ホンキートンクのメニューに連ねられているあらゆる軽食はもはや見る影もなく平らげられ、残っているのは添え物のパセリばかりだった。
しかしそのあまりの汚し方に、名付け親は情けなそうに溜息を吐く。
「行儀悪く育っちまったもんだなぁ。おじさんは悲しい」
「ピラフ! もういっちょ!」
「へ? あ、はぁい!」
苦言など聞く耳も持たずさらに夏実に向かって追加注文をかけた蛮に肩を竦め、波児は同じくカウンターで引き攣りながらコーヒーを嗜(たしな)んでいる雪彦の前へと移動する。
「ホントにいいのか? こんな奴に奢っちまって」
「はい。今回の件は僕の判断ミスが招いたことでもありますし、せめてものお詫びに体力の回復くらいは支援したいなと。……でも奢ると言った途端にこんなに食べるとは、正直思っていませんでした」
困惑の色の強い笑顔に同情を見せ、骨ばった手がくしゃりと髪を撫でる。かつて父親が生涯の目標にと据えていた疾風の王。その手が柔らく頭上に置かれた事実に紅潮し、雪彦は恐縮しきった様子で肩身を狭めた。
それを半ば嘲笑するように見遣り、蛮は胸ポケットから煙草を取り出す。
「ケチ臭ぇこと言ってんじゃねぇぞ雪ン子。飯代程度でテメェのミスを大目に見てやるってんだ。安いもんじゃねぇか」
「コラ。ったく、相手が下手に出てるととことん増長するなぁお前。って言うか、店に入ってきたときの剣幕はどこにやった」
「あ? ……あぁ、銀次は今んとこ心配なさそうなんでな。でなきゃのんきに飯なんて食ってられっかよ」
波児の叱責をさらりと返し、咥えた煙草に火をつける。カウンター上にごちゃごちゃと広げられていた皿の山は夏実とレナの手によって着実に下げられていき、蛮が一度目の煙を吐ききる頃には来店時と同じ状態にまで戻されていた。
素早く布巾掛けまでなされたカウンターに肘を置き、正面を向いたまま口を開く。
「で、銀次を攫った大馬鹿野郎ってのは?」
「うん」
倣い、雪彦も視線を交わすことなくコーヒーカップを置いた。
「××エネルギー研究所、という施設は知ってるかな」
「― 最近よく名前が挙がってるところだな。確か新しい発電技術を開発研究してるとかいう」
「そう。原子力、水力、火力、風力、波力、地熱、太陽光……そのどれとも違う安全で効率のいい発電手段を研究している民間施設だよ。医療機関や自宅介護をしている個人宅に自家発電装置を寄贈したり、他国の難民キャンプに支援品を送ったりで、近頃になってマスコミにもよく取り上げられて慈善団体としても広く知られている。……表ではね」
小さく付け足された一言に、蛮の唇が思わず吊り上がる。
「表、ね」
「あの研究所の名前と報じられてる功績だけは覚えがあったからね。連想される研究内容や慈善活動と持ち込まれたさっきの依頼……銀次君の監視という内容がうまく噛み合わなかったから少し調べてみたんだ。そのせいで知らせるのが遅くなったわけなんだけど、ちょっと血生臭い裏の顔があることが分かったよ」
コートの中からクリップ留めされた資料が取り出され、手渡される。それを咥え煙草のままぱらりと捲り、素早く流し読んだ蛮の唇が嘲りに歪んだ。
「こりゃまた随分な研究施設だな。慈善活動の裏で」
「紛争地域への武器売買と輸送、それに戦力として人員の派遣までやってる。戦争の裏で利益を上げる戦争屋。これがこの施設の裏の顔だよ」
「となりゃあ、銀次が攫われたのもこっち側の理由なんだろうな」
吐き捨て、静かに席を立つ。
「行くのかい?」
「ったりめーだ。相棒盗(と)られて黙ってられるか」
店の外を睨み付け、スバルの鍵を握り直す。その姿に嬉しそうに目を細め、雪彦もまた何枚かの札をカウンターに置いて席を立った。
「僕も行くよ」
並び立って微笑む表情に、蛮の目が見開く。
「いいのかよ。蹴ったとは言っても自分に持ち込まれた依頼の内容を他人に話しちまったんだぜ? プロの護り屋としちゃあこれだけで大問題だってのに、一緒に乗り込んだりしたら評判ガタ落ちすんぞ」
「今回の件、本当に責任を感じてるからね。それに護り屋としては確かに失格かもしれないけど……友達ってさ、仕事の体面なんかよりずっと大事なものだろ?」
まるで自慢するかのように弾んだ声色に、蒼紫もつられて柔らかに緩む。随分と銀次に影響されてきたらしいお人好しぶりに、同行の許可を肩を小突くことで言外に示した。
さてと呟き、力強く一歩踏み出す。
「戦争屋だかなんだか知らねぇが、俺様のモノを奪おうなんざいい度胸だ。泣いて謝っても許してやんねぇからな……!」
獰猛に牙を剥き、ホンキートンクの扉を引き開ける。手に持った資料に記載された所在地を一瞥してスバルに乗り込むと、蛮はその束を忌々しげに破り捨てた。
■ □ ■
震えた瞼が開き、寝ぼけ眼(まなこ)で天井を見上げる。それは随分と高い場所にあるにも係わらずまるで漂白でもしたかのような白さで遠近感覚を狂わせ、同色の壁と一体化し、ともすれば狭い箱の中に押し込められているかのような錯覚を抱(いだ)かせた。
しかしそれも視界のそこかしこに入り込む様々なコードと機械の沈んだ色彩が正常な空間把握能力を取り戻させ、寝かされている場所を中心に天井からぶら下がっている、大きな四枚の板とも壁ともつかない何かの存在感が次第に銀次の意識を覚醒させる。
そこは随分と広く、天井の高い部屋だった。
銀次を中心に据えた半径五、六メートル以内には自身が横たえられている簡易式のベッドが一つあるきりで他には何もなく、その代わりその範囲を出たところにはごちゃごちゃとした機械が群を成して置かれている。規則正しい間隔で電子音を発し続ける物やコードの先に吸盤めいたものがつけられている物など、正直銀次にとってはあまり馴染みはない。だが一度強制入院させられた際に似たものを見た覚えがあり、恐らく病院で使う類のものなのだろうと見当をつけた。
となればここは病院なのだろうかと体を起こし、注意深く辺りに視線を廻らせる。するとごみごみとした機械類の一角に蠢くものを見つけ、銀次は注視するとほぼ同時に顔面を白く変えた。
鍔(つば)の広い黒の帽子。ただそれだけで特定される人物像から連想される今までの経緯を改めて思い出し、身を縮めて細かに震える。
「あ……赤屍しゃん……」
「ようやくお目覚めですか銀次君。あまりによく眠っていらっしゃるので、少々薬が効きすぎてしまったのではないかと心配していたのですよ」
興味深そうに機械を覗いていた赤屍がにこやかに応じ、ゆっくりと歩み寄る。広い場所といえども限られた空間に天敵と二人きりという状況に戦慄し、銀次は文字通り体を小さくして滝のように涙を流した。
「知らない場所に一人で放り出されたんじゃないと分かって、安心の涙が止まりません……」
「そうですか。それは良かった」
恐怖からくる涙の言い訳を、そうと知りながら満面の笑顔で享受する赤屍に目が泳ぐ。しかし見れば見るほど巨大な病室を思わせる雰囲気に、銀次の唇がむずがるように動いた。
「あのー……もしかしてここ、赤屍さんの病院だったりするんですか?」
窺う言葉に、ふふと白い喉が揺れる。
「いいえ。面白いことをおっしゃいますね、銀次君。例え私が医者としての本分を全(まっと)うしていようとも、こんな大きな施設を作れるような大人物ではありませんよ。このセカイでの私は運び屋。となればもちろん、ここは私のクライアントの持ち物です」
冷笑とともに、細い目が機械の奥へと視線を送る。銀次がつられてそちらに目を向ければ、様々な機器に阻まれ見え辛くなっているものの小さな扉があり、そこから白衣に身を包んだ男がゆっくりと入ってきたところだった。
「気が付かれたようでなにより。少しばかり強引な手を使ってしまいましたが、あの無限城を束ねていた雷帝にお目にかかれて光栄です。天野銀次君」
鷲鼻に眼鏡をひっかけ、白髪交じりの髪をオールバックにまとめた男はやけに馴れ馴れしく嬉しそうな笑顔で握手を求める。そのあまりの笑顔に思わず応じて手を握るが、銀次は目まぐるしく展開していく事態に狼狽(うろた)えて言葉を探した。
「えっと、すいません。俺さっき目が覚めたばっかりで、それで赤屍さんからも何も聞いてなくってですね。あの、つまりその。何がなんだかよく分かってないんですけど……」
様子を窺うような上目使いに、男はなおも笑顔を絶やさない。
「勿論、きちんとご説明させて頂きますよ。ここは××エネルギー研究所。私はここの施設長で、ドクタージャッカルの依頼人の鮫島といいます。あなたをここにお招きしたのは、当方の研究に少々お力添え頂きたいと考えてのことなのですよ」
「……研究、ですか?」
始終笑顔で応じる男の言葉に胡散臭さを感じ、銀次の眉間が寄せられる。饒舌すぎる話術を怪しみ明らかな警戒を示し始めた心情を見透かしているのか、鮫島と名乗った男はさらに笑みを深くした。
「そうです。突然連れて来られた上に得体の知れない研究への協力を請われては、不安に思われるのも無理はない。少々長くなってしまいますが、まずは当施設の研究目的からお話しさせて頂きましょう」
前もって決められていたセリフをなぞるように、一切詰まることなく紡がれる言葉はそこから、施設の研究目的へと説明に移る。内容は別場所で雪彦が蛮に披露していた所謂(いわゆる)表の顔の部分だけだったが、さらに内容をこと細かに、且つ人助けと環境保全という部分を強調してのものになっていた。
わざとらしいまでの偽善に満ちた単語の羅列に、赤屍の頬が失笑に歪む。
「― ではここにある機器も全て、その人助けとやらに使うわけですか。なんとも滑稽な言い様ですね」
侮蔑の色合いを見せて吐き捨てられた言葉に、鮫島の笑顔が凍りつく。眼鏡の奥からぎろりと睨み付ける視線は銀次に見せる笑みからは程遠いほどに冷たく、苛立たしげに眉間を寄せていた。
「なにか言ったかな、ドクタージャッカル」
押し下げられた声音は酷く低く赤屍に投げられる。しかしそれをものともしない様子で受け流し、黒衣の医師は今度は柔らかに笑んで見せた。
「いいえ。私は人助けなどという高尚な考えを随分と前になくしてしまいましたのでね、感心しただけですよ。言い方がお気に障りましたか?」
嘲笑にも似た表情で傲岸不遜な態度を見せる影に、鮫島は忌々しそうに引き攣った笑顔で許容を示す。その遣り取りを剣呑な様子で見守っていた銀次が所在なさげに僅かに身じろぐと、男は慌てて取り繕った。
「あぁ、申し訳ない! せっかくゲストに来て頂いているのにお恥ずかしい。― まぁつまり私どもはエネルギー問題に真摯に取り組みつつ、健全な生活を送る上で不安のある方達を支援させて頂いているわけです。そこで極めて稀有な体質……発電、及び充電による身体疲労と損傷の急速回復能力ですね。それを持っていらっしゃるあなたから、少々サンプルを取らせて頂きたいと思いまして」
にこやかと表現するよりももはや媚(こ)び諂(へつら)っていると表現したほうが相応しい表情に、銀次は戸惑い気味に顎を引く。赤屍と自分への態度の差が疑念を沸かせていることを察し、鮫島は一度大きく息を吸った。
時間がかかればかかるほど面倒な遣り取りを増やすことになると踏んだのか、笑みを消して縋るように眉尻を下げる。
「ご足労頂くためだけにこんな不躾なやり方しか選べなかった当方を警戒なさる気持ちは分かります。今でこそあなたとこうして面と向かってお話もさせて頂き、あの恐ろしげな通称や俗称に似つかわしくないほど普通の少年なのだということは理解出来ました。しかしかの無限城の雷帝を噂でしか知る由もなかった当時の私どもとしては、あなたのお人柄に若干の不安と恐怖が拭えなかったと申しますか……。だからこそ、このドクタージャッカルにあなたを運んで頂いたのです。警戒されればされるほど、私どもの不手際を悔いずにはいられません。サンプルを取らせて頂くと言ってもほとんど痛みはありませんしご負担もおかけしません。献血のようなものですからご心配には及びませんので、どうか」
「え。いや、その、そう言われても……」
嘆願の言葉に銀次がさらに困惑の色を強めて目を泳がせる。天敵とは言えどこの空間で唯一の知り合いである赤屍に助けを求めて見上げるも、黒衣の影は視線を合わせることもなくただ静かにその場を共有しているだけだった。
助言も相談も出来る空気ではないと知り、銀次の唇から長い溜息が漏れる。
「じゃあ……うん、分かりました……。ホントに献血だけなんですよね?」
「おぉ、ご理解頂けましたか! ありがとうございます。さすがは無限城の雷帝と呼ばれた方だけのことはある!!」
渋々了承した銀次の返答に歓声を上げ、鮫島が半ば無理矢理握手を交わす。まるで振り回されているだけのようなその動きに慌てた声を上げると、満足した表情を浮かべた男は手を離し、やがてゆっくりと後ろへ下がり始めた。
「快いお返事も頂いたので、サンプルを頂く前にまずはあなたが本当にそういった体質をお持ちなのか拝見させて頂きましょう。待たせたね、ドクタージャッカル。少々物足りないかもしれないが報酬の一部だ。受け取りたまえ」
それだけ告げると、鮫島は室外へと消える。再度赤屍と二人きりで取り残される形となった銀次はぽかんとした表情で男の消えた扉を眺め、えぇとと眉間を寄せて首を傾いだ。
「体質……見る……? 赤屍さん、これってどういう展開なんで、しょおおおおおおおおお!?」
言葉も終わらぬ内に眼前に突き付けられたメスに戦慄し、思わずおかしな悲鳴を上げる。研ぎ澄まされた鋭さで白銀に煌めいた刃先を凝視し、見る間に冷や汗が額に浮かんだ。
「赤屍、さん? 僕が思うに、いえ間違っていることを切に切に願うばかりですが、もしかしてこれは赤屍さんとここで戦うとかそういう……」
「えぇ、ご明察です銀次君。ただしあちらからは、間違ってもあなたを殺してしまったりすることのないようにと強く言われていますがね」
白い面に浮かべた柔らかな笑みに反し、メスを握る黒い影からは怖気立つほどの殺気が滲み出る。肌が強張るほど冷たいその気に中(あ)てられ銀次の奥歯が小さく音を立てると、赤屍はことさら楽しげに唇を歪めた。
「では始めましょうか。銀次君」
言葉と同時に、銀次は簡易ベッドを蹴りつけて左方へ飛ぶ。咄嗟の判断からくる行動であったが、顧(かえり)みたベッド上に取り残されるように散った冷や汗の粒は次の瞬間には複数のメスに射抜かれ、さらに細かく飛散させられていた。
「っ、俺のこと殺しちゃダメって言われてるんじゃなかったんですか!?」
「言われていますよ。ですがこの程度、避けられないあなたではないでしょう?」
「疲れてるって知ってるくせに……!」
踊るようにメスを投げつけながら勝手な言い分を押し付ける赤屍に舌打ち、あぁもうと大きく吼える。
「大体あの鮫島って人もっ! 献血だけって言うから引き受けたってのに!!」
これではまるで話が違うと憤慨し、自分の背後を追いかける形で投げられ続けるメスの襲撃から逃げ続ける。しかしその足は考えていたよりもよほど軽く動き、作為的にとはいえ多少の睡眠をとれた効果なのか、ここに来るまでと比べて随分と楽に感じる体調に琥珀色の目が大きく瞬いた。
「あ、れ?」
指先に意識を集中すれば、ばちりと音を立てて紫電が走る。その感覚が先刻街中で赤屍と対峙した時よりも強いことを確認し、銀次は僅かに安堵の表情を浮かべた。
床を転がり、よしと呟いて顔面目掛けて飛んできたメスをグローブで弾く。
「ようするに、俺がマジで電気使えちゃうよってのを見せればいいんだよね!」
疲労の回復と共に電撃も多少使えるとなれば、相手方の要求に応えてこの状況を脱したほうが早いと唇を舐める。向き合った赤屍はその仕草を目にするや嬉しそうにくるりとメスを回し、帽子を深く被り直した。
「ようやく遊んでくださる気になって頂けましたか」
「だって、こうしないと終わんないんでしょ?」
困った顔でちらりと見れば、細い目が僅かに開き、無言のまま殺気が迸る。
「クライアントからきつく釘を刺されているとは言っても、私にも手違いは起こり得ますからね。油断と慢心で細切れになったりしないで下さいよ、銀次君」
「赤屍さん相手に、油断出来るような余裕なんて……あるわけないでしょっ!」
一直線に投げつけられるメスを電磁波で弾き飛ばし、黒衣の懐めがけて床を蹴る。脇腹を擦り抜けると同時に体を反転し、下方から至近距離での攻撃を狙って右手の平をかざした。
「だ、ぁああああああああ!!」
雄叫びと共に激しい雷が室内に生じ、轟音と共に発光する。走り回る細かな静電気が肌を掠め、室内に置かれた機械類の傍でけたたましい音を立てた。
焦げ臭い匂いが充満し、赤屍がいるべきその場所には大きな焼け焦げが残る。
「っ、はぁっ、くっそ手応えなし……!」
ほぼ全力で放った電撃を容易く避けられ、悔しさに眉間を寄せながら素早く辺りを見回す。そこかしこで散る静電気の残滓がパチパチと音を立て、なけなしの集中力を乱した。
耳障りなそれを少しでも意識の外から追い出そうと片耳を塞ぐ銀次の背後で、影が揺れる。まるで液体のようにとぷりと揺れた影からなお黒いモノがゆっくりと押し出されると、それは手にしたメスを唇に当ててにんまりと笑んだ。
走り抜けた悪寒に銀次が距離を取る間もなく、複数のメスが天井に向かって放たれる。
「赤い雨(ブラッディ・レイン)」
呟きと共に、メスの雨が降る。
初めて対峙したあの件以来、未だ赤屍を畏怖の象徴たらしめ続けている原因。その雨の如き白刃を睨み付け、銀次は体を低く屈めた。
「これっくらい! 俺だってぇえええ!!」
気合を叫んで走り抜けつつ、体のあらゆる部分を反らし屈め、時に左右へ移動しながら鋭い切っ先を紙一重に避けきる。衣類の裂ける音は響けど一滴たりとも散らぬ血液に、赤屍はその細い目を僅かに見開いた。
「……ほう? これは驚きましたね。以前は血塗れになったというのに、見事に躱(かわ)している」
「へへっ、前に笑師が躱(かわ)したでしょ? だったら俺にも出来ないわけないなぁって!」
「なるほど、元リーダーとしての意地というわけですか。あなたは本当に面白い。……ですが」
喉を揺らした赤屍の目線の先、銀次のすぐ脇で黒が揺らぐ。二人しか存在しないはずの室内、その限定された空間において互いに顔を見交わしての攻防にも拘らず、いるはずのないもう一つの気配に銀次の顔が青褪めた。
剣を携えた黒衣の影が、銀次の脇腹を深く刺し貫く。
「赤い分身(ブラッディ・アバター)……。先程の赤い闇(ブラッディ・ダークネス)で使用した私の血液が未だあなたの影を追っていること、まさかお忘れだったわけではないでしょう?」
静かに告げられた言葉に返答も出来ず、痛みを堪えながら膝をつく。額に浮かんだ脂汗は滲み始めたばかりだというのに既に頬に流れるほどになり、玉となって床に落ちた。
赤く濡れていく服を握り締めたまま、銀次の眉間が忌々しげに寄せられる。
「殺さないって言っときながら案の定これだし……! だからアンタが敵だと信用出来ないんですよ……!!」
「おや、これは嬉しいことを。つまり味方であれば信用してくださっていると?」
喜色を浮かべる切り裂き魔に返す言葉も見当たらない。しかし笑顔でありながらも禍々しい殺気を込めたメスを携(たずさ)えて一歩、また一歩と距離を詰めてくる姿に、銀次はじりりと膝で後ずさった。
指先に電気を集めても、もはや先程のような威力はない。やはり多少回復した程度ではあのレベルの放電は一度が限界かと遣る方なく唇を噛んだ。
なにより、あれは体質を見ると言って部屋を後にした鮫島という男の言葉を信じ、一撃必殺、且つ体質と能力を見せつけるつもりで放った一発だった。
それを考えれば、あの直後にこのテストが中断されなかった時点でこうなることは目に見えていたとも言える。
あれは自分と赤屍を対峙させるための狂言だったのか、それとも他になにか意図があるのか。それを測り兼ね、琥珀色が警戒心も顕(あら)わに黒衣を睨み続けた。
牽制する目線に、ふふと赤屍の唇が歪む。
「まさか君からお褒めの言葉を頂けるとは思ってもいなかったのでね、今の私は少々機嫌がいい。ですからお疲れの銀次君がこれ以上切り刻まれずにこの場を終わらせられるよう、一つばかりヒントを差し上げましょう。ただし、私があなたの眼前に辿り着いたら時間切れ。そこから先は頭を働かせる余裕があるか確約致しかねますよ」
くるりとメスを回し、薄い唇が歌うように告げる。
「彼の言った言葉をよく思い返して御覧なさい。そして、この部屋にあるものとその動力源に考えを巡らせてみれば……自ずと答えは出ると思いますが?」
くるりくるりとメスが回る。至極楽しげに歩を進めてくる赤屍の言葉に、銀次は押し黙って顎を引いた。
赤屍との距離はもう遠くない。それを目の当たりにし、ごくりと唾を飲み込んだ。
記憶力がなさすぎると蛮に呆れられ続けている思考を精一杯廻らせ、思い出せる限り鮫島の言動を巻き戻す。様々な雑音とノイズが頭を駆けまわる感覚に痛む傷口を握り締め、脂汗の滲んだままきつく目を閉じた。
やがて赤屍と鮫島の険悪なムードを思い出し、細く息を吸う。
あの時赤屍がなにを皮肉ったのか銀次にはよく理解出来てはいなかったが、人助けという単語だけがやけに耳に残っていた。
「そうだ。人助けをしてて、それで俺が珍しい体質だから協力してくれって言われて……。で、あの人が言った俺の体質ってのが……」
発電、及び充電による身体疲労と損傷の急速回復能力。
唇の動きと共に音声で再生された言葉に、逆立った髪が思わず跳ねる。咄嗟にそのまま周囲を見回せば、先程の静電気はもう治まったのか、やはり大量の機械類が静かに身を落ち着かせていた。
機械から延びる大量のコードを見つけ、銀次の目が輝く。
「あった! 俺の生きる道!!」
はしゃいだ声を上げると同時に、転がるように床すれすれを駆ける。もう目前に迫っていた赤屍の足元を擦り抜けて群れを成す機械の隙間に滑り込むと、束になっているコードを掴み、表面を覆う絶縁ゴムを無理矢理に引き千切った。
指先に感じるピリリとした電気の感触に目を細め、剥き出しになった銅線を握る。
途端激しい音と共に、体中を光が走り回る感覚に銀次はその身を震わせた。
「おぉおおおおおおお!!」
迸(ほとばし)った雄叫びが室内に反響し、まるで大きな雷鳴を思わせる。
水が蒸気を発するような音を立てて再生されていく傷口を指先で確認し、ゆっくりと息を吐いた。
脇腹付近の衣服を引き裂き、無事に傷が塞がったのを視認して両手を掲げる。
「鮫島さん! ほら、これ! ちゃんと傷、治りましたよー!!」
ぶんぶんと腕を振り、赤屍からメスが投げつけられる前にこの馬鹿げた試験を中断してもらおうとその場で飛び跳ねる。子供じみたその姿に呆れたのか、それともこれ以上の続行は望めないと判断したのか。どちらにいろ程なくして、薄笑いを浮かべた鮫島が重そうな扉を開いて再び室内に足を踏み入れた。
「本当にあなたは、考えていたよりもずっと普通の少年のようだ。いいでしょう。あなたが電気を自在に使える場面も、また、電気を取り込んで傷を治す場面もこの目で確認させて頂きました。改めて、あなたに協力をお願いします」
無事にあの茶番劇を切り抜けられたことを示す言葉に大きく息を吐き、銀次はふにゃふにゃとその場に座り込む。体の疲れは先程の充電で多少回復してはいたが、赤屍とやり合っていたという精神的疲労が立ち上がる気力を奪っていた。
「よ、よかった……ホントに良かった……! 電撃出せなかったらマジに殺されるところだった……!!」
「えぇ。呆気なく細切れにしてしまわずに済んで、私も安心しましたよ。焼け石に水かとも思いましたが、麻酔にビタミンを混入しておいた甲斐があったというものです」
今現在生きているという事実に感涙する銀次に、赤屍もにこやかに同意する。その言葉の意味を測り兼ねて首を傾げると、黒衣の医師は手の中にあったメスをするりと体内にしまい込んだ。
「ビタミンには疲労回復の効果があるのですよ。銀次君がお疲れのところを狙えと言われていましたがそれでは私が楽しくないので、少々力添えをさせて頂きました。食事を摂(と)った方がより効果的に君は回復したのでしょうが……さすがにそこまでは出来ませんでしたのでね」
「……つまりあんだけ疲れてたはずなのにやけに体が軽かったり電撃使えたりしたのは、赤屍さんが注射してくれたおかげってことですか?」
「全面的にとまでは言えませんが、半分くらいはその効能と睡眠によるものでしょうね」
機嫌のいい笑みを向け続ける赤屍に沈黙し、黙ってその場に正座する。
「理由はあえて聞きませんが、助かりました……。赤屍さんはホントに難しい人だなと思いましたが、助かったのでありがとうございます……」
「礼には及びません。少しでも元気でいてくださったほうが、こちらも血を見るのに遠慮せずに済みますからね」
「だから理由は聞かないって言ってるじゃないですかぁあああ!!」
どうせそんなことだろうと思ってましたと叫び、体を縮めて頭を抱える。その姿を楽しげに見遣って微笑む赤屍を、鮫島がちらりと睨み付けた。
視線に気付き、薄い唇から笑みが消える。
「それでは銀次君。仕事も無事に終えたことですし、私はこれで失礼しますよ」
「へ? あ、そっか。赤屍さんのお仕事は俺を運ぶことでしたもんね」
お疲れ様でしたと頭を下げ、鮫島の傍らへと移動する赤屍に手を振る。それをどこか困ったような表情で流し見、白い指先が帽子の鍔(つば)を深くした。
「すぐに迎えが来るとは思いますが……銀次君。人の良さが君の最大の長所ではあるのでしょうが、それは翻(ひるがえ)って最大の短所でもある。あまり見知らぬ人間を信用し過ぎるのも考えものですよ」
「はい?」
「ドクタージャッカル」
鋭い口調で制され、薄い唇が冷笑に歪む。それきり振り向くことなく退室していった黒い背中に、銀次は大きく瞬いた。
「赤屍さん……何が言いたかったんだろう」
らしからぬ態度に呆けた呟きを漏らすも、返答は望むべくもなく背中はもうそこにない。不安げに扉を見つめて物思いに耽る銀次に鮫島はばつの悪い表情を浮かべ、わざとらしく喉の調子を整えた。
するりと滑るように後ろへ下がる男の気配に、あれと顔を向ける。
「鮫島さん? なんでそんな下がってるんですか?」
問い掛けに返事はない。その代わり男は媚びるような笑みでゆっくりと頭を下げた。
「では天野さん。サンプルを取らせて頂く準備がありますので、少しの間このままこちらでお待ちください」
言葉が終わるのとほぼ同じくして。
列車の連結が外れた時のような音が頭上から響き渡る。随分と大きなその音に銀次は慌てて天井を見上げ、次の瞬間、驚愕と恐怖に顔を引き攣らせた。
「イッ……!?」
その視界に、今まさに自分へ向けて落下している最中の天井が迫っていた。
反射的に身を屈め、衝撃を想定してきつく歯を食いしばる。掠め見た程度ではあるものの、とてもではないが軽い天井とは思えない。となればその高さから考えても相当のダメージを負うことを覚悟し、銀次は縮めた体に隠れて細かに震えた。
まぶたの裏に、拗ねて反対側を向いたままの見慣れた姿が映る。僅かに覗き見える横顔は自分をちらりとも見ることはなく、頬を膨らませて眉間を寄せていた。
― こんな目に遭うくらいなら、文句なんて言わずに早くお弁当買って帰るんだった。
ごめんねと口の中で呟き、時を置かず轟いた凄まじい音に身を硬くする。やがて辺りに巻き上がった埃に思わず噎(む)せ返るも、いつまで経っても考えていたような痛みは襲い掛かってこなかった。
不審に思い、恐る恐ると顔を上げる。するとそこは先程の空間を四角く切り取った形で区切られ、すぐそこにあったはずの機械類はすべて白い壁と、少し低くなった天井に阻まれて見えなくなっていた。
この部屋で目が覚めたとき最初に目に入った、天井から吊り下げられていた四枚の板を思い出し、あれはこのための壁だったのかと呆然と見回す。
「ッてぇ、そうじゃない! ちょっと、なんなんですかこれ!」
叫びは室内に反響して自らに跳ね返る。壁や天井に設けられたほんの小さな、察するに強化ガラス製なのだろう窓から光は差し込むものの、隔離された空間は薄暗く閉ざされていた。
駆け寄って叩こうともびくともしない壁に業を煮やし、銀次は苛立たしげに肩を怒らせる。
「わっけ分かんないなぁ、もう!!」
先程傷の回復のために充電した電気がぱちりと音を立てて溢れ出す。静電気でいつもより逆立っていく髪を自覚し、暴れ出そうとする紫電を手の中に集めた。
「ホントに俺に協力してほしいなら! もっとちゃんと説明するのが筋ってもんだろ!!」
咆哮し、壁に向かって全力で放電する。凡庸な建材であればそれだけで炎を上げ、下手をすれば燃え落ちてもおかしくないだけの電気量の中、目の前の壁は微かに焦げて薄く色を変えただけに留まった。
予想外の事態に、怒りも忘れてぽかんと口を開ける。
「…………ありゃ?」
立ち尽くしたまま、成す術もなく壁を見上げる。静かに焦げ跡に指を這わせた銀次が現状を理解出来ずゆらゆらと首を揺らすと、壁の外から機械によって拡声された、機嫌良さげな鮫島の声が聞こえた。
「残念ですがこの壁に電撃は通じませんよ。当施設は膨大な電力を扱っている性質上、絶縁体の研究にも力を注いでいましてね。この壁は現在のところ、その集大成なんですよ。あなたから発される微弱電流でこちらの機械に影響が出ないように隔離させて頂いただけなので、しばらくそこで大人しくなさっていてください」
一方的に言い放たれ、それきりなんの音もしなくなる。電撃も通じず、今は体力もなく、まして人の気配すらなくなった場所に置き去りにされる感覚に、銀次はここに来てようやく湧き上がってきた危機感に冷や汗を浮かべた。
「やばい。これ、もしかして蛮ちゃんにマジで怒られる展開かもしんない」
良いように言い包められた可能性に気付いたものの、こうなってしまえばもう手も足も出ない。赤屍の言葉の意味を今更痛感し、銀次は情けない声を上げて床に転がった。