円環因果の残滓
三
崩れる壁と共に埃が舞い上がる。咳き込んだ体は血に汚れ、喉が傷ついているのか、僅かな呼吸をするだけでひゅうと細い音が鳴っていた。
部屋からは本来見えるはずのない空が一面に見え、かつて雷帝によって引き起こされた膨大な放電による火災の中で、奇跡的に残ったらしい巌窟な柱だけが中央に高く聳(そび)えている。
今や吹き飛んでしまった壁に強打した後頭部はぐらぐらと視界を曖昧にし、ヒビの入ったサングラスが世界を歪んで見せる。
巨大な柱を焦点に据えて視覚の目安を図るも芳(かんば)しくなく、口の中に広がる鉄錆の味を苦々しく味わい、胃液交じりの唾液と一緒に吐き捨てた。
着込んだ迷彩のパーカーは見る影もなく千切れ飛び、痛々しい肌を露出する。斬傷とはまた違うその傷は、本来、この男の手に握られていて然るべきものでつけられていた。
憎悪に瞳を燃え立たせ、その正面に立った男は声を荒げて鞭を握りしめる。
「どうした楼蘭族! この程度でくたばるつもりか!?」
酷く興奮しているのか肩で息を繰り返す男は、無限城のカメラに映っていたあの傷の男だった。
傷だらけの笑師に対し、この男はたった一か所の傷も負ってはいない。その状況から、まさしく一方的に甚振(いたぶ)られているのが傍目にもはっきりと理解できた。
出血の多さ故かなかなか回復しない視界のまま、自身の置かれた状況を冷静に俯瞰(ふかん)する。
結果、あまりに馬鹿馬鹿しいリンチの状態に、笑師はボロボロながらもくしゃりと笑みを浮かべた。
くくと揺れた肩に傷の男は瞋恚(しんい)に奥歯を噛みしめ、再度鞭を大きく打ち下ろす。
高い炸裂音と共に、それは呆気なく笑師の肩を抉った。
「ぐぁあ……ッ!!」
「笑うとはずいぶん余裕だな、楼蘭族!! 自分の無力さに絶望でもしたか!」
怒鳴り声に胡乱な視線を上げる。深く呼吸を繰り返さなければ意識を手放しそうな激痛の中、笑師は力なく顔を歪めた。
「ハハッ……これが笑わずにおれるかい。こっちは丸腰、ほとんど抵抗も出来んのや。それをいいことに無茶苦茶に甚振りつくして殺そうやなんて……姑師の一族も随分落ちぶれたもんやのぉ。誇りのほの字も感じんわ……」
絶対的不利の状況に置かれてもなお、その目は強い意志を湛(たた)えて輝きを失わない。
「ワイならこんな真似、恥ずかしいてよぉやらん」
はっきりとした発音で紡がれた一言に、男はまた激昂に顔を赤らめた。
「貴様ごときに……! なにが分かるっ!!」
「ぃぎ……!」
鞭は風切音を上げて空を舞い、激しく笑師を叩き伏せる。肩と言わずむしろ頭から叩きつけられたその衝撃に、傷だらけの体は抗うことも出来ずに床に倒れ伏した。
それだけでは飽き足らず、鞭は何度もその体を打つ。
「俺達はこうやって、自分達の力で蹂躙され痛みつけられ、辱められて滅ぼされた! 貴様ら楼蘭の祖先によってだ!! それを、それを! やり返して何が悪い!!」
その目はもはや、正気の物とは言えなかった。
血走り、瞳孔の開いたそれは狂人の域にまで達している。過去の遺恨を何倍にも増幅した報復としか思えぬその攻撃は、男が鞭を振るうことに疲れ、だらりと腕を下げるまで続けられた。
天井のない室内に聞こえるのは荒い呼吸のみ。屈強で知られた楼蘭の末裔と言えど人間には変わりなく、さすがに意識が途切れたかと思われた刹那、瓦礫だらけの部屋に、爪で床を掻く音が這った。
がくがくと震えを訴える腕を必死に奮い立たせ、笑師の体が起き上がる。
「……馬鹿な。もう力尽きてもおかしくないはずだ」
「前の、ワイやったら……そうや。もうそろそろ生きるン諦めて、目ぇ瞑(つぶ)ったまま冷たぁなってたかもしれん。せやけど今のワイは……そうもいかんのや」
完全に身を起こし、崩れるように座り込む。辛さを感じさせる息遣いながらも意地で意識を保っている姿に、傷の男は理解しがたいものを見る目で沈黙した。
その耳に、階段を駆け上ってくる足音が届く。
「笑師っ!!」
朽ちかけた扉を蹴り開け、亜紋が姿を現す。
脇目も振らず笑師に駆け寄りその背を支えた姿に、煤と埃、血に汚れた顔が僅かに力を抜いた。
「亜紋……。なんや、よぉここが分かったなぁ」
「俺だけじゃもっと時間がかかっただろうけどね」
傷のわりに気丈な態度に安堵し、亜紋も表情を緩めて後ろを見返る。
背後からは速度こそ感じられないものの、確実に上ってくる二つの足音が聞こえていた。
やがて、埃まみれになった蛮と銀次が疲労困憊の様子で姿を見せる。
「テメーこの田舎モン! 露払いもしねーで突っ走るたぁどういう了見だオラァ!!」
「ホントすっげー早いね亜紋……襲ってくる人の相手しながら追いかけてたら、もう全然追いつかないんだもん……って、笑師! 蛮ちゃん、笑師がいた!!」
「……美堂はん、銀次はんも」
げっそりと顔をやつれさせ、這(ほ)う這(ほ)うの体(てい)で上がってきた二人に失笑する。
くたびれた様子だったにも係わらず血みどろの笑師を視認するや否や、奪還屋二人は表情を引き締めてその両脇についた。
「……死にかけたら助けてやろうとは思ってたが、到着した途端に死にかけてると思わなかったぜドリフ」
「少し休んでて。あとは俺達がやるよ」
ぱちりと破裂音を響かせて走る紫電に、二人分の瞳が据わる。
明らかに臨戦態勢へと切り替わった雰囲気に、傷の男は忌々しげに眉間を寄せた。
「わざわざ撒いた甲斐もなかったということか……!」
「撒いただァ? あの程度で撒けるほど、無限城は単純じゃねぇな」
鼻で嗤う蛮の隣で、笑師はバツの悪そうな表情で頭を掻く。
「いやぁ、相方だけならまだしも、お二人にまでえらいカッコ悪いとこ見せてしもうてスンマセン。……せやけど手出しは無用や。コイツとはワイが一人で決着つけたいねん」
「笑師」
亜紋に支えられながらもふらつく足を叱責して立ち上がり、二人を手で制す。ただどう贔屓目に見たところで痩せ我慢としか思えぬその体の状態に、銀次はなぜと唇を噛んだ。
「なんでそんなに……! アンタも! 武器も持ってない笑師相手に、なんでここまでやらなきゃならないんだよ!!」
声を限りに訴える銀次の言葉を横目に、蛮が静かに息を吐く。説明がいるかと呟いた声は続けて小さく言葉を紡いだ。
「……昔、シルクロード上には小国が多数点在していた」
煙草に火をつけての一言に、周囲の目は一気に蛮へと集まる。
中でも驚愕した目を向けたのは笑師、そして傷の男で、それを見返し蛮はさらに言い募った。
「その中に、当時支配を広げようとしていた大国、漢に徹底対抗していた国があった。これが砂漠のオアシス楼蘭と、山岳の砦である姑師(きょし)だ。環境は全く違ったが隣国ってこともあって仲は良く、毎度手を組んでは漢の侵略を阻んでいた。だが、ある事件を境に、両国の関係は著しく悪化する」
紫煙を吐き出し、目蓋を伏せる。
「楼蘭の国王が漢に捕らえられ、人質にされるんだ」
「……それって」
昔話を聞かせるように語られる言葉に、銀次はその一言を零れ落として笑師を見る。
当人は、口元に微苦笑を張り付けて顔を伏せていた。
「なんや美堂はん、よォ知ってはりますやん。古代中国になんや興味でもありはったんか」
「呪(まじな)いや魔法に関連することなら、シルクロードだろうがなんだろうが軽く齧(かじ)った程度にゃあ覚えてる。けど俺が知ってんのもここまでだ。これ以上詳しくは知らねぇよ」
「さいでっか。ほんなら、続きの説明はワイがさせてもらいましょか」
支えている亜紋の腕を押しやり、しっかりと足を踏ん張る。流れ出た血は未だぽたぽたと落ちて黒い床に点を描き、煤を浮かび上がらせた。
「― そこから、楼蘭の忍耐の歴史が始まった」
揺らいで前へ傾いだ体を支えるため、強い音を立て、左足が床を踏みしめる。顎を伝わる赤い流れを手の甲で拭い去り、笑師は短く息を吐いた。
「国王を人質にとられたが故に抵抗も出来ず、楼蘭の民は命じられるがままかつての同盟国である姑師の討伐に協力、攻撃した。……散々やったそうや。漢民族はほとんど手ぇ下さんまま、姑師と楼蘭の人間ばかりが死んだ。あっちからしたら、同盟関係を修復できひんようにするんが狙いやったんやろうな。今のこの状況見ても分かる通り、奴らの狙いは的中。せやけど、それで漢が満足するわけもない。楼蘭はシルクロード上の要国、オアシスとしての利用価値に目をつけられ、傀儡王国としてのみ存続を許されることになる」
そこまで呟き、眉間は厳しく寄せられる。
「王は不在のまま、漢の役人が国の支配者面をして入り込んだ。王宮に仕える女達は恰好の遊び道具扱いや。その上、女達の扱いは玩具には留まらへん。常駐する兵への戦利品として、名ばかりの妻として! 王宮で散々弄ばれた女達はさらに辱められ、下げ与えられた! そう、楼蘭を最終的に滅ぼした北魏と同じやり方や!!」
髪を振り乱し、サングラスのずれ落ちた向こう側から憤怒の瞳が睨みつける。
「いくら理由があったからと言っても、裏切りによって国を滅ぼされた側の怒りや恨みもよぉ分かる! せやけどだからこそ、戦う力を奪い取って甚振(いたぶ)るアンタのやり方は気に食わん!!」
怒号は崩れ落ちる壁を震わせ、さらに瓦礫を落とさせる。
「痛かった記憶と悔しかった記憶を受け継いだなら、なんで先祖の涙を顧(かえりみ)みぃひんねん! アンタがやってるんは北魏や漢と同じや、侵略の方法や!! 楼蘭に復讐したいなら、玩弄(がんろう)するような真似はやめて正々堂々戦って、そんでブチ負かしてみんかい! それとも、侵略者のやり方を模倣するのが姑師のやり方なんか!? 復讐が一族の願いやったとしても、そんな方法が先祖の無念を晴らすやなんて、そんなん絶対間違っとる!! 絶対や!!」
それは、叫びというよりも嘆きに近かった。
腹の中に溜まっていた思いを全てぶちまけ、一息に吐き出しきった笑師は興奮のために荒い呼吸を繰り返す。いつの間にか握り締めていた拳は力が入りすぎているのかふるふると細かく震え、その背中は再度、感じるのもがあったらしい亜紋に抱き止められた。
「笑師、お前……」
「……言ってやりたかってん。こればっかりは、ワイがはっきり言わなあかんかったんや。相方に支えられたまんまやったら、カッコつかへんやろ? ……大丈夫やで亜紋やん。ちゃんと、まだ、笑てられる」
途切れ途切れの呼吸で、それでも気丈に笑ってみせる。マクベスと朔羅の前で言われた言葉をしっかりと記憶していたその表情は、傷つきながらも朗らかさを失っていなかった。
亜紋の能力を知りながらも相方と呼んだ時と同じ笑顔に、切れ長の瞳が懐かしさに細まる。
「……うん。ホント、俺の相方は最高だよ」
支える腕に力を込め、血まみれの背中を抱き締める。それを照れ臭そうにヒヒと歯を見せて、消耗しきっている体を少しだけ休めた。
それでも一時期よりは随分と回復してきたらしい様子を見止め、蛮は挑戦的に傷の男へ視線を流す。
「で、そこのお山の大将さんよォ。因縁の相手にここまで言われてもまだ一人でお楽しみってのは、ちょっとダッセェ話だよな?」
軽侮(けいぶ)の色を浮かべた目に、男は面白くもなさそうに鼻を鳴らす。
「……随分と煽るのが上手いことだ。だが確かに、そうまで言われて黙っているわけにもいかん。だが勘違いするなよ楼蘭族。貴様の言い分に耳を傾けたわけではない。策を弄さずとも貴様如き叩き潰せるのだと証明し、姑師族の誇りを示すためだ」
胸を張って告げると、鞭を投げて寄越す。それを慌てて拾い上げ、笑師は男を睨み上げた。
傷の男は未だ高慢に見下し、今は長く目にすることすら汚らわしいと言わんばかりに視線を逸らす。やがてその腕が高く掲げられると、粗野な薄い唇が高らかに声を上げた。
「ならば、我が一族の正当な武技で相手してやろう!!」
鳴らされた指に呼応し、空が赤く燃え上がる。
「な……ッ!?」
「これはっ!!」
当惑する銀次の声と対照的に、笑師は知った様子で声を上げる。一瞬大きく燃え上がったのかと錯覚した空は少しだけその赤さを鎮め、しかしチリチリとした熱気を伝えていた。
部屋を、否、塔を中心として燃えているとしか思えぬその熱は、先程までそこにあることも気付いてはいなかった、中央の柱を軸として伸びている八本の縄から感じられる。
風が吹くとともに微かな火の粉の舞う状況を当然のことのように受け止め、傷の男は眼光を鋭くした。
「貴様も楼蘭の末裔、さすがに話くらいは知っていよう。天縄闘(てんじょうとう)を! 我らが祖先の隆盛の時代から続く闘法。大陸の流れを汲む者同士、これを以て決着をつけようではないか!!」
「はは……。ワイも人ンこと言えん自覚はあるけど、自分も相当の懐古趣味やな……」
自嘲し、ふるふると首を振る。
当事者二人だけが理解した状況のまま進められていく話の流れに、銀次は不安げに表情を曇らせた。
「ねぇ蛮ちゃん、これなんだろう……」
問いには、当然のごとく回答される。
「天縄闘(てんじょうとう)。八方に伸ばした石綿網の上で戦う古代中国の決闘法だ。縄の端に火をつけ、だんだん狭くなる足場を飛び回って戦う。当然、不安定だが縄から落ちりゃあ即敗北だ。この決闘法が流行った漢の時代にゃ、エスカレートしすぎて火山口でやらかして、さすがに危険すぎるってンで禁止令が出たようなシロモノだな」
「火山口って……そんなの、落ちたら死んじゃうじゃん!」
「バーカ。決闘ってのはもともと相手を殺すかどうかってのだろうが。高い所から落ちても死ぬだろうが、よりスリリングにしたほうが見世物として客の入りもいいだろうし、収入源としても優秀だろうしな。やる側としても、より難易度が高いほうが勝った時の満足感が得られるんだろうよ。まぁ……地獄会堂でのクイーンズ・カップにも似たような部分があったけどな」
一息つき、冷淡な眼で燃え続ける縄を見る。
「何千年経とうが人間ってのはそうそう変わらねぇよ。古代ローマや古代中国、裏新宿に限ったことじゃねぇ。誰かが公開処刑だ飛び降り自殺だって聞きつけりゃ、どこの国でも人だかりだ。実際のところ、自分に関係ない人間が死ぬのを見るのは娯楽でしかねーんだろうぜ」
蛮の冷めた物言いに、銀次はしばらく言葉もなく顔を伏せる。様々な思いが逡巡した結果、やがてぼそりと呟いた。
「人を殺して満足とか……人が死ぬのを見てスリルとか……。そんなの絶対間違ってるよ……」
漏れ聞こえた声色に思いつめたものを感じ、笑師が眉尻を下げる。
「優しいなぁ銀次はん。変な話やけど、そんなんでよぉホンマ無限城で生きてこれはったわ」
困り眉で言い捨て、傷の男へと向き直る。握り締めた舞踏鞭はしっくりと手に馴染み、離れた時間は僅かではあったものの取り戻した実感を湧き上がらせた。
「……ホンマはワイかて戦う理由なんてないのや。舞踏鞭も取り返せたし、個人的な恨みかてあらへん。せやけど、アンタはそうもいかんのやろ」
軽い風切音を響かせ、鞭を肩にかける。
「ワイかて下劣な北魏の連中に復讐した身、自分の段になって逃げ出したろうなんて気持ちはこれっぽっちもない! こっちに理由がなくてもそっちにあるなら付き合うたるわ!!」
休息を取ったことでかなり回復した体を奮い立たせ、大きく言い切る。しかしそのあと、割れたサングラスの隙間からちらりと蛮を流し見た。
「せやけどその前に、なぁ美堂はん。一つだけ頼みがあんねや」
「あン?」
相変わらずの粗暴な受け答えに、思いがけず笑みが込み上げる。
「そこの二人……銀次はんとうちの相方な。アホみたいに優しいさかい、途中で手助けしてくるかも分からへんやろ。……そん時は止めてくれ。手助けしてくれたらワイは勝てるかもしれん。せやけどそんな手で勝ってしもたら、姑師一族の恨みも思いも、全然報われへんままや。重たいモンを引きずったまま未来まで生きていかなアカン。……それはな、多分アカンねん」
苦笑で見返り、肩を竦める。
「ワイに止める余裕があるとは思えへんから、あんさんに頼ませてもらいますわ」
銀次の目が蛮を見る。茶化してもいい場面であればきっと冗談交じりに追加料金を請求するところだろうが、蛮自身、とてもそんな空気には見えない。
蛮はその口振りからは考えつかないほどに優しい。それをこの数年を共にしてきた銀次は身に沁みて知っていた。
だからこそ申し出を拒否するとも、受け入れるとも考えられる。
蛮ちゃん、と声に出さずに呼びかけると、物思いに耽っていた蒼紫が静かに上げられた。
「……言われなくても、ちゃんと抑えてやるよ。テメェらの事情に口出すほど野暮じゃねぇや」
「ははっ、そらおおきに」
心底安堵した様子で軽易の感謝を告げると、今度はずっと背後で支えていた亜紋へと体ごと向き直る。ふらつきが少なくなったと言えども未だ虎口(ここう)に立っていると言っていい状態に、切れ長の瞳は苦々しく歪んでいた。
「なんや亜紋やん、そないな顔しなや。ちょっとこの上に行って帰ってくるだけやないか。男前な顔がブッサイクになっとるで?」
「笑やん」
今にも不安感から泣き出しそうにも見えた表情は、その瞬間、意を決したように引き締まったものへと変わった。
瞬きほどの時間。まさに笑師が一度瞬きをした隙を見計らい、亜紋の腕がその肩を引き寄せる。
結果、笑師の額には柔らかいものが押し付けられていた。
「な……」
状況を把握するまで五秒程度。
傷の男すら言葉をなくした沈黙ののち、海綿が水を吸い上げるように紅潮した笑師のハリセンが静寂を打ち破った。
「なにすんねんドアホぉおおおお!!」
「ゴアァアアアアア!」
小気味のいい乾いた音を立てて打ち飛ばされた亜紋は、大袈裟なまでに後ろへ転がってみせる。この二人がやる以上、本当にその威力で打たれたのか過剰演出の賜物なのか判別がつかず、周囲は戸惑いながらも大人しく見守っていることしかできなかった。
その空気を察し、笑師がさらに声を荒げる。
「おま、見てみぃこの空気! みんなドン引きやないか! 完っ全に滑ってるやん!!」
「いやいやいや、別に今のはお笑いの一環じゃないからいいじゃん? 笑やん、俺に手出しすんなって言ったしさ。せめて怪我が少なくなるようにおまじないでもしとこうかと思って」
「バッ……乙女か! デコチューがおまじないとか、乙女か自分!!」
喚きながらツッコミを繰り返しているものの、紅潮したままの頬がその本心を明確に告げる。どちらにしろ救えない惚気なのだと理解して、銀次は引き攣ったように頬を掻いた。
「んー……あの二人も俺達のこと言えないねぇ……」
「だから余所でやれっつっただろーがよ、この馬鹿ども。だいたい銀次。俺達ぁここまで無神経じゃねぇぞ」
「待ちぃ美堂はん! 誰が無神経やねん、誰が!!」
そんなやり取りを数分間続けた後、さすがにツッコミ疲れた様子の笑師の肩に柔らかく手が置かれた。
「笑やん、緊張ほぐれた?」
にっこりと表情を和らげた亜紋の言葉に、笑師は驚くでもなく深く息を吐く。
「ほぐれるよりも疲れるわ。こーゆーアドリブはもうチョイ考えてやってくれや」
「ごっめん。……笑師」
謝罪と共に表情を引き締め、正面から見据える。
「帰ってくるって信じてるよ」
「あったり前やろ? ワイを誰やと思とんねん」
歯を見せて笑い、ひらりと手を翻して縄上へ飛び上がる。端から迫る火を背にし、笑師は大きく肩を下げた。
傷の男もいつの間に上がったのか、別の縄に静かに佇んでいる。地上二十階程度に当たるだろうそこは強く風が吹き荒れて、縄を左右へ大きく揺らしていた。
現在のチャイナストリートにはこの塔ほどの高さのものなどろくに残ってはいないが、縄は近隣のビルなどへ繋がっているらしく緩やかな傾斜がかかっている。
常人であれば眩暈を覚えるどころか、恐れ戦(おのの)いて両手でしがみ付かずにはいられないほどの高度。僅かでもバランスを崩せば血の花と共に命も散るだろうことを改めて実感し、笑師は手の中の鞭を握りしめた。
「これはまた、思てた以上に辛い舞台やなぁ……。ま、しゃあないか」
独白し、仕切り直しに数度頷く。
そんな笑師を見上げ、銀次は不安げに唇を噛んだ。
「笑師、大丈夫かな……」
「どうだろうな。相手の得物によっちゃ、一方的な展開になるかもしれねぇ」
「え、なんで? 縄の上にいるのは一緒なんだし、条件は同じじゃないの?」
驚きで目を瞬かせる銀次に、蛮は否と首を振る。
「鞭ってのは振るうときの反動が強いんだ。ボールを思いっきりブン投げんのと、軽く上に放るのじゃ力も足の踏ん張りも違うだろ? 鞭は基本、前者の体勢で使うモンでな。足場がしっかりしてねぇと、本来の力は出せねーんだよ」
「っ、じゃあ、ただでさえボロボロの笑師は……!」
蛮の懸念を察し、縄上の影を見る。血はどうにか乾いているものの、それでも先程までの出血のせいか、傷の男よりもぐらぐらと危うげに見えた。
「……ちょっと分が悪いよね」
奥歯を軋ませ、亜紋の目が笑師を捉える。しかしその足はぴったりと床を踏みしめ、決して縄上に駆け上がろうとする気配は見せなかった。
その視線を感じながら、笑師は軽薄に口笛を吹く。
「ッヒュー! いやー怖い怖い。わざわざこんなもんまで用意してるやなんて、ホンマ自分ら粘着質やなー。大昔の決闘を模してまで、ワイに楼蘭の罪を償わせたいんか」
「当たり前だ!! あれから祖国は解体され、同族でありながらも互いに敵対するように仕向けられた! その一端である貴様らを、どうして憎まずにいられる!!」
言葉と同時に、男は両手から何かを投げつける。それが一体なにかを視認する前に、笑師は左肩と右腿を掠めた痛みに顔を顰(しか)めずにはいられなかった。
「ぐ……ッ!?」
鮮血が噴出し、片膝をつきかけたせいでバランスが崩れる。大きく揺らいだ縄からあわや振り落とされそうになった笑師に、下で見守る三人が思わず息を殺した。
眼下、否、もはや真正面に荒れ果てた灰色の街が見える。
このまま前へ倒れれば全てが終わる。苦悶に藻掻くこともなければ、古代の怨嗟に悩まされることもない。
しかしそれ以外のなにもかもが同時に終わってしまうことを考えた時、笑師の中でなにかが強固なものになった。
「なんの、これ、しきぃっ!!」
咄嗟に反対側へと体を移動させ、どうにか安定を保つ。
鞭で打たれた時も、また先程の攻撃でも腹筋だけはほぼ無傷だったのが幸いしたのか、およそそこだけで持ち堪えたようなものだった。
下から聞こえる深い安堵の息を、傷の男は面白くもなさそうに一瞥する。
「ふん、凌(しの)いだか。もっとも、あんな小手調べの攻撃で決着がついていたらこちらとしても興醒めだ。今のはほんの挨拶代わり。楽に殺すつもりはない。腕の先からゆっくり切り刻み、仲間の前で無残な死に様を晒してやる」
吐き捨て、笑師を攻撃して戻ってきたものを両腕を広げて受け止める。
それは二つの頑強な斧だった。
投げ斧として使用するにはあまりに無骨なその斧は、西洋式の諸刃のもの。戦斧のように特別に柄が長いわけでもないが、それでも通常の物よりは些か大きなものに見えた。
肩から噴き出した血を拭い飛ばし、笑師は冷や汗交じりの唾液を飲み下す。
「それがアンタの武器か」
「そうだ。我らが故郷はシルクロードでも有数の山岳国! 砂漠にほど近いため木々など望むべくもないが、巌窟な岩を割り裂いて家々を作り、侵略者から砦を守るのに最も適した崇拝すべき道具だ!!」
誇らしげに胸を張り、両腕を掲げて斧を見せつける。
見た通り形だけでなく重さまで同一なのか、風を受けるであろうその体勢であっても男は容易くバランスを保っていた。
それともこの闘技に慣れているためかと舌打ちし、笑師は嫌味に口を開く。
「いやしかし、ンな重いモン振り回しとったらそっちも足元が危ないんちゃう? 言い出しっぺが自滅っちゅーんは笑えんで」
「自滅? 俺がこの天縄闘で? あまり舐めるなよ、楼蘭族!!」
叫び、縄をバネのように蹴りつけて飛び掛かる。それはさながらプロレスリングで見られるロープアクションのようだった。
しかしその制度と攻撃力は、プロレスリングなど比較にもならない。
両手に斧を持ち、体を捻って飛んだためか回転しながら真っ直ぐに笑師へと飛び掛かってくる。ただ単に飛んだのであれば斧の刃を見極めて躱(かわ)すことが可能だが、両手を広げて回転されていてはその攻撃範囲も意外と広く、また、すんでの所で躱すという軽業も使えない。
鎌(かま)鼬(いたち)とも表現できるだろう刃のつむじ風を目に、笑師はクソがと吐き捨てた。
揺れる足場に精一杯力を入れ、鞭を振るう。
「覆え砂嵐の如く(カルマ・マ・ソーマ)!!」
言葉とほぼ同じく、鞭を成していた龍髪がさらりと解けて防御壁を成す。
しかし通常であれば幾重にも重なり、それこそ砲弾ですら弾くはずのその壁はその威力を半分も発揮できずに薄幕となり果てた。
「くっそ、やっぱ足場が……!」
「それで守ったつもりか!! 笑わせるな!」
言葉とは裏腹に、怒りだけが滲む声色で男が叫ぶ。
舞った龍髪を風で散らして襲った刃は、笑師の左腕を無残にも切り刻んだ。
「あぁあああああ!!」
ずたずたに引き裂かれる痛みに、思わず絶叫が迸る。
「笑師!!」
「来んなッ! これは……ワイの! ワイら一族の問題や!!」
左腕を押さえ、滝のように噴出した汗をそのままに亜紋に叱責を飛ばす。ぼたぼたと流れ落ちる血は先程と違い止まる気配も見られない。なにより先のものと合わせて、出血量は相当なもののはずだった。
それを自覚してなお、笑師は血で滑る鞭を握り直す。あくまで一人で決着をつけようとするその姿は、確かに誇り高かった。
だが心砕いた相手が血みどろの姿を目にして、なお平静でいられるわけもない。手出しを禁じられている無力感と悔しさで唇の端に血を滲ませる亜紋だけでなく、銀次までが縋るような目をして蛮を見返った。
「蛮ちゃん、どうにかならない!? 笑師はああ言ったけど、このままじゃホントに……!」
「……そうだな。確かにこいつはちょっとヤバい」
銀次の声に、眉間が険しく顰(しか)められる。思いがけないその発言に、銀次、そして亜紋は驚愕の目で蛮を見つめた。
「見ろ」
顎で示された先を見上げれば、笑師の背後にはもう随分と炎が近付いてきている。
その炎が、一瞬笑師の肩に引火したように見えた。
「え……ッ!?」
錯覚かと、慌てて目を擦る。
しかし見直してみてもやはり、炎が風に煽られて炎上した瞬間、体に燃え移っているように見えた。
一瞬で叩き消されてはいるものの、笑師の顔には強張った苦笑いが貼り付いている。
「火って、あんなに簡単に体に移るものだっけ……?」
引き攣った亜紋の言葉に、いやと否定が返る。
「そういやテメーは聞いたことはないんだったか。つっても、俺も実際に目にしてたわけじゃねぇがな」
追い詰められている状況を見上げながら、呻くような言葉が紡がれる。
「アイツら楼蘭一族の……特に男の血ってのは、血飛沫にすると燃えやすくなる性質があるんだとよ。テメーに会うちょっと前にあのヒッキー坊やがダダ捏ねて一悶着起こしやがってな、サル回し相手に自爆しやがったんだ。……薬屋のジーさんが言ってやがったんだ。間違いねーだろ」
「血飛沫って……でも、そんな風に……、っ!」
言いかけ、亜紋の目はしっかりとその原因を捉えた。
火は燃え盛ると、僅かながらも上昇気流を生む。上空であるためもともと強風ではあるが、横殴りの風の中に、はっきりと上へ向かう流れが出来ていた。
零れ落ちる血液が横に流され、そして上へと押し上げられる。小さな水滴にとって縦横無尽とも言えるその流れは、身を散らすに充分なものだった。
つまり自然、それは血飛沫となって火を誘引する。
「― ッ! 蛮ちゃん! あのままじゃ火だるまになっちゃうよ!!」
同じことに気付いたらしい銀次が声を上げても、蛮は苦々しい表情のまま動こうとはしない。それをじれったく思いながらも、その雰囲気が緊迫していることに金茶の瞳が眉間を寄せた。
「……どうしたの蛮ちゃん。いつもならそんな顔をする前に……」
「なんか考えるだろうってか? ……普段ならな。だが、今は手を出せねぇ」
「笑師が言ったから?」
「ハッ、ドリフ野郎がなんて言おうが、この俺様に関係あるかよ。― ただ、アイツの面子をちょっとでも守ってやろうとすンなら、あのサル山の大将の武器は俺にとっても都合が悪い」
低く唸り、手に握りしめられている斧を睨み上げる。
その理由を図りかねて顔を見合わせた二人に、蛮はガシガシと頭を掻いた。
「斧ってのは古来から霊力を持つとされてる。日本でも神事に使われ、中国でも玉座の前で行う儀式に使われた。ヨーロッパで斬首刑の時に剣でなく斧を使うのも、霊力のあるもので断たれたものは二度と繋がらないだろうって理由だ。……それだけならまだいいが、斧は古来から魔女除けの道具ともされてる。つまりは魔力を弾きやがるんだ」
忌々しげに舌打つ姿に、それが指し示すものを理解し、銀次の目が見開く。
「それってつまり、邪眼が通じないってこと!?」
問いに返答はない。しかしそれこそが答えなのだと知って、そんなと呟いた。
頭上では、男が何度も笑師を切り裂いている。今や左腕だけでなく右腕、そして右足までもが見るも無残な様相を呈し、思わず目を背けたくなるほどの惨状になっていた。
「助けたい……! 助けたいけど……今ここで俺が手を出しちゃったら、あの人と笑師の因縁は晴れないままなんだよね、蛮ちゃん」
「そうだ」
重々しい一言に、拳を握り締める。仲間だからこそ助けたい思いと、仲間だからこそ意思を尊重したい思いが交錯し、やりきれない震えた息を漏らした。
思うさま笑師を甚振りながらも一連の話が耳に入っていたらしい傷の男は、一度縄の上に制止し、嘲(あざけ)った目で見下した。
「そうか、貴様は魔女の血族か! 西から得た知識は聞き及んでいたが、まさか時を経てこんな場面で役に立つとはな! 大人しくこの男が切り刻まれて肉片になっていくのを眺めているがいい!!」
血走った瞳が爛々(らんらん)と輝き、獰猛(どうもう)な願いに煌めく。まるで狂人としか思えぬその獣じみた姿に、ただ攻撃を耐えていた笑師は吐息のような笑みを漏らした。
「肉片とは言ってくれるやないか……! 誰が大人しゅうミンチ肉にされたるかい……!!」
火の移った背中を今は気にも留めず、縄を蹴りつけて飛び上がる。傷の男を真似て移動しただけにも見えたが、隣の縄へ飛び移る直前、笑師は体を捻って鞭を振り上げた。
「絡みつけ流砂の如く(ロブ・ハ・ラ・トゥーマ)!!」
男へ向かって撓(しな)った鞭が、今度は平常の威力を以て龍髪を解く。言葉通り流砂の如く男の足を絡め取れば、それはぎりぎりとその身に食い込んだ。
鋼よりも強く絹よりもしなやかと称されるそれは、この勝負が始まって以来初めて、はっきりと男に痛みを与える。
「ぅぐ……っ! 少しは足掻くか! そうでなくては面白くない!!」
たった一ミリ動かしただけで食い込んでくる痛みは、男の狂気をさらに加速させた。
両手に持っていた斧を笑師へ向かって投げつけ、自身はわざと縄から足裏をずらして落下する。咄嗟に声を上げかけた銀次達だったが、男の膝裏がそのまま縄へとかけられ、ピエロのようにぶら下がったことにそれを飲み込んだ。
身じろぐだけで深く食い込む龍髪。それがこうまで派手な動作をして見せた時、絡めたものを無事で済ませるわけもない。
男の足は、血飛沫を上げて締め潰されていた。
「ぐぎぃ……!!」
思わず天を仰ぐほどの激痛が走る。男はあられもない絶叫を上げることを良しとせず、押し殺そうと噛みしめた奥歯からは血が流れ出ていた。
冷や汗に視界を遮られながらも、もはや筋肉すら断たれかけている足に力を込める。
「だが、この程度!!」
信念だけで痛みを殺し、絡みついたままの鞭を引く。当然鞭を握ったままの笑師はバランスを崩し、先程のように縄から放り出されそうになった。
今回ばかりは腹筋の力で立て直すことも出来ず、咄嗟に視界を巡らせる。
「くっそ、このままやと……!!」
落ちまいと手を伸ばし、縄を掴む。既に傷だらけの腕はそれだけで激痛が走るも、落ちて呆気ない敗北を刻むよりはマシと歯を食い縛った。
ただしそれを見計らっていたかのように、先程投げられた斧が弧を描きながら笑師を襲った。
「ぐぁああああ!!」
腕、そして脇腹を掠め裂いていった刃の攻撃に、もはや体力も限界なのかぐったりとぶら下がるしか出来ない。それでも鞭だけは手放さず握り続ける笑師に、男は戻ってきた斧を受け止め、嘲るように言い放つ。
「苦しいだろう! 嬲(なぶ)られ、痛めつけられ、無力感に苛まれて果てるか!? それとも苦しさのあまりその鞭を手放すか!! 自らの意思でそれを捨てた時、貴様は楼蘭族としての誇りも! 力も! すべて失うことになる!! そしてそれは、今や楼蘭族唯一の戦士を失った、貴様らの敗北の瞬間にもなるのだ!!」
怒号に似た叫びに、返るは嘲笑。
「くそダボが、誰が放すかい……!! これは一族だけやない、無限城で出会った人らとの繋がりでもあるんや……!! 手放すくらいなら死んだるわい……!!」
「ならば望み通りにしてやろう! 鞭を抱いたまま切り刻まれて死ぬがいい!!」
体を引き上げることも出来ないままの笑師へ向かい、再度斧が投擲(とうてき)される。
「見ていろ! 楼蘭族に味方などしたばかりに、仲間を見殺しにする惨めさを味わうことになるのだ!!」
勝ち誇った表情で蛮達を見下し、吐き捨てる。未だ殺意にぎらつく瞳は笑師以外へも同様で、なにか歪んだものを感じさせた。
斧は真っ直ぐに笑師めがけて飛んでいく。それはもう腕や銅を掠める軌道ではなく、はっきりと体の真ん中を狙っていた。
それにいち早く気付き、亜紋がついに床を蹴った。
「笑師!!」
崩れた壁を蹴り上がり、縄上すら走って笑師の腕を掴む。驚きで見上げる表情を無視して思いきり引き上げると、ほんの数瞬後、笑師の足下を斧が通過していった。
「な……ッ、なにしとんねん、亜紋!! 来んなって言ったやろうが!」
「納得いけば手は出さないつもりだったさ! でも俺はこの決闘、納得なんかできないね!!」
非難の声に反論を叫び、笑師を支えたまま男へ向き直る。
「俺が口を出す筋合も、こんなことを言える立場でもないことは分かってる! だけどアンタに聞きたい! 大昔からの遺恨を引き摺って、誰が幸せになれる!? 今の楼蘭族が、笑師が! お前らになにをした!!」
慟哭(どうこく)ともとれる叫びは、正面から男へとぶつけられる。その声はやけに重みをもって響き、笑師に言葉を詰まらせた。
傷の男すらも何かを感じたのか、斧を受け止めたまま、怪訝な表情で亜紋を見返す。
「……何を……だと」
「そうだ! 今も殺し合う関係だってんなら仕方ない! 現状で敵対する理由があるってんならそれも仕方はない!! だけどそうじゃないだろ! 大昔にやられたことを穿(ほじく)り返して、今現在はなんの関係もない笑師に恨みと憎しみを押し付けてるだけじゃないのか!? だとしたらそれは復讐なんかじゃない、ただの、惨殺だ!!」
叩きつけられた言葉に、男はしばし言葉を失う。
昂ぶった声色は怒りの中にも後悔を色濃く見せる。その理由を悟り、蛮と銀次は静かに目を細めた。
かつてこの街をも経済拠点の一つとして利用し、現代社会の闇に存在した鬼里人。蟲の業を持つ彼らと魔里人の戦いも、何百年の時間を渡って繰り返されていたものだった。
今でこそ因果を生んだ兜の魂を開放したことで収束し、両一族の関係は加速度的に修復されているとも聞く。だがそれがなければ、恐らく現在もその血塗られた歴史を享受していたのだろうと容易に想像がつく。
亜紋はつい先日まで置かれていた立場と、今の笑師達とを重ね合わせているようだった。
そしてだからこそ、自分達とは決定的に違う部分に怒りを感じている。
その事情を知らず、しかし言葉に出されずともひしひしと伝わる切ない心情を正面から受けながら、傷の男は苦しげに唇を噛み締めた。
「知った口を……! 貴様になにが分かる!!」
「分かるんだよ! 恨み続けるのは疲れるってことと、末端の人間には当事者の事情なんて何にも分かっちゃいないってことくらいはな!!」
はっきりと断言し、さらに続ける。
「本当はもう必要のない復讐なんてしたら、今度はお前らの直近の子孫がその復讐を受ける側に立つかもしれないんだぞ!? それでもお前は……!」
「黙れぇええええええ!!」
亜紋の言葉は、男のどこかを痛めたようだった。
言葉を拒絶するように叫んだ声は亜紋のそれを掻き消し、激昂に任せて斧が投げつけられる。
激しい回転音を響かせて向かってくるそれを、亜紋は受けることも、そして避けることも選択できない様子でただ烈しく睨みつけていた。
今この状況下で亜紋が深手を負うことは、結果として笑師にもダメージを与えかねない。現在の笑師は意思の力と僅かな生命力で立っていると言っても過言ではないゆえに、楼蘭舞踏鞭を手にしていると言っても、亜紋の持つ夏木の力がそれを吸い取ってしまう可能性は拭いきれなかった。
いっそ蛮達の所へ突き落すのが一番の策かと手を放しかけた時。
目前に迫っていた斧は亜紋の鼻先で交差し、傷一つつけずに背後へと飛んだ。
「……あれ?」
そしてその直後、生々しい音が後ろから響く。
「あ、ぐ……」
弱々しく漏れ落ちた声に振り向けば、儚く揺れる黒髪が目に入った。
それはやがて高度を下げ、視界の下へと消えていく。咄嗟のことに止まってしまった思考は外れたサングラスが僅かな時差で落ちていったのを切っ掛けに、ようやく再起動を果たす。
慌てて手を伸ばすも笑師の腕が上げられることはなく、急速に落ちていくのを見ているしかなかった。
笑師の体は強風に流され、幸いにも塔の屋根へと落ちる。しかし受け身すらとろうともしない体は軒へ向かって転がり、やがて静かに沈黙した。
「笑師!!」
血が軌跡を描くそこへ飛び降り、笑師へと駆け寄る。その体には二本の斧が深々と突き刺さり、背中から腹へと突き抜けていた。
「笑、師」
声を掛けても応えはない。開いたままの瞳に生気は感じられず、どろりと淀んだ色だけが不気味に浮かび上がっていた。
恐る恐る触れた指先がまだ温かいのが、余計に現実を知覚させる。
「あ……うあぁあああああああ!!」
ぐしゃぐしゃと顔を歪め、啼泣(ていきゅう)する亜紋に男は蔑(さげす)みの目を向ける。先程まで動揺していたとは思えぬその様子は、笑師を仕留めたことで落ち着きを取り戻したようだった。
使い手が息絶えたためか、男の足に絡んでいた楼蘭舞踏鞭もはらはらと解け落ちていく。千切れる覚悟はしていたものの、自由を取り戻した事実に男は小さく安堵の息を漏らした。
笑師の骸が横たわる屋根に降り、足を引きずりながら言い放つ。
「ザマァないな。ろくに反撃も出来ず、無様に落ちて死んだ。楼蘭一族も落ちぶれたものだ。あの世で先祖と共に懺悔(ざんげ)するがいい」
もはや興味もないと視線を逸らし、塔の中へ戻ろうと背を向ける。だがそこで手足になにかが絡みつくような違和感に気付き、男は怪訝に体を見下ろした。
見ればそこには、うぞうぞと蠢(うごめ)きながら男の体を這い上る黒髪があった。
咄嗟に笑師を見返り、その手に握られている楼蘭舞踏鞭を確認する。持ち主と同じく血に染まったまま転がっているそれは、しかし無機質然としているわけではなかった。
使い手が振るわない以上頑丈に結わえられているはずの鞭は、自ずから蠢いて男へ向かって波打っている。魑魅魍魎(ちみもうりょう)の類(たぐい)の仕業としか言えぬその光景に、僅かに引き攣った声を上げた。
手や足にじわじわと絡みつき、そしてその体全てを覆ってしまおうと這い上るのを、男は半狂乱で振り払いにかかる。
「楼蘭女どもの妄執か……!」
払おうとしてもぴったりと張りついて離れぬその髪の束を、ならば引き千切ろうと力を込める。だが楼蘭が誇るその龍髪が、闘い疲れた男の腕ごときで途切れるわけもなかった。
今にも首に到達しそうなそれに、男は叫ばずにはいられない。
「す……すべては貴様らが悪いんだろう!! 貴様らは北魏への宿怨を晴らし、今や過去のことを忘れたような顔をしてあの城で暮らしているではないか! 漢族はもう亡く、北魏も倒され、今やこの呪詛を祓(はら)えるのは貴様らのみ! なのに自分達だけ重い荷物を脱ぎ捨て、我らにしたことを忘れ去っているから……!!」
髪は口を覆い目元を覆い、ついには頭に達する。締め上げられていく頭蓋の音を聞きながら、男は涙を流して絶叫した。
「ならば祖先から受け継がれたこの重荷を! 姑師の民はどこへぶつければよかったと言うのだ! 楼蘭!!」
瞬間、世界が割れていく。
それは頭蓋が壊れたからではない。先程まであんなにもはっきりと視界を覆い尽くしていた髪の束が、まるでガラスを砕いたかのように崩れ去っていった。
なにが起こったのか思考が追い付かず、しばし呆然と中空を見る。
気付けば男は未だ縄に足を掛けてぶら下がっている状態で、だがいつの間にか燃え盛っていた炎は消えている。笑師に刺さっていたはずの斧は、なぜか塔の屋根に突き刺さっていた。
この体勢でいるのであれば、当然足に巻き付いていたはずの舞踏鞭の髪も、今は一本たりとも絡んではいない。
混乱のあまり言葉も出ない男に、下から余裕を持った声が響く。
「ジャスト、一分だ」
丸いサングラスを押し上げ、蒼紫がにんまりと笑む。
「― 悪夢(ユメ)は見れたかよ?」
得意げなその姿の隣には、救助されたと思しき笑師が亜紋に支えられて立っていた。
「悪いなぁ、あんだけ手ぇ出すな言うたのにこの有様や。この人ら、ワイの言うことなんぞ全然聞く耳持たへんねん」
心底申し訳なさそうな笑師に、はははと隣で軽薄な笑いが返る。それを殴って黙らせ、血まみれの影は不愉快そうに口をへの字に曲げて見せた。
しかしそれを蛮が失笑する。
「迷いながら戦った挙句に死にかけてたにしちゃあ、大口を叩くじゃねぇかドリフ野郎。奪還料踏み倒しは許さねぇぞ」
「でも鞭の奪還に関しては俺達なんにも出来てないしなー、正直、これだとお金はもらえないんじゃ……って、イダダダダダダダダ!」
困り顔で話に混ざった銀次の口を、蛮は物も言わずに捻り上げる。顔の形が変わるほどのその痛みにばたばたと暴れる姿は緊張感など欠片もなく、先程の闘争の空気は消え去ったのだと認識させられる状況だった。
所在無い思いに駆られ、男は静かに縄から降りる。
「さっきのは貴様の魔力の賜物(たまもの)か……。しかし先の貴様の言葉なら、俺には手出しできなかったはず。あれは貴様の手の内を隠すための虚言だったということか」
「嘘だァ? ンなもん吐(つ)いちゃいねぇよ。ただ魔力を跳ね返すって話は、あくまで対象者が斧を手にしてる時に限った話だ。ド素人のオママゴト魔術ならともかく、テメェがあれを投げちまえば俺様にそんな魔除けは効かねぇよ。本場直系の魔女の力を知らねぇ馬鹿が、お誂(あつら)え向きにこっちを見てくれたりもしたしな」
至極当然且つ自信満々の表情で紡がれた言葉に、斧を投擲(とうてき)し、その後蛮達を見下したことを思い出す。
「あの時、術に嵌(はま)ったというわけか……」
ならば随分と長い夢を見させられていたものだと自嘲し、男は肩を落とす。体にはただただ疲労感だけが残り、もう怒りも憎しみも、湧き上がってはこなかった。
あれほどまでに憎悪を向けた敵が迷いを持って戦っていたという言葉を反芻(はんすう)し、さらに虚脱感は圧し掛かる。
「……とんだ茶番だ。貴様は俺達を敵としてすら見ていなかったということか」
膝から崩れ落ち、力なく滑り出た言葉に周囲に沈黙が広がる。
ただその胸が痛む静寂を破り、傷だらけの影がその眼前にしゃがみ込んだ。
「それはちょっとちゃうなぁ」
だるそうな重い息を吐き、黒髪が揺れる。
「姑師の一族やって聞いた時、ワイは一番最初に、なんで今のこんな時期になって仕掛けてきたんやろうと思った。今のワイはアンタらとは仕事も、住んでるところもカチ合わん。邪魔したりされたりっていう状況でもない。せやからそこが引っ掛かってしゃあなかったんや」
首を左右に傾げ、当時の状況を再現するように考え込む振りをしてみせる。しかしそこから時を置かず、割れたサングラス越しの目が困り顔で眉尻を下げた。
「……せやけど、ようやっと分かったわ。ワイが北魏の二人を負かしたん、アンタらの耳にも入ったんやなぁ。裏新宿の近辺にいたんやったら、どんな情報が入ってもおかしゅうないわ。考えてみたら、姑師と楼蘭は似たような運命を持っとる兄弟国や。漢に傀儡にされたか解体されたかの違いはあっても、双方を滅ぼしたんは北魏やもんな」
こきりと首を鳴らし、溜め息を吐く。
「ワイかてアタマは入ってるつもりや、少しは見当つくわ。楼蘭族が北魏族相手に因縁を断ったとかとかなんとか、まるっきり大昔の仇討ち戦をやらかしたみたいな話が聞こえてきたんやろ? どこでそんな情報を仕入れたんかは知らんけど、城外で商売しとる情報屋は又聞きの又聞きの又聞きくらいを売っとるから、話の筋が大分違っとったりするんや」
困ったもんやと呟き、ガリガリと頭を掻いて目線を伏せる。
「ぶっちゃけて言うとな。あの北魏の男らが未だに腹に据えかねるほど女を敬わん冷血漢で、しかもワイの仕事の妨害役になってなかったら……きっと今でもワイは、大昔の因縁なんて頭の隅にだけ置いて暮らしてたと思うで」
かつて船上で演じた復讐劇とすら言えない対戦を思い起こし、馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに首を振る。
だがそれでも自分達だけに重く感じられる古代国家の名を脳裏に浮かばせ、笑師は神妙な顔で男を見た。
「― でも北魏だの楼蘭だの、自分らの昔の因縁を思い起こさせるような名前を突然聞いたらなぁ。そら、なにがしか思うところがあって当然やわ」
男が唇を噛むのを気付かぬ振りで、笑師は中央の柱へ視線を移す。
「普段は忘れた振りしとっても、先祖からの恨みっちゅーんは重苦しいもんや。千年以上積み重なってきとるから放り出すにも重すぎるし、かと言っていつ下ろせるかも分からん。怨敵が今なお悪い奴なんかどうかも分からへんもんなぁ。ご先祖さんに恨みを言うつもりやないけど、正直、こんな厄介な荷物はないと思うわ。言ってまえば、こんなもん恨みの残り滓(かす)みたいなモンや」
まるきり縄の巻きつけられたあの柱だと呟き、身動きすらできないそれに痛ましげにゆっくりと振り仰いだ。
「アンタらも下ろしたくなったんやろ? 問答無用で雁字搦(がんじがら)めにしがみ付いてくる、でっかい荷物」
はっきりと聞こえた断定的な言葉を振り払うように、男は笑師の眼前で腕を振り、僅かに距離を取る。
その目には先程までの殺気と憎悪のほかに、明らかな慙愧(ざんき)の念が見て取れた。
「憐れみの目で見られる覚えなどないぞ、楼蘭族……!! 例えそれが真実でも、貴様達が仇敵であることに変わりはない!!」
「んー、そらまぁそうなんやけどもなぁ。……けどな。やっぱり今現在、アンタと戦う理由っつーモンがワイにはないのや」
見透かされた屈辱に肩を震わせる男の言葉を受け流し、よっこらせと立ち上がる。ふらつく足で背を向ければ、亜紋に支えられてそのまま警戒心もなく足を引き摺って進んだ。
「血ぃも足りんしフラフラやけど、この舞踏鞭が戻ったんやしそれでええ。それでも納得出来んっちゅーなら日ぃ改めようや。今日はもう勘弁やわー」
「なにをフザケたことを ― !!」
「やめときなよ。今にも倒れそうな男を背中から襲おうっての?」
冷ややかな亜紋の言葉に、男はその場で踏み留まる。一度国の誇りを口にしての戦いを挑んだ以上、そんな卑劣な真似は出来るはずもなかった。
攻めることも出来ず、かと言って引くことも出来なくなってしまった状況に、男はただ拳を握る。
笑師はゆっくりと遠ざかっていく。その距離の分だけ、荷を下ろした者と未だ背負っている者との間に壁が聳(そび)えているかのように隔絶したものを感じているのか、男は目で追おうともしなかった。
所詮自分達は過去の亡霊なのかと呟き、床を爪で掻く。砂利が爪の間に入り込む痛みも気にせず同じ動作を繰り返す視界に、やがて静かに影が差した。
僅かな光で煌めく金色が目に入り、知らず、男の顔は正面へと向いていく。
そこには先程の笑師同様、男の目の前にしゃがみ込んでいる銀次の姿があった。
今まで同席してはいたものの空気のようだったその姿に、男は意味も分からず怪訝そうに見返す。
「ごめんね、いきなり傍に来たからびっくりしちゃったかな。……ちょっと君に聞きたいことがあってさ」
そう言うと、気負った様子もなくそこに腰を下ろす。無防備と言うにもあまりに過ぎたその仕草に、男は面喰った様子で僅かに目を見開くばかりだった。
気にも留めず、銀次は空を見上げながら話を続ける。
「さっき蛮ちゃんの……、あ、蛮ちゃんっていうのはあの目つきのわっるいツンツン頭の人のことなんだけどね。あの人の邪眼の中で、笑師に勝ったでしょ? なのに喜んで笑ったりしなかったよね。どうして?」
最後の部分で向き直り、大きな目が細まったまま小首を傾ぐ。あまりに率直な質問に、思わず男は挙動不審に目を泳がせた。
「どうしてと……言われても……」
言い淀むその姿を銀次は予測していたように、だよねと笑った。
手元に転がる石を弾き、さもなんでもない仕草で口を開く。
「俺にはね、八つ当たりに見えたんだ。なんでかなぁと思ってたんだけど、本当に倒したい相手じゃなかったからなんだね」
弾かれた石は転がり、別の石へとぶつかる。僅かな衝撃ではあるもののそれはまたコロコロと押し出され、近くの石に当たることで動きを止めた。
「八つ当たりの相手をボロボロにしたら尚更しんどくなるだけだもん、そりゃ笑えないよね。それで発散したって嬉しくなんてない。そういうことだと思うんだけど、どうかな」
目を合わせないまま柔らかな口調でかけられる言葉に、男は返答すらできない。北魏の末裔が倒されたと聞き、そしてそれが楼蘭の民の手によるものだったと知った時、居ても立ってもいられずとにかく何かしなくてはと衝動的に動いてしまっただけだった。
が、そう諭されてしまえば、詰まる所その程度のことだったのかもしれないと思う。
夢の中での亜紋や、先程の笑師に諭された時とは違い、反発の意思も湧かぬ心情に、男自身不思議なものを感じていた。
「今はこんなだけどさ、昔は俺もぜーんぜん笑わなかったんだー。戦って勝っても嬉しいなんて思ったこともなかった。それが当然だと思ってた。だけどそんな俺にね、ある人が言ってくれたんだ」
回想に目を細め、表情は知らず、なによりも優しいものへ変わる。
「― 笑わない奴なんか怖くないって」
銀次の耳には雨の音。灰色の街の中で睨みつけていた少し幼い蒼紫の瞳は、今は優しい色を加えて紫煙をくゆらせていた。
誇らしげに、宝物を見せるように話す銀次の口調に、蛮の口元も柔らかに緩む。
「ねぇ、笑ってごらんよ。色んなことを急に忘れたりするのは無理でも、笑うくらいは意外と簡単にできちゃうもんだよ?」
へらりと笑い、埃を払って立ち上がる。
随分と傾いた陽光。それでもなお天空に君臨するその陽が、金の髪と満面の笑みを逆光の中で輝かせてみせた。
眩しさに手をかざした男に、亀の如き速度で歩み去ろうとしていた笑師が振り返る。
「あぁそうや、なぁアンタ! もし笑い方が分からんとか言うんやったら、今度ロウアータウンにある∞シアターいうお笑い劇場に行ってみぃ。めっちゃくちゃボロッちぃ劇場なんやけど腕のえぇ芸人が二人おってな、どんな奴でも抱腹絶倒させてくれるって、えらい評判なんや。笑い方思い出すにはうってつけやでー?」
「あーでも、顔見知りだからって入場料はマケらんないんだけどねー。さっき言ったとおりホントにボロボロだから、修繕費がかなりかかるんだー」
ひらひらと手を翻(ひるがえ)しての亜紋の言葉に、男はほんの僅かだか唇が吊り上がっていくのを感じた。ワイワイと騒ぎながら階段を下っていく四人の背中を見送り、静かに空を見る。
漂う雲はぶつかり合っても他者を押し出すことはなく、ただ一体となって流れるばかりだった。
復讐を推し進める必要などなかったのだと呟き、馬鹿馬鹿しさに自嘲する。気付けば、重く圧し掛かっていた肩の荷はその斤量(きんりょう)を随分と軽くしたようだった。
■ □ ■
茜色が差し迫るチャイナストリートの入り口に立ち、蛮は黒焼けの塔を振り返る。
笑師は今や亜紋に背負われ、気恥ずかしさも振り切れたのか走り回らせてはしゃいでいる。どう見ても年上とは思えぬその子供じみた姿を視界の端から追い出し、蛮は隣の肩を軽く叩いた。
「うまく纏めたな、銀次」
「蛮ちゃん」
感心の言葉に、金茶の目はパチパチと瞬く。
「纏めたもなにも、俺、今回はなんにも出来なかったよ? あの人だって、俺が話しかけたのビックリしてたし。多分かなり空気だったんだろうねー」
申し訳なさそうに苦い笑みを見せる銀次に、そうでもねぇさと言葉が返る。
「少なくとも、お前の言葉は指針にゃなる。アイツにとって敵だったドリフと、ドリフの味方の田舎モン。それに結果として手を貸した俺にゃ出来ない芸当だ。傍観者からでなきゃ受け入れられねー言葉ってものあるんだよ」
「そんなもんかなぁ……」
納得のいかない様子で唇をへの字に曲げる銀次に、軽く肘をぶつける。突然の衝撃に驚く姿に、蛮はぐしゃりと頭を撫でた。
「あとな、西洋にゃあ斧に関する伝承がもう一つある。奴の得物は鋼で造られた斧だったもんで魔除けだったが、こっちは石斧に関する伝承だ」
唐突な話の切り出しに、、銀次はそれでも大人しく耳を傾ける。
「刃を石で造った斧は、雷電と同一視されることがあるんだとよ。アイツが自分の武器をなんて言ったか覚えてるか? 崇拝すべき、だ。ちょいと材料は違うが、奴にとって……じゃねぇな。あの枯れ木みてーなクソガキも含めて、姑師の一族にとって雷帝のお前は、まさに道を示すカミサマだったってことだろ」
誇らしげに、そして愛しげに、キツい双眸が緩む。
「オチとしちゃあ上々だ。……よくやった」
「っ、うんっ!!」
頬を紅潮させて飛びついた銀次を背負い、蛮は亜紋と同じ格好で楽しげな声を上げる。
子供じみた遊びと冷めた目で見ていたものの、いざ当事者になってしまえばそんなことは忘れ去ったかのように走り回っていた。
最終的にマクベスの所までおぶったまま競争を始め、騒がしさはさらに増す。朱に染まったチャイナストリートには、笑い声だけが残された。