円環因果の残滓
終
ロウアータウン内の繁華街に、バタバタと騒がしい足音が響き渡る。
何事か叫びながらのその人影に、文句をつけようとする人間は誰もいない。より厄介な事態に巻き込まれるのが分かっているからなのか、それともただ単に彼らを恐れているからなのか。どちらにしろ誰の咎(とが)めも受けぬまま、二つの影はやがて粗雑な劇場の入口に辿り着いた。
中でも先についた白シャツの影は、怒り心頭の様子でその扉を力いっぱい蹴り開ける。
「おいコラ出てこいドリフ野郎!!」
「蛮ちゃん落ち着いてー!!」
文字通り目を三角に吊り上げた蛮の腰に、縋り付く形で銀次も飛び込んでくる。乱暴に扱ったためか容易く蝶番(ちょうつがい)が外れてしまった扉は無残に倒れ、劇場内の埃を巻き上げた。
そんな二人の姿を、舞台の上から二対の目が見止める。
「なんやお二人さん揃い踏みで、えらいせっかちでんなー。それにその扉は壊してもろたら困りまっせ。直すのも手間なんやから」
「今はリハーサル中なんだよねー。開場までもうちょっとかかるから、静かに外で待っててくれるかな」
まるでマナー知らずの客をあしらうような対応を見せる二人に、蛮の額にさらに青筋が浮く。その怒りのオーラを感じ取り、銀次はひぃと短く声を上げた。
落ち着いてと再度かけられる声を掻き消し、ギャンギャンとがなり立てる。
「誰がテメーらのクソつまんねー漫才なんか見に来るか!! 奪還料の話だ、奪還料の!!」
「だから蛮ちゃん、今回は俺達なんにもしてないのと同じなんだから! もらえただけでも充分じゃない!! それにこんなことよくあるんだし!!」
「お人好しはすっこんでろ! よくあるから困るんじゃねぇか!!」
ともすれば殴り掛かりそうな蛮を、体を引き摺られながら必死に宥めようと試みる。しかし選択した言葉がまずかったのか、結果として火に油を注いだだけのように見えた。
自分達の代わりかのように詰(なじ)られている銀次を目にし、笑師ははてと首を傾ぐ。
「んー? こないだ送った奪還料でなんか揉めさしてしまいましたん?」
思い当たる節などついぞないと言いたげに考え込む笑師に、蛮の頭から何かが切れるような音がした。
「テメこのクソドリフ……! こんなもん送りつけてきやがって何が奪還料だ!!」
ふるふると怒りに震え、叫ぶと同時に小包程度の段ボールを床に叩きつける。
衝撃で開いた箱の中からはひらひらと数枚の紙が舞い、やがて元あったであろう付近に着地した。
そこには、汚い手書き文字でカラフルに描かれた【∞シアター入場チケット】がざっと五百枚ほど収められていた。
「どーしろっつーんだこれを!! 食えってのか!? このガキのおままごとで使われてそうな紙を食えってのかテメーらは!!」
「いや、別にそんなん言うてませんやん」
やけくそで箱を叩きまくっている蛮を困った顔で眺め、笑師はやはりなにが不満なのか理解出来ていない様子で亜紋を見返る。
「亜紋やん、コレなんか問題あるか?」
「んーん、思いつかない」
「っの……! テメーらなぁ!!」
「だーから落ち着けってば蛮ちゃん! ケンカ腰でいけばいいってもんじゃないよ! 俺から言うから!!」
本気の怒りを思わせる声を上げた蛮に、今度は銀次が厳しい叱責を飛ばす。基本的に怒る役割を担っている分怒られる側に立つのは慣れていないのか、サングラスの奥の瞳は僅かに怯み、その後は小さく愚痴を零すだけに留まった。
とはいえ、銀次はなにかを強要することには慣れていない。
笑師と亜紋の正面に立ったまま、だらだらと冷や汗を流す。なにをどういう風に話せば一番角を立てないのだろうかと必死に逡巡したまま、ただただ時間だけが流れた。
口火を切らない銀次の背中にはギスギスとした視線が突き刺さる。自分を諌(いさ)めた口ほどにもないと言外に伝えてくるその目に、冷や汗はさらに加速した。
「え……ッと、あの、そのですね」
もじもじと指をつつき合わせ、ちらちらと二人の様子を窺(うかが)う。今や背後からはぎりぎりと苛立った歯ぎしりが聞こえ、銀次は恐怖で目に涙を浮かべた。
意を決し、ゴクリと唾を飲み下す。
「つまりその、……ただの紙じゃ、ご飯は食べられないのです……」
消え入りそうな声で、やっとそれを口にする。それでも随分と弱気な言葉に、後ろからは納得のいかない舌打ちが聞こえた。
その上笑師と亜紋は衝撃を受けた顔と大きな声で、内緒話の真似事を始める。
「まっ、お聞きになりまして奥さん!」
「えーぇ聞きましたわぁ! このチケットの山がただの紙束に見えるんですってぇー!」
「将来のことを考えたら宝の山なのにねーぇ」
「ねーぇ」
要点を聞き流されコントに切り替えられた瞬間、再度何かがブツリと切れる。
「なぁにがねーぇ、だっ!! ドリフてめぇ、有り金全部渡すのも惜しくねぇっつったろ!! こんな落書きじゃなくて現金寄越しやがれ、現金!!」
ついに我慢の限界に達したのか、タレ銀次を押し潰して蛮が声を荒げる。そしてその言葉でようやく合点がいったのか、笑師は音を立てて手を打った。
「あー、現ナマが欲しいゆーことやったんでっか。いやー、そらスンマヘン。それやったら今はちょっと無理なんですわ」
「あぁ!?」
カリカリと頬を掻いての笑師の言葉に、苛立った声が返る。しかしそれを笑って受け流し、亜紋が詳細の説明を請け負った。
「いやー実はさー。この劇場を改装してオープンするのに、俺達二人ともすっからかんになっちゃったんだよねー。まったく金なんて持ってないの」
言葉の証拠とばかりに、手元の財布をひっくり返して振ってみせる。ファスナーは全開だというのに砂一粒すら落ちてこないその有様に、蛮は亜紋の手からそれをひったくった。
レシート一枚入っていない中身に、へなへなとその場に座り込む。
「……飯は食えてるっつってたろ」
「うん。ファンや花月クン達からの差し入れで」
「チケット代とかの収入は」
「その日の内に劇場の修繕に回しちゃうんだよねー」
立て板に水と言った会話の流れに、やがて蛮は完全に倒れ伏す。
「……タダ働きだったって言うのかよ……」
「いやいや、人聞きの悪いこと言わんといてぇや。ちゃんと渡しましたやん奪還料。あれ売って奪還料に充当してもらおうと思てましてんけど……」
一度言葉を切り、亜紋と二人で首を傾ぐ。
「あかん?」
「……そりゃただ単に、俺らがテメーらの宣伝役になれっつーことだろうが」
恨みがましい顔で睨みつけ、下唇を突き出す。明らかにショックから立ち直れていないその様子に、慌てて銀次が蛮の下から這い出てきた。
「んん……ぶはぁっ! えっと、ちなみに参考までに聞きたいんだけどさ。これって一枚いくらなの?」
「六百円! 破格の値段やでー?」
自慢げに六本の指を立てて見せる笑師に、銀次は衝撃を受けてチケットを見返る。
「こ……これ一枚でのり弁二つ分……ごぁっ!?」
「みみっちぃ計算の仕方すんじゃねえ!!」
垂直に拳を落とし、怒鳴りつけてから箱を見る。
「あれを全部捌(さば)けりゃ三十万、か。確かに普段の奪還料としちゃあ妥当な線だが……」
大きく溜め息を吐き、肩を落とす。現状としては魅力的な金額と言えるが、このチケットの作りから考えても到底完売するとは思えなかった。
再度重々しい溜息を吐き、頭を抱える。
「……無理だろ、完売させんのに何年掛けさせる気だこんにゃろう……」
「蛮ちゃんそんなに落ち込まないで。笑師達だってホントに大変そうだしさ、今回は……」
そこまで口にし、銀次は覗き込んだ表情が変わったことに気付く。大きく目を瞬かせて不思議そうな顔をして見せる小さな生き物に、蛮は悪戯っ子のように笑って見せた。
■ □ ■
広い会場には、楽しげな空気が満ちていた。
静かであるのに騒がしい食器の音が絶え間なく響き、ざわざわと心浮く笑い声が時折沸き立つ。以前マクベスの主催した鬼ごっこ大会の会場だった広間は、またしても無限城のお祭り会場となり果てていた。
壇上ではマイクを挟んで亜紋と笑師が立ち、極上の笑顔で大きく身振り手振りを繰り返す。
「いやー、盛り上がってきたねー! みんなそろそろ前菜は終わったかなー? こってりしたものを食べたくなる頃なら、ネタはあっさりのものがいいよねー。そんじゃま、ここらで馬鹿馬鹿しい話を一つ!」
「アカンアカン、そらアカンで亜紋やん。近頃のお客さんは目ぇも耳も肥えてはるからなー。馬鹿馬鹿しい話なんかやったら空き瓶とか投げられてまうわー」
「えー? じゃあこれだ! 鼻で笑いたくなる話を一発!」
「それ小馬鹿にされとるやーん!!」
すぱーんとハリセンが翻り、小気味いい音を立てて亜紋を打つ。
思わず笑いが漏れる会場の中、卓上に並べられた大量の食事を小皿に採っていたマクベスも表情を綻ばせた。
「まさか監視カメラの映像を提供した見返りが、無限城の大ホールを利用しての出張漫才ディナーショーとは思わなかったよ」
楽しげな会場を回し見、隣に立つ奪還屋を見る。
「ご飯はマクベスに持ってもらっちゃったけどねー」
「こいつらの漫才を好き好んで見たいって奴を、自力で五百人も見つけられる気がしなかったんでな。たまにゃこういう馬鹿騒ぎもいいだろ」
「……うん。でも二人とも、そんなに一生懸命口の中に詰め込まなくっても、料理は逃げたりしないからね」
楽しげに、そして格好をつけた言い回しで決めた二人の姿に、マクベスは複雑な表情で目を逸らす。
いくら普段通りを気取って話を続けても、二人の両頬はリスの頬袋のように膨らんでいた。
ツッコミに動揺し、思わず喉を詰める。必死に飲み下そうとしてもその途端頬の食べ物が喉へと移動し思うようにならず、蛮、そして銀次の顔色は見る間に青く血の気が失せていった。
慌ててマクベスが水を手渡し、杯を口元に宛がって流し込むと、バタバタと苦しそうに藻掻いていた手足はやがて静かさを取り戻す。
大きな安堵の息で涙目を擦る二人に、少年王はそれでもどこか楽しげにその背を擦った。
「余った料理は包ませるから、今日は普通に楽しんでよ。協力の報酬はこんな場を設ける機会をくれただけで充分だ」
眩しい表情で壇上を見、観客以上に楽しげな二人を眺める。
「― でも良かった。笑師が笑って帰ってきて」
「うん。これで笑師の因縁、一つ片付いたならいいんだけどね」
「そいつはどうだかな」
希望的観測に冷酷なまでの疑問符を出し、蛮はローストビーフを口に放り込む。
「なんせ二千年以上前からの因縁だ。俺らにゃ想像もつかねぇ時間だからよ、そう簡単にゃあいかねぇさ。……だがまぁ、今くらいはな」
最後に表情を崩し、会場の笑いに耳を傾ける。それに倣(なら)い、銀次も楽しそうな空気を吸い込んだ。
「うん、今くらいはね」
「腹が破裂するくらいの夕飯と手土産、それに二人分の漫才ショーのチケット代。手伝い程度の奪還料じゃ、こんなもんが妥当だろ」
微笑のままに瞳を閉じ、近くにあったワイングラスを取る。それを銀次にも促し、二人は笑顔で顔を見合わせた。
「毎度ありッ!」
冗談めかして肩を竦め、音を立ててグラスを合わせる。高く響くはずのその音は会場の笑いに掻き消され、誰もが壇上のショーへと没頭した。
---了.