円環因果の残滓
二
まるで晴れ渡った空の下、数日前に降った雨の湿気がこの場所にだけ留まり続けているようなじっとりとした空気だった。
焦げた墨色とコンクリートの灰色、そして寂れて煤けた色をした色とりどりの看板が、なんとも寒々しいものを感じさせる。
無限城城下町の中でも最盛を誇り、表の顔とまで言わせしめたチャイナストリート。鬼里人の七頭目が一人、女郎蜘蛛が支配していた隆盛時代の面影もなく、今や人影すらまばらな死街となっていた。
明かりも消え、割れてしまった電球の数々が寂寥(せきりょう)感をこみ上げさせる。
例え如何わしい賑わいだったとしても、以前のそれを身をもって知っている銀次、そして蛮はその変貌を感慨深く見上げ、ほうと溜め息を吐いた。
「ここに来るのも久し振りだけど、すっかり寂しくなっちゃったねー」
「見たまんま廃墟って感じだな。……まぁ、商売どころか人が住むような状態でもねぇか。鬼里人の奴らもここから手ぇ引いて、静かにやってるみたいだしな。今じゃここは無限城の影響が濃い城下町に移る勇気もない連中や、日常から少しばかり逸脱したいガキなんかを含めた子悪党どもの巣窟になってやがンだ」
通り過ぎざまに視界に入る、路地裏でひそひそと取引をしているらしい人影を流し見て鼻で嗤う。それをケラケラと笑い飛ばし、亜紋はどこか観光客じみた好奇の目で周囲を見回した。
「マクベスの情報じゃこっちに向かったらしいけど……しっかしよりにもよって鬼里人の支配地域だったところに俺の相方がおびき出されるなんて、なんか因縁感じるよなー」
「この辺りってやたら路地が入り組んでるから、追われても撒きやすいって考えたのかもしんないよね。……あ」
銀次の目が一転を見つめて歩む速度を落とす。その視線の先を追い、蛮はあぁと納得の声を漏らした。
見事なFカップが揺れながら誘っていた光景が、まざまざと目の前に蘇る。
「へぇ、よく覚えてるじゃねぇか。方向音痴のくせに」
「そりゃあここに来ると、どうしても美隷さん達のことを思い出しちゃうもん。みんな元気にしてるかなー!」
力いっぱい声を弾ませ、脳裏によぎる懐かしい顔ぶれに笑みを浮かべる。
「またそのうちに会うこともあるだろ。俺もあの巨乳にゃ、まだ未練があるからなー」
「蛮ちゃんってばそればっか……」
わきわきと指を動かす蛮の品のない仕草に、がっくりと肩を落とす。それを笑う亜紋に、銀次は笑い事じゃないのにと恨めしげな視線を投げた。
その背後に見覚えのある、しかし記憶にあるものとは似ても似つかないほど無残に焼け落ち、崩れ落ちた塔が目に入る。
「― っっ!」
思いがけず、肩が跳ねる。話しながらでも足もピタリと止まり、強張った表情はその塔から目を放すことも出来ず、微かに唇を戦慄(わなな)かせた。
震えた指先は痺れを訴え、拳を握ることも出来ない。
「……銀次?」
唐突に言葉をなくした相棒を怪訝に思い、逆立った黒髪がひょっこりと覗き込む。その声にはたと我に返り、銀次は取り繕った表情で頬を掻いた。
「へへ、ごっめん! なんでもないよー」
へらへらと愛想笑いで誤魔化す表情を、蛮はじっとりとした視線で注視する。まるで頭の中を見透かそうかというような蒼紫の瞳から目を逸らし、乾いた口内を僅かでも潤そうと唾を飲み込んだ。
それを一部始終観察し、蛮は諦めにも似た息を吐く。
「……田舎モン。ちぃとここいらを探検しなきゃならなさそうだ。テメーはあっち側に行って来い」
冷たく、それだけ言い放つ。その言葉に銀次は息を呑み、亜紋は目を丸めて数度瞬いた。
「へ? でも笑やんの件を考えたら、あんまり離れるのも……」
「いいから行けってンだよ」
有無を言わさぬ眼光で睨みつけ、殺意すら滲ませて顎で指す。その視線と言葉に並々ならぬものを感じ、亜紋は深く息を吐いて肩を竦めた。
「……分かった、オッケー。じゃ、しばらく近辺の探検ごっこに興じるよ。なにか分かったらカラスにでも伝言してくれ。多分通じるからさ」
言い置き、二人を残してその場を立ち去る。飄々(ひょうひょう)としているものの所在なさげにも見えるその背中を目にし、銀次は不安げに蛮を見た。
「蛮ちゃんいいの? バラバラになったら、またどこかにいなくなっちゃったり……」
「言っただろ、相手のターゲットはドリフ野郎一人だ。あんなド田舎モンがうろついたって、奴がさらったりする理由はねぇよ。それよりテメーだ、テメー」
ぎろりと睨みつける眼光に、きょとんと瞬いて首を傾ぐ。先の言葉が自身を指していることは理解しているものの、それがどういった意図のものなのか把握しきれていない様子に、蛮は大きく溜め息を吐いてガリガリと頭を掻いた。
「……ちょっとこっち来い」
「わ、わっ! 待って蛮ちゃん!!」
腕を引かれ、転びそうになりながらも後に続く。戸惑いの声など気にも留めない様子でチャイナストリートの奥へ分け入っていく蛮に、銀次はますます不安を募らせた。
「どこ行くのさ蛮ちゃん。あんまり離れると亜紋とはぐれるよ」
「ガキじゃあるめーし、いなけりゃ自力で探せるだろ。いいから黙ってついて来い」
身も蓋もない言い様に、反論も見当たらず口を閉ざす。引かれるままに進む先は一歩ごとに建物の黒さを増し、水で流れた跡があることから、その黒さの原因は付着した煤らしいと気が付いた。
不吉な予感にじっとりと汗が浮かぶ。置き去りにされたガスボンベやなにかの爆風で吹き飛んだらしいガラス片が放置された場所を通り、やがて階段のある細い路地裏に差し掛かった。
息苦しいほどの道だというのに、頭上にはさらに所狭しと看板が掲げられている。何層かの段地になっているらしく石造りの階段が点在するそこは、はっきりと銀次のトラウマを刺激した。
悠然と進んでいく蛮の腕に逆らい、銀次は足を止める。
額を濡らしていた汗がさらに球になり、頬に流れ落ちる。竦(すく)んだ足は細かに震えて一歩たりとも動こうとはしなかった。
軽く腕を引いた程度では頑として進もうとしないその姿に、蛮はちらりと視線を走らせる。
「どうした銀次。行くぞ」
問い掛けに、銀次は震えたまま唇を開く。
「……そこ、いやだ。蛮ちゃん」
「あぁ? 別にオバケが出るわけでもねーだろうが。オラ行くぞ」
「嫌だ」
強く腕を引かれても逆方向に力を入れて抵抗を見せる。それを蛮は仕方なさそうに肩を竦めて見せ、銀次から手を放して数歩進んだ。
焼印で模様の入った薄板を斜めに並べた、日本では珍しい格子壁。苦い記憶と共に焼付いた見覚えのあるその景色に、銀次はさらに硬直を強める。
「蛮、ちゃん。嫌なんだよ蛮ちゃん」
「ここにゃゴミばっかりで他にはなンにもねぇぞ。怖がってねぇでさっさと来い」
冷たく言い放っても、やはり銀次は動かない。
立ち尽くしたまま俯き、拳を握っているばかりのその姿を一瞥し、蛮はこれ見よがしの息を吐いた。
「……来ねぇンなら、俺一人で行く」
砂利とガラスが擦り潰れる音を響かせ、白いシャツが翻(ひるがえ)る。
路地の出口から差し込む光が蛮の背中を暗く見せ、見えない壁を作ったように感じられた。
「待っ……!! 蛮ちゃん!!」
向けられた背中と遠ざかるために踏み出された足を目にし、銀次の声が焦りを含んで迸る。咄嗟に地面を蹴った足はあれほどまで踏み込むことを拒否していた路地を容易く駆け、目指す背中に力いっぱい飛びついた。
反るほどの衝撃を受け止め、蛮は腰の辺りに顔を埋めている銀次を見下ろす。
「ここは嫌なんじゃなかったのかよ」
意地悪く揶揄する言葉に、唇を噛んだ金糸が微かに強張る。
「嫌だけど……嫌、なんだけどさ……。ここで蛮ちゃんに置いて行かれるほうが、もっと嫌なんだ……!」
「ワガママだな、テメーは」
強く握りしめられている手を解き、向き直って目の高さを合わせる。
「引き摺ってんじゃねぇよ銀次。あン時のこたぁもう水に流したはずだろうが。理由もねぇのに置いてきゃしねーよ。テメーにビビられちゃ、さすがの俺様もちょっとは後悔するってもんだぜ」
「理由があったって置いてかれるのはゴメンだよ」
子供を宥めるような目線で静かに話す蛮の言葉に、銀次はようやく震えの治まった手にゆっくりと力を入れ、白いシャツを掴んだ。
ここはマドカ奪還を賭けた鬼里人との戦いで、蛮が電撃を失った銀次を置き捨てていった場所だった。
今でこそ銀次の死を回避するという目的があったと聞かされてはいるが、当時それを知らず置き去りにされた側としては、負った心の傷は未だ完治してはいなかった。
それを充分理解していながらも、恨みがましい呪詛とも取れる言い様に、蛮の喉がくくと揺れる。
金糸の揺れる頭を抱き寄せて額を合わせ、太陽の匂いがする空気を吸い込んだ。
「そうだな。俺もあんな予言はもうこりごりだ」
肩から力を抜き、胸の奥から零れ落ちた声に銀次の目が上がる。見上げた先にあるサングラス越しの瞳は、柔らかに閉じられたまま静かに呼吸を繰り返していた。
それを眺めれば、先程の恨み言など嘘のようにくすぐったい気分に襲われる。
合わさった額を甘えるように擦りつけ、銀次の頬が締まりなく緩んだ。
「……へへ、そうだね」
互いに額からの体温を感じながら、次第に瞳を開く。
ほぼ同時に開かれたがために自然と合った視線で、二人は噴き出すように微笑んだ。
乱暴な手はぐしゃりと金の髪を撫でた後、頭を押さえつけるようにして立ち上がる。
「さーて! ンじゃ、もう大丈夫そうだな」
「うん! 蛮ちゃん成分補充完了ー!」
「なんだそりゃ、勝手に人で栄養補給してんじゃねーよ。あとで肉まん奢らせンぞ」
「えー、蛮ちゃんのケチー」
じゃれ合いの中で不貞腐れた顔を見せる銀次を無視する形で、蛮が煙草に火をつける。一度大きく吸い込まれた紫煙は、小馬鹿にした笑みと共に吐き出された。
蒼紫と金茶が一瞬交わり、頭上へ目を向ける。
「でもチャイナストリート側から歓迎してくれるってんなら、夢の満漢全席とかご馳走してもらえるかもね?」
「バーカ、こいつらの顔見てみろ銀次。どいつもこいつも貧相な雑魚面だろ。満漢全席どころか、それこそコンビニの肉まんだって出してくれそうには見えねぇよ」
崩れそうな灰色のビルの上。
いくつもの逆光の人影が、殺気を以て二人を取り囲んでいた。
風を孕(はら)んで翻るボロボロの布。文字か絵のようなものが描かれていた形跡があることから恐らくは旗なのだろうが、逆光を抜きにしてもその本来の色はおろか、なにが書かれていたのかすら判然としない。
古いという言葉すら追いつかないほど酷く傷んだその布は、それでも誇らしげに、群衆の中央で高々と掲げられていた。
それを背後に、中年じみた男が声を張り上げる。
「貴様らに用はない! いらぬ怪我をしたくなければ楼蘭族の男のことは忘れ、無限城へと退くがいい!」
文字通り上段から投げ落とされる言葉に、蛮の蟀谷(こめかみ)がひくりと動く。
「あぁ? 誰に向かって口利いてんだクソ雑魚が」
「ちょっと蛮ちゃん! ってか、楼蘭族の男って……」
青筋を立てて睨み上げる蛮を宥(なだ)めつつ、男の言葉に引っ掛かりを覚えた銀次も空を仰ぐ。憤然とした面持ちで見下ろしている男はしっかりと口を引き結び、それ以上のことを話すつもりはないようだった。
それを鼻で嗤い、蛮は回想に目を泳がせる。
「どうやらドリフ野郎の因縁、ヴィーナスの一件程度じゃ終わっちゃいなかったようだな」
吐き捨てるように呟き、嘲笑に似た表情で男達を見上げる。
「こっちも仕事で来てるもんでな、ハイそーですかと帰るわけにゃいかねーんだ。まぁもっとも? おたくらが依頼の倍額払ってくれるってーんなら……手ぇ引いてやってもいいぜ?」
サングラス越しに見上げる好戦的な視線。
銀次から見れば明らかにその気のない言葉を受け、男達はざわりと空気を揺らす。
ただしそれはどうやら好意的な検討のためではなく、あまりに不遜な言葉に気分を害しての物らしいことは、食い縛られた口元を見ても明らかだった。
わなわなと震えた唇が怒りに牙を剥く。
「この……ッ! 小汚い守銭奴が!」
怒号と同時に数人の男達が一気に飛び降り、蛮へ向かって白刃を煌めかせる。
「端金(はしたかね)を惜しんで命を落とすなど、愚者の極み!!」
「ハッ!」
失笑し、蛮は唇の端を吊り上げる。
瞬間、男達は大風に吹き飛ばされたように壁へ叩きつけられていた。
「端金を惜しんで痛い目見ようって奴らも、たいがいな馬鹿野郎だと思うがな」
パラパラと音を立てて毀(こぼ)れるコンクリートを当然のように一笑に付した姿に、男達に戦慄が走る。守銭奴と言い捨てた男は一気に噴き出した冷や汗を流すがままにし、息を呑んで目を見開いていた。
圧倒的すぎる力の差を知ったのかがくがくと膝を震わせ、些か動転した様子で周囲の男達を見返る。
「もう一人……もう一人のほうだ! 弓を使って狙え!!」
焦りきった声色に、周囲も慌ただしい様子で攻撃態勢を整える。とはいえ充分な訓練を受けているのかその速度は随分と早く、指を二本数えるほどの時間で男達は短弓の弦を引いていた。
風切音を響かせて降り注ぐ矢の雨に、銀次は静かに顎を上げる。
「蛮ちゃんが駄目なら俺をって……。あんまり舐めてもらっちゃ困るんだけど、ねっ!!」
そして、彼らは地上から天空へ向かって落ちる稲妻を目にすることとなる。
鼻先を掠めて駆け上った膨大な電流は僅かに肌を焦がし、比喩でなく全身に痺れを走らせた。
眼球すらも熱するそれを知覚するも、常識で考えれば決してありえない現象に思考が追い付いていない。
震えることすら出来ず、男達は焼け落ちて灰となった矢の残骸を呆然と見下ろす。
「っと……ちょっとやりすぎたかな?」
「かもな。度肝抜かれて声も出ねぇとよ。そろそろ田舎モンも時間潰せなくなってきてる頃だろうし、行くぞ銀次」
口を開けたまま立ち尽くす影を笑った蛮の腕が銀次の背を押す。少し逡巡してビルを振り仰ぐも、立ち去ろうとしている自分達にもはや制止の言葉がかかることはなく、足止めすら諦めたようだと安堵の息を吐いた。
過去、この場所で負ったまま瘡(かさ)蓋(ぶた)となって残っていた心の傷も、先程の荒療治で跡形もなく完治したと言っていい。
ならば後は亜紋と合流して笑師を探すだけだと拳を握った銀次の目と鼻と先に、丸い小さなものが落ちてくるのが見えた。
錯覚か、やけにゆっくりと感じるそれをそのまま見送りながら口を開く。
「ねぇ、蛮ちゃん。上からなんか落ちて……」
疑問符の浮かぶ言葉に、余裕の笑みで閉じられていた蒼紫が開く。ただそれがなにかを認識した刹那、蛮は咄嗟に銀次の肩を掴んで後ろへと投げた。
「伏せろ、銀次!!」
叫ぶが早いか、放置されていた業務用ダストボックスの影に銀次もろとも転がり込む。
次の瞬間、路地には閃光と共に爆音が響き、炎が狭い通路を駆け巡っていた。
ダストボックスと壁の直角部分に出来る限り身を寄せ、その爆炎をやり過ごす。
「急に派手なことしやがって……!」
「援軍ってほど大勢が来たとも思えないけど、一体……って、んん?」
焼けた肌を擦り、頭上を睨みつける。しかしやけに身近から感じる香ばしい薫りに、銀次は訝しげに鼻を動かした。
見返り、びしりと身を固める。
僅かにはみ出していたのか、靴の先についた火が靴下へ燃え広がろうとしていた。
「ぅアチチチッ!?」
慌てて走り回り、ばたばたと足踏みを繰り返して火を鎮める。それでも軽いやけどを負って赤らんでしまった足先を抱き寄せ、銀次は涙目で息を吹きかけた。
場の空気に不釣り合いな少々情けない姿を見ない振りで通し、蛮は空へ吼える。
「どこのどいつかは知らねぇが、挨拶もなしたぁ随分とイイ躾(しつけ)されてんじゃねぇか! 顔ぐらい見せやがれ!!」
言葉を受けてか、取り囲んでいた人影がゆっくりと身じろぎ静かに割れていく。それを面白くもなさそうに見遣り、蛮は荒く鼻息を吐いた。
やがて廃墟の壁ぎりぎりに足をかけ、二つの影が蛮達を見下ろす。
「これはこれは、うちの相棒がとんだ失礼を。しかしあのタイミングで爆撃を受け、よくも無事にやり過ごせたものですね」
「アンタら、一筋縄じゃいかないみたいだしなぁ! 俺らが相手してやんよ!」
丁寧な口調でにこやかに笑んだ影は大柄なうえに横幅があり、全体的に丸い印象を受ける。対し、軽薄な口調の男は少々小柄でかなり痩せ、枯れ木のような印象を与えていた。
デコボコな雰囲気の二人の登場に、蛮は嘲笑に似た息を漏らす。
「おい銀次、上見てみろ。戦闘員じゃ太刀打ちできねーと分かって、週替わりの使い捨て怪人が出てきたぞ」
ヒヒと喉を引き攣らせるような笑いに、枯れ木の男の雰囲気が強張る。
それを機敏に感じ取り、銀次は慌てた様子でビチビチと跳ねた。
「ちょ……っ! 蛮ちゃん、いくらなんでも失礼だよ!」
「ぁンだよ、本当のことだろうが。つーか過剰評価って言ってもいいくらいだぜ。ガチ評価ならいいとこ怪人未満、戦闘員以上ってとこだ」
「だからヒドすぎるってば!!」
歯に衣着せない毒舌に、ちらちらと頭上の二人の様子を窺いながら場の空気を取り持とうと四苦八苦と走り回る。しかしその様子を楽しげに含み笑いで受け止め、丸い男はにこやかに唇を開いた。
「そんなに気を回してもらわなくて結構。怪人かどうかは、今から身をもって知ることになるでしょう」
余裕のあるセリフ回しに、蛮はひくりと片眉を上げる。
「ほぉ? ブタのくせにえらく威勢がいいじゃねぇか。チャーシューにしてラーメンに乗せてやってもいいんだぜ?」
「そっちこそ調子こいて侮(あなど)ってくれてんじゃねーぞウニ頭。こんがりオイシー焼ウニになるのはそっちだってーの! って言っても、俺は金髪のほうをもらおっかなー。抜けてそーだし、楽勝っしょ!」
「うぐっ!? で、でも、やる時はやっちゃう銀ちゃんだもんねっ!」
小学生男子の物に似た言い合いを経て突然向けられた嘲りに、思わず言葉を詰まらせる。自身がそこまで間抜けて見えるらしいことに少々衝撃を受けながらも、銀次は虚勢で胸を張った。
それを面白そうに見下ろし、枯れ木の男は屋上を蹴る。
「へぇ、そいつぁ楽しみ、だっ!」
着地と同時に不自然な小さい音が響く。
途端、銀次のすぐ脇の壁が吹き飛んだ。
「どわっ!?」
「銀次!!」
咄嗟のことで受け身も取れず吹き飛ばされた銀次に手を伸ばす。しかしその背後には、いつの間に飛び降りていたのか黒い影が迫っていた。
「あなたはこっちですよ」
「……ッ! いつの間に……!!」
気が逸れていたとは言え、背後を取られていたことに一気に冷や汗が噴き出る。苦し紛れに蛇咬(スネークバイト)で薙(な)ごうとするも、その一撃は繰り出される前に腕を掴まれ止められた。
「お恥ずかしながら、怪力だけが取り柄でして」
「ウニ頭! 集中しないとすぐ死んじゃうよーん?」
ぎりと音がするほど握りしめられた腕を振り払い、一旦後ろへ飛ぶ。
姿形だけなら愚鈍に見えるこの丸い男が、どうやらそれなりに動けるらしいと判断して蛮は唇を舐めた。
牽制の睨みを続けながら、爆音の響く背後へと声を投げる。
「銀次! ちぃっとばっかり手こずりそうだが、そっちはお前一人で大丈夫だな!?」
それに対し、間を置かず応えが返る。
「もちろんまっかせて! 蛮ちゃんより早く片付けちゃうもんねっ!」
「ハッ、言いやがったな。んなら競争と洒落込むか」
怯えや焦りの感じられない元気な声音に薄く笑い、ゆっくりと近付いてくる丸い男に意識を向ける。
「負けたら明日の晩飯を奢るってのでどうだ?」
「いいね。俺は……そうだな、久し振りにお寿司が食べたい!」
「なら俺はステーキだ。分厚いイイ肉買って、波児の店で焼いてもらおうぜ」
爆音が響かないのをいいことに悠々と言葉を交わす。あまりに危機感のないその姿に枯れ木の男は苛立った様子で舌打った。
「なに勝手に帰る算段してんだよ。それとも寿司やステーキにしてほしいってか?」
「人肉でお寿司なんて、無限城でもアンダーグラウンドくらいじゃないと食べられないよ。おいしくってもごめんだ」
言って、離れた場所でありながらも互いを背中に感じる。
「じゃ、いこーか蛮ちゃん」
「かるーくな。よーい……」
一息置き、二人の唇が揃った。
「ドンッ!!」
コンクリートを蹴りつけ、真逆の方向へと駆ける。
枯れ木は声を上げて笑いながら爆破を起こし、背後から跳ねるように追っていく。反し、丸い男はにこやかに蛮の眼前に立ちはだかった。
「あえて分担する方法を選びましたか。二人で一人ずつ相手してもよかったんですよ?」
「冗談ッ!」
振りかぶる仕草もなく、男の頭を掴もうと腕を押し出す。無論それは後ろへ反った姿勢で容易く止められたものの、代わり、不安定になった体勢を逆手に足払いをかけた。
派手な音を立てて倒れ込んだ男を見下し、嫌味に肩を竦める。
「使い捨ての怪人如きに、ンな特別サービスは必要ねぇだろ?」
痛みに呻き声を上げて倒れたままの男を一瞥し、くるりと背を向ける。やはり所詮は戦闘員レベルだったかと軽侮した瞬間、なにかに足を掴まれる感覚に目を見開いた。
「っ、テメェ……!!」
「あいにく頭は打ちませんでしたから」
布でも振るかのごとく軽い動作で振りかぶり、男は蛮を三階ほどの高さにある壁に向かって投げつける。しかし蛮もその力を甘んじて体に受ける愚挙は起こさない。
叩きつけられる瞬間、左手で壁を殴りつけ、ひびを入れることで衝撃を和らげた。
短く息を切り、錆びついた室外機置き場にぶら下がる。
「ただのデブかと思ったが、案外打たれ強いじゃねぇか」
「こちらも少し驚きました。紙切れほど軽いその体で勝つおつもりか?」
「体重だぁ? ンなもん、バトルに関係あんのかよっ!」
壁を蹴り、男の頭上から掴みかかる。それを迎え撃とうと身構えた男に、蛮はほくそ笑んですぐ脇をすり抜けた。
てっきり落下速度を利用して攻撃へ移るものと思っていた男は愕然とし、次の対応が僅かに遅れる。読み通りの一連の流れに満足げな表情を浮かべ、蛮は着地の勢いを利用して左膝を軸に回転した。
遠心力を用いて勢いよく繰り出された右足が、男の膝裏を蹴り飛ばす。
その予想できなかった攻撃に、男は呆気なく膝を折った。
ダメージは少ないものの、虚を突かれた実感に思わず男の口元が引き攣る。
「この……!」
「バトルは頭でやるもんだ。分かったらテメェこそ、あの痩せっぽっちのクソガキの助けでも借りたらどうだ?」
嗤笑(ししょう)し、爆音の響く方向へ視線を泳がせる。走り続けているのか、遠ざかっては戻ってくるその音に目を細め、なにしてるんだかと喉を揺らした。
■ □ ■
「だ、ぁああああああ!!」
蛮の予想通り、銀次は近辺を走り続けていた。
背後では絶え間なく爆発が起き、その爆風に背中を押される形で前へと進まされる。
正確に言えば直撃を狙って起こる爆発を、直前の僅かな違和感を感じ取って回避しているがゆえの行動だった。
およそ奇跡とも言える確率で避け続ける銀次を、枯れ木の男は感心した様子で口笛を吹く。
「ボケた顔してる割にはなかなかやるじゃん! こんだけの爆発を避けられるの、うちの相棒だけかと思ってたぜ!」
「前にいろいろあってね! 見えないものとかっ、感じ取れちゃうんだよって、ッとと!!」
話に気を取られたのか、吹き飛んだ瓦礫を真横から受ける。鈍い音を立てて鉄筋が蟀谷(こめかみ)にぶつかり、急激に揺さぶられた脳は意識を眩ませた。
堪らず体が揺らいだ瞬間、背後の爆発に吹き飛ばされる。
「うあぁああっ!!」
咄嗟に受け身も取れず、ごろごろと転がる。強(したた)かに背中を打ち付けて呻き声を上げた銀次に、枯れ木の男は喉を引き攣らせた笑いを漏らした。
「ヒャハッ、ざーんねん! そこじゃ火だるま確定だ!!」
哄笑(こうしょう)してぱちりと指を鳴らす。
途端、銀次のいた場所が爆炎を上げた。
「っ、銀次ィ!!」
不吉な気配に、丸い男との戦闘に意識を取られていたはずの蛮が思わず振り返る。そこは既に火柱が立ち、揺れる影に人の姿は映っていなかった。
壮絶な景色をいっそ爽快と笑い飛ばし、手近なビルの窓枠に腰を下ろしていた枯れ木の男はいやらしく顔を歪めて燃え盛る炎を見下していた。
「ヒャハハッ、呆気ねぇー!! なんだよ、もっと頑張って絡んでくれっかと思ったのに、楽しむ暇もなかったじゃーんっ!」
下品な笑い声に、丸い男も振り返って炎を見る。
「どうやらあちらはもう終わってしまったようですね。気楽な顔をしていたわりに、随分あっさりと片付いてしまいましたか」
興味もなさそうな声色に、蛮の顔が伏せられる。相棒の死を悼(いた)んでいるのかと男が目を細めた瞬間、その口元が笑みに歪んでいることに気が付いた。
くくと漏れ落ちた低い声を耳にし、丸い男は怪訝に眉間を寄せる。
「……あの男のあまりの使えなさに、笑いが込み上げましたか」
語尾を押し下げていても、口調は疑問符を匂わせる。それを小馬鹿にした様子で、蛮は蒼紫の瞳を細めた。
「使えねぇ? 銀次が? ハッ、てめぇらも人ンこと言えねぇ程度には呑気(のんき)だな」
「なに……?」
理解出来ずに困惑して見せた丸い男に、蛮はなおさら口元を緩める。
「なにを勘違いしてんのかは知らねぇが、安心するにゃあ早いって言ってんだ」
言葉の終わりを待たず、枯れ木の男のが腰かけていた窓枠が弾け飛ぶ。しかしそれは火薬による爆発でないことは見た目にも明らかだった。
爆炎は起こらず、ただ内部から弾き出されたように炸裂する。その異様さに、足場を崩された枯れ木の男本人が一番信じられない顔を見せた。
「な……ッ!」
落下の最中、ようやくになって先程の爆炎による煙が晴れる。
確実に炎に飲まれていたであろう場所。そこからゆっくりと姿を現した鉄筋の壁に、二人の男は言葉を無くした。
人為的に寄せ集められたとしか思えぬその影から、僅かな火傷を負った銀次が得意げに顔を見せる。
その手は、とある場所へと真っ直ぐに向けられていた。
「へへっ、全身電磁石にしたらどうにか凌(しの)げるもんだね!」
蟀谷(こめかみ)から流れ落ちる血をぺろりと舐め、瓦礫と共にビルから落ちた枯れ木の男に声を投げる。
「てめぇ……なにしやがった!」
「さっきから君が爆発させまくってくれたおかげで、そのビルの鉄骨が見えてるのに気が付いたからね。そこに雷級の電撃を飛ばしただけだよ」
こともなげに答えた声に、男はさらに声を荒げた。
「雷だぁ!? そんなもんどうやって……いや、それよりそんなもんでコンクリートのビルが爆発するなんて聞いたこともねぇぞ!!」
「そいつぁテメーが無知なだけだな」
がなり立てる声に、蛮がはっきりと返す。
「落雷を受けてもビルが爆発しないのは、避雷針から伸びるアースに電気が逃げて、地面に降りてるからだ。ごく稀な話じゃあるが、端子の腐食が原因で接地線に充分な電気が逃げず、鉄筋に直接雷電流が流れてマンションが爆発したって話もある。銀次がやったのはそういうこった」
自慢げに目元を緩め、ことの大筋を解説する。
しかしそれに興味深く耳を傾けるのは、なにも男達ばかりではなかった。
呆けた顔をして話に聞き入っていた銀次が、やがて低い唸り声を上げる。
「んー、よく分からないケドそういうことだったのか……。鉄が見えてるし、電気を流せばどうにかなるとは思ってたけど、世の中うまく出来てるもんなんだねぇ……」
感慨深げにうんうんと頷きを繰り返す小さい生き物に、蛮の目が呆れを通り越して三角に吊り上がる。
原理を理解しての行動だとは微塵も考えていなかったものの、こうもあっさりと肯定されればそれもまた腹立たしい。
「テメーのこったからそんなことだろうとは思ってたけどよ。あとでゲンコ一発な」
「んあぁ!? なんで!? 蛮ちゃんなんで!?」
「うるせぇ! せっかく俺様がカッコよく解説してやったのに一瞬でギャグにしやがって!」
必死に仕置きを回避しようとする銀次に対し、蛮は取り付く島もない。
そのけんもほろろな様子はタレた銀次と合わせてあまりにもコミカルなのだが、そんなことも気付かず怒鳴りつける。
ただ、見慣れれば微笑ましさすら感じるその姿に意識を向けず、男達は別の部分に戦慄していた。
「しかし雷が自力でひねり出せるだと……!? さっき弓矢を蹴散らしたのはトリックがあんのかと思ってたが、まさかコイツ……!」
「無限城の雷帝……! 噂には聞いていたが、まさか楼蘭族の男を罠にかけてこんな大物がオマケにつくとは……!」
急に降って湧いた緊張感に揃って唾液を飲み下す。しかしその物言いに引っ掛かりを覚え、銀次は不服そうに唇を尖らせた。
「ちょっと、オマケってあんまりじゃない? それに雷帝は……アイツはもう往っちゃったよ」
ぼそりと呟き、懐かしさに目蓋を伏せる。その言葉の真意を測れず訝(いぶか)りながらも、完全に銀次へと意識を移した二人の様子に蛮はぎりと奥歯を軋ませた。
「銀次がドリフ野郎のオマケなら、俺はさらにそのオマケ扱いかよ。マジで身の程ってモンを知らねぇみてーだなこいつらは」
青筋を立て、怒りに頬を引き攣らせる。こきりと鳴った指にまで薄く血管が浮かび、小物扱いされた激昂を表していた。
「おい銀次、とっとと片付けるぞ。こんなセット売り怪人、前後編にもなりゃしねぇ」
「へ? でもどこが爆発するか分かんないし……」
「バーカ。ンなもん、先に全部爆発させちまえばいいだけだろうが」
「あ、それもそっか! 蛮ちゃんアッタマいいー!」
軽く罵倒されたことも気に留めず、即座に提案を受け入れて頭を切り替える。子供のように無邪気さばかりが際立っていた目元は、一転して自信と余裕に満ちた落ち着いたものへと変貌した。
ばちりと音を立て、手と言わず全身から放電する。
「あぁああああああ!!」
雄叫びと共に、再度紫電が駆け巡る。
そこかしこを爆破していたのが災いし、瞬く間に、剥き出しになっていた鉄筋から伝播して各所に埋められている火薬へと引火する。
まるで容赦のない爆発。よくもこれだけの数を仕掛けていたものだと感心の念すら頭をもたげる頃、丸い男が咄嗟に体を翻らせ、爆破の衝撃から身を躱(かわ)すのを蛮は目に留めた。
その一瞬の動作の中に男の弱点に繋がる部分を見て取り、さらに注視する。
視線を巡らせ、男が一度も近付いていない場所を探る。そしてその一角にある看板がかかっているのを見ると、なるほどと悪い笑みに唇を歪めた。
「銀次、もういい! 次は俺に飛びついて来い!!」
「えぇっ!? え、でも蛮ちゃん、さっきは一発殴るって……!」
「それは後だ!」
「や、それにしたって今バトル中だし! いいの!?」
「いいのもクソもあるか! 正面から思いっきり飛びついて来い! 早くしろ!!」
「わ、はいぃいい!! じゃあお邪魔しまーぁすっ!!」
完全に押し切られる形で慌てて土を蹴り、両手を伸ばして蛮へと飛びつく。
普段であればバトルの後のご褒美とも言えるハグではあったが、こうまで強く言われては、銀次に断るだけの理由も語彙もない。
ままよと目を閉じて腕を伸ばせば、足りなかった距離分を蛮の腕が補い、思いきり引き寄せられるのが分かった。
バトル中とは思えぬ大胆さに銀次が動揺する間もなく。
それは引き寄せられたのではなく、腕を掴まれて振り回され始めたのだと気が付いた。
誤って手を放せば、足の方向へ飛んで行ってしまいそうな遠心力。それでなくても次第に回り始める目の前に、銀次は情けない声を上げる。
「蛮、ちゃ、蛮ちゃああ……! ちょ、俺、もう無理……!」
「安心しろ銀次! 吐きそうってンなら、もう放してやるよ!」
目が回って酔ってきたのか、随分とグッタリした表情を晒す銀次に意味ありげな言葉を残し、その通りに手を放す。しかしその体は慣性の法則に従って横に飛ばされ、丸い男へと真っ直ぐに突っ込んだ。
「なっ……!!」
爆煙に惑って立ち往生していた男は、それを吹き飛ばして飛び込んできた銀次を受け止めることも出来ず、共に壁へ向かって投げ飛ばされる。
成す術もなく壁を壊し、それでも飽き足らず内部へと転がった二人は、ガラリと音を立てて崩れるコンクリートの中で小さく呻き声を上げていた。
ぐらぐらと回る頭を押さえつけ、ようやく銀次が体を起こす。
「ッテテ……酷いよ蛮ちゃん……」
「悪ぃな。このデブを吹っ飛ばすには、こんくらいしなきゃ無理だろうと思ってよ」
言いながら、手を貸そうともせずに奥へと進んでいく。それを不義理とも思わず、銀次は自力で瓦礫の中を抜け出した。
男も気を失ってはいないようだが、苦い表情で口と鼻を押さえたまま動こうとしていない。明らかにおかしいその動作に、銀次が小首を傾ぐ頃。
ケケと嘲笑する声が奥から響き、埃まみれの部屋の奥から蛮が顔を覗かせた。
「よーっぽど辛いみたいだなー? そりゃあんだけ必死に避けてきた場所だ、ちょっと呼吸するだけでもキツイんだろ?」
「貴様……ッんぐっ!」
先程までの丁寧な口調はどこへ消え去ったのか、完全に余裕をなくした様子で男が口を開く。しかしそれも一瞬のことで、分厚い掌は慌てて呼吸を抑制した。
心なしか涙目になっているのを見止め、蛮の表情がさらにいやらしく緩む。
「さっきの爆発の直前、テメェのそのブタッ鼻がちょこっと動いてんのに気が付いてよ。火薬に引火する一瞬の臭いを嗅ぎ分けて避けてやがったんだろ? ブタだけに鼻が利くってわけだ。が、ここじゃそれが災いしたな」
「え、なに、どういうこと? ここ、なんかある?」
話についていけずキョロキョロと辺りを見回す銀次に、少しだけ呆れた口調が返る。
「よく回り見てみろ。埃を被っちゃいるが、ここにあるのはテーブルと椅子だ。中央の回転台を見る限り、ここは中華飯店だったらしいぜ。……土煙と埃の臭いに紛れちまってるが、俺らの鼻にも分かる不快な臭いが充満してねぇか? 多分あの騒動の時、面倒を嫌っていろいろ置いて逃げ出したんだろうな。こりゃ腐臭だ」
言葉に、改めて周囲の臭いに注意を向ける。言われてみれば確かに鼻の奥を突くようなねっとりとした刺激臭が漂い、深く吸い込めば吐き気を催す重々しさを持っていた。
毒舌のために些か歪曲した表現をされていたが、蛮の抜け目ない観察眼を以てして鼻がいいと評された男は、それによって動きを封じられているも同然らしい。
動けば体内の酸素が消費され、呼吸を余儀なくされる。そのため身じろぎすらも戸惑っていた男だったが、奥から戻ってくる蛮が一歩進むにつれ、その表情には緊迫したものが浮かんだ。
やがてテーブルを回り込んで完全に姿を現すと、血相を変え、男は藻掻くように崩れ落ちた壁へと這い出す。
「せっかくのウィークスポットだ! 逃がすなよ!」
「オッケー!!」
瓦礫を蹴りつけ、ぴょんと跳ねて伸し掛かる。苦しげな息が漏れたものの先程までの大人しさが嘘のように暴れる男に、銀次は危うく振り落とされかけていた。
「わわっ、蛮ちゃん!」
「もうチョイ我慢しろっ!」
ひらりと瓦礫を飛び越え、男の頭を踏みつける。しかしその途端、銀次にすらはっきりと感じ取れる悪臭が鼻腔を苛(さいな)んだ。
無論、男の足掻きはなお力強く移行する。
「はな……離せ……ッ!!」
「あぁ? どうしたブタ野郎。最初に見せてた、どっかのクソ医者みてーな余裕ぶった態度が形無しじゃねぇか。そんなにコイツが辛いか?」
にんまりと意地の悪い顔で見下し、二本の指で摘み上げた薄いビニール袋を見せつける。それは内容物の判別がつかないほど黒く、腐り果てて液体のようにたぷりと揺らいでいた。
きつい刺激臭が目にも沁みているのか、男はあられもなく涙さえ流して口を開く。
「やめ……これ以上近付けるな……!」
「あーん? なーんも聞こえねぇ、なぁ!!」
ひときわ唇を歪めると、哀願など歯牙にもかけず頭の真上で指を放す。
一秒にも満たない空白。
その瞬間背中に乗っていた銀次を蹴り飛ばし、蛮は自身も瓦礫の影に退避した。
べしゃりと生々しい音が響き、液体が飛び散る。
袋に入っていた先程とは比べ物にならない悪臭に、二人は揃って嘔吐感を覚え、慌てて顔を背けた。
背後からはもはや音は聞こえない。二人は鼻を摘みながら恐る恐る振り返り、首を伸ばして男の様子を確認する。
丸い男は、声を上げることも出来ないまま白目を剥いて意識を手放していた。
「……蛮ちゃん、さすがにえげつないよコレ」
「いらねー怪我するよか良いだろうが。それに、話を聞き出すならもう一人残ってるしな」
壁の穴からこちらを覗き見ていた枯れ木の男をちらりと見遣り、顎で指し示す。あわよくば仲間の援護、もしくは救出を目論んでいたらしい男は、仲間の自失と共に自身がターゲットとなったことを気付くや否や、慌てて踵(きびす)を返した。
「銀次!」
「逃がすわけないでしょっ!」
蛮の指示を受けるまでもなく、銀次の手から電撃が飛ぶ。足を狙った一撃は見事その場所を捉え、逃げ出した男を転倒させた。
たった一瞬で痺れてしまった足を押さえ、男は腕の力のみで後ずさる。
「へへっ、さっきと逆になったね」
にっこりと笑む銀次に、男は奥歯を噛みしめるばかりで言葉を返さない。それを気にも留めず追い詰め、蛮はその肩を踏みつけた。
「なぁに、怖がることはねぇ。ちょいとばっかし俺達とオハナシして、こっちの聞きたいことを素直に教えてくれりゃあすぐに解放してやっからよ」
そう言って、鼻先を掠めそうな距離で視線を絡ませる。
「ドリフ野郎はどこだ。なんのためにアイツを狙いやがった」
「ドリ……? あ、あぁ、楼蘭族の……!!」
思いもつかない呼び方に疑問符を浮かべたものの、笑師のことと分かったのか即座に反応を見せる。その瞬間はっきりと憎悪の濃くなった雰囲気に、銀次は戸惑い気味に顎を引いた。
それを横目に見遣り、改めて蛮の唇が開く。
「その楼蘭野郎だ。テメーら、どういう関係だ? どう見たって友好関係じゃねぇことは分かるがよ」
値踏みする目で睨みつける蒼紫に、男は嘲笑にも似た鼻息を漏らして視線を逸らす。
「あの男は今頃、古(いにしえ)の怨念をその身で贖(あがな)ってる頃だろうよ……! 奴は俺達に殺されるために生き残ってたようなもんだ!!」
「古(いにしえ)……じゃあやっぱり君達も大陸古代民族の末裔の人なんだね。えっと……北魏? の人?」
記憶を辿っての言葉に、蛮が小さく馬鹿と呟く。
結果、男は信じられないものを見る目で銀次を凝視し、蛮の足を振り払った。
「北魏のような蛮族と一緒にするな!! 汚らわしい!!」
痺れのとれた足を組み、どっかりと胡坐をかいて向き直る。
「俺達は姑師(きょし)族! 楼蘭に裏切られ、漢に滅ぼされた誇り高き一族だ!!」
「きょ……し……?」
聞き慣れない言葉に、銀次の眉間が寄る。
しかし蛮はそれだけで知識の泉を手繰(たぐ)ることが出来たのか、なるほどなと深い溜め息を吐いた。
「……だいたいの動機は分かった。そこに関しちゃ確かにあの野郎に因縁が繋がってる。俺達が口を出す義理もねぇや。で? もう一つの質問の答えはまだ聞いてねぇな。ドリフ野郎は今どこにいる」
全てを理解した顔でいながらなおも笑師の居場所を探ろうと言葉を続けた蛮に、男は驚愕に目を見開いた。
「っ、言ったはずだ! あの男は今頃……!!」
「それがどうした。俺達ゃ別にドリフ野郎を助けにここまで来たんじゃねぇ。目的はあくまで奪われた鞭の奪還、これ一本だ。それ以外に興味はねぇよ」
「なっ……」
さらりと紡がれた言葉に、男は言葉をなくす。
少なくとも顔見知りであるからには救出を視野に入れているに違いないと考えていた男は、認識の差異に軽い混乱を起こしていた。
それを仕方ないものと受け止め、銀次が苦笑を浮かべて口を挟む。
「でも蛮ちゃん、せっかく奪還したものを渡せなくなるのは困るよ? 笑師の奪還料、後払いなんだし」
「おぉ、それもそうか。金目のモンなら担保として頂いちまってもいいんだが、さすがにあの古クセー鞭じゃ値はつかねぇだろうし仕方ねぇな。そんじゃま、死なない程度のところで助けるとすっか」
ひたすら面倒そうな物言いに、男は開いた口が塞がらない。自身が持つ理屈とは全く違う方向性を持っているらしい考え方に、男はいつしか細かに震えていた。
「なんなんだ……。なんなんだよ、お前ら……!」
しかしその問いには自信ありげな笑みが返る。
「俺達は奪還屋!」
「奪られたものは奪り返す! 受けた依頼は百パーセントな」
「ほぼ、ねー」
付け足された言葉には鋭い音を立てて拳が振り下ろされ、悲鳴を上げた銀次の頭を血管の浮いた指が締め上げる。
「あだだだだだだだだ!?」
「だっかっらっ、なんでテメーはそうよけーなコトを……!! カッコつけてたのが台無しだろうがこのボケがぁああああ!!」
「んあぁああああ!? ごめ、ごめんなさい蛮ちゃぁああああん!!」
びちびちと跳ねる銀次を押さえつけ、さらに締め上げる。
仕置きという体裁を取っているように見えて、緊張感を霧散させたじゃれ合いに興じる二人の姿に、男はやがて憑き物が落ちたように噴き出した。
どこか諦めたような、しかし和らいだ視線を下げて指をさす。
「ハハッ。……楼蘭族の男ならあの塔の上だ。あとは好きにしなよ」
指されたのは焼け落ちた塔。上部から黒焦げになったその焼跡に、蛮は面白そうに口笛を吹いた。
「おいおい、こりゃまた」
「うわー、古傷をガンガン抉ってくるねー」
それはあの鬼里人との戦いの際、銀次と蛮が離れて行動することとなったきっかけの塔だった。
再びはっきりと突きつけられるトラウマの象徴に、銀次からは思わず苦笑が零れる。
ちらりと流し見、蛮は挑戦的に言葉を投げた。
「やめるか?」
「まさか! だって、もう置いて行かないんでしょ?」
「理由がなけりゃあな」
「うわ、プレッシャー! 下手なこと出来ないなー」
舌を出し、剣呑に肩を竦めるその表情はあくまでも明るさを失わず悪戯っ子の輝きを見せる。
チャイナストリートに踏み込んだ時のような硬さもなく、やがてゆったりとした雰囲気で男の前にしゃがみ込んだ銀次は、静かな口調で語りかけた。
「ねぇ、君もさ」
視線を合わせない男に、なおも続ける。
「俺には難しいこととかよく分からないけど、昔の裏切りを引き摺ったりするのは自分も辛いよ。ご先祖様が立派な人だったなら、なおさら」
柔らかな言葉に対して厳しい言葉で反論する気にもなれないのか、男は口を閉ざしたまま微動だにしない。ただ一言告げておきたかっただけなのか、それを気にも留めないまま銀次と蛮はその場を後にした。
呆れた口調で、蛮は深く溜め息を吐き出す。
「しっかし無限城ってのは、つくづく面倒な因縁持ちを惹きつけてやがるんだな。ドリフ野郎の因縁くらい、もうちょっと軽くてもいいのによ」
「んー、それは言っても仕方ないんじゃないかな」
こればかりは自分達の意思ではどうしようもない。
そんなことは蛮自身も身を以て分かっているはずなのだが、重苦しい過去の臭いに愚痴らずにはいられなくなったらしい。かといって各自が甘んじて背負い耐えている事項にまで言及するのはどうかと言葉を濁し、銀次は道の先へ顔を向ける。
するとそこには、別れたままとなっていた見慣れた顔が手を振っていた。
「やっほー。修羅場、無事に終わった?」
「亜紋!」
駆け寄り、ところどころ切り裂かれている衣服に気が付く。皮膚に傷はないものの僅かに血のついていたような跡を見つけ、銀次は小さく息を呑んだ。
「亜紋も襲われたの?」
「まぁね。大丈夫、怪我はもう治ったよ。相手も死んではいないから、だいじょーブイッ!」
「便利なヤローだなテメーも」
気楽にブイサインを見せる亜紋に、呆れ口調で肩を落とす。
「テメーといい銀次といい、大怪我しても即座に治っちまう奴らはマジで卑怯だな。楽勝ムード漂わせやがって」
「えー、でもガチで強いほうがいいじゃーん? 俺なんてこの能力がなかったらただのヒトだしさ。普通に戦って敵なしのほうがカッコいいって」
ヘラヘラと笑う亜紋の言葉に、心惹かれるものがあったのか蛮の表情が満更でもないものに変わっていく。
単純と評すべきなのか切り替えが早いと言うべきなのか、とにかく蛮がすっかり調子に乗った頃、三人の眼前には真っ黒な入口が口を開けていた。
以前は白紋が立っていた場所に立ち、改めて塔を見上げる。
「邪魔してくるの、さっきの人達だけだといいね」
「可能性は薄いがな。どっちにしろ、ドリフ野郎がいるとすりゃあここの頂上だ。蹴散らして進むのが得策だろ」
ぱきりと音を立てて指を鳴らす。さていざ魔窟の成れの果てへと足を踏み出しかけた時、頂上付近が爆発したような音が響いた。
慌てて見上げれば、壁の一部が吹き飛んで粉々に降り注ぐ。
塔全体が揺れるような衝撃が続く中、亜紋は降る瓦礫の中に千切れた黒髪が舞っているのを見止めて血相を変えた。
「笑師っ!!」
叫ぶが早いか、そのまま塔の中へと駆けだす。
「亜紋、一人じゃ危ないって!」
制止の声は届かず、亜紋は塔の中に姿を消す。それを忌々しげに舌打ち、蛮は銀次の背を叩いた。
「クソがっ、あの野郎も相棒のこととなると周り見ねぇで突っ走りやがる! 追うぞ銀次!」
「うんっ!」
すでに階段を駆け上がってしまった背中を追い、塔の中へと突入する。
記憶にある美しい中国風の内装など見る影もなく焼けてしまったそこに、過去の因縁を焦げ付かせたまま生きる古代大陸民族の末裔達を思い、銀次は密かに唇を噛んだ。