円環因果の残滓

   一

 コンピューターの駆動音がすべてを支配しているかのような錯覚をさせる室内は、いつ来てもどこか薄暗い印象を与えた。
 天井からの照明はなくとも、ディスプレイから放たれる光源だけで充分に光量はある。だがそれ故に画面から少しでも逸らされた部分の影は濃くなり、全体の陰影をよりはっきりと映し出していた。
 うず高く積み上げられた大量のブラウン管式ディスプレイ。その狭間に点在するように置かれた業務用の巨大な旧式ビデオレコーダーは四六時中の録画を告げて赤く点灯し、そしてその内容は録画と同時にバックアップ用のハードディスクに転送されているらしく、それらから伸びた何本ものコードの先に繋がれているタワー型パソコンの数々がガリガリと忙しない音を立てていた。
 無限城内に設置されている全ての監視カメラデータを取り纏め、プールしておくデータベース。たった数人で使用するには本来広すぎる部屋のほとんどを機械で埋め尽くすそれを、どこか誇らしげな顔で少年王は見上げた。
「録画データを見せることは別に構わないよ。なにかあった時にすぐに対処できるよう、そのために管理しているものだからね。……でも銀次さん、さっき言っていたデータは僕も笑師達と一緒に見ていたけど、本当にネズミしか映っていなかったよ?」
 戸惑いの色を浮かべて振り向いたマクベスは、話を持ちかけた蛮にではなく、やはり以前から敬愛していると公言して憚(はばか)らない銀次へと言葉を返す。それを非常に不愉快そうに舌打ちする相棒の手を諌(いさ)めるように二度叩き、ロウアータウンの前任リーダーはにこやかに頼み込んだ、
「自分の目で確認したいだけだから、それでもいいんだ。頼めるかな?」
「勿論、そういうことなら」
 再度の要請を快諾するや否や、細い指が眼前のキーボードを素早く打鍵する。室内上部に誂(あつら)えられた巨大なモニターには当初黒一色しか映し出されていなかったが、瞬く間にコマンドが入力されていった。
 そのコマンドがおよそ画面一面を覆い尽くす頃、エンターキーの打鍵と共に画面が変わる。
 画面の中の景色は、照明が消されているのか随分と暗い。
「……暗いね」
「俺、出るときに電気は消して行ったからなぁ」
「こんなもんじゃネズミもクソも見えねぇだろ。ホントにネズミだったのか?」
「さっきはもっと明るい画面やったんや!」
 まったくと言っていいほど何も見えない画面に目を凝らしての銀次の言葉に、亜紋はドジっ子を気取って舌を出す。ただ蛮にとってはそんなことは問題ではなく、最重要であるはずの、ネズミが鞭を奪って行ったという前提を疑問視する方向へと思考を変えつつあった。
 懐疑的な発言に、笑師が唇を尖らせる。
「あぁ、すまない。明度とコントラストの調整を忘れてた。朔羅」
「はい」
 思い至った様子でマクベスが背後へ声を投げると、簡潔な返答を伴って長い髪が揺れる。それまで他の作業をしていたのか、ゴーグル型モニタを装着していた朔羅がそれを上部へずらし、隣に置いていたキーボードを数度叩いた。
 ほどなく、画面は音もなく明度を高める。
「あ、見えた!」
 銀次の歓声にはっきりと同意するまでもなく、蛮の目はその画像に一身に注がれていた。
 調整してもなお薄暗さを感じさせる室内には、申し訳程度の小さな鏡台と玩具のようなテーブル、壊れかけのハンガーラックに掛けられた大量の衣装と、壁際には古めかしいソファベッドが置かれていた。
 そしてそのソファベッドの上に、長い髪の人影が背中を向けて横たわっているのが見える。
 毛布かシーツかの判別はつかないが薄手の生地で体を覆われているものの、覗き見えるその肩が女性らしい柔らかな丸みを帯びていないことは確認できた。
「あれがドリフだな」
「おー、笑師が髪の毛下ろしてるところ久し振りに見た! なんかアレだね、テレビの寝起きドッキリみたいだね!」
「やめてぇや銀次はん。こんなドッキリ笑えんわ」
 通常であれば決して見ることの出来ない他人の私生活を覗き見している感覚にはしゃぐ銀次に、笑師が控えめに裏手でツッコむ。確かにこういったいわゆる事後の状況で、しかも個人ではなく一族としての宝を取り上げてのドッキリなど性質が悪すぎると、蛮は唇の端を吊り上げた。
 とは言え、現在こうして目にしている光景自体、あまり趣味がいいとは言い難い。
「……つーかよ引き篭もり。これ、どう考えても真っ最中も見えてんじゃねぇのか?」
「ふぇっ!?」
 思いがけない指摘に、銀次から思わず素っ頓狂な声が漏れる。
 亜紋と笑師も当然その可能性には気付いていたようだったが、さすがに面と向かって聞くことも出来ずにいたらしい。咄嗟に口を噤んだ二つの影が、真相を気にしてちらちらとマクベスを窺(うかが)っていた。
 引く準備の整っている蛮と赤黒いほどに赤面している銀次、そしてこの回答如何(いかん)では無限城での生活を放棄することも辞さない覚悟を持っている様子の亜紋と笑師の視線を受け、マクベスは困り果てた表情を引き攣らせた。
「いや……まぁ確かに記録はされているけど、そういうプライベートな部分は出来る限り補正をかけて見ないようにしてるから大丈夫だよ。あのカメラはロウアータウン内外の監視のために使っているのであって、僕に覗き趣味があるわけじゃないしね」
 苦笑まじりに話された内容に、特に笑師と銀次が胸を撫で下ろす。しかしそれに反して蛮と亜紋はこっそりと顔を突き合わせ、ひそひそと密談を交わしていた。
「でも今のってさ……出来るだけ見ないようにしてるってだけで、多分ちょっとは見えちゃってるよね……。だいたい補正ってどうやってかけんの? 見ないままって無理じゃん?」
「そりゃお前、さすがのヒッキー坊やでも十四の健全な男子だからな。ただでさえあんなオイシソーなねーちゃんが傍にいるってのに、裁縫野郎のことを考えりゃご指導頂くわけにもいかねーだろうしよ。貴重なオカズ候補となりゃ、男も女も選んでらんねーんじゃねえの?」
「えー、でもそれじゃマジでここではイチャイチャ出来ないじゃん?」
 猥談に限りなく近しい密議に耽り、まるで男子高校生のようなノリで話を膨らませていく。ニヤニヤと少々だらしのない顔を晒していることなど気にもしていない二人は、背後から静かな怒気が迫っていることも気付いていないようだった。
「朔羅、頼む」
「はい、もちろんです」
 にこやかな笑みの中に怒りを押し込めた二色の声が静かに落ちると、しゅるりと衣擦れの音を響かせて布が二人の足と手を絡め捕る。
「あ?」
「へ?」
 微かに締め付けられる感覚にはたと我に返ってももう遅い。体全体に巻きつきながら締め上げる布は生半可な力で振り解けるようなものでなく、二人は成す術もなく空中に振り上げられた。
「小姫筧流布衣術、孔雀 ― 」
 音とともに、巻き付いていた布がきつく体を締め付ける。
「いだだだだだだだだだっ!!」
「ッアー! 出る! 中身出る出る内臓出ちゃう! ゴメンマジ勘弁して朔羅ちゃん!!」
 蓑虫に似た体勢でうねうねと動く二人の言葉に、朔羅はマクベスへと顔を向ける。
「さっきの下品な発言は撤回するかい?」
「する、する! してやるから早く下ろせ!」
「マクベスごめーんっ!」
 凍りついた笑みを崩すことなく見上げてくる少年王に、謝罪らしくもない言葉で赦免を請う。本来であればこんな真摯さの欠片も感じられない言葉で怒りを治める気にはなれないのだが、あまり長くこの話題を続けることも良しとしないのか、マクベスは仕方なさそうに肩を落とした。
「朔羅ありがとう、もういいよ。ビデオをさっきのところまで巻き戻してくれるかな」
 疲れた笑みを浮かべて、手近なところにあったブラウン管に腰を下ろす。締め上げられていた二人も軋む関節を人形のように動かして当初の場所に戻り、銀次、そして笑師に呆れ顔で背中の支えを受けた。
 仕切り直しを経て見上げた大画面。
 ソファに横たわる笑師の枕元には、当たり前のように鞭が一纏めにして置かれていた。
「― この次や」
 笑師の低い声が告げると程なくして、数匹のネズミが鞭の傍へと駆け寄ってくる。しきりに鼻を動かしているその姿は、明らかに何かの匂いを辿っているように見えた。
 その小さな侵入者達は、迷うことなく舞踏鞭へ辿り着く。そして自分達の辿る匂いがそれから発されていることを確認したのか、やがて歯、鼻先、または前足などを駆使して、引き摺るようにして鞭を運びはじめた。
 一連の動きを確認し、銀次が小さく息を吐く。
「確かにこれは、偶然とは思えないね」
「本当にサル回しの仕業じゃねぇのかよ。この時間に盗って来いとか命令するくらい、アイツなら簡単だろ」
「ワイ、士度くん怒らせるようなことしてへんもん。っちゅーか士度くんはどんなに怒っとっても、こない陰険なやり方はせぇへんわ」
「確かに士度って、もっと面と向かってケンカしに来る奴だしなー」
 疑念に反論する笑師の言葉に、亜紋も過去を回想しつつ同意する。考えられる唯一の可能性を否定する二人の言葉をなお疑わしげに鼻を鳴らした蛮は、視界の端に映った違和感に再度画面を見上げた。
 未だずるずると鞭を運んでいるネズミ達。その最中に繰り広げられている光景に、蛮は失笑とも嘲笑ともつかない声を漏らした。
「ハッ……。おいヒッキー、画面の左下……ネズミのところをちょっとアップにしろ」
「左下?」
 言われるがまま、マクベスの指は実行コマンドを入力する。領域カーソルが画面に出現し指定箇所を拡大すると、鞭を運ぶネズミ達の姿がはっきりと確認された。
 ただし、そのうちの数匹はなにやら威嚇するような体勢で周囲に牙を剥いている。
「ケンカしてる、のかな。蛮ちゃん、これがどうかしたの?」
 散歩中の犬や猫がケンカする様子なら、街中でも見慣れていて別に珍しいものでもない。特にネズミの多い無限城内であればなおさら、銀次にはそれが注視すべきものとも思えなかった。
 首を傾ぐその姿に、蛮は柔らかに目を細める。
「いいか銀次。ネズミってのは集団で生活する生き物だ。仲間内じゃケンカなんざほとんどしねぇ。ただし仲間以外の奴らが縄張りに入り込んだら、食い殺すことだってあるくらい気性が荒い」
「そうなの? でもこれは怒ってるだけで、そこまでには見えないけど……」
 見上げた先にはやはり威嚇しているネズミ達の姿があるが、殺し合いをするほどの勢いがあるとも思えない。それを受け、蛮は画面を顎で指し示した。
「あのネズミどもの周りを別のやつらが取り囲んでるのが分かるか。ネズミにゃ縄張りの外側に、行動圏内ってのがある。分かりやすく言やぁ、エサを取ったりする範囲のことだな。そこじゃ、さすがに殺し合いまでは発展しねぇ。ただ、部外者を見つけりゃ仲間を呼んで威嚇する」
 煙草を咥え、火を点す。長く吐き出した紫煙がやがて立ち消えると、蒼紫の瞳が静かに閉じた。
「で、だ。前に……それこそそこのヒッキー坊やがうじうじ悩んで騒動起こしやがった時のことだ。サル回しの野郎がここいらのネズミを呼んだのを見たことがあってな。さすがの俺様でも、ちょいとばっかり怖気の走る数だったぜ。それこそ、鞭を運んでるこいつらなんて物の数にも入らねぇくらいのな」
「つまり、えっと」
 要領を得ない説明に、銀次の目が困惑に白黒と瞬く。それを可笑しげに見遣り、蛮はにぃと白い歯を覗かせた。
「サル回しなら無限城のネズミを一纏めに使えるだろ。なら、俺が見たあの大量のネズミが一つの集団だ。数的に見て、周りを取り囲んでる奴らがそっちに当たると見て間違いねぇ」
「そっか! つまり笑師の鞭を持って逃げたこいつらは、ここに住んでるネズミじゃないってことだ!」
「じゃ、ネズミを使った奴も外の人間だろうね」
 ようやく見つけた、正解と思われる推測結果に銀次と亜紋の声が華やぐ。そのまま向き直された視線に、マクベスは心得た様子で朔羅を見返った。
「朔羅」
「はい。他のネズミ達から威嚇されている、少数グループのネズミが映ったカメラデータを抽出するんですね」
 言葉に出すまでもなく伝わっていた指示は、素早く結果を弾き出す。
大画面は瞬く間に複数の映像ウィンドウで埋め尽くされ、しかも件のネズミが映っている部分は赤い領域指定でマークされていた。
 やがて最前面に一つのデータが表示される。自動再生されたそれは、一人の男が籠の中からあのネズミ達を排水路の中へと放している姿だった。
「これがネズミを捉えた最初のデータだ。次に、最後のデータを流すよ」
 簡潔な説明の後、並んだウィンドウの前後が見事に反転される。そしてやはり自動再生されたデータには、先程と同じ場所で、ネズミ達と共に舞踏鞭を回収している男が映っていた。
 毛先の揃わない肩までの黒髪に、着物のようにも見える茶色の上衣と白のズボンという、少々風変わりな姿の男。
 しかし特徴的なのはその衣服ではなく、顔面左側の額から顎にかけて大きくつけられた傷痕だった。
 音声を含めて再生していても、言葉の一つも発しない。しかし男はカメラの存在に始めから気付いていたように、レンズに向けて睨みを利かせ、はっきりと中指を立てて立ち去った。
 挑発的な仕草に、蛮は思わずヒュウと高音の口笛で囃し立てる。
「監視カメラ相手に目線くれてファックサインたぁ、随分自信がおありじゃねぇか」
「最初から見つかることが前提だったみたいだね」
 いっそ感心の色を窺わせる銀次の言葉の後ろで、カタリとキーボードが硬質な音を立てる。
「捉えていたのは無限城東側のカメラだ。城下町の中でも、特に住人が多い地域だね。……ただ、残念ながら今は城下町の中のカメラデータまでは記録していなかった。申し訳ないけどこれ以上のデータは見つかりそうもない」
 視線を伏せ、マクベスは言葉通り申し訳なさそうに唇を噛む。せっかく掴んだ糸口をさらに手繰ることの出来ない自分の力なさを悔やむその頭を、大きな手がくしゃりと撫でた。
「こんだけやってくれただけで充分や。おおきにマクベス」
 感謝の言葉と裏腹に、声色に笑みはない。未だ幼い髪を撫でた手は重苦しい溜息を吐くと同時にだらりと下ろされ、そして力を込めて指を鳴らした。
「― 久し振りに、鮮血に嗤わなあかんか」
 自嘲は悲哀を込めて零れ落ちる。血に笑うことを飽いたはずが、結局は否応なしに元の場所へ引き戻されていく生き方に、笑師はそれ以外言葉が見当たらない様子だった。
 サングラスで暗く隠された目元がどんな表情を浮かべているかも読めず、銀次、蛮もが口を閉ざす。
 ただその中で、亜紋だけが眼前に立った。
「笑師」
 静かな呼びかけに、指先がピクリと反応する。
「ちゃんとまっすぐ俺を見てよ、笑師」
 向けられる微笑に強制力はない。しかし抗いきれないなにかを感じ、笑師はゆっくりとその顔を上げた。
 そして。
「笑やん、顔びろーん」
 両頬を思いきり横に伸ばされていた。
「な……」
 言葉を失い、唖然とした沈黙と静寂。動揺で固まった面々。
 その中で唯一、極上のどや顔で頬を引っ張り続ける亜紋の姿が輝いていた。
「……プッ」
 耐え切れず、誰かの口から含み笑いが漏れる。それを皮切りに沈黙が破られ、抑えられなくなった笑いが聞こえ始めると、最後まで呆然となっていた笑師の額にピキリと血管が浮かんだ。
「おま……、なにしてんねーん!!」
 どこから取り出したのか鉄製バットを振りかぶり、亜紋を力いっぱい打ち上げる。シリアスだった雰囲気をまさかの行動で崩された怒りよりも、どうやら羞恥のほうが勝っているらしい。
真っ赤に紅潮した笑師は大きく肩を上下させての呼吸を繰り返していた。
 一方、壁まで飛ばされた亜紋は、打ち付けた腰を嬉しそうにさする。
「ッテテ……。ハハ、良かった。笑やん元気じゃん」
「お前があんなことするからやろが! なんで嬉しそうやねん自分!」
「だって笑やん、あのままじゃ笑わなくなっちゃいそうだったからさ」
 裾の汚れを叩き落とし、こともなげに言ってのける。その言葉の真意を測りかねて笑師が首を傾ぐのを、亜紋はまた目を細めて見遣った。
「怒るよりさ、笑ってたほうが強くなれる時だってあるもんだよ」
 さらりと紡がれた言葉に、事態の成り行きを見守っていた銀次の顔が華やぐ。そのまま弾むように亜紋に傍寄ると、満面の笑みで話に加わった。
「っ、それ! 俺も昔蛮ちゃんに、似たようなコト言われたことあるよ! やっぱりそうなんだ!」
 はしゃいだ声に、笑師は蛮を見返る。見ればそこには、肩を竦めて銀次に歩み寄る姿があった。
 亜紋にじゃれつく金の髪を無理に引き寄せ、憮然とした表情で口を開く。
「まぁ、コイツみてーに終始バカ面で笑ってるこたぁねぇけどよ。どんなに腹が立ってるときでも、茶化せる余裕くらいは残しとけや。緊張の糸ってのは張りっ放しにしてっと、いざって時に疲れちまったりするもんだ」
「んぁ!? 痛い! 痛いってば蛮ちゃん!!」
 力任せに押さえつけてくる凶器のような腕を引き放そうと足掻く銀次など意に介さず、蛮は涼しい顔で圧迫し続ける。
そんな素直でない嫉妬の表現に初々しさも極まれりと笑って見守る亜紋と、そんな騒がしさももう慣れたものと受け流しているマクベス、朔羅。楽しげな五人を半ば呆けるように眺め、笑師はやがて失笑にも似た響きと共に表情を崩した。
「……そうやなぁ。笑う門にはとも言いますし、腹は立つけど……ちょっと気楽な感じで追いかけさせてもらいまひょか」
 ヒヒと喉を揺らした笑師の言葉に、乾いた音を立てて拳が平手に打ちつけられる。
「おっしゃ。そんじゃまぁ肩肘張らずに調査と行くか」
 遠足にでも行くように軽い足取りで踏み出した蛮に、ようやく解放された頭を少し気にしながら銀次もその後を追う。
「ありがとうねマクベス、朔羅!」
「とんでもない。これくらいはいつでも……あ、待ってください銀次さん!」
 見返って手を振ろうとした銀次を呼び止め、マクベスは一度ディスプレイの山へと足を向ける。そこから紙を何枚か手に取ると、何も言わず笑顔で差し出した。
 極力ノイズを除去した、先程の男の静止画像が印刷されてることに目を見張る。
「いつの間に……!」
「時間がなさそうだったので、簡単に処理しただけのものですけど。なにかあったらまた連絡してください。笑師の鞭が無事に戻ること、僕と朔羅も願っていますから」
 柔らかに目を細めるマクベスの背後で、朔羅も深く頭を下げる。
 まるで家族の無事を待つようなその仕草に、銀次は胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……うん。でも次に連絡するとしても、きっといい連絡だよ」
 後は任せてと言い置き、今度こそ手を振って背を向ける。
自分が去った無限城。取り巻く状況ががらりと変わったためかもしれないが、上層階と外部への対抗手段として暴力で統率を取っていた頃とは違うその雰囲気に、銀次は知らず知らずの内に口元を綻ばせていた。


 ■  □  ■


 ざわりとした気味の悪さが肩筋を撫でるような、なんとも如何(いかが)わしい空気が辺りに満ちる。
 無論それは無限城近辺、それも城内に入るだけの実力も覚悟もない者ばかりが集まっている城下町ともなれば当然のことだった。
 胡散臭い物ばかりを店頭に並べた商店が軒を連ねる路地を、恐れなく歩く四人の青年。隙だらけに見えていながらもなぜか畏怖を抱かせるその立ち居振る舞いを、住人達は値踏みするようにちらちらと盗み見ていた。
 胡乱な視線に、蛮は面白くもなさそうに鼻を鳴らす。
「ったく、相っ変わらずここにゃあ人の懐を窺(うかが)ってる奴しかいねぇな」
「そういう場所だからねー、仕方ないよ」
 ははと眉尻を下げ、銀次も辺りを見回す。
「でも良かったねぇ蛮ちゃん! 今の俺達、あんまりお金持ってないから財布盗られてもそんなに痛くな、んぁ!?」
「恥ずかしいことをデケー声で言ってんじゃねぇ! このボケ!」
「んあー!? ごめん! ごめんってば蛮ちゃんー!!」
 いい音をさせての後頭部への一発のあと、両側から蟀(こめ)谷(かみ)を圧迫する痛みに悲鳴を上げる。
 バタバタと小動物じみて暴れる銀次と、相手をする蛮のあまりの緊張感のなさに、笑師は呆れ顔で肩を竦めた。
「そないいらん心配せんでも、あんさんら相手にケンカ売るような度胸のある奴がここいらにおるかいな。もっとドーンと構えとったらええのに」
 威圧感も実力もある割に可愛げのあるやり取りを繰り返す二人を流し見、こっそりと目元を和らげる。本来ならばもっと焦って然るべき状況であるにもかかわらず、この空気の中だと全ていいようになると思えるのが不思議だった。
 そこに、先行して聞き込みに行っていた亜紋が戻ってくる。
「たっだいまー! 奴(やっこ)さん、ホントに隠す気はないみたいだねー。悠々と歩いて帰るどころか、ここいらで買い物までして行ったってさ。しかも安い肉」
「この辺りで!?」
「狂気の沙汰だな」
 思いもかけない情報に、思わず銀次の声がひっくり返る。
 常人どころか無限城の住人であっても、否、だからこそこの辺りの得体の知れないものを買い求めることなどほとんどない。その理由としては、薬程度なら少々非合法なものが多いだけで使いようはあるものの、特に食品は何が原料に使われているのかまったく予測も出来ないからだった。
 ことこの辺りでさえも安い肉ともなれば、最悪の場合地底エリアのソドムナードから得ている可能性が高い。
 それを食べるかどうかはともかく、購入するという行為自体、蛮が言うように狂気の沙汰に感じられた。
 目的は未だはっきりとしないが、ただそれだけで相手の不気味さが際立つ。
「せやけど、写真がある言うても店の奴もよぉ顔覚えとったな。いくら特徴的な顔でも、角度が違ったら全然違う顔に見えることかてあるやろに」
「ん? あぁ、それはほら。違う角度の写真をゲットしてきてくれた人がいるからさー」
 ひらひらと手を翻し、亜紋は気楽に笑い飛ばす。その言葉通りもう一方の手には複数枚の紙が握られ、覗き見える限り、すべて別の角度を選んでプリントアウトされたものに見えた。
 それを受け、銀次がにこにこと蛮を覗き込む。
「マクベスのところを出てから、もらった写真だけじゃ役に立たないとか言って戻っていったときは何かと思ったけどねー。蛮ちゃん、こういうのもちゃんと考えてたんだ」
「ったりめーだろ。警察の聞き込み調査の成功率とか知ってるか? ほとんどハズレだ。あんな証明写真みてーなのじゃ、人の頭にゃ残るもんじゃねーンだよ。要は、どんだけ記憶と一致するかってコトだ」
 少々自慢げに喉を反る蛮に、金茶の瞳はただただ賞賛の意味で輝きを増す。しかし足取りがはっきりと掴めるからこそ、得体の知れない傷の男の存在に銀次は眉間を寄せた。
「でもここまであからさまに足跡を残されてるとかえって不気味だね。これじゃ追いかけてるんじゃなくて、誘導されてるみたいだ」
「実際その通りなんだろうからな。ま、狙いは俺達じゃなくて」
「当然、ワイでっしゃろなー」
 呆気なく結論付け、笑師は頭の後ろで腕を組む。
「しっかし人の持ちモン盗んでまで追っかけて来て欲しいやなんて、相手もいじらしいことしますなー! いやー、モテる男はホンマ辛い! ストーカーやなんて照れますわー」
 茶化し、芝居がかって頬に手を当てる。身を捩って乙女を演じてみせた笑師に、蛮と銀次は他人の振りで目を逸らした。
しかしただ一人、亜紋だけは他人の振りどころかその即興コントに乗り、一緒になって小芝居を始めた。
「キィッ、俺というものがありながら! 笑やんの浮気者!!」
「堪忍や亜紋やん……すべては魅力的すぎるワイが悪いねん……!」
 どこから出したのかハンカチを噛みしめて目薬の涙を流しつつ悔しがってみせる亜紋に対し、笑師もまたどこから出したのか、軍帽のようなものを深く被って彼方へ視線を投げてみせる。
 まるで大正時代に設定された愛憎劇ででもあるかのようなその小芝居に、蛮がげんなりとした様子で肩を落とした。
「だからそーゆーのは鬱陶しいから余所でやれっつってんだろ」
 心底興味がないと言わんばかりのその語調に、からからと笑いが返る。二人のボケに一人がツッコむ配役もなかなか面白いと銀次が提案すれば、蛮から物言わぬ拳骨が降り注いだ。
 そうこうする内に、五叉路に差し掛かる。
 如何わしい場所と言っても、マクベスの言っていたようにやはり住人は多い。特にそのほとんどが商店の構えを取っていることから、多少の差異はあれど、城下町住人の間で品物のやり取りは活発だった。
 ゆえに、五叉路ともなればそれなりの人の壁が出来上がる。
「おー、狭い道なのに結構人が集まってるもんだね……。どっちに行ったかな」
 並んでいる商品は健全とは言えないまでも活気のある人ごみに、銀次は額に手を当てて向こう側を見遣る。しかしそれでも見通せない局地的な人壁に、蛮は短く息を吐いた。
「仕方ねぇな、全員で動くと時間食うだけだ。いったん別行動で聞き込むか」
「ま、あんだけ派手に誘導してくれてるしねー。すぐ見つかるっしょ」
「ほな十五分後にまたここで」
 その言葉を合図に、全員が別々の道へと進む。ざわめく人ごみは既に仲間を見つけることが出来ないほど厚く蠢(うごめ)き、その波を抜けるまでは危うく前後不覚に陥りそうなほどだった。
 押し出される形で波を抜け、笑師は思わず安堵の息を吐く。
「はーっ、ホンマここだけえっらい集まっとんなぁ……。銀次はん、行き先間違ってないやろな」
 背後を見返り、もはや方向音痴として知れ渡っている銀次を思う。
ともすれば事前に割り当てた道とは別の場所に進んでいるのではないかと懸念を抱きながらも、そこはあの過保護な相棒に任せるべきかと考えを改めた。
 再び、閑散とした雰囲気の城下町を歩く。
「しっかし、ホンマ大騒動になってもうたなー。まさか犯人が無限城の外の奴やとは思わへんかった……。中ならまだしも、外の人間に恨み買うような覚えはないんやけどなー?」
 体ごと首を傾ぎ、物思いに呻きながら歩を進める。
 そこに、突然小振りの石が投げつけられた。
「ったぁ! 誰や!」
 側頭部に直撃した軽度の痛みに吠えると、そこではマクベスの部屋で見たばかりの男が無表情のままで手を振っていた。
 見せびらかすように、その手には鞭が握られている。
「― っ! ちょ、待てやコラァ!!」
 咄嗟に踏み出された足の動きを見るや否や、男は背を向けて走り出す。それを条件反射的に全力で追い駆けながら、笑師は僅かに失笑した。
「他の奴らは邪魔やから置いて来いってか……! 上等やないか……!!」
 走る男を追いながら、恐らくは未だ手がかりを探し続けているであろう三人へなにも告げずに行く不誠実さに胸が痛む。
 しかしこれを逃しては二度と舞踏鞭が戻らないかもしれないという強迫観念に突き動かされ、笑師は無限城を後にした。
 ほどなく。
 約束の十五分が経過し、蛮、銀次、亜紋の三人は既に集合場所に取り決めていた五叉路近辺に戻っていた。
 あまりの人ごみに方向感覚を失い、一度は蛮と同じ道での聞き込みを行っていた銀次も今は本来の分担部分の調査を終え、大人しく人気のない壁際に身を寄せている。しかし時間と場所を指定した笑師が未だ戻らないことに、不安を隠せずそわそわと身じろぎを繰り返していた。
「ねぇ蛮ちゃん、笑師、どうしたんだろ。いくらなんでも遅すぎないかな」
「心配すんな。田舎モンが探しに行ってんだから、どう転んでても大丈夫だ」
「……え?」
 意味深長な言葉に、大きな目が瞬く。ただその真意を問い返す前に、息せき切った様子の亜紋が戻ってきた。
「二人とも……!!」
 群れる人ごみを無理矢理押しのけて通ってきたのか、短距離だというのに随分と息が荒い。
 その尋常ならざる雰囲気に、銀次は思わず身を乗り出した。
「笑師、いた!?」
「いない! それどころか、誰かを追い駆けて走ってったのを見たって奴がいてさ……! 写真見せたら、笑師が追ってたのはこの男だって……!」
 無論のこと、写真というのはマクベスから渡された聞き込み用の画像だった。
「じゃあ、一人で取り返しに行ったってこと!? 蛮ちゃん!」
「慌てんなよ銀次。このくらいは想定済みだ」
 悲壮感漂う表情を見せる銀次に、蛮はゆったりとした動作で頭を撫でる。あくまでも余裕を崩さないその姿に、銀次と亜紋は思わず顔を見合わせた。
「えっと……どういうこと?」
 素直に問う言葉に、蛮は壁から自分へ伝い移ろうとしていた虫を追い払いながら口を開く。
「相手にとっちゃ、俺達はただのお邪魔虫だろうからな。ドリフ野郎の鞭を盗んだ時点であいつが目的ってことは分かってんだ。俺らが離れるのを見計らって、誘い出すくらいのことはやるだろーぜ」
「じゃあ、あの男は笑師をおびき寄せるためにここで待ってたって言うのか? それはいくらなんでも都合が良すぎるだろ」
「分かってねぇなぁ田舎モン。あっちはテメーらが乳繰り合った後を狙って鞭を盗んでくような奴だぜ? 相当下調べをしたはずだ。普段の行動や交友関係、そいつらの能力まで含めてな。でなきゃ、わざわざサル回しのいない時、しかもドリフ野郎の発想だけじゃ絶対に辿り着かなさそうなカメラに宣戦布告していくかよ」
 歯に衣着せぬ物言いではあるものの、的を射た解説を紡いでいく蛮の言葉に亜紋が言葉をなくす。よくよく考えれば確かにその通りとしか思えない言葉の羅列に、やがて感心したように何度も首肯を繰り返した。
 その中で、銀次はやはり悩ましげに眉尻を垂れる。
「じゃあ、俺達は打つ手なしってこと?」
 悲しげな声に、蛮の目が僅かに見開く。しかし刹那と置かず楽しげに細まった目は、金糸をぐしゃりと撫でて喉を揺らした。
「バぁカ、想定内っつったろ。俺様がそうそう後手に回ってたまるかよ。一旦ヒッキーんトコに戻るぞ」
「へ?」
 疑問符に目を瞬かせた銀次は、ややあって一つの可能性に辿り着く。
「え、あ、あぁ!? もしかして蛮ちゃん、さっきマクベスのところに戻った時に!」
「あったりー。パソコン小僧のことだしな。先に言っときゃ、普段動かしてない城下町のカメラくらいは使えるだろうと思ってよ」
 得意げに先行する蛮に、二人も追随する。
「抜け目ないねぇ」
「あのな。こういう時は頭の回転が早いっつって褒め称えるンだよ。行くぞ」
 揶揄とも取れる亜紋の言葉に、些か機嫌を損ねた様子で蛮の唇が尖る。しかしその足は迷うことなく無限城へと進んでいた。
 去っていく三つの影に、城下町は密やかに視線を注いで見送る。
得体の知れない場所の住人とは言えど平凡に生きていくだけの力すら持たない者にとっては、彼らこそが正体の知れない化け物に他ならなかった。