円環因果の残滓

   序

 それはなんとものんびりとした日常風景だった。
 芳しいコーヒーの薫りが喫茶店内を満たし、この場所は外の喧騒から隔絶された安全な場所なのだと思わせてくれる。実際それは気心の知れた安心感の賜物でもあったのだろうが、常連の者にとって、それは間違いなくかけがえのない空間だった。
その中で、鼻腔を掠める煙草の香りは僅かに喉の奥へと乾いた違和感を届け、ほんの少し咳き込ませる。
しかしそれさえも普段通り。むしろ好ましいものとして楽しむように、短い金の髪はふわふわと左右に揺れていた。
 ただ楽しげと見えるのは、髪に焦点を合わせた場合のみ。
 実際は非常に退屈そうに頬杖をつき、コーヒーカップに添えられていたスプーンを行儀悪く口に咥えての動きだった。
 どこか思い悩むような目は体を揺らしながらも中空を眺め、尖った唇の上から静かな溜め息を漏らす。
 無論、視点が定まっていないのは銀次一人の話ではなかった。
 咥えているものがスプーンか煙草かの違い、そして体の揺れの有無という差異はあれども、全く同じポーズで蛮も中空を眺めて退屈そうに溜め息を吐き出す。
「来ねぇなー……」
「来ないねぇ……」
 主語すら使わず、ただそれだけを呟いて肩を落とす。そしてそれを聞いていた店のマスターも、訳知り顔で苦笑に頬を引き攣らせていた。
 ホンキートンク店内。
 いっそ故障したのではと思いたくなるほど一切の気配を断ち続けている携帯電話をちらりと流し見、奪還屋二人は再度気落ちした息を吐き出した。
「そろそろ手持ちの金が半分を切るってーのに、仕事の一つも持ってくることが出来ねーのかよこの携帯は」
「無茶言っちゃだめだよ蛮ちゃん、ビラに興味を持ってくれた人がいなきゃコイツの出番はほとんどないんだし。……でも困ったねー。ホントにそろそろ仕事を入れなきゃ、またツケが溜まっちゃうよ」
 不貞腐れた表情で携帯を小突く蛮を窘(たしな)めながらも、銀次も眉尻を下げて呟く。マスターに悪いと呟きながらも口に運んでいるコーヒーは、既にツケでの支払いを申し出ているものだった。
 矛盾の生じている言動にもはや突っ込むことはせず、波児は深く息を吐く。
「俺の懐と胃の健康のためにも、とっとと仕事を入れてくれ。その内お前らに食い潰されるかもと気が気じゃないっての」
「ですねー。私達も、お給料をもらうのがちょっと申し訳ないときありますもん」
「先輩の言うとおりですよ! 特に蛮さん、お店の備品壊すのとかもやめてくださいねっ!」
 波児だけでなく夏実とレナからも切実さを匂わせる苦言を浴びせかけられ、二人は耳の痛む思いで目を逸らす。別に好き好んでツケを増やしているわけではないのだと言い訳を呟いたところで、そんなことは三人も心得ているために効果はない。
 そもそもそう言われたところで携帯が仕事の依頼を告げて鳴ってくれるわけでもなく、本来のんびりとしていたはずの店内の空気は少々居心地の悪いものへと変貌しつつあった。
 そこにドアベルを鳴らして、ひょっこりと軽薄そうな人影が新たに顔を覗かせる。
「どうもー。お邪魔しまーっす」
 へらへらと締まりない表情を見せて入店した明るい髪色は、その背中に黒髪のポニーテールを背負っていた。
「亜紋、それに笑師も! え、あれ? 亜紋って無限城を出られたの!?」
「それよりそのグッタリしたドリフ野郎はなんなんだ。死にかけの奴が来たりしたら、ただでさえ客の少ねー陰気な店がもっと辛気臭くなンだろーが」
「誰の店が陰気だ、オイ!」
 珍しい来客の登場にはしゃいだ声を上げた銀次に続いての失礼な発言に、波児が思わず声を荒げる。しかしそんなものに蛮が動じるわけもなく、素知らぬ顔で頬杖をついた。
 そして指摘を受けた亜紋も、蛮の発言を気に留めることなくボックス席へと笑師を降ろす。
「俺もまさか出られるとは思ってなかったんだけどさー、ご覧の通り、消えることなく外に出られたよ。マクベス曰く、無限城のアーカイバにバグが生じたままなんだろうって」
「バグ?」
 本来はあまり好ましいとは言えないはずの意味を持つ単語に、銀次が首を傾ぐ。
 その疑問符に、亜紋はやはり飄々(ひょうひょう)とした様子で頷いた。
「そうそう。ほら、前に無限城で鬼ごっこしたじゃん。あの時、バーチャルと邪眼の狭間で俺を再生したろ? で、悪鬼の戦い(オーガバトル)のときに予想外的に俺復活。どうもあの辺りから、アーカイバ……ってかセカイって言ったほうが正しいかな。このセカイを作ってる何かが、俺の存在を【邪眼の効力を超えて、且つバーチャルを用いず反魂された生命】として認識しちゃってるみたいなんだよねー」
 さらさらと紡がれる言葉に、初めは理解して聞き入っていたはずの銀次の顔が次第にきょとんとしたものへと変化していく。やがてそれがはっきりとタレて理解不能を告げるものへと変わると、呆れた様子で蛮が助け舟を出した。
「ようするに、セカイの勘違いでテメーが生きてるってことだろ」
「ん、そゆこと」
「だってよ、銀次」
 あっさりとした肯定を得て、未だ混乱に頭を悩ませている銀次の頭を軽く小突く。すると簡潔な結論に苦悩が消え去ったのか、タレ銀次は明るい表情で扇子を振り上げた。
「そっか、セカイの勘違いなんですね! なんかドジな話だけど、亜紋がちゃんと生きてるならそれのほうがいいねー」
 花をまき散らす勢いで扇子を振る銀次の姿に、こっそりと蛮は額を抱える。
「原因はどう考えてもお前だろうが……」
 ぼそりと呟かれた言葉に銀次は気付かず、ただ波児だけが同情めいてその肩を叩く。このセカイを望んだ自覚がどこか希薄な神の子には、恐らく何を言ったところで事の重大性は通じないのだろうと想像がついていた。
 ツッコミたい全ての言葉を飲み込み、蛮はちらりとボックス席へ視線を移す。
 そこには未だぐったりと倒れこんでいる笑師が取り残されていた。
「……で、そのドリフ野郎はどうした。本題はそっちだろうが」
 言葉に、亜紋と銀次も改めてボックス席を見返る。来訪の理由を促す蛮の言葉に亜紋が答えようと唇を開いたところで、今まで微動だにしていなかった笑師がむくりと起き上がった。
「銀次はん……美堂はん……」
 呻くように名前だけ呼び、またばたりと倒れ込む。その尋常ではない様子に異様なものを感じたのか、銀次が慌てて立ち上がった。
「え、ちょっとホントにどうしたの!?」
「まさかあのオンボロ劇場に客が入らなさすぎて、餓死しそうってンじゃねぇだろうな」
 オロオロと動揺を見せる銀次の後ろで、蛮までもが僅かに関心を見せる。しかしそれをヘラヘラとした笑顔で否定し、亜紋は掌を翻した。
「あー、そういうんじゃナイナイ。お客はそれなりに入ってくれてるからね、食事は不自由してないよ」
「じゃあ売れっ子なんだ! すごいねー」
「ハッ、あそこじゃ他に娯楽がないだけだろ。……でも餓えてねーって割には随分と衰弱してんじゃねぇか」
 銀次の大げさな賛美を一蹴し、ボックス席に伏したままどうやらグスグスと涙しているらしい笑師を冷や汗交じりに眺める。そのなんとも言えない視線の意味を察したのか、やがて亜紋が苦笑に顔を歪めた。
「実はその件で二人に依頼を持ってきたんだ。マスター、俺達にもコーヒーもらえる? 特に笑やんには優しい味のやつを出してやってよ」
 どこか言い辛い雰囲気を醸し出す亜紋の口調に違和感を覚えつつ、もはや依頼受注用と化しつつあるボックス席へと足を向ける。
 得体の知れないものを感じさせる導入に、蛮と銀次は不安を隠せず、見合わせた顔を引き攣らせた。


  ■  □  ■


 交渉の卓について数分後。
「舞踏鞭を奪われたぁあ!?」
 店内に響き渡ったのは、驚きのあまり立ち上がった奪還屋二人の大声だった。
「なんで!? どーして!? 笑師、いつも肌身離さず持ってるじゃん!!」
「……俺様とは比べるべくもねぇが、世間で考えりゃあそれなりに強いはずのテメーが易々とそんなもんを奪われるとはな……。相手はなかなかの手練(てだ)れってことか」
「あんさんのそういう異常に自信満々なトコ、ホンマ潔いくらい腹立つわー……」
 慌てふためく銀次とは対象的に、真顔で言ってのけられた蛮の言葉に笑師の蟀谷(こめかみ)に青筋が浮かぶ。しかしその怒りも長く続くことはなく、やがて膨らみかけた風船が萎むように肩を落とした。
「いやまぁ、怒ったところでしゃあないねん。自分がアホやったんやさかい……」
 よほどのことがない限り常に明るく振る舞っている笑師がしょげ返っている姿に、銀次は不安げに身を乗り出して顔を覗き込む。
「なにがあったの笑師。亜紋は依頼って言ったし、俺達に助けて欲しくてここに来たんだよね?」
 気遣う声色はあくまでも柔らかで、遠慮や警戒を丸ごと取り去っていく。さすがは過去に無限城のロウアータウンを纏めていた元リーダーとでも言うべきか、カリスマ性を感じさせるその話し方に笑師は俯いていた顔を上げた。
「銀次はん……。……いや、アカン。すんまへん銀次はん。ワイからはとてもやないけど言われへん……」
「笑師……?」
「いくらなんでもこんな話、情けなさすぎるわ……」
 思いつめた表情で唇を噛み、再び面を伏せた笑師に疑念は募っていく。銀次は気がかりそうに眉根を寄せ、蛮は雲行きを探りながら鋭い眼光で流し見ていた。
 遠回しになればなるほど困惑の色を濃くしていく二人を見兼ねたのか、やがて亜紋が笑師の肩を叩く。
「いいよ笑やん、俺が言う。今回の件、俺が原因みたいなモンだしね」
 安心させるように二度叩いたあと、すくと背筋を伸ばす。その姿にどうやらようやくはっきりとした説明が聞けるらしいと踏み、蛮も正面へ向き直った。
 亜紋が原因という一言に、脳裏をよぎる一つの可能性を口に出す。
「テメーがこの件の元凶ってことは、また鬼里人関係ってことか?」
 言葉に、亜紋ではなく銀次が弾かれたように蛮を見る。
「え!? でも兜が消えてから、魔里人と鬼里人は和解したんじゃ……!」
「いくら原因が消えたって言っても、長年の遺恨はそう簡単に消えるもんじゃねぇだろ。特にあそこにいなかった奴らの中には、突然の和解が気にくわねぇ奴だっているだろうぜ。違うか?」
 挑発にも似た笑みを浮かべる蛮の一言に、亜紋はただ困ったような表情を浮かべる。
 返答に悩む様子で数回頬を掻くと、呻き声にも似た声を漏らして小首を傾いだ。
「いやー、そこまで大事(おおごと)じゃないんだって。なんかそこまで深読みされると、どんどん言い辛くなるじゃん。……実はさぁ」
 言い淀み、一度コーヒーを口に含む。その後、今度はいっそ開き直った表情で晴れやかに笑うと、亜紋は茶目っ気を含んで舌を出した。
「ハッスルしすぎて、笑やんを失神させちゃったんだよなー」
 朗らかな声音に、店内に一瞬の沈黙が落ちる。誰もが言葉の意味を理解できずに目を点にする中、しばらくして奪還屋の二人が同じ言葉を重ねた。
「…………は?」
 明らかに困惑しきった声。それを受け、亜紋はさらに続ける。
「だからぁ、俺がヤりす」
「夏実ちゃんレナちゃん、冷蔵庫の牛乳とアイスとソーダと食パンとバターが切れてるから買い出しに行って来てくれるかなー!!」
 最後まで言わせることなく、波児が怒涛の勢いで夏実とレナを店外に追いやる。二人を出してから財布と買い物袋を押し付けるという方法で素早く退避を完了させたその速さに、ボックス席の四人は疾風の王の片鱗を見つけて思わず拍手を送っていた。
 そんな賛辞を誇ることなく、波児は疲れ切った表情でカウンターに上半身を預ける。
「あのねお前らね、ここで仕事の話をするのは吝(やぶさ)かじゃないんだけどさ。うちにゃ純粋な女の子が二人もいるんだから、もうちょっと話題を選んでくれよ……。特にレナちゃんの前では二重の意味で気を付けてやって欲しいんだけど」
「俺らだって今のは不意打ちだったってーの」
 唇を尖らせて文句を言う波児に、蛮も同じく文句で返す。しかし不適切な発言をした当人は深い反省をした様子もなく机の下に身を隠すばかりで、大慌てした直後の店内が鎮まるのを待つ構えのようだった。
どちらにしろ一番被害を受けそうな二人が退店した今となっては、これ以上この話を広げても仕方がない。
 それを理屈ではなく本能で察しているのか、銀次は仄かに赤らんだ頬を隠しもせずに愛想笑いに眉尻を下げた。
「えーっと……まぁほら、細かいことはいいや。つまりその、笑師が気が付いた時には鞭がなくなってたんだね?」
「驚くほどくだらねー理由だな」
 しどろもどろの発言を受けてバッサリと切り捨てた蛮に、今まで黙り込んでいた笑師がたまらず頭を抱えた。
「っあー! やっぱりや、やっぱり呆れられたぁー! ご先祖さんに顔向け出来ん、死ぬしかない! けど死んだらご先祖さんと顔合わすことになる! もう嫌や! どないせぇっちゅーねーんっ!!」
「ちょっ、落ち着いて笑やん!」
 立ち上がって叫んだかと思えばすぐさま蹲(うずくま)って顔を覆った笑師を慌てて抱え込み、亜紋はパニック状態の頭を静かに撫でる。
「笑やんがご先祖に謝らなくってもいいんだよ、今回は全面的に俺が悪いんだ。ごめんな」
 括られたポニーテールをサラサラと撫で、慰めながらもどこか感触を楽しむように頬を寄せる。
 柔らかな表情で笑師の頭を抱く姿に、蛮はことさら面白くない様子で吐き捨てた。
「そーゆーのは余所でやれ、余所でっ! つーか、せめて犯人の目星くらいはつけてんだろうな。ンなくだらねー理由で調査からやれなんて言ったら、否応なく断るぞ」
「あとは場所だね。どこで奪られたのか分かってるなら、ちょっとは探しやすいんだけど」
 取り付く島もない蛮の言い草をフォローしつつ、銀次も情報を聞き出そうと口を挟む。もちろん依頼者としてその程度の情報提供は当然の義務と心得た様子で、亜紋は笑師の頭から手を放して向き直った。
「場所は俺達のホーム、お笑い∞シアターだよ」
「っ、てめぇら……!」
 こともなげに言葉に出された場所に、蛮の視線が緊張した様相で尖る。
「公開プレイショーとか……いくらなんでもレベル高すぎんだろ……!」
「えぇえええ、そんなことしてるの!?」
「してるかぁーい!!」
 ごくりと唾液を飲み込んだ蛮の言葉を真に受けた銀次を、思わず笑師が裏手ツッコミで弾き飛ばす。
「楽屋や、楽屋! 誰が神聖な舞台でそんなことすんねん!!」
「ハハハッ、俺も露出の趣味はないなぁー」
「どっちにしろどうなんだそりゃ」
 必死の反論も笑い飛ばした亜紋の言葉も功を成さず、蛮の一言が笑師の胸を抉る。
 あまりにもはっきりと罪悪感を射抜く語群に、サングラスの下から滝のような涙を流し、笑師は机に片頬をつけたまま波児に弱々しく手を挙げた。
「マスター……楽になれる毒(スパイス)入りのコーヒーくれや……」
「んー、そんな危なっかしいモンは淹れられんけど、上手いの奢ってやるから元気出せよー」
 あまりに痛々しいその姿に、波児は同情の表情しか浮かべられない。自業自得とも言えるが、半分苛められているようにも見える様子にその筋張った手は秘蔵のコーヒー豆を取っていた。
 そんなことは露知らず、改めて銀次は頭を捻る。
「でもあの劇場って、二人の家みたいなもんでしょ? いくら気を失ってたって言っても、笑師なら誰か怪しい奴が入ってきたらすぐに目が覚めそうなもんなのに」
「だな。第一ドリフ野郎が気絶してたとしても、テメーは通常営業だったんだろうが」
 唯一納得のいかない点を挙げて疑問符をぶつける二人に、亜紋はまたしても曖昧な表情で頭を掻く。今更これ以上隠したい恥ずかしいこともないだろうと嘲笑が漏れると、細い目はさらに細まり、それもそうかと溜め息を吐いた。
「うん、俺がその場で笑師を看ていれば良かったんだろうけどね。源じいさんに薬をもらいに行っていたんでさ。居合わせなかったんだ」
 ここにきて少し照れ臭そうな顔を見せた亜紋に、蛮はことさら呆れ果てた様子で大息を吐く。しかしそれに気付かぬまま、銀次はきょとんとした表情で首を傾いだ。
「薬? 亜紋、どっか怪我でもして……っんあ!?」
 頭上からの一撃で首が沈むほどの衝撃を受け、銀次は机に叩きつけられたままビチビチと跳ねる。それを力尽くで押さえつけ、蛮は些(いささ)か申し訳なさそうに亜紋へ目線を向けた。
「悪ぃな。こいつマジでボケるからよ……」
「いやぁー、初々しくっていいねぇー」
「むしろ今はその初々しい素ボケに癒されます……」
 ほろりと涙した笑師の言葉に憐れみさえ感じながら、蛮は一度咳払って銀次を開放する。頭蓋骨を圧迫されていた痛みに未だ頭を押さえる相棒を無視した状態で、武骨な指はサングラスを押し上げた。
「まぁ、ンなこたぁどうでもいいや。で、犯人の目星は」
「それに関しては一応だけ。マクベスに頼んで無限城内部のカメラデータを見せてもらったんだけど」
 一度言葉を区切り、亜紋は悩ましげに眉間を寄せる。
「ンだよ。今更もったいぶってんじゃねぇぞ」
「いや、それがさぁ」
「ネズミが犯人……らしいねん」
 亜紋の言葉を引き継ぎ、笑師が神妙な口調で結論を伝える。しかしその単語に怪訝そうに片眉を上げ、蛮は片肘をついた。
「なんでネズミなんぞがテメーの鞭を欲しがるんだよ。サル回しと喧嘩でもしたかぁ?」
「するかいな! せやけど、誰かの仕業なんは間違いない」
「っていうかネズミが犯人って分かってるなら、それこそ士度に聞いたら早いんじゃないの?」
 士度の能力を知っている仲間であれば誰もが考えるだろう正論に、笑師と亜紋もまるで他人事のように数度頷く。だよねと肯定しながらも実行に移した様子のないその反応に、蛮と銀次は横目で視線を見合わせた。
「……聞いてないの?」
 改めて問えば、笑師が残念そうに首を振る。
「それがタイミング悪ぅてなぁ。士度くん、マドカはんの海外公演でボディーガードするんや言うてついてってもうて。今は日本におらへんのや」
「あぁ、そういやヘヴンがそんなこと言ってたな。あのサル回し、検疫で引っ掛かって帰ってくるんじゃねぇのか。ありゃ半分野生動物だぞ」
「蛮ちゃん、それはさすがに言い過ぎ」
 相変わらずの毒舌を窘める銀次に対し、同じ四木族の仲間であるはずの亜紋はケラケラと笑い飛ばして憚(はばか)らない。それをどこか面白くなさそうに見遣り、蛮は睨みつけて言い放った。
「笑ってるが、テメェだって魔里人だろうが田舎モン。それともテメーにゃ荷が勝つってのか」
「うん? あぁ、俺がネズミの話を聞けばいいだろってこと? 駄目ダメ。ネズミって警戒心が強い奴らでさ、よっぽど付き合いが長くならないと話なんて出来ないんだよねー」
 ひらひらと掌を翻しながらの言葉を蛮はやはり面白くなさそうに聞き流し、また、銀次は興味深そうに聞き入る。そんな相棒の反応すら蛮にとっては不愉快の種らしく、不貞腐れたようにも見える仕草で一度大きく息を吐いた。
「まぁとにかく、きな臭い話にゃ違いなさそうだ。おいドリフ」
「あ!?」
 大上段から呼びつける態度に、些か気分を害した様子で笑師も蛮を見返る。しかしそんなことは気にも留めず、長い指が真っ直ぐに笑師を指す。
「あの鞭、テメーの何に代えられる」
 不躾な物言いに、しばらく会話が消える。微かに張った緊張の糸に、銀次、そして亜紋も口を閉じた。
 コーヒーを抽出するサイフォンの音だけがやけに響く店内。こぽこぽと沸騰しながら芳しい香りを漂わせるその中で、意を決した様子の唇が開いた。
「……なんにも」
 絞り出した言葉を切り、笑師は半ば睨みつけるように蛮を見る。
「あれは楼蘭一族の歴史を二千五百年に渡って見守ってきた一族の誇り、そして宝や。ワイのちっぽけな持ちモン如きで代用できるような安い代物やない」
「言ったな。なら奪還料、テメェの有り金全部巻き上げられても文句はねぇな?」
「ちょっと、蛮ちゃん!」
 あまりの暴論に慌てて銀次が口を出そうとするも、それを笑師が手で制す。
「ええのや銀次はん。舞踏鞭が戻ってくるんやったら、惜しぃものなんぞなンもない!」
「おっし、交渉成立だ」
 拳を平手に打ちつけ、満足げな笑みを湛えて立ち上がる。
「行くぞ銀次」
「へ? どこに?」
 煙草を咥えてから軽く背中を叩き、銀次にも起立を促す。ただその意図を掴みきれず目を白黒とさせた姿を振り返って、蛮はにんまりと瞳を歪めた。
「ヒッキーんトコに決まってンだろ。情報はちゃんとこの目で確かめねーと、真相なんていつまで経っても分かんねぇよ。グズグズすんなら置いてくぞ」
「っ、うん!」
 久し振りの収入の予感に気分を良くしたのか、指にかけたスバルの鍵を回転させている背中を慌てて追いかける。そんな銀次に亜紋と笑師も続き、大の男が四人も乗り込んだスバルは未だかつてなく窮屈そうな状態で無限城へと走り出した。