――― 炉心融解





 つい数日前に立春も過ぎたというのに、一向に冬の気配の去らない冷めた風が僅かに開けた木戸の隙間から吹き込んでくる。その冷たさについと視線を廻らせ、眠る同室者が凍えていないか確認すると、金吾は微かに覗き見えるその寝顔に愛しげな笑みを漏らして再び木戸の隙間から空を仰いだ。
 心臓を抉られるような悪夢に飛び起きてから、既に半刻は経とうとしていた。
 月もなく、まして部屋に常備してある行灯すらその中の油を切らせた状態では明かりはもとより正確な時刻など求めようもない。けれど強く輝く星々の僅かな位置のずれからおおよその時刻を割り出し、暗く澄んだ丑の刻に息を白く濁らせた。
 悪夢と言っていいものか、それとも予見と言っていいものか迷う夢の内容に思考を廻らせると、ようやく治まっていた胸の痛みがまた心の臓に悲鳴を上げさせる。臓器を抉られるような痛み。それを押さえ込むように胸元を掴むと、苦しげな呼吸と共に冷や汗の滲んだ眉間を寄せて唇を噛み締めた。
 喜三太の元に文が届いたのが、丁度昼休みのことだった。
 いつものように加藤村からの馬借が文を運んできた時点では誰の心中も穏やかに、むしろまたあの伊賀甲賀嫌いの老婆の来襲かと茶化し言葉も飛び交っていたが、文を開き一目その文面に視線を走らせた喜三太の表情が凍りついた事から、歯車がずれたようにぎこちない時間が始まった。
 やっぱり卒業した後はさよならだってと震えた声で笑って見せた喜三太の表情に、金吾は世界が崩れ落ちる錯覚を見た。
「……さっきの夢が、全部ただの夢なら。全部が全部、いつまでも実現しない想像の中だけの出来事なら良かったのに」
 搾り出すように呟き木戸を閉め、眠る喜三太の枕元へと音を立てないように膝で進み寄る。穏やかに眠る表情にかかる前髪をそろりと指で払い除け、柔らかな頬を手の甲で撫でた。
 擦り寄るように自分のほうへと寝返りを打った喜三太に愛しさばかりが募り、表情が歪む。
 夢の中、夕刻の山道。追い縋ることも出来ないまま見る間に離れて行く愛しい背中に伸ばした掌を見つめる、抱き締めてやりたくなるような泣き出す直前の視線を思い出し、金吾はまた唇を噛んだ。
 風魔の里を継げと幼い頃から何度も迫っていたあの老婆の言葉を、いつの間にか口癖、もしくは老人独特の戯言と捉えていたは組の面々に、文という形あるものとして突きつけられた風魔全体からの帰還命令。それは喜三太以外の全員に浅からぬ衝撃を与え、それと同時にその言葉の持つ重みと、恐らくは逃避を許さぬ鎖を想像させた。
 同級で、卒業後それと同等の重さを背負うのは団蔵と虎若の二人。けれどこの二人に関しては別の道も用意された上でこの六年を過ごし、そして着実にその覚悟を養ってきた。しかしそれに対して喜三太は、今まで老婆一人が口煩く迫っていただけで、その実感すら感じさせない状態での突然の書状。
 表情を見る限り、本人は誰にも気取られることなくそれとない覚悟をしていた様子だったが、それこそ唐突な展開に周囲こそ静かな混乱を起こしていた。
 最たる例が自分となっている不甲斐なさに、自嘲どころか項垂れることも出来ない。
「知ってて、黙ってたのか。僕らが冗談だとばかり思っていた風魔の後継者の話を、お前だけは現実なんだと知った上でいつもあんな風に笑って過ごしてたのか。リリーさんの話、僕らと一緒になって困ったような顔して笑いながら。たまには義務感で弱音を吐きたいことだってあったろうに。……離れるのが分かってたから、黙ってたのか。この六年、ずっと一緒にいた僕にさえ」
 僕のことを笑えないくらいよく泣くくせにと呟き、もう一度柔らかに髪を撫でる。信頼されていることくらいは実体験を伴って知っている。だからこの感傷は信頼されなかった後悔などというものではなく、六年もの間ずっとこの現実に気付くことの出来なかった自分の愚鈍さへの怒りと表現したほうが的を射ていた。
 学園にいる間は喜三太を切っ掛けに風魔と知り合い、また、共闘することも少なからずあった。その上顔見知りと言って差し支えのない人間も出来たが、卒業し、喜三太と場を同じくすることがなくなればその関係もほぼ意味を失くしてしまうことは想像に難くない。
 そもそも、一介の武士の息子でしかなかった自分が忍術学園に編入したこと自体が、類稀なる偶然の産物だったことは誰よりも自身が自覚している。
 けれどその全ての偶然に感謝して足りないほどに、喜三太の存在は大きさを増し、もはや不可欠としか言いようがないものになっていた。
 夢の内容が、幻のように目の前を繰り返し流れ去る。夕暮れ。山道。動けない自分。伸ばした手。遠ざかる背中。揺れる柔らかな髪。叫んだ声。振り返る顔。泣きそうな目。強がる時の笑顔。
 届かない絶望感。
「……卒業式が終わったら、行くのか。いつも休みのたびに二人で帰った相模へ、あの足柄山へ、今度は僕を残して一人で行くのか。……その時はきっと、挨拶もなしに」
 掌に爪を立て、血が滲むほど握り締める。未だ漆黒に閉ざされた部屋の中で吐露し続ける想いが、いっそ風魔の血筋という呪縛に取って代わり、新たな呪縛になればいいのにと戯れた思いが思考を過ぎた。
「喜三太が小さくなって、生きたまま琴爪の箱にでも収まるような姿にでもなれば、そのまま閉じ込めて攫えるのに。……なんて。…………暗闇の中で一人で起きてると、ろくなことを考えやしない」
 眠る喜三太の髪を一房すくい、柔らかく冷たいそれに接吻ける。寝息をたてる寝顔はあくまでも穏やかで、自分の手の温もりに擦り寄った姿のまま熟睡する姿に金吾の目元が僅かに緩んだ。
「もし喜三太が望んでくれるなら、あの人達が迎えに来る前に……攫っても、いい?」
 低く呟いた闇の中の言葉に、返事はない。それを当然のこととして受け止め自嘲気味に笑い、金吾は冷え切った体をゆっくりと布団の中へ押し込める。温もりを手放して久しい布団は柔らかくはあれども微塵も温かさはなく、素足を這わせれば逆に震えるような冷たさを返した。
 手を伸ばせばその先にあるのは愛刀。もしも先の言葉が現実のものに出来るのであれば、いつでもそれを腰に据えて出奔する覚悟を決め、金吾は喜三太へ顔を向けたまま、刀を抱いて浅い眠りについた。
 定時の起床鐘の音に目を覚ませば、そこから先はやはり変わり映えもない日常が幕を開ける。
 前日の出来事に未だ現実味を帯びた感情を持てず、かといってそれまでのようにあっけらかんと笑い飛ばすことも出来ないままに曖昧な思いを持て余し、どこかぎこちない視線を送る級友達に対して喜三太だけがまるで普段と変わらない様子でふわふわとした笑顔を振り撒く。授業中は相も変わらぬ漢字の弱さを発揮しおかしな誤字をして教科担当教諭の苦笑を買い、きちんと蓋をして持ち歩いていたはずのナメクジ壷は躓いた拍子に廊下にぶちまけ、よりによってい組の教室にまで被害を拡大させた。
 あまりにも普段と変わらない日常の姿に、午前中を以てして、対人関係におけるぎこちなさは見る間に融解する。
 前夜あれほどまでに悩み、思い詰め、本人に告げぬまでも仮定未来に覚悟を決めた金吾でさえも、普段と変わらぬ柔らかな笑顔に釣られるように表情を緩め、知らず知らずの間に日常へと心境を引き戻されていた。
 それを和やかな視線で見遣り、喜三太は一人ひそやかに胸を撫で下ろす。
「よかったねぇ、ナメさん達。せっかく卒業までまだ七日もあって楽しくいられるのに、みんなに変な気は遣わせたくないもんねぇ」
 壷を覗き込み独り言を呟く声に、返答はない。けれど狭く湿った壷の中で蠢く数多のナメクジが僅かに触角を動かしたのを見て取ると、喜三太は満足げに笑みを浮かべてゆっくりと蓋を閉じた。
 卒業式まで七日という押し迫った時期になっての帰還命令の意味は、充分な逃避準備をさせるつもりもない意思表示と、折に触れるたびに言い含められてきた風魔の跡継ぎとしての自覚を煽るもの。その二つの意味合いを正しく認識しながら、喜三太は書面を思い返し困ったように一人笑って見せる。
「……ちっちゃい頃からリリィ婆ちゃんにあれだけ言われて、しかも学年が上がるにつれて里の大人達からもあれだけ言い含められたんだから、……今更逃げる気も起きないってもんだよねぇ」
 悟られないように周囲の意識を誘導することは、幻術の修行も重ねた今なら気心の知れた相手であっても難しくはない。まして、低学年時代は忍びとしての自覚のなさゆえに敵に警戒心を抱かせることなく正面から根城に侵入することも出来た喜三太だけに、未だその一種の才能は消え失せてはいなかった。
 勿論この特性とも言えるべきものを維持し続けていられた理由は、天性の順忍気質の友人と同じ委員会に身を置くことの多かったことが大きいのだろうと視線を伏せる。
 周囲の思考を昨日の書面から逸らすことに尽力した結果、気がつけば、既に学園は朱色の光に染められていた。
 つい先程まで教室内に屯していたはずの級友達は最後の学園生活を少しでも長く後輩達と過ごそうと各自委員会へと出掛け、ナメクジの散歩を理由に今日の参加を見送った自分だけが教室内に居残っている状態。ぼんやりと眺めていた黒板に眩しい朱が差したことでふと我に返り、喜三太は頭を振ってゆっくりと立ち上がった。開いたままの障子窓から下を見下ろせば大声を上げながら鍛錬に励む会計委員会と体育委員会、それに生物委員会が視界に入り、薄く笑んで廊下へと出る。
 静まり返った場所は、普段の喧騒を知るだけにやけに寂しげで、そしていやに清浄に見えた。長屋へ向かう一歩ごとに廊下が僅かに沈む感覚、そして普段であればおよそ気付かないだろう軋みに耳を澄ませ、思わず忍び足で進みたくなる気持ちに楽しげに唇を歪める。
 長屋へ渡る渡り廊下。そこを抜け、一年時から変わらず使い続けている慣れ親しんだ部屋の木戸を音を立てて開けた。
 冬の間は嵌め込み式の障子が付いている窓枠が、換気のためか障子を外されその向こうの格子窓だけが晒される。そこへと注ぐ朱い陽の光が真っ直ぐに床板へと落ち、蔭り出した雲の影をも映して一枚の絵のように部屋の床を彩った。
「金吾かな。ナメさん達の湿気が籠らないように、委員会に行く前に窓を外してったんだね。さすが、六年間も同室になれば慣れたもんだなぁ」
 幸せそうに肩を揺らし、けれど疲れたように表情を曇らせ、短く息を吐く。格子窓の影の中に足を踏み入れその場に腰を下ろし、そこから見える夕日を眺めて、喜三太は目を細めた。
 夜明け前に見た夢の内容を思い起こさせるような朱い陽に、ずきりと胸の内が痛む。
「……昨日……ううん、今日かなぁ。今日見た夢、なんだったんだろうねぇ。こんな風に真赤な夕日の中で、君と僕が一緒に山道を歩いてて。いつもみたいに物凄く楽しかったのに、急に君が蹲って動けなくなってしまってさ。なのに、僕の足は全然止まれないんだ。金吾を置いて行きたくなんてないのに、止まれない。……でね、気付くんだよね。あぁ、僕は行かなきゃいけないんだなぁって。だから君のほうを振り返って、またねって言うんだ。僕に向かって伸ばしてくれてる手を握り返したくても、でもどうしても足が止まってくれないからそれも出来なくってね。……寂しくて悲しくて、泣きながら起きたのなんて何年振りだろう。……あんな風に、離れなきゃいけないのかな」
 それは嫌だなぁと笑い、笑い切れずに眉間を寄せ、唇を噛む。俯き、沈んで行く陽に今度は視線も寄越さず膝上で手を握り締めた。
 風魔の里にいた頃は級友達から虐めを受けていた自分。風魔を束ねる血筋に生まれておきながら素質を垣間見せることもなかったこと、彼らの厭う生物を愛したこと、そして風魔自体が伊賀者や甲賀者などと違い請け負う仕事が限られていたために貧しく、その不満の原因を求めた彼らの標的になったと今なら理解出来る。それを今更になって掘り返し、幼い子供の駄々のようにごねるつもりは毛頭ない。けれど逆に、そんな自分が里に戻り新しい頭領としての準備に入ったところで、本当に受け入れられるのだろうかという不安は襲った。
 逃げられないと分かっていても、この不安感が過るだけで、震える体は逃避欲を生む。
「……許されるわけもないし、出来るとも思わない。だけどもしももしも、本当にもしも、やってみてもいいなら。……金吾と逃げたい。他のみんなに内緒で、先生にも内緒で、ナメさん達も幻術に使える最低限の子達以外はみんな置いて。きっと追われて、想像するよりもずっとずっと大変だろうけど。里の人の手に掛からなくても、逃げ疲れて死んでしまうこともあるかもしれないけど。でも、……僕は我儘だから。里に帰って金吾と離れるより、どんなに大変でも一緒にいられるほうが、きっと幸せなんじゃないかって思えてしまう」
 耳が痛むほどの静寂に包まれた長屋の中で、高く高い耳鳴りが耳朶を苛む。きぃんと響くその音とも言えない音が、頭の奥で切なさを叫ぶ自分の声に聞こえて身震いがした。
「……ね、そうだよね。君と。……金吾といたい、ねぇ」
 ぽたりと水音が響き、喜三太の体がゆっくりと崩れるように床に転がる。既に失せた夕日の温もりが微かに残るそこに頬を寄せ、夜明け前の夢に奪われた領土を取り戻すかのように襲いかかる睡魔に抵抗もせず、静かに瞼を閉じた。
 行燈に火もつけないままの部屋を、ゆっくりと闇が侵食する。
 金吾が委員会を終えて部屋へ戻ってきたのは、夕食時刻も間近に迫った頃だった。
 暦の上で春と言っても、やはりまだまだ日は短く、日暮れも早い。夕飯時には既に闇夜が押し迫り、その暗さと体力の消耗に辟易した後輩からの苦情を仕方なく聞き入れて、ようやく部屋へと帰り着いた。
 帰り着いたなどという表現を使うと、こちらのセリフだと言って後輩が本気で怒り狂いそうだと、こそりと思考を過ぎる。
 汗を拭いながら木戸を開き、暗い室内に一歩足を踏み入れる。さすがに疲れたため夕飯前に一度落ち着こうと息を吐いたところでその指先になにか柔らかいものを感じ、慌てて足を引いて闇に目を凝らした。
 そこで寝転ぶ、見慣れた人影に思わず安堵の息を漏らす。
「……明かりもついてないからいないのかと思ったら、布団も敷かずに寝てるとか……」
 苦笑し、慎重に避けながら傍らに膝をつく。まるで昨夜と同じ状況だと小さく零し、結われたまま顔に掛かる長い髪をそろりと払う段になり、金吾は昨夜とは違う雰囲気に気付き不意に動きを止めた。
 眠っているにも拘らず眉間を寄せ、しゃくりあげるように涙を流し続けている喜三太の姿に、息を飲む。
「喜三、太」
 頬を撫で、流れる涙を静かな動作でなぞり拭う。その感触と声に気付いたのかゆっくりと開いた双眸を覗き込むと、金吾の姿と認識した瞳が泣き笑いに歪んだ。
「……きんご」
「うん、大丈夫。いるよ」
「……良かった。今ね、すごくすごく、イヤな夢見てたんだぁ。金吾がね、僕の前で、崩れてね……。……ホントに、夢で良かった」
「喜三太」
 くしゃりと歪んだ表情に眉間を寄せ、顔の横に添えられていた手にそろりと触れる。元より暖かな指先が鍛錬後の熱でさらに温もりを増していることに笑みを見せ、喜三太の指がそれに絡んだ。
 ほんの数瞬、沈黙が互いの空気を積み上げる。
「喜三太、ごめん。今から、お前がずっとずっと胸の内に溜めていた覚悟を無にするようなことを言う」
「……うん」
 悟ったような返事を耳にし、金吾の手が喜三太の手を強く握った。
「…………僕は喜三太を、離したくない」
 絞り出された苦悶の声に喜三太はまた泣き笑いのような表情を見せ、握られた手と逆の掌が金吾の頬を撫でる。床で眠っていたからか、己のそれと違い冷えてしまったその指先に目を細めると、確かに握り返される強さに気付いた。
 床に寝転んだままの瞳が、懇願にも似た色を魅せて金吾を真っ直ぐに見つめる。
「ねぇ、金吾。……去年くらいからだよね。僕が言いたい我儘、金吾には全部分かっちゃうこと。……ごめんね金吾、きっとまた僕の我儘が君に伝わっちゃったんだよね」
「喜三太、そうじゃなくて……!!」
「うん、分かってる。……だから、ごめんね。いつも我儘でごめんなさい。だけど、僕も」
 一度言葉を区切り、置き上がった喜三太の体が金吾の腕の中に傾れ込む。胸元を掴む指の力、そしてあえて心臓の音を確かめるように耳と頬を押しつけてくる姿に言外の意思を悟り、金吾は安堵にも似た感情でその背に腕を回した。
 柔らかな栗色の髪から薫る石鹸の匂いに、視線を伏せ愛しげに頬を寄せる。
「卒業まであと七日ある。二人で、いっぱい考えよう。……いつにするか、どういう道を行くか、なにをどれだけ持っていくか」
「うん。みんなや先生は巻き込めないもんねぇ」
 内緒事は寂しいけどと切なげに笑う喜三太に、少なからぬ同意を見せて背を抱く腕に力を込める。余計な迷惑を掛けたくないと願うなら、学園関係者の誰にも助言は頼めない。それが例えこういう時こそ一番頼りになる九人の仲間であっても、それを大事に思うのならば尚更にと視線を尖らせた。
 暫定猶予はあと七日。少なくともその間に一切気取られることなく、滞りなく全ての準備を整えなければと思考は回る。が、頼りにし続けてきた級長からの助言もなしに果たしてそんなことが出来るのだろうかと、早くも挫けかけた心根を奮い立たせ、金吾は腕の中の温かさを確かめるように喜三太を抱き締めた。



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