――― 炉身心





 見返った部屋は、整頓され尽くした様子で視界を彩った。
 卒業式を終えてからまさに半刻も経たない現状、普段であれば授業後の自由時間を満喫するべくそこかしこで聞こえるはずの楽しげな談笑も聞こえない。恐らく、今となっては上級生長屋と呼ばれるようになったこの場所だけでなく、下級生長屋も蛻の殻と成り果てて静まり返っているはずだと思いを馳せ、喜三太は改めて自分達の場所だった部屋を見返す。
 目に見えて残っているのは、元来備え付けられていた机のみ。数日前からゆっくりと準備を進めていたため、部屋の隅を占領していたカビ菌も既になく、自身が愛し慈しみ続けたナメクジ達の住居である壷も、今や生物委員会に管理を委ねるべく、生物倉庫の前にこっそりと置いてきた。
 途中入学とはいえど、六年間苦楽を共にした場所と友人達との様々な情景を思い起こし、泣き出しそうに顔を歪めた喜三太の肩を、準備を整えた金吾が抱き寄せる。
「……行こう。皆が派手に騒いで、後輩達の気を引いてくれている間に発たなきゃ」
「うん。……行こっか」
 先に書いておいた出門表を塀に苦無で縫い止め、やけに騒がしい門前へ聴覚だけを置き去りに乗り越える。ここでの恩師や後輩達だけでなく親にすら正式な別れの挨拶も出来ないことを胸の内で詫びながらも、一刻も早くこの場所を後にしなければと、二人は学園を囲む深い森の中を駆けた。
 山道ではなく森の中は、警備用と称し、兵太夫を筆頭とした作法委員によるカラクリが随所に仕込まれている。そのため本来であれば早期発見の危険はあれども道を行く予定だったが、あろうことか旅立ちを決めた翌日、兵太夫から金吾へと、カラクリのないルートを記した地図が手渡されていた。
「そういえばお前、卒業後は全国行脚の予定だよな。まぁないとは思うけど、もしなんかトラブって、人目を避けて学園に帰ってこなきゃいけないようになった時にこれ使えよ。僕と伝七しか知らない極秘地図なんだから、一言でも外部に漏らしたり、無くしたりしたら承知しないからな」
 ぱちりと片目を閉じて笑って見せた兵太夫は、恐らくその使い道が他にあることを知った上だったことは想像に難くない。それどころか兵太夫だけでなく、他の面々も雑談の中にそれとなく助言を含ませていたり、しんべヱや乱太郎、伊助に至っては行脚の際の助けにと、携帯食料や薬、炭と僅かな火薬、染めと刺繍の施された守り袋を手渡してくれていた。
 計画を話した覚えもなく盗み聞きされていた気配もなかったことから、それがそれぞれ個人意思での援助、しかも喜三太が望むのであれば逃亡に助けの手を差し伸べる意思があったことが分かる。
 そしてそれを本人ではなく自分に託す辺りが、行動を読まれているとしか言いようがなく、苦い笑いが口元を歪めさせる。
「助かるけど、風魔にバレたらあいつらも敵対視されるかもしれないのにな」
「まぁ、皆のことだからうまく知らん顔決め込むとは思うんだけどね。……って言うか、皆して僕のこと逃がす気満々なんだから。僕の六年間の静かな決意が削がれまくっちゃって大変だよ」
「まったくだ」
 笑った先で、森の木々が退く。朝から執り行われた卒業式のお陰で陽はまだ高く、町へ出るにも、また、山を越えるにも充分な時間があった。
「予定通り、越中方面へ向かう前に一度尾張へ向かおう。あちらの方面なら戦も多いけど、その分賑わってる町も多いし人に紛れられる。卒業直後の騒ぎは逆方向だし、風魔の人達もまずは長門へ向かう方面を当たるはずだ。まさか自分達から近付いてるとは思わないだろう」
「その大規模な逃止の術と魘入の術の混合技、誰の雑談の内容だったっけ?」
「ありがたいことに我らが級長が冗談で言っていた、卒業直後の天下取り大作戦の一部分。……それに宿場町にいくつか荷物があったほうが便利だろうとか何とか言って、学園を中心にした五国ほどに着替えと称した変装用の荷物を運んで保管してくれてる若旦那もいたことだし」
「はは、……ホント、みんな甘いよねぇ」
 泣き出しそうに笑う喜三太の手に金吾の手が触れ、見上げた先で柔らかに笑んだその顔にくしゃりと笑顔を返す。触れた指に指を絡めて大きく息を吸い込み、それでも不安の掻き消えることのない表情で喜三太の唇が小さく震えた。
「……今夜、どの辺りまで行けるだろう」
「出来るなら河内か山城、明日には大和の国の北端辺りまでいければいいなと思ってる。……虎若の若干わざとらしいこぼれ話からいくと、佐武の別働隊がそこいらで野営をしつつ美濃付近へ向かっているらしいし、しかもありがたいことに伊助の渡してくれた守り袋の中には佐武家の紋が焼き入れられた桐板が入ってたよ。これを佐武の別働隊に見せれば、無条件でしばらくの同行を許してくれるはずだ。それと恐らく三治郎からの手向けらしい、小さく折り畳まれた修験者の心得の書付も入ってた。これも、修験者に変じて信濃や飛騨辺りを越えるときに役に立つ」
 金吾が手を引き、先へと歩き出す。まずは町へ降り、一番近くの宿に偽名で預けられている旅の荷物を受け取って、山越えの際の食料を確保することが最優先。それを行動で示すように早足で先を行く背中をどこかぼんやりとした視線で眺め、喜三太は東へと広がる山々を視界へと入れた後、気を逸らすように瞼を伏せた。
 そこから二日ほどで果たされた佐武鉄砲隊への合流は、驚くほど順調に事が運む。
 山中で野営準備中の佐武の旗印を見つけ、守り袋の中から取り出した桐板を見張りの足軽に見せると慌てた様子で天幕の中へと通され、あれよあれよという間に足軽具足を貸し出されて素性を隠しての同行を許可された。
 桐板を見せれば無条件でという金吾の予想の通りと言うよりも、むしろそれ以上の迅速さであまりの展開の速さに目を回す二人に対し、何度が目にした覚えのある部隊長は当然至極と豪快に笑い飛ばす。
「出立前、丁度もう七日にもなりますか。その頃に若大夫から頭目に連絡がありましてな。ご自分の内密紋を他者にお渡しになられたので、もし持参者が尋ね来た折には出来る限り力になるようにと言い遣っておりましたのです。無論あまり無茶を申されるようなお方ではこちらの助力にも限りがございますが、なに、素性を隠しつつ尾張近くまでへの道を同行なさりたいとのことでございましたら容易いこと。いざという際には身軽なほうがよろしかろうと思い予備の足軽具足をご用意致しましたが、それゆえ若のご学友と知れどもあまり特別なおもてなしなどは出来ませぬ。どうぞその点だけはご留意くだされ」
 その言葉通り、それきり道中は部隊長と直接言葉を交わすこともなく一行と同じ生活を送り、金吾と喜三太も足軽という仮初の身分に徹しようと黙したまま山中を進んだ。
 その生活も四日目の夜を迎え、明日には伊勢、ひいては尾張へと至る道へ入ることを知り、具足を脱がず木に凭れながら就寝の体勢に入っていた喜三太が、同じく就寝準備に入っていた金吾にこそりと身を寄せて小さな声で呟く。
「……明日には尾張、だね」
「うん。朝にはお礼と、お別れを言わないと。……逃げてること、怖くなった?」
「ううん。里の皆に申し訳ない気持ちや後ろめたさはやっぱりあるけど、怖いわけじゃない。……それでも、あのねぇ。ホントはずっと祈ってたんだよ。……誰も迎えになんて来なきゃいいのにって。血筋なんて下んないものに縛られてないで、それこそ才能のある人がその役に就くのが一番いいと思ってる。だけどどうもね、今の風魔の体質ではそれは難しいんだって。……だから金吾に手を伸ばして、助けてって思っちゃった。縋らないと、捕まえていてもらわないと、きっとそのまま攫われて二度と会えないんじゃないかと思ったから。……危険って知ってるのに、僕ってばホントに我儘なまま育っちゃったからね。金吾が後悔してないかなって、少し心配した」
「……後悔してるのは、喜三太のくせに」
 軽く頭を小突き、気落ちした様子の喜三太に笑みを向ける。心のままに逃走してしまったこと、また、自分を巻き込んだこと、こうしては組の面々の助力を借りてしまっていること、そして結局は里を案じていることを後ろ暗く思っている心情を察し、金吾は僅かに眉間を寄せて視線を伏せた。
 むしろ自分こそが、己の我儘に喜三太を巻き込んでしまったのではないかという不安が常に胸にある。
「喜三太」
「ごめん、金吾までそんな顔しないで。ちょっと切なくなっちゃっただけなんだから。後悔はそりゃああるけどね、でも……金吾と離れるほうが、我慢できなかったんだよ」
 闇夜に紛れてそろりと接吻け、おやすみなさいと呟いた声を最後に瞼を下ろした喜三太の手を柔らかく握り、金吾も倣って目を閉じる。木々の隙間から垣間見える篝火の揺らぎに眠気を誘われるように思考を揺られながら、胸中に渦を巻く不安が現実に迫り来ないことを夢の狭間で祈った。



−−−続.
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