佐武衆と別れ、尾張に滞在したのは半月程。その間、日中は多少顔の作りを変えて放下師に化けて人に紛れると共に金子を稼ぎ、夜は河原者として橋の袂で体を休めた。昼間は強さを増しつつある陽光の下で次第に肌を焼かれ、夜は冬名残りの冷たさをさらに水面で冷やされた風に身を撫でられるも、学園で培った知識を以てしてなんとか凌ぐ。
 そしてその際分かったのは、変装名人の弟子である庄左ヱ門から教わったいくつかの変装術が、やはり非常に有効だということだった。
 口の内側に薄く伸ばした綿を張り付けるだけで輪郭は変わり、瞼の上に人肌色に塗った厚い紙を張り付けたり、またはこめかみ付近の髪をきつく縛りあげるだけで随分と人相というものは変わるらしい。現にこの数日、明らかに町人達とは雰囲気の違う男達が探るような目付きで人込みや河原をうろついているのを目にしていたが、二人にはちらと視線を走らせたのみで、なんの疑念もない様子でその場を離れて行った。
 けれどそれも三日目ともなれば、そろそろ尾張を離れたほうがいいだろうと互いの意見が一致し、夜明けと同時に町を出た。
 尾張を出、三河を過ぎ、信濃に至った時点で修験者の姿へと代え、また、これまでとは違う顔に作り替える。見慣れないうちはどこか互いに可笑しさが表情を崩させるものの、出来るだけ平静を装い山岳地帯へと足を踏み入れた。
 そこから、次第に追手との接触が増え始める。
 最初こそ牽制と幻術で血を流すことも流させることもなく退陣を強いることが出来ていたが、それも逃亡生活がひと月を越えた頃からは難しく、次第に追手の力も、そして人数も増していった。
 金吾の弾いた風魔流手裏剣が別の追手の腕を傷つけたことから、事態はさらに悪化傾向を辿る。
「大丈夫だよ。今日こうならなくったって、きっと明日にはどっちかの血が流れてた。……遅いか早いかの差だけだったんだよ。だから、もう自分を責めないで。敵対者を傷つけることくらい、学園経由の仕事でも何度かやったじゃないか」
 険しい急斜面に露出した、巨大な岩石の影。決して広いとは言い難いその場所に身を潜めて身を寄せ合う肩をそろりと擦り、喜三太が気遣う声音で金吾の顔を覗き込む。その手の気配に唇を噛み締め、きつく寄せられた眉間がさらにその深さを増した。
 手裏剣を弾く時の重み、それ自体は既に慣れたもので感慨や感傷など湧きもしない。それは事実としても、それとはまた違う衝撃と緊張感が走り抜けた瞬間を、金吾は責任感と共に片手の拳に握っていた。
 それまでなんとか凌いで保持していた無血という状況。それを、自分の刀の角度一つで打ち壊してしまった後悔が思考を暗く閉ざさせる。
「金吾」
「経験とか、慣れとか、そういう問題じゃないよ喜三太。お前だって分かってるだろ? ……今までは血を流すことなく退かせることが出来てたのに、今回で血を流した。それはもう完全に、風魔はこちらを敵対者と見做してくるってことだ」
「……怖い?」
「違うよ、怖いんじゃない。そうじゃないのは分かってるのに、喜三太はいつでも話を逸らそうとするな。……同行者の僕が風魔を傷つけた。あちらにとっては、喜三太が仲間を傷つけたのと同じことだ」
「そうだね、僕も君と共犯者。君がしたことは僕がしたことも同然。だからきっとこれからは、風魔の里は僕を連れ戻すためじゃなく、仲間を傷つけた反逆の罪で追うだろう。……そのせいでもう僕が完全に風魔に帰れなくなったって、そう思ってる?」
 不意に雰囲気を違えて響いた喜三太の声に、金吾が驚愕の表情で顔を上げる。その頬を冷えた手がそろりと触れ、細まった瞳が覗き込んだ。
「ねぇ、金吾。金吾はね、自分で思ってるよりもずっとずっと、忍びなんかには向いてないんだよ。頭で考えてることが全部、顔や行動に出ちゃう。そりゃあ仕事やテスト、実践演習の時なんかはうまく消してるし、そういうところは物凄く忍者らしくなったなぁとは思うけど。普段は素のままの金吾だからね、隠してるつもりなのも分かるけど、でも僕から見たらバレバレだよ。何年一緒に過ごしてきたと思ってる? ……ホントはいつも心の中で、僕を風魔に返さなきゃいけないと思ってるね」
 諭すような言葉に反論も出来ず、意志の強いはずの瞳は陰りを見せ僅かに俯く。それを無言の肯定と受け取り、喜三太はくしゃりと目元を歪めた。
「……この逃走劇が束の間の子守りみたいなものだって、そう思ってるから、僕を返せなくなることが辛いんだろ?」
 ひりつくように瞬間的に震えた喜三太の声に、金吾の背に戦慄にも似た怖気が走り抜ける。反射的に睨みつけた眼光は尚も歪んだままの瞳を捉え、咄嗟に唇に上りかけた罵倒を飲み込んで眉間を寄せさせた。
 馬鹿なことを言うなと叫ぶはずだった口元は言葉を拒絶したまま戦慄き、代わり、寄せ合う体を強く引き寄せ抱き締める。
「……違うと言ってる」
 低く押し込められた声に怒りが滲むのを感じ、饒舌だった唇が音を閉ざして黙りこむ。降り出した小雨が若葉を清かに打ち、川の流れにも似た音を立てるのを沈黙の内に聞きながら、在学中から既に剣豪と呼び称されていた腕がさらに力を込めて喜三太の身を抱いた。
「風魔の人を傷つけたことを後悔していることに、否定はしない。だけどいつかお前を風魔に返さなければいけないと思っているとか、まして今この瞬間が束の間の子守りだと思ってるなんてのは、酷い誤解だ。……僕が考えていたのは、僕が仮に、あの人達に殺された場合のことだ。勿論、易々と殺されるつもりなんて微塵もない。だけど喜三太、傷を付けられれば付け返すのが人間の業だ。それは学園で教わった以上に散々思い知ったろう? 一つ傷をつければ、倍返し。そしてそのまた倍、倍々。その繰り返しだ。その中で、いつか僕がお前を置いて死んだらどうなる。……無血のままなら、最初の傷で僕が死んだとしてもあちらに遺恨はない。喜三太はただ風魔に連れ帰られるだけだ。だけど、先に僕が傷を付けてしまった。こうなってしまったらもう僕が死んだところで、喜三太は帰ることも出来ずに一人で当てもなく逃げ続けるしかない。……それが僕には怖かった」
 その思いが誤解に繋がったなら謝ると呟いた金吾の声に、喜三太の瞳がじわりと滲む。抱き寄せてくる腕の強さに偽りは読み取れず、元来嘘のつけない声音に揺らぎはない。金吾の嘘を汲み取ることを誰よりも得手にしていると自負する自身が、その真意を信じずにどうするのかと首を振った。
「……ごめん、金吾。酷いこと言った」
「いいよ、こっちの口下手が悪いんだ。喜三太には言わなくても通じるはずだなんて思ってた。……僕はお前に甘え過ぎだな」
「こっちのセリフなんだけどねぇ」
 泣き笑いに歪む喜三太の頬に接吻け、止む気配のない小雨が身を濡らさぬようにとより近しく身を寄せ合う。下緒を警戒縄にと巻き取られた愛刀が鞘の先を濡らすのを感慨深く見つける金吾の手に冷えた手を重ね、喜三太は重く立ち込めて雫を落とす空を恨めしげに仰いだ。
 一方、場面は畿内へと移る。
 播磨、但馬、美作、備前と探し回り、迎えのために引き連れてきていた部隊を総動員しても発見することが出来ず、しかも別働隊からは三河での発見報告をされ、結局ここまで戻る羽目になってしまったと嘆息を吐く。けれど卒業の日から既にひと月もの時間が流れ、もはや猶予はないと言ってもいい。それを改めて認識し、修験者姿に身を変えた男は一軒の店の前に立った。
 店から漂う独特の香り。名の入った暖簾にはその商品にあまりにも似合う店名が掲げられ、そしてまさか自分までもが彼らと同じようにここを頼ろうとは思ってもいなかったと、皮肉じみた苦笑が唇を吊り上げる。
 暖簾を潜り店へ入ると、目的とする人物が帳面台の前へ座り、未だ幼い弟の面倒を見ながら店番を任されていた。
 その目が自分を見るなり一瞬温度を下げ、そしてその直後、なにもなかったように柔らかな笑みに変わる。
「いらっしゃいませ、修験のお方。護摩に使う墨がご入り用ですか?」
「ははっ、えらく余所余所しく話してくれるじゃないか。庄左ヱ門」
「仕方ないじゃないですか、少なくともここにいる僕は忍びとしての黒木庄左ヱ門じゃない。黒木屋の跡取り息子なんですから。……ひと月ぶりです、与四郎さん。喜三太は見つかりましたか?」
 笑顔で問う言葉に、ぬけぬけとよく言ってくれると卑屈な笑みが浮かぶ。忍術学園卒業生の中でも屈指の策士と謳われた庄左ヱ門が、まさか自分がここにいる理由も悟れないとは考えられない。それを彼らの在校中何度か共闘した経験から心中で断言し、与四郎は困りきった表情で上り口に腰を下ろした。
 ここへ至る前、既に他のは組の面々のところへ話を聞きに行った。けれどどれもサラリとかわされ、それどころか堺港の商家では危うくこちらの情報を聞き出されるところだったことを思い出し、師の片腕と称されようともやはり未だ成熟することのない自分の実力に眉間を寄せる。
 そしてその彼らを六年に渡り纏め上げてきたこの食わせ者には、恐らくどういった誤魔化しも効かないだろうと息を吐いた。
「……なぁ、庄左ヱ門。あの二人がどこへ向かったか、お前なら見当がつくんじゃないのか」
「あれ、他の皆に聞いた時みたいに、回りくどい言い方はなしですか。どう来るのか楽しみにしていたのに」
 不思議そうな顔で庄左ヱ門と与四郎を交互に見比べる弟を笑顔で奥の間へと下がらせ、さてと呟き改まって向き直る。帳面台の上には八つの文が並び、それぞれに庄左ヱ門への宛名が書かれていた。
 差出人を見ずとも、その数で、それがは組の面々からの物と知る。
「答えは他の皆と同様です。残念ながら、僕らにもあの二人の行く先は分かりません。卒業式の日にも申し上げた通り、僕らだってまさかあの二人が逃亡するなんて思ってもいなかったんです。式が終わった直後、僕らが馬鹿騒ぎをしている間に、気が付いたら二人がいなかった。先生方を含め、卒業生全員で探していたのはご記憶の通りでしょう? それを今更になってお疑いとは」
「……その妙に芝居がかった口調が、疑わしくってよ」
「すみません、偉大なる先達から感染したようなものなので、こればかりはどうしようもないんです」
 にっこりと笑み、文を引き出しへとしまい込む。それをただ沈黙して見守り、与四郎は疲れた様子で視線を伏せた。
「なんでそこまでして庇う。これがもう、学園だの同じ級友だのの情けやなんだで済まされるもんじゃないことは分かってるはずだ。風魔の里の頭領を継げるのはいくつかの限られた家のもんだけ。しかもその中で、ようやく継げる位置にまで競り上がって来たのは喜三太だけだ。古臭い風習に縛られて他の方法で頭領を見つけようともしない年寄り連中を納得させるには、もう」
「お分かりになりませんか」
 凛と響いた声に、視線を上げる。帳面台の前から立ち上がり、静かな所作で傍近くに進み出て腰を下ろした庄左ヱ門が曇りない目を向けるのを、与四郎は正面から見返した。
「たったそれだけの理由で、仲間が不幸になるかもしれないのを黙って見ておくなんてことは、僕らは出来ない性質なんです」
 はっきりと言い放たれた言葉に、与四郎の眼が見開く。不幸だとと思わず絞り出された言葉に頷く姿は、僅かな腹立たしさに眉間を寄せていた。
「里のお年寄りや保守派の大人の方々、それに、与四郎さんや山野先生、仁之進さんは喜三太の味方でしょう。ですが、喜三太は風魔の里を離れて忍術を習った人間です。それに、そちらでの在学中は虐めを受けていたという話も聞いています。そんな彼が、自信を以て胸を張り、風魔の頭領然として歩いて行けると思いますか? 誰かの命の重さ、そして里という重さを背負うには、確固たる自分の存在意義がなければ容易く押し潰されるものです。それを喜三太は、現状の風魔の里で感じることは出来ますか? 彼の元来の気質を知っているあなたなら理解できるはずです。喜三太は今、自分は風魔にとって本来ならば必要のない人間だと感じ、そして逃げている。……このままあなた方の保護下に下ることが、不幸への道と言わずなんと言えるでしょう」
 言葉の波に気圧され、反論の言葉もなくただ聴き入る。
「僕には今、あの二人がどの辺りにいるかの見当はついています。だけどそれを、あなたに教えることは出来ません。……あなたにとって風魔が里であるように、僕らにとってはあの学園こそが忍びの里です。だから、答えなんて一つしかありません。……里の仲間は、なにがあろうと売ったりはしない」
 毅然と背を伸ばし、視線を逸らすことなく断言された言葉に、しばらくの沈黙が流れる。呆けたように見つめ続ける視線からも微動だにせず坐したままの庄左ヱ門に、次第、与四郎の表情がくしゃりと崩れた。
 驚きに目を瞬く間に、温かな手が頭を撫でる。
「せーよーになったじゃんかよー、庄左ヱ門」
 無遠慮に撫でてくる掌に、戸惑いながらも照れたような苦笑を漏らす。それを穏やかな笑みのまま見つめ、与四郎はゆっくりと息を吐きだした。
 その呼気の意図に気付き、庄左ヱ門も改めて与四郎へと向き直る。
「……そらー、おめーのせったとーりだーよ。うそこに喜三太がけーって来たって、オラ達がずーっとあいこにいられるこったぁねー。……山野先生にゃあうんならかされっかもしんねーけど、したっけ一度すったらかしてけーって話してみんべー。悪ぃかった」
「いえ……。というか、最後の謝罪以外意味がよく分からなかったんですが、一度相模にお帰りになるってことでいいんでしょうか」
「おーよ。少しな、山野先生やリリーの婆様とも話してみる」
「そうですか。……道中お気をつけて。嫌味や皮肉でなく、この件がより良い方向に落ち着くことを願ってます」
 深く頭を下げる庄左ヱ門に手を振り、暖簾を避けて店を出る。晴れすぎたほど晴れた高い春の空を見上げ、足柄山を思った。喜三太を連れ帰ることは出来なくとも、助言という名の収穫を手に入れることは出来たと息を吐き、せめて帰路で通り過ぎる大和辺りでなにか機嫌取りの土産でも手に入れて帰ろうかと一歩を踏み出した。



−−−続.
      →「炉身心 下」