春だというのに未だ白い冠を下ろそうともしないまま、それでも裾野からゆっくりと緑の衣を引き上げる信濃の山々。雪解けの進まぬ山の風は冷たく頬をひりつかせたが、修験者の姿で歩く二人の逃亡者の目は未だ見たことのなかったどこか異国を思わせる植物達に目を輝かせ、追い詰められつつある現実から束の間の娯楽を得たように、いっそ和やかに談笑を交わしながら険しい山道を登っていた。
 颪に揺れる小さな花々を愛でながら、他愛ない会話が繰り返される。花の色、風の冷たさ、木々の白さ、泉の青。それらは全てから目を背け出奔するという道をとった二人には余りにも目新しく、そして疲弊してきた精神を癒させるには充分なものだった。
 時折触れる指先が冷えた空気の中で仄かな温もりを伝え、それに微かに笑みを見せてはまたただの連れ合いとして山頂、ひいてはその先を目指す。最終的な目的の場所など決めようもなく、そしてそれがどこであろうとも辿りつける保証など微塵もないが、足は躊躇うことなく前へと進み続け、不安に揺れる思いを振り払うように力強く土を蹴りつけた。
 錫杖へと忍ばせた刀は既に幾度かの血に濡れ、満足に手入れも出来ない現状ではもはや完全に取り除くことも不可能な血曇りでその玉鋼の輝きを陰らせている。その重みを季節外れに汗ばんだ掌で受け止めながら、金吾は唇の内側を噛み締めた。
 背後にまた数人、気配を殺した影が近付く。
「喜三太、手を出すな」
「……そればっかり」
 溜息を吐く喜三太を尻目に、視線を前方へ向けたまま錫を鳴らして留め具を外す。微かな音を立てて鯉口を切り、覗く刀身が陽に煌めく寸前に風裂く音が鼓膜を震わせ、金吾は振り向きざまに刀を振り抜いた。
 峰で叩き折られた手裏剣が、道に転がる石にぶつかり硬質な音を響かせる。
「最初の一手が毎度同じってのはどうかと思うが、まさかこれが風魔流の挨拶だとか言わないよな」
 金吾が失笑と共に呟いた言葉に、木々が一瞬だけ殺気立つ。その気配にまた苦い笑みを見せ、軽く舌を打って喜三太と視線を交わした。
 既に追撃の回数は両手で数えるほどになり、もはや焼け石に水となっていた顔の造形は元へと戻していた。そのため似せ絵さえあれば誰でも追走が可能となっているのは理解済みだったが、ここ数回は明らかに学生と分かる追手が付いていることに、肩を竦める。
 少なからず苛立ちで寄せられた眉間に、喜三太が隠れて喉を揺らした。
「言っとくが、進級最初の実戦授業の相手が僕らになってるってんなら先生に言ってやめてもらえ。うちの委員会の五年のほうが、お前達よりまだ使える。こんな簡単な怒車の術に乗せられて気配が漏れるようじゃ、相手の目から逃れようにも逃れられないだろう。怒りで一瞬呼吸が乱れた音までこちらに聞こえたぞ。……卒業したての新人とは言っても、僕らはお前達とこなした実践の数が違う。怪我をしたくなければ大人しく出直せ」
 辛辣に吐き捨てられた言葉に、反応はない。それに溜息を落とし刀を納めると、金吾は興味も失せたとばかりに背中を見せ、喜三太へと足を踏み出した。
 その背後、そして左右から影が飛び出す。
「言っても、聞かないなぁ! ったく!」
 左から斬りかかって来た刀を錫杖で受け、正面で振り上げられていた鉄砕棒の下を潜るようにかわして右からの斬撃を凌ぐ。鉄砕棒なんて久しぶりに見たと唇を吊り上げて柄を蹴りつけ、刀を再び抜き放って後方へと飛び下がった。
「その重さをここまで持ち運んで、呼吸を荒げてないとはなかなかの持久力と怪力だな。うちの学園にいたなら、意地でも委員会に引っ張っていきたい人材だったのに。残念」
 心底口惜しそうに独り言を呟く金吾に、対峙した学生の頬が思わず喜色に綻ぶ。その感情の発露に学生らしさを見取って微笑ましく笑顔を浮かべるも、金吾は不意に視線をぎらつかせた。
「詰めが甘いところも、鍛え甲斐があったのに」
 呟かれた言葉に目を見開き、構え直す暇もなく。
 翻された刀の峰が首を打ち、意識を手放した体がゆっくりとその場に崩れ落ちる。それを支えるでもなく見守った金吾が、耳に届いた砂を蹴る音に顔を上げた。
 仲間が気を失ったことで焦ったのか、最初に怒車の術にかかったと思しき学生が斬りかかってくる姿に、険しく眉間が寄る。
「剣術を得手としている相手に、見栄だか知らんが苦手な武器で戦いを挑むな! 足運びが杜撰すぎて、見ているこっちが恥ずかしい!!」
 叱りつけるような口調で怒鳴り、怯んだ隙を突いて肘で手に一撃を加えて取り落とさせる。音を立てて落ちたそれを蹴り飛ばして藪の中へと放り込み、刀を左手に持ち替えて慌てた表情の頬を張った。
 乾いた音に、喜三太が思わず頭を押さえる。
「怒りや焦りに振り回されて、攻撃の機会を待つことも出来なくなっているのがなんで分からない! プロの忍になることを目標にもう何年も勉強を積んできたなら、精神面もきちんと鍛えなければ意味がないだろ!! こっちの首を取りたきゃ、せめてあと半年修行を積んで出直してこい!! 次!!」
 あまりの剣幕に、追手だということも忘れてしまったのか怒鳴りつけられた学生は一瞬茫然と見上げたかと思うとそのまま頭を下げて後ろへ退き、代わり、最後の一人が大声で返事をして金吾へと斬り込む。
 まるで剣術道場の指南中か、それとも昨年一年間の体育委員会の様相を見せる風景に、喜三太は困ったように頬を掻き、ほかに追手のいないことを確認して辺りに生えるヨモギの葉を何枚かちぎり取った。
 その間も、互いに自分の立場を忘却の彼方に追いやった立ち合いが続く。
 幾度か刃を交えては、鍔迫り合って弾けたように距離を取る。その際の姿勢、足運び、剣先の動きにくまなく目を光らせ、金吾の唇が笑みに歪んだ。
「太刀筋もいいし、基本をちゃんと守ってる。忍者どころか、いい剣士になれそうだ。うちの師と比べるわけにはいかないが、いい師に就いて頂いたんだな」
 褒めながらも剣の構えは解かず、互いにじりじりと間合いを詰める。
 足の下で、力ずくで地面と擦り合わされる羽目になった砂粒が砕ける寸前の断末魔を上げた。その微かな最期の一音までをも聞き逃さないほどの集中力を見せる二人の距離、それがあと一歩分縮まればまた激しく刃が交わされるという緊張感の中突然、金吾が相手の背後を凝視し、悲鳴のような声を上げた。
「おい、喜三太! いくらなんでも気を失ってる奴をナメクジの温床にするのはちょっと……!!」
「えぇええええええええ!?」
 金吾の衝撃的な言葉に釣られ、それまでの集中を忘れたように学生が振り返る。その視線の先ではへらりと笑った喜三太がにこやかに手を振りながら他の学生達の手当てに当たっており、ナメクジの影など一つも見当たらず穏やかな陽光が差していた。
 ようやくになって騙されたのだと気付いた時には、手刀によって刀を落とされる。
 愕然と向き直れば、苦笑した金吾がくしゃりと頭を撫でた。
「悪いな。こういう戦い方は得意じゃないんだけど、引っ掛かってくれそうだったから。……でもこれで、お前達じゃ僕一人にだって勝てないことが証明された。こちらとしても不用意に怪我はさせたくない。引き上げてくれないか」
 およそ逃亡者とは思えない英姿颯爽とした様子に、目を覚ましていた者も含めて学生達が困惑を隠しきれずに顔を見合わせる。それを眺めていた喜三太が苦笑を浮かべながら歩み寄り、頬を打たれた学生にヨモギの葉を手渡した。
「ごめんねぇ、この人武芸に関することとなるとすぐ熱くなる悪い癖と、その上スパルタなところがあって。これまでに来た他の子達にもこの調子だったもんだから、変な人だって噂が立ってるかもしれないんだけどさぁ。ほっぺた、切れてるところがあったら、これを揉んで汁を患部につけておいてね。里に帰る頃には、少しマシになってるはずだから」
「……言っとくけど、お前の幻術にかけられて十日間眠れないほどのトラウマを作らせるよりはマシだと思うぞ」
「えー、たいしたことないってば。それに十一日目には爆睡出来てたじゃん、金吾。しかも三日間ぶっ続け」
「あれは委員会疲れとあまりの睡眠不足で気絶したって言うんだよ。川西先輩に大目玉食らったんだからな、あの後」
「もう一昨年の出来事のはずなのに、金吾ってばねちっこいねぇ。まだ根に持ってんの」
 まるで学舎での一場面のような口調で話す二人を眺め、当惑していた学生達の緊張もどこかに置き去りにされてしまったのか、ふにゃりと表情に柔らかさが表れる。それをまばたき二つで満足げに確認し、喜三太は金吾と顔を見合わせ、さてと呟いて数歩分先へと進んだ。
「忍者の鉄則は任務をきちんとやり遂げること。だけどそれ以上に学生に大切なのは、命や体を粗末にしないこと。むやみに怪我を増やすことは褒められたことじゃないって、僕らも耳にタコが出来るくらい教えられたことだからねー。……君達みんな、ちゃんとそれが分かってる子で助かったよ。相模まで気をつけて帰ってね」
 笑いながら手を振る喜三太、そして並び立つ金吾の姿に、学生達が思わず頭を下げて姿を消す。その気配が遠ざかるまで見送り、最後まで刀を手放さなかった若き剣豪が静かに肩を下げた。
 その背中を気安く叩き、彼らの目的は変わらず笑顔を張り付ける。
「今回も、いい子達だったね」
「こんなことするのはやっぱり山野先生だろうな。これまで明らかにプロの忍者が狙ってきてたのに、いきなり学生になったもんだから応戦も楽でありがたいと言えばありがたいけど……なんかいいように流れに乗せられてきてて面白くはない。風魔の学校って、学園みたいに六年間同じ先生が担任じゃないのか? 仁之進さんも卒業した今じゃ、山野先生は一年の受け持ちに代わるかなんかだろ。ここ数日で来たのは、どう見たって新しい六年生だ」
「んー、基本的にはそのはずなんだけどねぇ。いくつか例外や、特例ってのはあるよ。ほら、うちでもあったじゃん。上級生になってからの合同授業は、学年の担任じゃない先生が受け持ったりとか」
 ひらひらと手を翻して機嫌よさげに話していた喜三太の目が、不意に冷たさを以てすぐ後ろに迫っていた林へ向けられる。揺れる木立がさらに風に揺れると、その目が冷ややかさえ感じる笑みで歪んだ。
「……ね、山野先生」
 声を掛けた方角から、柿渋色の忍装束に身を包んだ人影が姿を現す。それは喜三太の言葉通り、数ヶ月間とはいえど風魔で彼を教導した師であり、その傍らには歳の違いはあれども机を並べていた仁之進の姿もあった。
 木々の影から出た山野が、感心したように眼を細める。
「気ぃついとったか。やるのぉ喜三太」
「いやぁ、実を言うと山野先生の気配は分かってなかったんですけど。でも仁之進がいるのは分かったんで、きっと山野先生もおいでだろうと思って」
 はにかんで笑う喜三太に、仁之進がバツが悪そうに頭を掻く。それを横目で睨んだ後、山野は静かに息を吐いて二人に向き直った。
 それを正面から受け、金吾と喜三太も呼吸を整える。
「……そろそろけぇってこねーか、喜三太。そろそろこちらも限界でな、わしらのこの説得が最後の手加減なんだ。こいつを退けちまうと、あとはもう、里が総出でおめぇ達を狙わにゃならん。わしらはな、せっかく育ってくれた次代の頭領を、こんなことで死なせたかぁねぇんだよ」
 静かに紡がれた言葉に、喜三太が視線を伏せ、唇を噛みしめる。それがただの思案ではなく、今までに何度も見せてきた、義務と責任、そしてそれに対抗するように燃え揺れる恋情が互いに主張を始め、精神を圧迫しているのだと知り、金吾が庇うように一歩前へと進み出た。
 憐れむような二対の目が、刀に手を掛ける若い剣士を物言わず見つめる。
「次期頭領だなんて体のいい言葉を使ってますが、それが傀儡でないという保証はありますか。先生達にとってはもう六年も前の話かもしれない、でもこいつにとって六年前の風魔流学校での出来事は、間違いなく傷に残ってるんです。あちらだってそうでしょう、自分達が苛めていた覚えのある人間が自分達の頭目として立った時、反感を抱かずに従えますか? こいつが、喜三太が頭領という言葉の重さに耐えきれなくなって潰れかけたとしたら、それを支えられますか? その保証はありますか。……ただ血だの、家柄だの、そんなものに縛られてこいつから笑顔が消えるくらいなら、僕は喜んで風魔に敵対します」
 僕達が望んでいるのは喜劇だけですと断言した金吾の言葉に、山野の目が苦しげに伏せられる。残念だと小さく漏れ落ちた言葉が鼓膜を震わせたその瞬間、怖気立つほどの殺気が身を襲うのを感じ、咄嗟に身を引くも。
「金吾ぉ!!」
 悲鳴のような喜三太の声がやけに響く。それをなぜかはっきりとしない頭で考え、そちらへ目を向けようとしたその視界に、柿渋の色が映り込んだ。
 ゆっくりとした動作で、正面へと向き直る。その先にはやはり山野と仁之進が並んで立ち尽くし、場所に変わりがないことを確認して金吾は小さく首を傾いだ。
 下腹部に、火のような熱さを感じて視線を下げる。
「……あ……?」
 見慣れた、けれど決して腹から生えているはずのないものが身を突き破って生えていることに気付き、ようやくになって声が漏れ落ちる。
「……悪ぃな、金吾。説得が失敗したら、こうなる手筈だったんだ」
 自分のすぐ背後で、もう耳慣れてしまった声が聞こえ、その主を知る。確かにあの二人がいてこの人がいないのは不自然だと苦笑を漏らし、そのまま金吾は膝を折った。
 崩れる勢いに乗じてずるりと引き抜かれた刀に代わり、鮮血がじわりとその滲みを広げ、布に含まれきらなかった赤が砂の上へと零れ落ちる。
「金吾、金吾! 金吾!!」
「そこでえーこに辛抱してろ、喜三太。おめーの手当てなんか受けちゃったらよ、金吾がまたいしばっちまう。仁之進、幻術を使われねーよーに気ぃつけとけ」
 駆け寄ろうとした喜三太をぴしゃりと制し、刺客が鋭く指示を飛ばす。里言葉が感じさせる懐かしさと温かみが嘘のように冷徹に見えるその背中を見つめ、喜三太が奥歯を噛みしめた。
 その視線に、血濡れた刀を提げた与四郎がゆっくりと振り向く。
「こーなっちまうことも、全部知ってて逃げてたんじゃねーンかよ」
 冷たい言葉に反論も出来ず、ただ唇を噛みしめる。けれど泣き出しそうに歪んだその目が、胸元を握り締めると同時に見開かれるのに気付き、与四郎は自分の足元へと視線を移した。
 既に崩れ落ちているものと思っていた金吾が、そこで刀を支えに、立ち上がろうとしていた。
「なに、勝手に、終わらせてるん、ですか……! まだこっちだって、終わってませんよ。……喜三太の、手当てなんかなくったって……いしばる、に、決まってるじゃ、ないですか。そりゃあ。はらわた裂かれたって、そいつといるって、決めたん、ッ、ですから……っ!」
 痛みを堪えるために噛みしめられた奥歯が軋む音さえ聞こえ、感心したように与四郎が口笛を吹く。さすがは忍の中で育った侍だと呟くと、鋭さと殺気を増した瞳が物怖じなく睨み上げた。
「いい目ぇすんなぁ、金吾」
「必死、ですから」
「そーかよ。……こりゃあ、手首の一つも斬り落とさにゃあいけねーかもしんねーな」
 荒い呼吸を繰り返しながら未だ立ち上がれない金吾の、刀を持つその手を見遣り、与四郎が腕を振り上げる。それを喜三太は、少しずつ違う浮世絵がパラパラと捲れていくような思いで見つめた。
 与四郎の手に握られた忍刀が、陽に煌めいて白銀を魅せる。それがゆっくりと振り上げられ、風に煽られた木の葉が舞い、次第その高さが頂点に達すると、ゆっくりと下降の一途を辿った。
 それは酷く不思議な感覚だった。
 時間にすればたったの数刹那。それを何刻にも渡って感じ、喜三太はその刀が振り下ろされる先を見た。
 金吾の手が、刀を掴んでいるのが視界に入る。その手は学園にいる時の記憶と変わらず武骨で細かい傷が多く、骨と筋が浮いた好ましい手だった。頑張り屋の手だと、触れるたびに幸せになれたことを今更ながら思い出す。
 柔らかさはなくても温かく、委員会の下級生達の頭を撫でていた手。泣き出した自分を引き寄せてくれる手。そしてその手が。
 その手がどれだけ必死に刀を握り続けてきたかを、喜三太は他の誰よりもよく知っていた。
 雷に打たれたように、急速に現実感が襲う。目の前の光景、その中心に据えられた刃の煌めきに怖気立つ恐怖を感じ、その震えが駆けあがるまま、知らぬ間に叫びが唇を割っていた。
「ッ、やめて! 与四郎先輩っ!! もういいから、もう充分だからやめてください!!」
 叫ぶ声が山に響き。
 刀は既に降り、血が柄を伝って滴る。金吾の表情は見えず、見返った与四郎だけが驚愕を隠しきれずに振り返ったまま身を固め、そしてゆっくりと刀を引いた。
 震えた喜三太の目に、赤い筋を引いたように血が滴る、繋がったままの金吾の手が見えた。
「金吾っ!」
 仁之進の制止を振り切り、今度こそ傍に駆け寄る。繋がったままの手首、そして金吾の頬に縋るように頬を擦り寄せ、喜三太はあられもなく顔を歪めて涙を流した。額に浮かんだ汗は球のようになり、傷みの酷さを伝える。それを滲む視界で見て取り、おぼつかない手で荷物を漁る。
「血止め……っ! それに傷薬、解熱剤……っ! あと……!!」
 震えた手が薬袋を取り出して処方していく手並みに、山野が深く頷き、黙ってそれを見届ける。それに与四郎、仁之進も倣い、ひとしきり処置が終わったところで、与四郎が喜三太の前に膝を折った。
「喜三太。やめさせたってこたぁ、その意味は分かってんな?」
 静かに諭す語調に、喜三太の目が伏せられゆっくりと頷く。きつく目を閉じて荒い息を吐く金吾の額の汗を拭い、ごめんねと耳元で囁いて、喜三太は改めて顔を上げた。
「……帰ります。僕は風魔に帰りますから、金吾から剣を奪わないでください」
 触れた頬には不釣り合いなほどに凛と響いた声、それに山野達は互いに視線を合わせ、頭を垂れる。それは唯一風魔の後継者として力を蓄えた次期頭領への服従の礼であり、そして喜三太は、それを目を伏せて享受した。
「金吾のこたーしんぺーねーべ。万一の時んことかんげーて、今日ここいらに馬ぁ飛ばしてくれるよう、団蔵に手紙送ったからよ」
「分かりました。じゃあ僕らは、このまま足柄まで帰るだけってことですよね」
「そうだ。……未練は、ここで捨ててけ」
 淡々と交わされる会話。憐れみすら混じった言葉の群れを耳に入れても尚それは現実味を帯びることはなく響き、そしてそれを金吾は信じがたいものを見る目で見つめ、どうしてと呻くように呟いた。
「喜三太、まだ、まだ僕は」
「お願い、無理しないで。また血が溢れたら本当に危ないんだよ。……ごめんね、金吾。結局僕は、我儘な一年生のままみたいだ」
 聞いてくれるかなと漏れ落ちた言葉に、言葉に詰まるように金吾が眉間を寄せる。
「ずぅっとね、色んなこと考えてたんだよ。前に話した、君がもしも先に死んでしまった時のことや、もしも他の仲間に酷い迷惑がかかってしまった時のこと、それに、父上達、先生達にまで危害が及んでしまった時のこと。……考えるたびに頭がぐるぐる回りすぎて、眩暈を起こしそうで辛かった。だけどそれでも、僕は金吾と一緒にいる未来が欲しかったんだよ。僕の心の中は、いつだって金吾がいっぱいいて、僕を叱ったり、慰めてくれたり、抱きしめてくれる金吾のことで爆発しちゃいそう。今だってやっぱり、まだまだ足りない、まだずっと一緒にいたいって思ってる。離れるなんて嫌だって暴れたい。だからね、一度考えたことがあったんだ。離れるくらいなら、もし君が死ぬとき、僕も一緒に死んじゃおうって」
 言葉に、周囲の三人を含め、四対の目が喜三太を注視する。けれどその視線に困ったように笑みを返し、しないよと頬を掻いた。
「しない。……うん、しない。あのねぇ、金吾。死んじゃおうってそう思ってたのにね、さっき金吾が手首を落とされそうになって、あぁダメだって思った。僕は君を死なせたいわけでも、君から剣を奪ってまで一緒に生きたいわけでもない。僕が知ってる、剣を一番愛して一生懸命な金吾のまま、僕に笑ってくれるのが嬉しいんだ。それが一番の望みだって気付いた。……だからね、ここで二人で死ぬなんて、それじゃあ全然意味がない。今まで二人で逃げてきたのは何の為だって怒られるのは分かってるけど、それでも僕は君を、君の剣を死なせたくなんてない。……だからお願い、どうか僕を行かせて。君は生きて、遠くからでもいい。僕のことを想っていて。……それだけで僕は生きられる」
 泣き笑いに濡れた言葉を掻き消すように、血に濡れた金吾の手が伸び、喜三太の体を抱き締める。背が痛むほど強いその腕の力にまた一度涙をこぼしてくしゃりと笑い、喜三太は少し伸びた髪にやわりと撫でた。
「もう一回、会えるよね。死に別れたりなんてしないよね。金吾は、ちゃんと生きていてくれるよね。……ねぇ、金吾。お願い、もう一回絶対に会うって、君の剣に誓って」
「誓う。生きるよ。……だけど、一度なんかでたまるか」
「はは、そうだねぇ。もっと、会いたい、……ねぇ」
 喉がひりつき言葉尻がしゃくりあげてしまった事実を誤魔化そうと、情けない泣き顔を見られないように肩口に顔を埋めて力なく笑う。けれど濡れ広がる温かさは隠しようもなく、金吾は唇を噛んでただ喜三太を抱く手に力を込めた。
「夢みたいだった。幸せでした。幸せすぎて泣きそうだった。……ありがとう、金吾」
 頬への微かな温もりを最後に、腕の中に会った体温が擦り抜ける。
「喜三太!」
「また会えるよ。絶対。だからそれまで、僕のこと覚えていてね」
 傅いた山野達に囲まれた喜三太が、既に風魔に戻ってしまった遠い存在に感じてそれ以上言葉も出ない。震えた脚は立つことさえままならず、思考は流れ過ぎた血液のためか霞がかった様に判然とせず、恥や外聞もなく、金吾はただただ喜三太へ向かい手を伸ばした。
 そして、いつか見た夢のようだと思う。
「……また、ね」
 背中を見せる直前、喜三太が見せた泣き出しそうな笑顔までもがかつての夢と同調する。白んでいく思考と倒れいく体、その中で金吾は、砂を蹴って駆ける蹄鉄の音を聞き、意識を手放した。



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