山々は青い空と深緑に囲まれ、清かに葉を鳴らす。吹き抜ける風に冷たさはもう微塵もなく、むしろ湿気を僅かな熱を孕んで吹き抜ける風に笑みを浮かべ、喜三太は空を見上げた。
 既に里を離れて半刻。未だ町にも人里にも、まして山間の茶屋にも至らぬ道で、道祖神の傍らで早くも一つ息を吐き、多少の遠出では疲れぬはずの体力を温存したまま腰を下ろした。
 六年間、長期での休みのたびに歩いた慣れた道。それを一歩一歩踏みしめつつも、あえてゆったりとした足取りで喜三太は歩を進めていた。
 なにも盛夏を誇る道を堪能する気持ちはない。それどころか今や自分にとって二番目の郷里と言っていい学園へと急ぐ気持ちは確かにあるものの、それ以上に、不安が胸中で渦を巻く。
 それを感じ、抑えつける様に胸元を握り締めた。
「……手紙も書けなかった、なぁ……」
 搾り出すようにポツリと呟き、竹筒を煽って水を飲む。
 里に戻りひと月と少し。その間行動を制限されることは一度としてなかったが、なぜか喜三太は、金吾の無事を尋ねる手紙を出すことが出来なかった。
 所在が分からなかったわけでもない。与四郎によれば団蔵が迎えに馬を飛ばしてきたはずだと言っていたことを考えれば、単純に団蔵に手紙を送れば事は足りたはずだった。
 もしくは、恐らく全ての流れを掴んでいるはずの庄左ヱ門に送れば、事は足りる。
 それでなくとも実家へと戻った者の多い級友達のこと。誰か一人にでも連絡をとれば、必ずその回答は得られると確信することも容易い。
 けれどそれを知りながら、喜三太は手紙を出せなかった。
 あえて言うのならば、筆を執ろうとしたことは一度ではない。それも先述した団蔵、庄左ヱ門を始め、所在を掴めている全ての級友に書こうとしたものの、とある文字に差し掛かるたび、手が綴りを拒絶した。
 風魔へ戻ったこと、皆に迷惑をかけたことへの謝罪までは書き進められても、金と言う文字を書こうとするたび筆先が震えた記憶。その記憶と、今現在、胸中に渦巻く不安が混同する。
 生きろと言っておきながら、再会を誓わせておきながら。万が一、億が一の場合を想像してしまっている自分の不誠実さに、罪悪感が襲った。
「大丈夫だよね、生きてるよね、金吾。他の誰が疑っても、僕が疑ってちゃダメだよね」
 見上げた空に向かい、ごめんねぇと笑ってみせる。風でさらりと流れた髪に、心地よさげに目を細めた。
 その言葉と姿を、金吾は身を潜めた木陰で聞き入っていた。
 視線はあまり向けないまま、静かに唇だけを笑みに歪める。いかに喜三太の普段がふわふわと頼りなげでも、長く視線を向ければその気配に気付くことは熟知していた。
 そのために、ごく小さく、口の中で呟きを漏らす。
「……馬鹿だなぁ、喜三太。そんなことを気にしてたのか」
 逸る気持ちを抑えきれず、寝る間を惜しんで旅路を急いだ金吾が足柄に辿りついたのは、この日の早朝だった。
 朝露に濡れる木の葉、その陰から喜三太を見つけた時は声を上げて駆け寄りたい気分だった。六年間、たとえ長い休みであろうとも旅路を共に歩いた関係。たとえこういった間柄でなくとも、ひと月もの間、一目も会えずに過ごしたことはない。ただでさえ、これまでの帰省とは事情が違う。
 けれど隠密での護衛を任せられた以上、そんな軽率な行動に出るわけもいかず、飛び出そうと足掻く足を戒めた。
 それを想い、金吾は細く息を吐いた。
「お前はまだ知らないけど、僕はもうお前の近くにいるよ。喜三太」
 呟き、ちらりと道祖神へ視線を走らせる。見ればようやく一歩を踏み出す決意がついたのか、腰を上げて力の限り背伸びをしているところだった。
 まるで猫の鳴き声のような言葉を発しながらの行動に、相変わらずすぎると喉が揺れる。
「よぉっし、今日は駿河の真ん中辺りまで行くぞー!」
 気合の一言に、また笑みが漏れる。通常であれば七日から八日掛かる旅程、確かにその程度が妥当だろうと納得した。
 学園から足柄までをものの五日間で踏破出来てしまったのは、偏に六年間を体育委員として鍛えたからだとの自負がある。
 歩き出した喜三太に倣い、気配を断ったまま木々の隙間を進む。季節柄、枯葉を踏みつけて音を出す心配はないが、出来るだけ木の根の上を選んで足を運んだ。
「思ひは陸奥に、恋は駿河に通ふなり。見初めざりしばなかなかに、空に忘れて止みなまし」
 清かにそよぐ枝葉の音に混じり、口ずさまれる歌が聞こえる。その声音に心地よく耳を傾けながらも、金吾は苦笑を浮かべて頬を掻いた。
 忘れちゃダメだろ、とただただ引き攣る。
 それ以降も、道すがら何度も喜三太の足は止まった。それは概ねにおいて茶屋での休憩と暗い草叢へのナメクジ探しだったが、そんな道草すらも現状ならば許容できると、金吾はその時間の流れに身を委ねた。
 これでこの距離さえなければ、互いに愛しい思い出になるものをと口惜しさが滲む。
 そもそも、自分だけが相手を知覚出来ている幸福を味わっていることが、喜三太に対し申し訳なかった。
「第一よく考えれば喜三太が襲われないに越したことはないんだから、僕が隣にいてもいいんじゃないのか」
 ぼそりと愚痴り、けれど頭を振って邪念を払う。今やお遣いではなく仕事として請け負っている以上、依頼内容への愚痴はあってはならないと己を律した。
 そこから宵闇が落ち、宿を求めた喜三太が旅籠で眠りについても、状況に変化は起こらなかった。
 護衛のために時間をずらして入った同じ旅籠。虚言を用いて隣室を誂えてもらった金吾は、まずは一夜目の安全を確信し、ほぅと安堵の息を吐いた。
 隣室で眠る喜三太の気配。錯覚であるとは知りながらも僅かな温もりすら感じるそれを感じ、自身も短い休息を取るべくゆるりと目を閉じた。
「……いざ寝なん、夜も明け方になりにけり。鐘も打つ。宵より寝たるだにも飽かぬ心をや、……いかにせん」
 喜三太の歌を真似、小さく口ずさみ、薄く笑みを浮かべる。
 翌日、そしてその翌日すらもこうして平穏に夜が明けることを祈り、金吾は眠りに落ちた。


   ■   □   ■


 動きがあったのは、翌日からだった。
 駿河の山間部を抜けると、ほどなく関所を越え、遠江の農地に入る。その関所を抜けた辺りから、数人が入れ替わり立ち替わりに周辺をうろつき始めていた。
 まずは関所でもたついていた商人。茶屋で休んでいた旅人。布施を請っていた虚無僧。そして、神社で見世物を開いていた猿楽師。
 普段はそれと気付かなくても、ちらりと走らせる視線の鋭さで察する。
 よくも一日でこれだけの人数が来るものだと溜息が出た。
「……モテモテじゃないか、喜三太」
 皮肉交じりにそう呟き、危険が及ばぬよう警戒を強めつつ、時に遠く、時に近くを歩く。近付く際は気付かれないかと動悸が早くなったものの、幸いにも喜三太が金吾へ視線を向けることはなく、警戒は順調に行われていた。
 偵察が一人抜ければ一人増え、二人が抜ければ二人が増える。
 その繰り返しに些かうんざりとしながらも、余すことなく周囲に目を光らせる。もはやいつなにを仕込まれても不思議はない。そう心得、金吾は常に緊張の糸を張っていた。
 しかしそれを、あえて断ち切るような事態が起こる。
「お疲れ様でしたぁー!」
 町へと至る分かれ道。そこを抜ける際、喜三太が朗らかに手を振った。
 夕暮れの道で行うそれは、まるで親しい友人か顔見知りにするような柔らかなものと変わりない。かと言ってにこやかな笑顔を向けての労わりの言葉は、無論、金吾にではない。が、もちろん知り合いなどいるわけもなく。
 よりによって喜三太は、叉路で離れていく、村人に扮した偵察者に向かって手を振っていた。
「ちょ……っ!」
 その時声が届かなかったのは幸運か、不運か。
 僅かばかり離れていたために思わず制止しようとしてしまった言葉は届かず、その手が肩を掴むことはなかった。
 けれどそのために、周囲を歩いていた他の刺客達も虚を突かれたように愕然とした表情で喜三太を見る。振られた側などは顔色が蒼白だった。
 もはや刺客だの偵察だの、それぞれが自分の立場を忘れたような反応である。
 それを見、刺客を刺客と見破ることはあっても、わざわざ声を掛けてあまつさえ手を振るなど、型破りもいいところだとこそりと頭を抱えた。
 毒気を抜かれたように呆けた周囲の人影に向き直り、喜三太がまたふにゃりと表情を緩める。
「今日僕、町の旅籠に泊まろうと思うんですけどぉ。さすがにお宿で危ないことすると迷惑だし、攫われちゃってもきっとお宿の人が慌てちゃうんで。今日は皆さんも初日で疲れてると思うんで、なにかするなら明日からにしませんかぁ?」
 柔らかな声音に、さらに周囲は言葉を失う。同じ城なのか、それとも別の城なのか。見ている側にとってそんなことは判然としないが、まさか正面きってこんな言葉が降りかかるとは思ってもいなかったのだろう。互いに顔を見合わせたと思えば、曖昧な笑みを張り付け、また、曖昧な返答を返した。
 えぇ、まぁ、はぁと、困惑を隠しきれない言葉が漏れ落ちる。
「へへ、よかったぁー。遠州は菜飯田楽とか名物もあるし、ちょっと足を休められたらいいですねぇ」
 その答えに満足げに笑みを浮かべ、喜三太がくるりと背を向ける。足取りも軽く町へと歩き出したその背中を見送る面々を尻目に、金吾は無関係を装い、軽く会釈をして後を追った。
 勿論、そんな馬鹿な口約束が通用するとも思えない。
 前日と同じく隣室を確保できた金吾は、刀を抱えて柱を背に眠りに就く。僅かな物音でも目を覚ませるよう、眠りが浅くなる体勢を保った。
 しかし無残にも平和に夜は明け。
 予想は外れ。
 安穏な五日間の後に、既に六日目の朝を迎えていた。
「…………なんだこれ」
 寝不足のために隈の出来てしまった顔を叩き、疲労が溜まった時用にと乱太郎から渡されていた黒胡麻をザラザラと口に含んで噛み砕く。その顔に今日には伊賀の山に分け入ろうという安堵の色は薄く、むしろ納得のいかない困惑が滲んでいた。
 宿を発ってもう一刻。体力も回復した喜三太は機嫌よく遥か前方を進み、晴れ渡った空を見上げてにこやかな笑顔を浮かべているようだった。
 むしろそれは願ったり叶ったりだが、煮え切らない思いがもやもやと腹の底に溜まる。
 二日目以降、偵察や刺客の数は目に見えて減り、それも喜三太が旅籠に入ると同時に示し合わせたかのように離れていった。まさか馬鹿正直にあの言葉を守っているとも思えないが、もしや風魔の跡継ぎがうつけだと思われたのだろうかと一人苦悩する。
 アホのは組という名称はもはや総称のあだ名のようなものだが、さすがに卒業した今でもそう思われるのはどうなのだろうと首を捻った。
「わが恋はぁ、一昨日見えず昨日来ず、今日おとづれなくば明日のつれづれいかにせんー」
 風に乗って聞こえてくる歌声に、人の気も知らないでと溜息が洩れる。けれど不意に周囲の気配のなさに気付き、金吾は襲い掛かりつつあった眠気も忘れて辺りを見回した。
 昨日までは確かに二人ほどいたはずの偵察がなく、まして一般の行商人や野良仕事の人影もない。それは不自然なほどの静けさで、金吾は慌て、喜三太との距離を詰めた。
 しっかと意識を保ってみれば、道はもう山へと向かう坂へと差し掛かっている。
「……どっちにしろ阻むなら明日までだ。なら叩くのなら、この山中というわけだな」
 ようやく仕事らしい仕事が出来そうだと指を鳴らし、道を行く喜三太と離れて木々の間を歩く。さていったい何人待ちかまえていることやらと唇を舐め、まるで戦闘を楽しむかのような自分の発言を自嘲した。



−−−続.



※恋歌現代語訳
 思ひは陸奥に 恋は駿河に通ふなり 見初めざりしばなかなかに 空に忘れて止みなまし
  【思いは道の奥に、恋はするがに通うもの。もしも見初めなかったら、むしろ綺麗に忘れて終わったものを】

 いざ寝なん 夜も明け方になりにけり 鐘も打つ 宵より寝たるだにも飽かぬ心をや いかにせん
  【さあ寝よう、空も明るくなってきたし鐘も鳴る。だが宵から寝てさえまだ尽きない恋心を、さあどうしようか】

 わが恋は 一昨日見えず昨日来ず 今日おとづれなくば 明日のつれづれいかにせん
  【恋人は一昨日も見えず昨日も来ず。今日も来ないとなったら明日は退屈だ。じゃあ誰と恋しよう】

出典:梁塵秘抄



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