目覚めてから十日で学園に戻り、教員宿舎の空き部屋を借りて寝起きする生活がもう三週間ほど続いていた。
 やはり慣れ親しんだ空気や緊張感なく過ごせることがいいのか、腹部の傷も治りは早く、もう随分と塞がってきていた。在学中から散々世話になった医務室の医師と助医師の腕がいいことは承知の上だったが、それでもここまで回復が早いといっそ感動してしまう。
 自身の治癒力が高いのだと評されたが、治療の助けなしにここまでのものは望めなかったろうと感謝の気持ちは絶えない。
 学園長には直接仕事の受諾を申し出、問題なく承認された。その雰囲気があまりにも満足気だったため、恐らく師に話を持ちかけた時にはもう自分に任せるつもりだったのだろう。それを思い、ほんとうにいつまでも遊び心を忘れない方だと頬を緩めた。
 教員見習いとして学園に勤める兵太夫だけでなく、会ったばかりの団蔵や農家を継いだ乱太郎、フリー忍者のきり丸、四方髪の術で佐武衆と染物屋の二足の草鞋を履いている伊助、炭屋の傍ら学園の穴丑を務める庄左ヱ門も一度は顔を覗きに来、なにはともなくと無事の帰還を祝ってくれた。
「あのまま死んでたら墓の前で指差して笑ってやったのに」
 門を潜った途端に出迎えた兵太夫が言った言葉。
「さっすが体育委員、たった十日でここまで帰ってくるとは思ってなかった」
 これは翌日、荷物を届けに来た団蔵のもの。
「ちょっと、傷開いてない!? ホント無理しないでよ、こっちの心臓がもたないんだから」
 顔を合わせるや否や、着物を引き剥がしにかかった乱太郎の言葉。
「俺が血と汗と涙を流しながらお前に渡したあれ、役に立ったろ?」
 食堂で昼食を食べようと立ち寄ったきり丸の、ウインクと同時の言葉。
「二人が無事か、佐武でも心配してたんだ。当初の目的結果はどうあれ、元気でよかった」
 見舞いにと饅頭を持参した伊助の言葉。
「兵太夫から話を聞いた後、すぐに他の皆にも連絡したんだけどね。しんべヱは取引の都合、虎若はお父上との遠征で、三治郎はちょうど霊峰に入らなきゃいけない時期と重なったってことで見舞いには来られないってさ。どうせなら全員顔を出せればよかったんだけど」
 庄左ヱ門はそう言って、古物商で見つけたと言っていた笹竜胆の彫り込まれた鍔を渡してきた。
 ちりと音を立てて芯を燃やした蝋燭の明かりが、揺らぎながら宵に落ちた室内を照らす。刀に取り付けられることなく未だ卓上に置かれたままの鍔を見遣り、洒落にしたって面白くないと苦く笑う。
 だが卒業してからたった二ヶ月とはいえ、それぞれの道を歩んでもやはり変わることのない友人達の言葉は本心から嬉しかった。
 学園に戻ってからというもの学生時以上に鍛錬に励み、体の調子も上々の仕上がりを見せていた。一度現体育委員長と腕慣らしの立ち合いに臨んだが、やっぱりあなたは化け物だと泣きそうな顔で叫ばれたことが記憶に新しい。
 本当ならば自分より一学年、もしくは二学年上の先達との立ち合いが望ましかったが、当たり前のようにここにその姿はなく、金吾は昔日の幸運さに思いを馳せた。
 足柄へ向かい発つ日は、既に明日に迫っていた。
「明日発って、東海道を急げば四日。……うまくいけば、五日後には喜三太の姿が見られる」
 呟いて、この位置からでは見えることのない生物委員会の飼育倉庫の方角へ目を向ける。歴代生物委員長の精神を受け継いだのか、喜三太が置いていったナメクジ達は現生物委員でも嫌悪の対象にされることはないらしく、住み慣れた壷の中でのんびりと生きているらしかった。
 ほぼ強制的にナメクジへの耐性をつけられた過去に、まぁそれも良かったのかもしれないと笑む。
「笑ってるといい。喜三太が」
 旅立ちのための支度を進めながら、柔らかなばかりの笑顔を想う。護衛の任自体はなにもなければいいと祈りながら、それでも逸る気持ちは抑えられそうになかった。
 そんな中、ことりと音を立てて木戸が開いた。
「ぃよっ! 準備は進んでるかねヘタレ剣豪」
「兵太夫」
 ひょこりと顔を覗かせた級友の減らず口を気にも留めず、数度瞬く。もう夜半も過ぎ、担任持ちの教師ですらテストなどの採点を終えて眠りについている頃合いだと判断し、金吾は怪訝に首を傾いだ。
「どうした、こんな時間に」
「ちょっとね。夜は冷えるもんでさ、入ってもいい?」
「勿論。今の僕は学園の居候だ」
「センスないなぁ。せめて臨時の用心棒とでも言えばいいのに」
 カラカラと軽快に笑い、お邪魔しますと断ってから入室する。木戸を閉める瞬間ちらりと辺りを気にする兵太夫の様子に違和感を覚え、金吾は僅かに声を潜めた。
「……学園内でも人目を憚ることか?」
「まぁね。生徒や教員見習い、事務員なんかにはまだ伏せられてる話だよ」
「お前だって教員見習いだろ」
「いいんだよ僕は。各所カラクリの点検作業とかしてるとさ、上やら下やら、いろんな所から話が聞こえてくるの」
「怪しい動きをしたら一番に殺されるタイプだ」
 冗談めかして互いに笑い、不自然でない程度に間を詰める。それでと問う金吾に、兵太夫は曖昧な笑みを見せた。
「実のところ、学園を邪魔にしてる城がまたちょっと増えちゃってるみたいでね。先生達がちょっとピリピリしてるんだ。まだ直接やり合ったことはないらしいんだけどさ、いろんな城から情報を見聞きしたらしい。特に【入学時から人数を減らさずに卒業した化け物クラス】を輩出した翌年だ。あちらさんは今後もそんなことになるんじゃないかと異常に警戒してるみたい。バッカだよねぇ、集まりゃ確かに強いけど、個人個人の力は偏りまくってるとは知らずにさぁ。……でもそういう先走りしかけてる城は、学園に新しい技術が入る動きを察知したら芽を摘もうとする可能性がある」
「護衛はそのためか」
「ご名答」
「でも、それならそうと言ってくだされば」
「バーカ、言うわけないだろ」
 心底呆れた様子で、兵太夫が後ろ手に腕をつく。
「言ったらせっかくのお膳立てが台無しじゃん、あの遊び心と好奇心で余生を延ばしてる学園長なんだしさぁ。考えてもみろよ」
 ―― 任務を帯びて人知れず愛する人を見守る忍が、相手の窮地に思わず飛び出し颯爽と助ける感動のシーン! 駆け落ち途中で引き裂かれた恋人同士がよりドラマティックに再会する演出として、これ以上のものが望めるか!?
「わざわざ矢羽で言うことか!? ていうか、そんな演出いらないし! 拒否だ拒否! いやいやそれよりも、なんで学え」
「いやぁーん、金吾ってば声おっきぃー。深夜に騒いだら怒られちゃうぞぉー」
「…………っッ!!」
 怒鳴れない腹いせに、ダンダンと二度、床板を殴る。穴開けるなよとからかい言葉を掛ける兵太夫を睨みつけ、一度落ち着くために息を吐いた。
 ゆっくりと心を落ち着け、押し込めた声で呟く。
「なんで学園長がそんな演出をする必要がある。知るわけないだろあの人が」
「おやまぁ、随分と楽観的だなぁこの剣豪様は」
 三代前の作法委員長の口調を真似た言葉に、苛立ちが湧く。やはり兵太夫とは差し向かって話すには適さないことを再確認するも、金吾は次の言葉でそれすら忘却することとなる。
 嘲笑うように、兵太夫が見下した。
「二人で逃げたって時点で、お前と喜三太の関係は先生方にはもうバレてんだよ」
 にぃと唇を吊り上げた趣味の悪い笑みに、一瞬時が止まる。
 遠くで鍛錬に励む在校生の走る音すら聞こえる静けさの中、金吾は目を開いたまま、意識を失い後ろへと倒れ込んだ。


   ■   □   ■


 場面は四日後の足柄へと移る。
 陽は既に山向こうへと沈み、空は朱を通り越した紫闇に染まっていた。風魔の里にも一つ二つと明かりが漏れ出している。
 それを本家にある自室にある格子窓からそろりと覗き、短く息を吐いて床に座り込む。手元に置いた蝋燭に火を灯せば、目の前には旅立ちのための荷物が乱雑に散らかり、もう半分以上気力が萎えかけていた。
 勿論投げだしたい仕事ではないが、あれこれと荷物を選ぶ手順が面倒で仕方がないといった様子で表情が曇る。学園なら金吾が、もしくは伊助が手伝ってくれたのにと肩を落とす。
 項垂れていても荷作りが終わるわけでもない。諦めて風呂敷を広げ、幻術に使う粉薬の袋を三袋と毒薬、解毒用の薬、鳥の子を包んだところで喜三太の手が再び止まった。やはりもう床板が限界なのだろう、酷い軋みが廊下から聞こえる。
 逆にいえばこれほど防犯に役立つ仕様はないのだけれどとこそりと思う。そういえばと、上級生になってからの自分達の長屋がわざと恐ろしいほどの軋み音を発するように改造されていたのを思い出した。
 もっともあれは右端の一列だけは鳴らないが、それ以外の場所を踏めば床が鳴るだけでなく様々なカラクリが襲いかかるという仕様だった。
 学園の誇るカラクリ技師とその助手が至極楽しげに作っていたことを懐かしみ、思い出し笑いが口をつく。
 建てつけの悪い木戸が音を立てて開いた。
「なんだ、えれー楽しそーじゃんかよー、喜三太」
「与四郎先輩」
 喜三太の声に片手を上げて応えた与四郎は遠慮を得ないまま入室し、許可も得ず床に腰を下ろす。しかしそれも当たり前のこととして部屋の主はにこにこと受け入れ、敷物もない部屋ですみませんとへらりと笑んだ。
「ん、今日はえー顔で笑ってんな」
 ぐしゃりと頭を撫でてくる掌にくすぐったそうに肩を竦め、はしゃいだ声を上げる。里に戻ってからはやはり圧し掛かる重圧のためか、あまり聞くことのなくなっていたその笑い声に与四郎は目を細めた。ちらりと周りを見れば、旅支度の荷物が散乱しているのが目に入る。その様子に、あちゃあと小さく呟いた。
「喜三太ぁ、おめーまぁたジグドーして支度サボってたべ。じょーじょーせってんでねぇか、こーゆーンははえーことしときゃーゴッチョーするこたぁねーンだ」    ※ジグドー:怠け者、じょーじょー:いつも、はえー:早い、ごっちょーする:困る
「んー、それは分かってるんですけどぉ。でもめんどくさくて」
「そーゆーンはかーんねぇなぁ」    ※かーんねぇ:変わらない
 楽しげに笑い、さてと一度息を吐く。その与四郎の雰囲気にくてりと首を傾ぎ、喜三太はどうしたんですかぁと間延びした声で問った。
 緊張感を砕く声に、思わず苦笑が漏れる。
「いーか喜三太、よーく聞くだぁよ」
「はい」
 柔らかな雰囲気に流されないよう、膝上に置いた手を握り締める。未だにこにこと笑みの絶えない表情を気圧すようにきつく見返し、与四郎はゆっくりと唇を開いた。
「風魔ってなーな、今までどこンも組みしちゃあこねぇかった。そんだからってんで、てーげーんこたぁ見逃してた城も多い。けどよ、明日っからはちげぇ。オラ達が自分から他ンとこと組もうってぇのは、そーゆー先ンとっちゃあえれぇ厄介な話だぁよ。……なンがあっか分かんねー。まごらまごらして、つらめーンじゃねーぞ」    ※まごらまごら:うかうか、つらめる:捕まる
 真剣な口調で言い切られた言葉に、喜三太は数度大きく瞬き、今度は少し大人びた表情で目元を和らげた。
 格子窓から入り込んだ風で揺れた炎が、それをさらに柔らかな色で飾る。
「はい」
 目を細め、僅かに口角を上げた表情。こういった話の時に凛とした雰囲気でなく、あえて柔らかなそれを見せる喜三太に与四郎はくしゃりと苦笑を浮かべた。
 厳しさばかりが先行してきたといってもいい里の歴史を、この次期頭領が変革に導いていく未来を感じざるを得ない。
「……でっけぇ器こさえやがって。いまテンゴロマッコも出来やしねー」    ※いま:もう、テンゴロマッコ:肩車
 呟かれた言葉に、喜三太は照れたように笑む。それから目を逸らすように視線を伏せ、つられたように笑みを浮かべながら、与四郎はゆっくりと立ち上がった。
「邪魔してわりぃかったな。明日ぁはえーぞ」
「はい。支度を終えたらご飯食べてお風呂に入って、それからすぐ寝ます」
「んならえぇ、うんと寝ろ」
「はい。……っ、与四郎先輩!」
「うん? んだ、上がりハナまでの見送りならいらねーぞ」
「や、あの、そうじゃなくてっ……」
 呼び止めたはいいものの、言葉に迷って視線が泳ぐ。あーうーと母音で粒がれる苦悩を寛容に待ち、与四郎は木戸に手をかけたまま喜三太の姿を見守った。
 ようやくになり、言葉の決まったらしい喜三太の目が与四郎を見る。
「……っ、僕のこと、ずっと、守ってくれて! ありがとうございました!!」
 突然の言葉に、与四郎の目が見開く。見上げてくる瞳は、うっすらと水気に揺れていた。
 一瞬ぐらりと振られるような動揺に見舞われたが、それでもそれを気取られぬように気丈に笑みを浮かる。そのまま物言わず手を振ることで返答の義務を果たし、与四郎は部屋を出た。
 木戸を締め。
 廊下を行き。
 角を曲がったところで、力なく壁に背を預ける。
「……気付いちまってんのかなぁ、喜三太。だとしたらてぇしたもんだべ」
 ずるりと座り込みそうになる足に力を入れ、今更惜しがっても仕方ないと自嘲し、頭を振る。次代頭領から叫ぶように紡がれた感謝の言葉、それが自分への最大級の餞と心得、与四郎は深く息を吐いた。
「お役御免になるにゃ、えぇ頃合なんだべ。オラよか適任がいンなら、尚更だぁよ」
 口の中で呟き、山村家の玄関へ向かう。この協定がうまくいけば自身もこの里を離れることを想い、与四郎は宵闇に落ちた里を愛しむようにゆっくりと歩き巡った。



−−−続.
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