未だ温もりの残る布団を片付け、恭しい所作で戸部を通す。気遣う必要はないと笑われたものの、敬愛する師の前では出来るだけ無様な姿を見せたくない思いは誰しも同じはずだと、あえて固持した。馬借宿の勝手は分からないため茶も出すことが出来ない分、せめて室内くらいは出来るだけ恥ずかしくないようにしなければと息を吐く。
 菓子程度でもあれば、師の天敵である空腹が長く凌げるのにと僅かに唇を尖らせた。
「仮の宿とはいえ、なにもお構い出来ず申し訳ありません」
「良い、気にするな。もとより怪我人に持て成されようとは思っておらぬ。それよりも、兵太夫からは瀕死であったと聞いたが……本当に寝ておらんで良いのか」
 兵太夫の名が出たことで、戸部の現れた訳に合点がいく。仕事で学園に戻ったかのカラクリ技師が、今や同僚である師に自分の急場を知らせたのだろうと想像した。
 その心遣いが嬉しい反面、未熟さを露呈せざるを得ないこの状況に、複雑さも入り混じる。
 そんな金吾を見遣り、戸部は稽古をつける時のように眼を細めた。
「金吾」
 緊張感を増す呼びかけに、知らず、背筋が伸びる。自然と視線は戸部の目を見返し、固く引き結んだ唇で、はいと小さく返答した。
 六年間で見知った清廉な空気に、ここが学園の師の部屋であるような錯覚を起させる。
「後悔はあるか」
 言葉に惑うことなく、金吾の唇が答えを紡ぐ。
「いいえ、ありません」
「怒りはあるか」
「約束を守れなかった己にのみあります」
「ならば悔いはあるか」
「己の腕の未熟を、悔いとは思いません」
「志はあるか」
「生きろと言われた言葉に従い、生きます」
「ならば金吾。二度と会うなと言われれば、どうする」
「…………っ!」
 ここに来て初めて、金吾の瞳に動揺が走る。つい先刻、感情が漏れすぎだと団蔵に言われたばかりなのにと自制しようとするも、唇の戦慄きは止まらない。
 戸部の瞳は記憶と変わらずただただ静かに金吾を見据え、手塩にかけた弟子の言葉を物言わず待っていた。
 会うなと仰せですかと言いかけ、やめる。そのような感情に任せたような物言いなどすべきではない。
 なぜと問いかけ、やめる。風魔側が円満に収まったからと言って、自分達がしでかしたことを考えれば当然と思えた。
 それ以前に、問に愚問で返すばかりではあまりにも馬鹿馬鹿しいと自嘲する。
 ならば答えなど一つしかないと、金吾は顎を引き、師へと向き直った。
「背きます」
 凛と響く声音が、室内を満たす。叱責や落胆など、恐れてはいなかった。
 返答に目を閉じた戸部が、ゆっくりと息を吐く。もはや師弟の縁も切られるものと覚悟した金吾を、時をかけて開いた瞳が見返した。
 その双眸が、柔らかに曲線を描く。
「お前はもう、本当に私の手を離れてしまったのだな。金吾」
 慈しむ声音に、金吾の瞳が見開かれる。ゆっくりと前に乗り出される体から伸ばされた掌が、まるで下級生の頃のように頭を撫でた。
「覚悟を持って臨んだのなら、私はお前を責めはせん」
「先、生」
「真っ直ぐに育ったものだ。あのは組に転入し、私と家屋を転々とし、玄南君と競い、六年間で計り知れないものを得た。……愚直ではあるが、そんな生き様も悪くはない。お父上もきっとそう言ってくださるだろう」
 土井先生と山田先生に感謝せねばならんと笑う言葉に、どうしようもなく視界が歪む。鼻筋が痛み、目頭が熱くなり、吸いこむ息が量を少なくした。
 声を出すことも出来ない金吾を見、戸部がまた笑う。
「泣き虫だけは未だ治らんな」
「治、りっ! ましたっ!」
「泣きながらでは反論にもならん」
 笑う声と頭を撫でる手を振り払うことも出来ず、唇を噛みしめたまま金吾の頬を涙が伝う。ぼろぼろと子供の頃のように落ち続ける涙を恥ずかしく思いながらも止めることさえできず、せめて見られまいと俯いた。
 上がっていた呼吸が次第に落ち着き、床板に落ちる水音も消えていく。ようやくになり治まった感情を頬を拭うことで整えると、失礼しましたと呟き頭を下げた。
「もう少し子供でおれば良いものを」
「い、いつまでも童扱いはごめんです!」
「そうか、そうよな。師の手すら離れた弟子の、なにが童かという話だ」
 顔を紅潮させての反論に含むように笑い、戸部が元いた位置に座り直す。それに倣い金吾も座を改めると、互いにまた正面から向き合った。
「時に金吾。お主、学園の仕事を請け負う気はないか」
「……学園の仕事、ですか。このような体で出来るものですか?」
「いや、時期はまだ先だ。だが、今のうちに請け負ってもらえるのなら越したことはない。学園長が適任に悩んでおられてな。心当たりがあるのならと、私に一任された」
 この時点で、妙な話だと思う。耄碌したとはいえど、学園長は数多くの高名忍者を輩出した自負を持ち、そしてすべての卒業生、在校生をしっかりと記憶している人間だというのは、学園関係者なら誰でも知っている事実だった。
 悩むことは多々あれど、簡単なお使いというわけでもなさそうなその仕事の担当者選別を、他者に一任するとは考え辛い。
「どのような仕事か、詳細をお教え頂けますか」
「無論。まぁ、なに。難しい仕事ではない」
 喉の調子を整えるためか一度咳払いした戸部の言葉を、ただ座して待つ。
「忍術学園が流派に捕らわれず、様々な忍術を広く教えているのはお前も知っての通りだ。様々な技術を学び、己に合った方法を自らで考案する。故に学園の卒業生達は他に類を見ない技術の持ち主として各地の城に受け入れられているわけだが……残念ながら、未だその理念が理解されず、講師を招けていない流派の里も多数存在する。そのことが学園長の長年の憂いだったのだが、この度、とある忍び里から協定の申し入れがあったのだ。各地の城主達が戦に明け暮れる今、一介の忍者などは使い捨ての駒としか見ない城もある。無論そのような無情な城主ばかりでないことは承知の上だが、学園と違い、限られた中でのみ技術を守り伝える忍び里では今や技術の後継が危ぶまれるような時代だ。如何に独立した一集団と言えど、技術を継ぐ者がいなければ滅ぶだけの存在。それならば、里の外の者にも技術を伝え、なんとか自分達の足跡を残した方が利口ではないかとな。そのための協定申し込みだ」
「なるほど。教師として人員を派遣する、その上で、一方の存続が危うくなればそれを助ける協定を結び、繋がりをより深めると。……そういう話ですか」
「うむ、理解が早くなったな。土井先生と山田先生の苦労が偲ばれるというものだ」
「昔の話はやめてくださいお願いしますからっ!」
 金吾の頬を赤らめての二度目の反論に、戸部がことさら可笑しげに笑ってみせる。所詮は卒業まで学力の向上を一切見せなかった学級であることを改めて思い起こして恥じ入る弟子に、師は喉を揺らして謝罪した。
「すまぬ、揶揄したわけではないのだ」
「分かってはいますが、ホント勘弁してください……」
 途端に疲れた様子を見せる弟子を労わり、戸部が竹筒に入った水を手渡す。それをありがたく受け取り、金吾は遠慮なく一口煽った。
 自分で思うよりも喉が渇いていたのか、それは清かな味わいで口内を潤した。
 一息吐いた金吾に、ここからが仕事の内容だと戸部が告げる。
「ひと月後、協定の使者が学園を訪れる。お前にはその護衛を頼みたいのだ」
「護衛」
「そうだ。だがしかし、決して本人に気付かれてはならん。付かず、離れず、だが脅威が迫った際には確実に守れ」
「……そのお使者、要人ですか」
「そうだ。件の里の次代頭領でな、万が一にも失うわけにはいかん。腕は立つが、なにぶんぼんやりとすることが多くてな。あちらの長老からくれぐれもと頼まれている」
 苦笑する師の顔を、茫然と見つめる。耳に入った音を未だ言葉として組み立てられていない様子の金吾の表情に息を吐き、戸部は障子から透ける陽を見上げた。
 障子紙が猩々緋の陽に照らされ、茜に染まり、梅紫に代わっていく。
「お前と喜三太が念者、念弟の関係であることくらいは分かっている。なにぶんあの校風だ、そういった者も少なくない。しかしだからこそ、その結びつきは強かろう。ろくに別れも告げられず離されたとなればなおさらだ」
 大きく息を吐き、俯いた戸部の瞳が閉じられる。それが再び開かれ金吾に向き合った時、それは今まで見たこともなく、悪戯に笑んでいた。
「次こそは守り、私に弟子を誇らせてみろ」
「っ、……はい! 謹んでその任務、お受け致します」
 深く頭を下げ、言葉に出来ない感謝をも織り交ぜ静止する。その姿に戸部はまた柔らかに笑み、さてと呟いて膝を打った。
「そうと決まれば早くその怪我を治し、腕が鈍る前に鍛錬に励まねばならんな。栄養のあるものを作ってやろうにも、言ったところで私の腕前。それならばいっそお前の回復をもうしばらく待ち、学園に戻ってからおばちゃんの料理を食べさせたほうがよほど良いというものだな。どうだ金吾」
「はい、妙案かと」
「そうか、ならばそうしよう。さしあたって今宵は焼き魚というところか。金吾、お前はもうしばらく床に就いておけ。怪我人は労わられてこそというものだ」
 立ち上がる師に倣い己も立とうとするのを制され、片付けた布団を目の前に敷かれる。そこに反論を挟める余地はなく、金吾は困ったように笑いながら、はいと答えた。
 買い物に出ると言った師の背中を見送ってから布団に潜り込み、薄い枕に頭を乗せる。昔は枕が変わると眠れなかったのにと思いだし、笑った先に、六年間寝起きを共にした柔らかな髪の幻を見た。
 喜三太と呟き、ゆっくりと手を伸ばす。
 ふわりとした感触はそこになく、指の先で嘲笑うように掻き消える。けれどそれに絶望することなく、金吾はその場所を見つめたまま、ゆるりと瞼を閉じた。



−−−続.
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