金吾が目を醒ますと、そこは見も知らぬ室内だった。整えられているとは言えないまでも、乱雑と言うわけではない。いくつかの荷物籠の中心に布団を据えられた形で眠っていたらしいことを把握し、未だ重く沈みこむ体を無理矢理に起こした。
 腹の傷は縫われたのか、包帯に血が滲むこともなく見事に治療されていた。
 障子紙から透け落ちてくる光に、旅籠かとも思ったが違うらしいことを耳で感じる。ざりと砂を蹴って歩く音が聞こえ、そこが外庭にほど近い、離れのような場所と知った。
 判然としない状況を訝りつつ、膝立ちで障子ににじり寄る。
 気配を断ち、細く長く息を吐く。格子にかけた指先にそろりと力を入れ、ゆっくりと薄く開いた。
 たった四半寸足らず。けれどそこから瞳を覗かせる前に、無遠慮な声が声量で攻撃を開始した。
「お、目ぇ覚めたか金吾! 傷の具合はどうだ? 痛み止めなら大量に置いていかれてっから、遠慮なくがぶ飲みしろよー!!」
 溌剌で豪快な声に、緊張の糸が音を立てて斬れるのを感じ、その場に脱力する。笑うような馬の嘶きにどうやら愛馬の手入れをしていたらしいと察し、知らず、唇が笑みの形に歪んだ。意識を失う直前、そういえば団蔵の名前を聞いたのだったと思い至る。
「……団蔵」
 もはや警戒もなく障子を開ければ、数か月前と変わらぬ笑顔がそこに咲く。
「おう、俺だ! 元気か金吾!」
 手を上げて近寄ってくる団蔵に苦笑を返し、互いに縁側に腰掛ける。周囲を見渡せば加藤村の雰囲気に似た、けれど微かに潮の薫る土地だった。
「元気なら寝てないよ。ここは?」
「越前にある馬借宿。飛騨で一度宿をとった時、全然目ぇ覚まさなくって焦ったぜ。学園にいる兵太夫に鳩を飛ばして、乱太郎を連れてきてもらったんだ。俺の次に早駆けが得意って理由で選んだんだけどさぁ、地図が読めなくって苦労したーって、えらい剣幕で怒られた」
 悪びれた様子もなくぺろりと舌を出す仕草に、思わず噴き出し、肩を揺らす。それを見遣り目元を和らげた団蔵は、肩の力を抜き、良かったと小さく呟いた。
 体を前に乗り出し、緩く手を組む。
「お前のしぶとさは学園での六年間で嫌ってくらい知ってる。組み分け戦で敵になった時なんて、ちょっとした脅威だったもんな。だけどさ、知ってても本気で心配した。俺だけじゃなくて兵太夫も、乱太郎も。治療で部屋を閉め出されてる時なんてさ、俺も兵太夫もマジで泣きそうな顔になっててさぁ。でも、……生きててホントに良かったよ。あの二人も同じこと言って、畿内に戻ってった。あぁ、あと乱太郎が言ってたな。きり丸からの餞別が無駄にならなくて良かったってさ。……あれが邪魔したおかげで刀がぶれずに済んで、他の場所は傷一つついてないってよ」
 言葉に、そうかと小さく頷く。
 きり丸からの餞別、それはずっと着物の下に仕込んでいた。それなりに重くもあったし四六時中錆びた金属の匂いを嗅ぐ羽目になったが、やはり無駄にはならなかったかと思いを馳せた。
 脳裏に、分厚く変形したビタ銭で編まれた帷子が浮かぶ。
「ホントはあいつらもお前が目ぇ覚ますまでいたかったみたいだけど、やっぱ仕事があるからな。俺も夕刻になったら、村に戻らなきゃいけないところだったんだ。話せて良かった」
「……悪い」
「謝ることじゃないだろ、俺達が好きでやってることなんだし。まぁ与四郎さんから依頼を受けた時はビックリしたし、庄左ヱ門に一応報告もしたけど……まさか刺されて地面に転がってるとは思わなかったなぁ。喜三太、泣いただろ?」
 喜三太の名に反応し、瞳が伏せる。顰められた眉間をちらりと流し見、団蔵は空を見上げて静かに唇を開いた。
「お前、今回の件どこまで聞いた?」
「どこまでって言われても。……守れなかっただけだ。それ以外になにが言える」
 自責の言葉。沈黙。
 それきり黙ってしまった金吾に、団蔵の眉間が寄せられ、そして呆れたように溜息がこぼれた。
「……あっそ、それで終了? もう自分の出る幕はないってか? えらく縮こまっちまったなぁ、金吾。刺されて心根が折れでもしたか?」
「……っっ!!」
 嘲るような言葉に、激情に駆られ金吾の瞳に赤が差す。勢いに乗じ団蔵の胸倉を掴み上げ、噛みつきそうな形相で距離を詰めた。
 ちりと、鼻先が焼けつきそうな殺意が走る。
 それに対し、落ち着き払った紺青は微動もしない。
「いつもの平常心ってやつはどこ行ったんだよ、動揺が駄々漏れしてんぜ金吾。今のお前なら、実習始ったばっかりの四年でも殺せる」
「黙れ!」
「黙んねぇよ、この馬鹿。感傷的になってるんだかしらねぇけどな、そうやって自分の傷に浸って、外を見ようとも聞こうともしない奴の命令なんて聞きたかぁないね。女々しくって笑えんぜ」
「っ、なにが分かる! お前に!! 村も、庄左ヱ門も、すぐ届く位置にあるお前に!!」
「ははっ、陳腐なセリフ吐くなぁ。忍術学園唯一の侍が、まるっきり見る影もないじゃないか」
 笑う口調と言葉、その仕草を、級長に似せる。けれどやはり変姿の術は自分には扱いきれないと苦笑を漏らし、届くわけないだろうがと吐き捨てた。
 その言葉にこそ金吾ははたと我に返り、殺気が霧散する。
「……なぁ金吾。届く届かないの問題じゃないって、お前ホントは気付いてんだろ。頭ン中がぐちゃぐちゃで、とにかく悔しくて悲しくってどうしようもない感情を、俺なんかにぶつけんなよ。普段のお前相手なら憂さ晴らしの喧嘩も買ってやるけど、今のお前と殴り合う気になるわけないだろ? せっかく生還した友達を、そんな理由で亡くしたくない。乱太郎に治療してもらったって言ってもたったの数日前だ。腹を殴られたらそれだけで動けなくなるって分かってるだろ」
 淡々と紡がれる正論に、奥歯が軋んだ音を立てる。苦々しく表情が歪み、振り払うように団蔵から手を離すと、金吾は蹲るように頭を抱え込んだ。
 世界を拒絶するようなその背中を、気安い掌がぽんと叩く。
「俺さっき、どこまで聞いたって言ったよな。その様子じゃなにも聞いてないんだろうけどさ。お前が知らないオハナシ、聞く気ある?」
「……どんなだよ」
「庄左ヱ門宛てに届いた、山野先生からの手紙の話。喜三太は逃亡者扱いされてない、それどころか、自分の力量と資格を里に問った立派な後継者って扱いになってるって話をだよ」
 言葉に、金吾の顔が上がる。信じがたいと言外に示すその表情にニィと唇を吊り上げ、団蔵は上がった頭を押さえつけるようにぐしゃりと髪を撫でた。
 痛みを訴える首を労わる暇もなく、今度は首を羽交い絞めにされる。
「逃げたのも無駄じゃなかったんだって。お前が必死になって守ったのも、全然無駄なんかじゃなかったんだって! 聞けよ、そんで誇れよ金吾! お前と喜三太、あの風魔の里をちょっと変えちまったんだ!!」
 感情を抑えるつもりもなく発露させる団蔵に、困惑も過ぎて金吾の目がおろりと宙を漂う。藻掻こうと暴れても日々の荷物運びで鍛えられた筋力に敵うわけはなく、とりあえずなんでもいいから詳細を話せと声を上げた。
 ようやくになり、団蔵の腕があっけなく外れる。
「そっか、話さなきゃ分かんないよな」
「お、まっ……! 本っ気で馬鹿旦那のままだなお前は!」
「ははは、そう褒めるなって」
「褒めてないだろどう考えても!」
「うんうん、怒鳴れるくらい元気で良かった!」
 さらりと受け流してくる言葉にがくりと項垂れ、力なく笑う。そういえばこうして半ば強引にテンションを上げさせるのが、現場担当指揮官の癖だったと微かに肩を揺らした。
 互いに一息吐き、潮風まじりの空気を吸い込んで間を置く。なにを聞きたいと呟いた団蔵に、お前の知っていることを全てと静かに返した。
 欲張りめと笑う声に、好きに言えと喉で笑う。
「よっしゃ、じゃあ全部教えてやる。耳かっぽじってよく聞けよ。山野先生もリリーさんも、大した人だよまったく」
 そこから、足柄では喜三太も聞くことになったこれまでの経緯が話される。
 違う点と言えば語り手が団蔵だということと、その内容が些か大雑把に要約されていたこと。そして、喜三太に話されなかった点が一つだけあったことだった。
「……なるほど。あちらはあちらで、喜三太が里に馴染めるように策を講じてくださってたんだな」
「そうらしい。でもさ、すごいよなぁ! お前と喜三太が逃げ続けたことが、なんといい方向に転がったんだから! しかも最初のきっかけはどうあれ、結果的には家柄で後継者を決めることについて疑問を投げた喜三太を風魔が認めて受け入れて、しかも立派だって称えてるって言うんだ! すげぇよ!」
 はしゃぐ団蔵を横目に、ほぅと安堵の息を漏らす。なんにせよ自分達の行動が無駄にはならなかったこと、そして喜三太が誹りを受けることなく里へ迎え入れられたことに胸を撫で下ろし、金吾は遠く、東の空を見上げた。
 海に面した相模と言えど、自分の地元と違って足柄は甲斐に近い。潮風を感じることはないだろうが、それでもこの風が吹き抜けるどこかで今も笑っているのならそれでいいと目を閉じた。
 そしてふと、疑問に気付く。
「おい団蔵」
「なんだ金吾」
「……ならどうして、あの人達はあの場で説明もなく僕を刺した。いくら期限が迫っていると言っても、この程度の説明に半日もかかるわけがない。まして信濃から相模の足柄までは少なくとも三日はかかる。説明の時間くらいあったはずだろ」
 当然の疑問に、団蔵は頬を掻く。やはりそこが気になるかと苦笑を浮かべる顔に、当たり前だと声を荒げた。
 もしや謀られたのではと、内心がざわつく。
「あーコラコラ、怖い顔しなさんな。理由はちゃんと聞いてるよ。俺の話し方が下手くそなのは知ってるだろ」
「……本当だろうな」
「俺がお前を騙してなんの得があるんだよ。いいから聞けって」
 ひらりと手を翻す団蔵に、しぶしぶ従い、押し黙る。
「風魔側は、喜三太の特性をちゃんと見極めなきゃならなかった。幻術の使い方、薬の使い方、器の大きさ、成長したことで変わったかもしれない性質のこと、そのほか色々な。そりゃそうだ、共闘したことは何度かあっても、日常のことや細かいことまで風魔が知ってるわけない。知ってたらえらいことだ。……まぁほとんどは追手とのやり取りで見ることが出来たらしいんだけどさ、あとは大事なもんへの覚悟を見る必要があった」
 風魔にとっては里。
 喜三太にとっては。
「……僕、か」
「そう」
 頷く団蔵に、金吾は再び口を噤む。
「最後の説得で素直に帰れば、それは追々見極めるってことでも良かったらしいんだけどな。里への帰還に拒絶の意思を見せたり、その意思に従いそうなら、それは喜三太にとってそんだけ大事ってことだ。つまりお前が。……喜三太が風魔に受け入れられるか、それを見るための関所みたいなもんだったんだ。大事なものを滅ぼしても意思を尊重するのか、それとも大事なものを守るために自分の意志をも曲げるのか。……喜三太は合格だよ、特大花丸の百点満点だ。風魔の同じ世代の連中だって、認めないわけにはいかない。…………でもさぁ、金吾。俺は今回ので思ったよ。でかいものを、たくさんの人間の命を預かる人間はさ。やっぱり同じような関所があるんだなぁって」
「団蔵も? あったか?」
「うーん、あったな。虎若もあった。……五年の時だったかなぁ、俺達の場合は大掛かりな芝居を仕掛けられたんだけどさ。キッツかったぁ。終わった後、父ちゃんにも清八にも、マジで怒るくらい精神的にキツかった」
「そうか……」
「芝居じゃないから手加減できない状況だったんだろうなって思うよ、あっちもさ。手を抜いたりしたら余計面倒なことになるのが目に見えてるもんな。特にあっちは俺達と違って生粋の忍者だ。目的があれば、ホントは手段なんて選んじゃいられない」
 恨むのは自由だけどと零された言葉に、ふるりと首を振る。それを目にし、そうかと笑ってくしゃりと表情を緩めた。
 大きく手を打ち鳴らし、背筋を伸ばしながら団蔵が立ち上がる。
「さぁて、じゃあ俺もそろそろ村に戻っかなぁ! 全部話せて良かった。これ手紙にして書いてたら、きっとお前からも、字が汚くて読めねぇよって怒られてたと思う」
「心配しなくても、その時は土井先生に解読をお願いするよ」
「ははっ、それいいな!」
 豪快に笑い、ひょいと縁側に上がって無遠慮に室内に入る。金吾の寝ていた布団を器用に避けながら荷物を幾つか担ぐと、そのまま愛馬の背に括りつけた。
 何度か揺らして緩みがないか確かめた後、身軽に背に飛び乗る。
「怪我が癒えたら、一度畿内に戻って来いよ。みんなして出迎えてやるからさ!」
「あぁ。心配掛けたこと、謝っといてくれ」
「バーカ、そういうのは自分で言うんだよ! じゃあな金吾、看病はあの人に任せてあるから、ちゃんと体治して帰って来いよ!」
 言うが早いか、鐙を蹴って走り出す。砂煙を上げた馬はあの人とはだれかを問う前に見えなくなり、説明不足な同窓の相変わらずぶりに肩を竦め、金吾は仕方なく、今一度横になろうと縁側から足を上げた。
 その背後から、聞き慣れた笑い声が聞こえた。
「は組相手では未だに形無しだな、金吾。もう起き上がっても良いのか」
 低く、含むような笑い声に、知らず背筋が伸びる。背後から空気を振動させるように伝わる緊張感、それにこくりと喉を上下させると、卒業間際まで常に傍近くに聞いていたその声に信じられない思いで振り返った。
「……戸部、先生」
 絞り出したような声音に、師は唇の端を吊り上げた笑みで目を細める。まるで狐に抓まれたような顔だと嘯く言葉を受け取ると、金吾は思わず滲んだ視界を隠すため、深々と頭を垂れた。



−−−続.
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