――― 壱 【招く手】
あれは確か、生物委員会で毒虫捕獲に走り回った日だったかなぁ。
いつものように伊賀崎孫兵先輩のペット達が脱走しちゃってね、委員会総出で学園中を探し回ったんだよ。
当然、回収し終わる頃には泥だらけ。陽なんかとっくに暮れちゃっててね。お風呂ももうクラス単位で入るような時間じゃない頃だよ。
虎若はお腹が減って死にそうって言って、先に部屋に行っちゃったんだ。
晩御飯はほら、は組で作ってるものだしさ。部屋に帰れば兵太夫がちゃんと用意してくれてるって分かってたから、僕は安心してお風呂に行ったわけ。
別に体が汚ないままご飯を食べるのが嫌とか、そういうんじゃないんだよ。っていうか普段はあんまり気にしないんだけど、その日は何だかそんな気分になれなくってね。
真っ暗な、月のない夜だった。
朔の日でもないし曇ってるわけでもないのに、じーっとりと暗い夜だったんだ。
みんなにも、意味もなく背中がゾワゾワすることってあるでしょ? あぁいう感じだよ。寒くはないはずなのに、なんか肌寒い。
嫌だな、なんだか気味が悪いなと思っても、もうお風呂場の間近にまで来てたから引き返すのも癪でね。仕方ないからそのまま向かったんだ。
ゆっくりゆっくり、なんとなくなんだけどね、出来るだけ足音を立てないように歩いてった。
寒さのことは出来るだけ気にしないようにしてたんだ。気のせいだー、気のせいだーって。
そしたら、今度は耳元がうるさくなってきちゃってね。
ひそひそひそひそ聞こえるんだよ、ひそひそひそひそ。
そうだなぁ、ちょうど食堂でいろんな人が噂話をしてるような騒がしさ。
風が吹いて藪や木が揺れてるのかと思ったら、どうもそれも違う。指を濡らして立ててみても、風が吹いてる気配なんてなかった。
あ、コレはちょっと本気でヤバいなぁと思ってたら、やっとお風呂場の入口についたんだ。
中からは明かりが漏れてるし、中から衣擦れの音もしてる。正直ね、助かったーって思ったよ。明かりがついてるってだけであんなにも安心するもんなんだね。
静かに歩いてたのも忘れて、思わず駆け込んじゃった。
扉がいやに重くってね。普段の何倍も力を入れなきゃ駄目だったんだけど、無理矢理こじ開けたんだ。
そこでね、団蔵に会ったんだよ。
同じようにこれからお風呂に入るところだったみたいでさ、頭巾を解いたところだったんだ。
びっくりした顔で目をパチパチッと瞬いた後、ちょっと拗ねたみたいに僕を見た。
「なんだよ三治郎、いきなり扉を開けられたらびっくりするだろ」
その言葉通り、ちょっと驚かせちゃったみたいでね。団蔵は心臓の所を握ってほんの少し呼吸が荒かった。
僕としてもまさかこんな時間に同級生がいるとは思ってもなかったから走っちゃったんであって、驚かせたかったわけじゃないしさ。ちょっと申し訳ないなーってなってね。
「あは、ごめーん。ちょっと外が気味悪くってさぁ」
「なんだそれー」
怖かったことをケラケラ笑い飛ばされるの、いつもは嫌いだしちょっと腹が立ったりもするんだけどね。その時はなんだか、胸の奥があったかくなるみたいな感じがしたんだ。
きっと同級生がいて安心したんだろうね。
団蔵もほら、なんてったって会計委員会でしょ? 夏休み前ってこともあって、いろいろ計算することが多かったみたいでさ。
お互いに委員会は大変だよなーなんて話しながら、二人で湯船に入ったんだ。
お湯はあったかいし、外は静かだし、なんだか眠くなってきちゃって。明日も早いから、部屋に帰ったらさっさと寝ようねなんて話してたらさ。
つんつんってね。
湯船の中で足先をつつかれたんだ。
「ちょっと団蔵、くすぐったいよ」
「へ?」
思わず笑っちゃったら、団蔵はきょとんとしてさ。なにがだよなんて言うわけ。
最初はとぼけてるんだろうと思ってたんだけど、どうもそうじゃなさそうなんだよね。
そしたらさ。
「わっ!?」
「どうしたの?」
団蔵が、叫んだかと思ったらいきなり立ち上がって、背中のを確認してるんだ。
酷く怯えた表情でね。湯船に入ってたってのに、額の辺りから血の気が失せてるのが分かった。
「……今……誰かに背中を撫でられた……」
引き攣った顔で言った団蔵に、僕までゾッとしてね。
だってこの時、僕と団蔵は向かい合った状態でお風呂に浸かってたんだ。背中を撫でるなんてこと、手を使おうが足を使おうが、よっぽど密着しないとできないよ。
でも、ということはさ。
風呂の中に見えない何かがいるんじゃないかってことになるよね。
当然、湯船の中に他の生き物がいる様子はないよ。魚だろうと、その他だろうとね。だからこそゾワッとしたんだ。
それきり、しばらく二人とも黙り込んじゃってね。とにかく汗を流して温まったら早く出ちゃおうなんて思ってたんだ。
そうしたら、団蔵が恐々(こわごわ)口を開いてね。
「なぁ三治郎。……なんか、静かすぎない?」
って言ったんだ。
ハッとしてね、僕も息を殺して辺りの気配を窺っちゃった。
だーれの声も、足音も、葉掠れの音なんかも聞こえないんだよ。
いくら夜って言ったって、子の刻に届こうかなんて時間ではないんだ。それにこの忍術学園で、夜に何の気配もないなんてことがそうそうあると思う?
潮江先輩の声も、七松先輩の声もしない。怖さを紛らわせたくて、もしかしたら実習に行ってるのかもねって言ったら、団蔵が首を振ったんだ。
「潮江先輩なら、ついさっきまで一緒に委員会にいたよ。一区切りついたから、これから鍛錬に行ってくるって。なのに何の音もしない」
気味が悪いよって団蔵が言った。そこで僕も別のことに気が付いたんだ。
なんで誰もお風呂に来ないんだろうって。
さっきも言った通り、生物委員会のみんなは泥だらけだ。ご飯も食べずに探し回ったから、くたくたなのは間違いない。
ならみんな先にご飯を食べてるのか、それとも水で体を拭くだけにしてさっさと寝ちゃったのか?
きっとどれも違うだろうと僕には思えた。
この日、僕は先にお風呂に入ることを委員会の皆に伝えてあった。もちろん竹谷先輩にも、伊賀崎先輩にも。
生物委員会の全員に嫌われるようなことをした覚えは僕にはないし、今だってそれは同じ。
その証拠にこの日以外はいつも誰かが後から入ってきて、一緒にのんびり話しながらお湯に浸かって部屋に戻るんだよ。
たまたまあの日に限って嫌われるようなことをしたってこともない。
それに一つ気になることがあったから、こそっと声を潜めて聞いてみたんだよ。
「……ねぇ団蔵、会計委員の他の先輩達や左吉は? みんなもう部屋に戻って寝ちゃったの?」
「え? あ、そういえば誰も……」
団蔵も気付いたようだった。
委員会の開始時間はみんなも知ってるように、授業後すぐだ。お風呂に入ってから委員会に来るのなんて、よっぽど汚れるような実習授業の後だけ。
先輩方全員がそんな授業の後なわけないよね?
だから会計委員会の先輩方も、やはりここに来るのが当然と思っていた。
なのに来ない。
そのとき。
ガタガタガタッてね、お風呂の格子窓が揺れたんだよ。
「ヒッ!?」
「わっ!?」
突然だったから、思わず二人で抱き合っちゃってね。
え? あぁ、茶化さなくったって変なことにはならなかったってば。当たり前でしょ。そんな余裕なかったもん。
それでね、抱き合ったまま格子窓を見たんだよ。あれだけ大きな音だったから、なんにもないとは思えないからね。
そしたらね。
真っ暗い外から、ぬぅうっと白い腕が伸びてたんだ。
それ以外にはなんにも見えない。なんにもだ。
上げられてる手じゃなくて、胸から真っ直ぐ前に伸ばされたみたいな腕なんだよ。なのに、顔も見えないなんて有り得ると思う?
ぞわぁっとしてね。
うわぁダメだダメだ、これはほんとにダメだって思った。
団蔵なんて涙目のまま硬直しちゃって、全然動けなくなっちゃってたんだ。そりゃそうだよね、まさかの事態だもん。
実は僕も、カチーンって体が動かなかったんだ。
今思えばさ、あれって金縛りの一種だったのかもしれないね。
で、その腕はさ。
こーい、こーいって僕らを手招くんだよ。
もちろん声はしないよ? しないんだけどね?
でも、こーい、こーいってさ。いかにも呼んでるように手招いてるんだ。
怖くて怖くて、でも助けを呼ぶことも出来なくてね。
だって誰かが聞いてくれるとは思えなかったんだよ。普いつもの風呂場に見えるけど絶対になにかが狂った場所だ。そう思って疑わなかった。
だからね、すごく怖くて歯がガチガチ鳴ってたけどこう繰り返したんだ。
「い……行かない、絶対行かない。同情も同調もしない。僕らは僕らの居場所に帰る。ここは僕らのいる場所じゃない。ここは君のいていい場所でもない。だから僕らはそっちに行かない。触りもしない。屈しない。怒らない。僕らは君になにもしてあげないしなにも出来ない。僕達は、君の誘いは絶対に受けない」
ぶつぶつぶつぶつ、ホントに呟くみたいに早口にね、そんなことを言ったよ。
父さんと母さんが言ってたんだ。見えない何かと話すときは、同情も同調もしちゃいけないって。したら引っ張って行かれるよって。
ホントは泣いて混乱したら付け入られると思ってね、自分に言い聞かせてもいたんだけど。
そしたらその手はピタッと招くのをやめてね、だらーんとぶら下がったんだ。
改めて見てみると、それは随分長い腕でね。格子窓からお湯に届くかもってくらいの細くて長い、人間の腕かどうかも分からないようなそんな腕だったよ。
その爪の先がさ、お湯を掠めたかして丸い波紋を作ってね。
「―― あな憎らしや天狗様」
そう言って、すぅっと消えたんだ。
僕はもういてもたってもいられなくなってね、団蔵を抱えたまま慌てて湯船を飛び出した。
今だーって思ったんだよ。今ならこの変な場所から抜け出せるぞ、今じゃなきゃ危ないぞって。
団蔵はまだ放心してたから、多分結構重かっただろうとは思うんだけどね。でもそんなことも覚えてないくらい、僕は必死だったんだろう。
体を引き摺るみたいにしてお風呂の扉を開けたら、急に音が戻ってさ。
外は結構風が強いみたいで、木戸の隙間からビュウビュウ音がしててね。それに木の枝が揺れて擦れ合う音も凄かった。
ついさっきの静かさなんて、嘘みたいな騒々しさだよ。
目の前の脱衣所には当たり前のように会計委員の先輩方や左吉、生物委員のみんながいてね。
竹谷先輩なんてこう言うんだよ。
「なんだお前達、まだ中にいたのか。随分と静かだからもうとっくに上がったのかと思ってたぞ」
もうね、その時の竹谷先輩と田村先輩の顔は忘れないよ。ビックリしたような、でもいつものニコニコした顔しててね。
あー、帰れたんだー、もう安心なんだーって思ったら急に力が抜けちゃって。
へたり込んで、二人してわぁわぁ声を上げて泣いたんだ。
みんなが心配してくれたけど、うまく説明も出来なくて。湯あたりでもしたかって、竹谷先輩と田村先輩が医務室まで運んでくれたんだ。
未だにアレはなんだったのか、なにをしたかったのかは分からない。
だけどどうやら本当は、団蔵だけをあそこに引き込むつもりだったんだろうなって思えるんだ。
そこになんかの手違いで僕まで入っちゃって、あっちは少し焦ったんだろうね。なんせ山伏の血を引いてる、言ってしまえば天狗の眷属でしょ? その上、両親仕込みのきっぱり拒絶する言葉を言われたら、あっちは引いていくしかないもんね。
だからあの時はすごく怖かったけど、一緒にいたことで団蔵を守れたならそれは良かったなぁって今になって思ったわけでした。
おしまい。
■ □ ■
ポンと手を打って話し終えた三治郎が周りを見回すと、十人はそれぞれに深い溜息を吐いて呼吸を落ち着けているようだった。
「最後はちょっと安心したけど……」
「途中まですんごく怖かったー!」
声を上げたのは、伊助としんべヱだった。
「へへ、ちゃんと怖く話せたかなー?」
「声の抑揚をつけすぎなんだよお前は!!」
見事怖がらせることに成功したと知るや否や、先程までのおどろおどろしい口調と一転して気安く笑ってみせる三治郎に、やはり相応の恐怖を感じていたのかきり丸がつっこむ。
怪談話をさせるとは組で一、二を争う語り部に、誰もが心中を揺さぶられたようだった。
特に団蔵に至っては話の登場人物であったにも拘らず、否、だからこそ涙目で虎若と兵太夫の袖を掴んで震えていた。
「お前に話させるんじゃなかった……怖いの思い出しちゃった……!! っていうか、最後のなにそれ! 僕が狙われてたかもってなにそれ……!!」
がくがくと震えて鼻をすする団蔵に、僕の推測だよと笑い飛ばす。しかし当人にとってはそれで済まされるような話でもなく、解説を求める目がふるふると揺らいでいた。
よりによった人物が怖がってしまったと少しばかり目を泳がせるも、やがて三治郎は諦めたように眉尻を下げた。
「分かった、言うよー。でももう大丈夫だと思うから、あんまり怖がっちゃダメだよ?」
にこやかに前置き、三治郎は人差し指を立てる。
「言っただろ? お風呂の戸がさ、普段の何倍も重かったって。あれは入るなって警告か、それとも団蔵を閉じ込めるための空間が完成したばかりの瞬間だったんだろうなぁって思えてさ。だから僕がお風呂に近付いた時、あんなに周囲がザワザワしてたんだろうなって」
推測だけどねと改めて笑って見せた三治郎の言葉に、団蔵はやはりまだ怖気が消えない様子で涙目を擦る。それを数人がかりで慰める中、焦香色の猫毛が揺れた。
「でも、それもアレなのかな。三治郎が入れちゃったのも、山伏の修業をしてたりして免疫があったからとか!」
「それは分かんないけどねー。でも本当、そう思うと団蔵と一緒にいたのは良かったなぁって思うんだよ」
興味津々といった様子の喜三太の言葉に、三治郎は表情を崩さない。良かったけど本当に怖いねと話し合う級友達をどこか誇らしげに見遣り、山伏見習いは期待に満ちた目で声を上げた。
「じゃあ次は誰が怪談する? 僕だけが話して終わりってことはないよね?」
キラキラとした声色に、楽しげだった面々の肩がぎくりと固まる。
三治郎は語り部、雰囲気の掴みとして最適ではあっても、だからこそその後を引き継ぐにはあまりに気が引けた。
ちらちらとまた候補者を探すように、それぞれが左右を窺う頃。
音もなく、虎若が右手を挙げていた。
「じゃあ今度は僕らが体験した話を、金吾から」
「へ? あぁあの時のこと……って僕からかよ!」
挙手したからには自身が語り部になるのかと思いきや、さらりと振ってきた虎若に思わずつっこむ。
それをきゃらきゃらと笑う級友達を恨めしげに見て、金吾はほんの少し唇を尖らせた。
「笑い事じゃないよ。て言うか虎若が手を挙げたんだし、自分で話せばいいじゃん」
「だって僕、あの時は隣でオロオロしてるだけだったしさー。ちゃんと話せるのは、やっぱり当事者の金吾だろうと思って」
「それはそうかもしれないけど……」
腑に落ちない様子で唇を尖らせ続ける金吾だったが、周囲の雰囲気に押されてやがて力なく肩を落とす。怖く話せる自信なんてないのにと愚痴りながらも、記憶を辿るように僅かに視線を伏せた。
→弐 【付喪神】
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