序
なんともじめじめとした、嫌な夜だった。
朝から降り続いている雨は亥の刻を過ぎても止む気配はない。それどころかのっそりと入り込んでくる蒸し暑さは失せる様子もなく、一年は組の忍たま長屋は普段より落ち着かない夜を迎えていた。
夏であるからにはこの暑さも当然のことと知りつつも、本来掛け布として被っているべき肌布団も蹴り除け、きり丸は酷く不快そうな顔で身を起こす。
「あーっちぃ! いくら夏だ梅雨だって言っても限度ってもんがあんだろー! なんだよ今日のこの雨と暑さは! 俺達を蒸し焼きにする気かぁ!?」
「きりちゃん、夜中なんだから大声出さないの」
「でもさぁ乱太郎、今日ってホントに熱いよねぇー。眠いのに暑くて眠れないなんてやんなっちゃう」
誰に言えるわけでもない文句を叫んだきり丸を注意するも、反対側からそれを助長するような同意が返る。
いかにも眠たそうに目蓋を擦るしんべヱの言葉に、乱太郎はついに同意しながらも苦笑を浮かべた。
「それは私も一緒だけど、大声を出すのはいけないよ。雨の音はしてるけど他のみんなまで起こしちゃうかも……」
「それは大丈夫だよ乱太郎。みーんな起きてたみたいだから」
控えめな声色でありながらさらりと乱入した言葉は、未だぴったりと締め切られている木戸の向こうからだった。
まさかこの時刻に別の誰かから声がかかるとは思ってもいなかった三人は途端に飛び上がり、反射的に真ん中の乱太郎へと身を寄せる。
しかしそんな恐怖も知らぬ顔で、木戸はあっさりと開かれた。
「みんな僕らの部屋に遊びに……って、あぁゴメン。怖がらせちゃった?」
「庄左ヱ門! なんだ、驚いて損しちゃった」
心底安堵した様子で大きく息を吐く乱太郎に、話題の主はペロリと舌を覗かせる。
まったく悪びれることなく肩を竦めた学級委員長を目にし、きり丸としんべヱも同じく肩の力を抜いた。
「ビックリさせんなよ。危うく魂抜けるところだったぜ」
「僕なんてチビッちゃうかと思ったー」
「えー、そんなに?」
口々に軽度の恨み言を漏らす二人に、庄左ヱ門はおかしそうに肩を揺らす。深夜と言えども同室以外の友人が顔を合わせれば、そこは昼間と同じ談笑の場へと変わっていた。
「そう言えば庄左ヱ門、さっきみんながどうとかって言ってなかった?」
「あぁそうそう! そうだ、三人を呼びに来たんだった」
乱太郎の言葉にハッとした様子で、庄左ヱ門は手を打つ。
「みんな暑くて寝つけないらしくてね、実は少し前から僕らの部屋に集まってるんだ。どうしようかと話してたら、そこにきり丸の声がしたんでね。きっと三人も起きてると思って誘いに来たんだよ」
「誘い? なんのだよ」
興味深そうに覗き込んだきり丸に、庄左ヱ門は悪戯っ子の表情で軽く片目を閉じた。
「暑くて寝られない夜は、ちょっと涼しくなる話でもしようじゃないかってさ。前にやったおしくらまんじゅうで涼をとるよりは現実的だろ?」
含み笑う声に、また随分と古典的な方法をと苦笑で顔を見合わせる。しかし涼しくなる話をと言われても理解していない様子のしんべヱだけは、いつもより少し目の位置が離れたままで首を傾いだだけだった。
■ □ ■
庄左ヱ門達の部屋には、確かには組全員が揃い踏んでいた。
外ははっきりと深夜を示して黒く塗り潰されているというのに、部屋の中だけは昼間と同じ楽しげな雰囲気で彩られている。
暑苦しい外気は確かに肌を苛むものの、紛らわせるものさえあればそう不快には感じない。しかし全員で話しながら眠るということは各自の部屋の大きさからも不可能なため、一時的に皆が集まっているのだろうことも理解できた。
敷かれたままの布団の上に、無遠慮に車座ができている。本来なら伊助辺りが怒ってもいいはずなのだろうが、話し込んでいるうちに誰かが寝入ってしまってもいいようにとの配慮のようだった。
軽い挨拶を交わし、三人揃って所定の場所に腰を下ろす。
「みんなホントに目がパッチリだねー。この暑さじゃ仕方ないけど」
乱太郎の言葉に、兵太夫がペロリと舌を出す。
「僕と三治郎なんて、一度濡れ手拭いで体を拭いて寝たりもしたんだけどね。やっぱり駄目だったよ」
「地下に行ったら少しはマシかなーって考えたんだけど、カラクリを動かすとみんなが起きちゃいそうだったからやめたんだー」
睡魔をうまく受け入れられていないのが自分達だけでないと知って、乱太郎の表情が自然と和らぐ。
兵太夫と三治郎は自分達の苦心をどこか照れくさそうに披露し、そしてそれにつられたのか団蔵と虎若も楽しげに身を乗り出した。
「僕らも! いろいろやったよな。ソロバンとか腹筋とか!」
「あとは計算ドリルの復習と……腕立て伏せ! 勉強しても体を動かしても駄目だったから困っちゃってさぁ」
指折り数えて話す団蔵と虎若に、眠気を誘うために勉強をしてみるところがは組らしいと場が盛り上がる。金吾と喜三太もやっていたことはおおよそ前述の二組と同じだったのか、あえて便乗しないままニコニコと話に加わった。
「あんまり眠れないから、伊助と庄左ヱ門ならなにかいい知恵を持ってるかと思って覗きに来たんだ」
「そしたらみんな続々集まってきちゃうんだもん。ビックリしたよねぇー」
ヘラヘラとした喜三太の言葉に、きり丸が呆れた様子で口を開く。
「なんだよ、みんな揃いも揃って庄左ヱ門達に頼ってたのか? ちょっとはオレ達を見習えよなー。庄左ヱ門から直々にお声がかかるまで、自分達でどうにか寝ようとしてたんだぜ?」
「その結果、大声上げてビックリさせてくれたけどねー」
自慢げに胸を張った発言に、伊助がちくりと釘を刺す。途端、申し訳なさそうに肩を狭めて見せたきり丸を皆で笑い、庄左ヱ門はさてと大きく柏手を打った。
「さぁ、明日も授業だし早く寝るに越したことはない。さっさと涼しくなって、それぞれくっつき合ってでも眠っちゃおう」
「でも、どうやって涼しくなるのー? かき氷の話でもする?」
的外れなしんべヱの疑問に、乱太郎が軽く裏手で突っ込む。
「あのねしんべヱ、涼しくなる話って言ったら怪談に決まってるでしょ」
「そうなの? って、えぇー? 怖い話するのぉー?」
「お前ホントに分かってなかったのかよ」
怖い話と聞いた途端に泣きそうになったしんべヱに苦笑し、きり丸と乱太郎が両側から手を握る。それだけで充分安心することが出来るのか、丸い頬はへへへと緩んだ。
それを見遣り、庄左ヱ門は全員を見回す。
「じゃあ始めようか。誰から話す?」
言葉にそれぞれが顔を見合わせ、やがて三治郎と団蔵が頷き合う。中でも三治郎が膝でにじり出ると、一同が口を噤んで息を呑んだ。
「やっぱり掴みは肝心でしょーってことで、僕が話すね」
にこやかな笑みは逆に自信を感じさせる。
こと心霊的なものに関しては三治郎の生まれや両親のこともあって、は組の中でも一目を置かれていた。
唇はにんまりと弓なりに吊り上がり、笑顔でありながらもおどろおどろしく見せる。吹き込んだ隙間風に灯心の炎が揺らめけば、山伏の子は静かに口火を切った。
→壱 【招く手】
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