――― とある夜のナヤミゴト





 するりと障子戸が開く気配に、部屋の入り口近くで本を開いていた庄左ヱ門の顔が上がる。既に外はとっぷりと濃紺の闇が覆い、もうほとんどの生徒が風呂を済ませて夜着に着替え、就寝準備のため各自宛がわれた部屋でゆったりとした時間を過ごしているはずだと兵法書を閉じた。
 事実、来訪者も既に夜着に身を包み、風呂も既に済ませたことが窺い知れる。
「どうしたの金吾。こんな時間に私達の部屋に来るなんて珍しいね」
 庄左ヱ門が口を開くよりも僅かに早く、行灯脇で針仕事をしていた伊助が口を開く。ぱちりと裁縫バサミが糸を切る音が響くと、膝上に乗せていた制服を手早く畳み丁寧に脇へ押しやった。
 それに対し金吾はかけられた声に気まずげに視線を逸らし、いきなりごめんと謝罪を口にする。聞きたいことがあるんだけどとやはり目線を逸らす金吾の言葉に庄左ヱ門と伊助は目を見合わせ、とりあえず入室を促した。
「なに、どうしたの。ヘタレな動作はいつものこととはいえ、誰も弄ってないのにそこまで自主的にヘタレてる金吾は珍しいね」
「庄ちゃん庄ちゃん、その冷静さは今いらないと思う」
「いや、伊助もそれフォローになってないから。泣くぞ」
 近頃のは組は極稀に局地的ないじめが発生すると愚痴を零す金吾に、そんな馬鹿なと二人が笑う。その笑顔をあえて意識の外に追い出し、金吾は二人の前に腰を下ろしてまた視線を泳がせた。
「……あの、さ。聞き辛いし、たぶん二人も言い辛いと思うんだけど。……そういうことを聞いてもいいかな」
 ぼそぼそと口の中で呟くような言葉に、またしても庄左ヱ門と伊助が目を合わせて数度瞬く。そう言われたところで、一体それがなにを指しての言葉なのか分からない以上否定も肯定もしようがない。それを互いにアイコンタクトだけで言い交わし、二人の総意を伝えるべく庄左ヱ門が口を開いた。
「金吾が言っているのがどういった分野のことか分からないけど……でも金吾が僕らを頼ってきてくれたんだから出来る限り相談には乗るし、教えられることなら何でも教えるつもりだよ。ホントにどうした?」
 訝しげに眉間を寄せ顔を覗き込もうとする庄左ヱ門に、所在無く泳いでいた金吾の視線がようやくになって正面へと向く。けれどそれですら随分と戸惑い気味に上目遣いで空気を伺う様子に、ついに伊助が金吾の隣へ移動し、落ち着かせるように手を取ってゆっくりと拍をとった。
 その調子にゆっくりと息を吐き、唇を一度引き結んで膝の上の手を強く握る。
「情を交わすとき、女役側はすごく痛いって、本当?」
 正面から見据える視線に、思わず庄左ヱ門と伊助の目が見開き沈黙が落ちる。その沈黙に便乗したように、部屋の障子戸が柱に叩きつけられる勢いで開かれた。
「誰だ今うちの伊助にセクハラかました馬鹿は!!」
「ってか、庄左ヱ門に言葉責めとかマジいい度胸だそこの剣術馬鹿!」
 こちらはこちらで風呂上がりらしい姿で乱入を果たした虎若と団蔵に、室内の三人から酷く冷めた視線が注ぐ。誰がなんだってと引き攣った笑みに顔を顰める金吾と真逆に、伊助と庄左ヱ門からは無表情に近い顔が向けられた。
「虎若、うっさい」
「団蔵、馬鹿なこと言ってると押し倒すぞ」
「……ごめん母ちゃん」
「庄ちゃんまだ上下逆転狙ってんの!? ヤだよ俺!?」
 即座に謝罪する虎若に反し、団蔵は衝撃を受けた様子で数歩後退する。それに互いが満足げに笑顔を見せ、話が進まないからと仕方なく入室を促した。
 改めて、庄左ヱ門が金吾へと向き直る。
「金吾が聞きたいのは、つまり喜三太とのことだよね?」
 それまでの流れがなかったことのように相変わらずの冷静さで話を進める庄左ヱ門に、思わず金吾が苦笑交じりの曖昧な頷きを返す。それにさえもやはり静かな納得の表情を見せ、大きな瞳がちらりと伊助へと動いた。
「まぁ……質問に答えるとすると、回答は一つだよね」
「あー、そうだねぇ。それ以外言いようがないし」
 正座で固まった状態の金吾に苦笑を見せ、二人が同時に、僅かに息を吸う。
「そりゃもう、死ぬんじゃないかと思うくらい、痛い」
 人差し指を立てて神妙な面持ちで声を重ねた二人に、虎若と団蔵は咄嗟に土下座し、金吾はやはりと眉間を寄せる。けれどその姿にくしゃりと笑い、伊助がひらりと手を翻した。
「あー、そう難しい顔しないしない。死ぬほど辛いのは最初の数回。段々マシになってくるもんだし。行為自体の手順とかを知ってりゃ、了承するこっちだって大体のことは予想できるからそこは覚悟の上で受け入れるんだしさ」
「……覚悟の、上?」
「そう、覚悟の上」
 にっこりと笑う伊助に、庄左ヱ門も唇を僅かに笑みに歪めて同意する。
「痛いだろうな、辛いだろうなって分かっちゃいても、男相手に恋愛感情抱いた上に、どうやら自分が組み敷かれる側らしいとなった時点で腹括れるもんだよ。自分の性的欲求は別にしたって、好きな相手とは出来るなら添い遂げたいと思うのは誰だって一緒だし。ねぇ、庄ちゃん?」
 問う形で投げかけられる言葉の続きを、苦笑交じりに庄左ヱ門が引き継ぐ。
「まぁ、ね。伊助と違って僕なんかは押し切られた形だけど、だからこそ相手……僕の場合は団蔵だね。その想いも分かるって言うか。上流の道楽じゃあるまいし、通常なら男色はやっぱり敬遠されるものだからね。ここではほとんど男だけの生活してるもんだからこういう環境が普及してる感は否めないけど、本当なら男を抱くなんて冗談じゃないと思うのが普通じゃない? そんな一般論をそ知らぬ顔で自分を欲してくれるなら、応えたいと思うのがこちらの男気だよね」
 ちらりと流し見る視線の先で、団蔵が照れくさそうにくしゃりと笑う。それに対し僅かに肩を竦める庄左ヱ門に伊助も表情を綻ばせ、団蔵の隣で笑みを向けてくる虎若と視線を交わした。
「金吾が思いつめた顔で私達の部屋に来るってことは、周りは少なからずそういった仲になってる連中ばかりの中、ただ一組だけ清い交際を続けてることを不安に感じた喜三太に泣かれたかなんかだと思うんだけどさ。私達に言えるのは、度胸がいるのはむしろ女役側なんだよってことくらいかな。男役は、やっぱり若干手順が違うと言っても基本通りだし、痛みもない」
「もっともホントに喜三太が泣いて縋って詰め寄ってきたなら、僕らはお前に向かって、このヘタレと詰り言葉を投げるわけだけど」
 庄左ヱ門の言葉に、金吾の肩がびくりと揺れる。それを図星と受け取り、その場の四人の目が酷く温度を下げて顰められた。
「おいこらヘタレ。お前、それマジでか」
「……ない。それはない。冗談抜いて、ない。そんなことで泣かせるとか、俺なら死ねる」
「なぁ、金吾。いい加減にそのヘタレ具合をどうにかしないと、いくら僕らでも殴るぞ」
「……ちょっと私、喜三太のところ行ってくる」
 団蔵に次ぎ、虎若、庄左ヱ門と続いた言葉に金吾がどんどん身を縮めていく。それを余所目に退室した伊助を見送り、団蔵がぐしゃぐしゃと頭を掻いた。
 苛立った溜息が、室内唯一の音となってやけに耳に響く。
「あっのさぁ金吾。仮に女の子が相手だと思って考えてみろ。女の子のほうから抱いてくださいって言わせて、挙句泣かせてるってことだぞ? 言った喜三太の気持ち考えてみろ。伊助じゃなくても、喜三太慰めに行きたくなるぞ普通は」
「……わかってる、つもりでは……あるんだ。でも」
「でも!?」
「…………今が壊れるかもしれないと思うと、手が、出せない」
 瞬間、鈍い音が響く。
 口の中に広がる鉄錆の味に茫然と眼を見開き、事態を理解出来ずにいる金吾の耳に今度は呆れかえった溜息が鼓膜を震わせる。視線を廻らせれば当然とばかりに唇を吊り上げる団蔵が可笑しそうにこちらを見遣り、庄左ヱ門はと言えば呆れ返った表情で自分の眼前にある巨体を見上げていた。
「虎若、ここ僕らの部屋だから。あんまり無茶しないでくれ」
「してないしてない、一発本気でぶん殴っただけ」
 へらりと笑う顔は、先ほど自分の頬に重い一撃を与えた人物とは思えないほど朗らかにその場を和ませる。それを未だ茫然と見上げる金吾を見下ろし、虎若はひょいと身を屈めて歯を覗かせた。
「今のは、喜三太と伊助の分。伊助がいなくて助かったな。もしいたら、マジギレされて一発殴るどころの騒ぎじゃ済まなくなってるぞ今の発言」
 自覚ないのも困ったもんだと頭を掻く虎若に、団蔵が親指を立てて言葉のない声援を送る。それに笑顔で応えを返し、笑みを浮かべたままの表情から溜息が落ちた。
「その今を壊したがってんのは、当の喜三太じゃないのかよ」
 言葉に、唇を噛む。
「団蔵だって俺だって、兵太夫だって自分の好きな奴には四年の時には手を出しちゃってる。だから金吾みたいなのもいいなぁとは思うけど、喜三太にしてみりゃあ、周りはみんなそうなのに自分だけなんでだろうって思ったんじゃないか? 風呂で一緒になることだってあるし、兵太夫と三治郎なんては組には隠す気もないからあてられることだってあるだろうし。それで思い詰めちゃってお前に迫ったってんなら、そりゃあ喜三太が可哀想だ。その上、お前はこうやってそれでもまだウジウジしてる。いくら普段鈍くてのほほんとしてても、さすがに恥ずかしかったと思うぞ、喜三太」
 好きならちゃんと報いてやれよと些か乱暴に頭を叩く虎若の手に、金吾の目が僅かに水気を帯びる。顰められた眉間と噛み締められた唇の動きにそれを察し、三人が困ったように笑いながらグシャグシャと頭を撫で回した。
「泣くなよー」
「だいぶマシになったけど、やっぱり俺達の前だと駄目だなぁお前」
「反省したのが分かりやすくて助かるけど、なんと言うか」
 笑い声に、袖で目元を拭い憮然とした表情で目線を伏せる。それをやはり笑んだ表情で見遣り、庄左ヱ門が軽くその背を叩いた。
「部屋に戻れよ。これ以上野次られたくないだろ?」
「……ん」
 小さく頷き、喜三太と呟いて障子戸に手を掛ける。磨き上げられた木と木が摩擦する音を聞きながらその背中を見上げていた三人に、金吾がくるりと向き直った。
「庄左ヱ門、団蔵、虎若。……ごめん、ありがと」
「バーカ。謝る相手が違うっつーの」
「いいからさっさと行けよ」
「ついでだ、伊助にも小突かれてこい」
 笑う声音を背に受けて、部屋までの短い廊下で息を整える。自室から漏れる灯かり、それにまた心臓が跳ねたのを自覚しつつ、金吾は唇を噛みしめて扉を開けた。



−−−了.