――― 往く逝く黄泉路の騒動記





   参  三途の川


 ざぁざぁと、深い河がとうとうと流れていく音がする。
 雨が降ったわけでもあるまいに、音から察する水量はなかなかのものだ。しかも音のする側を見遣る限り、対岸はなかなかに遠く、大樹があること、そしてその下に人が集っては去っていることくらいしか見渡せない。
 足元はガラガラと大小不揃いの石が転がり、非常に歩きづらい。
「ここが賽の河原かぁ……」
 ぼそりと呟いたのは、恐らくきり丸だった。
 生きている時からこの河原のことは有名で、むしろ死んだらすぐにここに来るものだと思っていた。
 しかし乱太郎以外の十人は、ここに至るまで短くとも五年以上の年月を過ごしている。
 第一裁判が終わってなおどこか浮かれた気分の抜けなかった胸の内が、冥府の最有名箇所を目の当たりにすることで一気に冷えたらしい。
「ここ、渡るんだよね」
 なんとなく怖気づいた声色を響かせる伊助を、揶揄する声はない。
 すでに現世に体はないといえど、目の前に横たわる川は死が具現化したものだ。それを恐れず能天気に突き進めるだけの度胸は、いかに忍術学園史上もっとも恐れ知らずと言われた十一人でも持ち合わせてはいなかった。
「死んだなぁ……」
「そうだねぇ……」
 代わり、懐古するように目を細める。
 音を立てて転がった石が、やけに郷愁を誘った。
 しかしその足元に、石を追うようにして子どもが飛び込んだ。
「う、ぉっと!?」
 不意を打たれて思わず声を上げた団蔵だが、その子どもの小ささに目を瞬く。
 まだ赤子と言っても遜色ない。足取りもおぼつかず、随分と一生懸命に歩いている印象の子どもが、両手いっぱいに大きく平たい石を抱えていた。
「なんだ、石集めか? この石が欲しいのかな」
 両手に石を抱えたまま目的のものを取るのは難しいだろうと、子どもの目線の先にある石を乗せてやる。
 するとその子は嬉しそうな笑みを浮かべ、また元いた場所へよいよいと歩いて行った。
「こんな場所で石遊びかな」
「あ、ホントだ。あの辺り、子どもがたくさんいるね」
 見れば確かに、子どもばかりが集まっている場所が視界に入る。可愛いねぇと微笑ましく見遣ったしんべヱ、乱太郎の言葉に、けれど三治郎、喜三太は苦々しい顔で口を閉ざした。
 その表情を怪訝に眺めた庄左ヱ門が、やがてはたと気付いた様子で顔色を変える。
「……ちょっと行ってくる」
「へ?」
 眉間にしわを寄せ、明らかに不快感を露わにしたその一声に、隣にいた兵太夫が声を上げる。
 しかし制止する暇もないほど大股で歩いて行ってしまった後ろ姿を、残された十人はしばし顔を見合わせ、慌てて追いかける他なかった。
 行った先では、年端もいかない子どもたちばかりが懸命に石を積んでいた。
 そこに至り、全員がその場がなにであるかを悟る。
 父や母よりも先に命を落とした幼子は、賽の河原で石を積んでその親不孝に報いなければならないという話は、誰もが聞いたことがあった。
 それを現実のものとして直視し、特に庄左ヱ門、そして兵太夫の目の色が変わる。
「……よし」
「うん、よし」
 言外になにを頷き合ったのか、二人は顔を見合わせたかと思えばくるりと辺りを見回す。
 そして今まさに、積み上がっていた石塔を蹴り崩している鬼の姿を確認すると、二人して物言わずそちらへ足を踏み出した。
「もし、すみませんそこの鬼の方」
 にこやかに声をかけた庄左ヱ門に、図体からしてまさに子どもを威圧するように誂えられているような獄卒は、不審げに眉間を寄せて振り返る。
「なんだ、ここは大人の来る場所ではないぞ」
「おや、お分かりですか? こんな子どものなりになっているのに」
「お前たち自身にどう見えているかは知らんが、こちらからは死んだ年齢で見えるものだ。でなければこんな仕事が務まるか」
 意外そうに自分の身なりを確認する庄左ヱ門の発言を、小馬鹿にした様子で鼻を鳴らす。
 しかしそれもまた当然かと即座に納得した後、なんでもなかったかのように柔和な表情で唇を開いた。
「さすがは冥府でお仕事をなさっているだけのことはありますね。ところでちょっとお伺いしたいことがあるのですが、少々お時間はよろしいですか?」
「あぁ!?」
「いやー、僕らも他の人にお聞きしようと思ったんですけど、庁舎にいる鬼さんはちょっと近付きづらくって。お兄さんなら気さくに話してくれそうだなぁと思ったんですけど、……迷惑でした?」
 はっきりと面倒そうに声を荒げた獄卒に対し、庄左ヱ門ではなく兵太夫が後を引き継ぐ。
 申し訳なさそうに頭を掻く姿と、庁舎で役所仕事に追われる獄卒よりもいい意味で気安いのだとの言葉は、いかに冥府の鬼とは言えど気分はいいものらしい。
 一瞬怯んだように顎を引き逡巡した後、まんざらでもない様子で胸を張った。
「……フン。まぁお役所仕事の連中は、頭が固くて融通のきかん連中ばかりだからな。こやつらもそうそう早くは石塔を築けん。少しくらい良いだろう」
「わぁ、さっすが! お兄さん見るからに漢気ありそうですもんねぇー」
 嬉しそうに囃し立てて少し離れた場所に誘導していくのを、残る九人は心臓を掴まれるような思いで静かに見守っていた。
「……なぁ。あの二人なにする気だと思う?」
「子ども好きを自称してやまない二人だからねぇ。きりちゃんだって想像はついてるくせに」
「あぁ、やっぱりそうかぁ」
 もはや止める気もないらしい乱太郎の言葉に、きり丸は思わず憐みの目で鬼を見遣る。
 まさか責苦を与えるべき亡者に嵌められるなどとは夢にも思っていないだろうその背中は、偉そうにどっかりと岩場に腰を下ろした。
「それで、聞きたいこととはなんだ」
「大した疑問ではないのでお恥ずかしい話なのですが……鬼の皆さんは、えぇと、六道? ですか? 人の魂が巡るという……あの世界に属した存在でいらっしゃるんでしょうか」
 少々照れ笑いを浮かべながら、三治郎と喜三太から聞きかじった程度の仏教用語を口に出す。
 耳慣れない言葉ではあるもののその概要を思い返し、庄左ヱ門は好奇心を押し出した瞳で問いかけた。
「うん? あぁ、無論そうだ。我らは修羅道に属している。が、普通の鬼と一緒にされては困るぞ? なにせ人を罰することを赦された鬼だ」
 自慢げに胸を張った鬼に、兵太夫はなるほどと感嘆の声を上げた。
「そうですよね、神様にお仕えして、お仕事でやってるんですもんね! 僕らがイメージする普通の鬼と一緒に思われちゃあ困りますよねー!」
「その通りだ!」
 やんやと囃す言葉に気を良くし、がははと大きな笑い声がその場を揺るがす。
 どうやら気分の上下は激しい性格らしい。
 それを察すると、庄左ヱ門はにんまりと目を細めた。
「なるほど、やはり鬼の皆さんも僕ら人間と同じく命の巡る輪の中にいらっしゃるわけなんですね。ところで、また一つ疑問なんですが……あぁ、でもお仕事がおありですもんね! あまりお時間を頂くわけにも……!」
「いやいや構わん、気遣いは無用だ。我らの仕事などしょせん、生前徳を積めなんだ嬰児どもの子守りよ。己の身長まで石を積めばこの苦行を終えられるという業、それを疎外するのが役目。退屈なものだ」
 謙遜する庄左ヱ門に、ふんと面倒そうに鼻を鳴らす。
 どうやら仕事にも飽きているらしい。真面目不真面目に関する部分は個人差がある辺り、確かに人間と同じ魂を持っているらしいと判断した。
 さらなる疑問の消化の許可を受け、口元に不穏な笑みを浮かべる。
「そうですか、では」
 にっこりと満面で瞳を細め、ずいと迫る。
「あなたがたは徳を積まなくてもよろしいんですか?」
 その一言に鬼は一瞬呆気に取られる。
 ポカンと口と目を開けたまま言葉の意味を噛み砕いている最中の耳元で、庄左ヱ門はさらに言い募った。
「修羅道と人道では徳の積み方が違ったら申し訳ありません。ですが、人道では他者に善意と友愛を施し与えたものが徳を積めると教わっています。そして聞き及ぶ限り、畜生道、ですか? 動物たちもまた他者を慈しみ善意を施した者が徳を積めるとされ、かのお釈迦様もそうして解脱なさっっていったとか。にも拘らず、皆さんは徳を積まずこのように修羅道の常識を唯々諾々と実行しているだけでよいものでしょうか」
 今や庄左ヱ門の表情に笑みはない。
 あえて言うならば唇の端だけが吊り上ってはいるものの、目を見開き一刹那たりとも逸らしていないことから脅迫の色が強い。
 どう見てもこれは喜車の術からの恐車の術。
 それを冥府の獄卒相手に通用させようという二人の強引さに、離れた場所で見守る九人は苦笑を浮かべる他ない。
「なにも子ども達とて、望んで命を散らしたわけではありませんでしょう。それを生きている時間が短く徳を積むことができなかったからと、まして親を悲しませたからとあのような仕打ちを与え続けるのは……あなたがたをも修羅道に縛り付ける所業ではないのでしょうか」
 じっと視線を交わしたまま胸の内に揺さぶりをかける庄左ヱ門に、鬼のこめかみに汗が浮かぶ。
「い、いや……しかしこれは我らの仕事であって……。それを全うすることこそ、徳を……」
「本当ですか? 本当に?」
 今度は兵太夫が畳みかける。
「では仕事だからと、忍者は罰されないんですか? 僕らは忍者という仕事を全うしました。でもその途中、残念ながら人を欺く嘘をついたり、人への殺生はしないまでも多少害することはありました。それでも、仕事であれば見逃されるんですか? 本当に?」
「っ、弄するな! それとこれとは……!」
「違わないでしょ? だってあなたも、正しいと思ってこのお仕事を全うなさっているんですから。僕らだって、自分たちの人間を守ることを視野に、正しいと思って仕事を全うしたんです。それになんの違いがありますぅ?」
 ぺろりと舌を覗かせた兵太夫に、またしても鬼は言葉に窮して黙り込む。
 やがてふるりと震えた拳を見つめたまま俯いてしまった肩に、庄左ヱ門はそろりと手を置いた。
「一度くらい神様に聞いてみてもいいんじゃないですか? 彼らの石塔を崩す意味を」
「……っ、だが、その。……仕事をサボるのは……やはり徳が……」
「嫌だな、サボりじゃありませんってば。善意を施し弱い者を慈しむ。それは酷いことですか?」
 冷や汗を噴き出しながら目を泳がせる鬼に、兵太夫がへらりとした笑みを見せる。
 自分自身の足下を崩されてしまったような心境なのか、獄卒はその大きな体躯に見合わない震えを見せたまま立ち上がろうともしない。
 どうやら効果は上々のようだと見て取ると、二人はまたにこやかに表情を緩めてぺこりと頭を下げた。
「いやはや、お時間をとらせてしまって申し訳ありませんでした。僕らも先へ進まねばなりませんので、これにて失礼させて頂きます」
「来世、同じ世界か、できればもっと上の世界でお会いしましょうね!」
 最後に一言念を押し、それではとその場を後にする。
 鬼はやはり動こうともせず、割り当てられているはずの仕事に従事する気配は窺えなかった。
 その間に、子ども達は必死に石を積んでいく。
 これまで恐ろしい障害として立ち塞がっていた獄卒の気配をチラチラと横目で伺いつつ、場合によってはより小さな子ども達を助けるように平たい石を分け合っていた。
 邪魔さえ入らなければ、数人は容易く自分の身長に届く石が積める。
 それを確認し、二人は足取りも軽く仲間の元へと舞い戻る。
「お待たせ」
「ごっめん、ちょっと時間食っちゃった」
 悪びれる気配もない二人に、九人はそれぞれに眉尻を下げつつ、やれやれと肩を竦める。
「やるか普通」
「あの鬼さんだって仕事だろうにー」
「気持ちはわかるけどさー」
 まじめに仕事をしていただけなのに可哀想だと責めながらも、その口調は極めて深刻さに欠ける。
 子ども達が苦しい思いをしないのであればその方がいいに決まっていると、言葉にしない共通意識が全員の中にあった。
「ていうか、これあとで怒られるんじゃないか?」
「んー、そうだろうけどねぇ」
「もうやっちゃったもんは仕方ないし、いいんじゃない?」
 虎若、三治郎、金吾の言葉にもやはり罪悪感は感じられない。
 どちらかといえば学園に在学中のノリでさらりと受け流した面々は、後々裁判所で叱られることなど今は考えまいとばかりに足を進め始めた。
 ガラガラと丸い石の転がる河原を川へ向かって歩けば、やがて船着き場へと出る。
 見れば、船着き場の存在など見えてもいないのか溺れそうになりながら一心不乱に川を泳いで渡る者、そしてどういった状況なのか、それとも乱太郎達にはその理由が見えていないだけなのか、空を飛ぶように川を越えていく者も見受けられた。
「スゲー、空飛んでる」
「鳥みたいだね」
 呆けたように見上げたままのきり丸の言葉に、乱太郎としんべヱも同意する。
 とは言え、なにせ死後の世界だ。巨大な四つ目の犬や人間を10人以上乗せて走れる馬まで存在するのだから、別段おかしい事とは思えない。
 けれど人が空を飛ぶ光景など想像もつかなかった事態に、この三人のみならず全員が口を開けたまま空を見上げていた。
 そこに、やれやれと嘆息交じりの声がかかる。
「そこにおわすは中有を騒がす噂の童どもではないかえ? 揃いも揃って阿呆な面を下げてありんすな。よしやれよしやれ、せっかくの男前が台無しでござんす」
 コロコロと鈴が転がるような笑う声に向き直れば、こんな河原には似つかわしくもない妖艶な美女が舟の上でおかしげに笑っていた。
「うわっ、美人!」
 思わず団蔵が声を上げれば、美女はよりコロコロと笑みを深めた。
「お嬉しいことを言ってくりやすな。ようやくここまでおいでなんしたし、アテが水案内を務めんしへ」
 艶のある手招きにはしゃいだ声を挙げて走り寄れば、ばしゃりと足下が濡れる感覚に慌てて確認する。
 見れば舟が留めてある場所は河川敷から些か離れ、乗り込もうと思うと膝下あたりまで水に浸からなければならなかった。
 濡れた足下を残念そうに見遣り、喜三太が美女に向かい声を投げる。
「あのぉ、すみませーん。もうちょっとこっちに来てもらえませんかぁー?」
 困り果てた顔でそう叫んでも、美女はにこやかに頬を緩めたまま舟を寄せる気配はない。
 その様子に、もしやなにか意味のあることなのだろうかと顔を見合わせ、ヒソヒソと相談を始める。
「どうする? 濡れるー?」
「えー……二間向こうに舟あるのに? 助走つけて飛んだら届くんじゃないか?」
「でもそれじゃしんべヱが無理だよ。走り幅跳びの記録どれくらいだったっけ」
「えっとぉ、確か三寸?」
「無理だ」
「無理だね」
「ちなみにこれなんなの、ホントになんか意味あんの? 三ちゃん知ってる?」
「あーこれねぇ。水に濡れた重さでだいたいの罪が計れちゃうとかなんかそんなんだよ」
「ゲッ、じゃあ濡れないほうがいいじゃん!」
「そういうことなら、こういうのはどうだろう。虎若、あの距離飛べる?」
「うん、いけるいける。なになに、俺なにすりゃいい?」
 美女が待機しているのをチラチラと確認しながら即席の作戦を立て、頷き合うと同じく実行へと移る。
 とうとうと流れる川の流れを一度睨み、虎若は手を挙げて美女へと声を投げた。
「お姉さーん、ちょっと危ないんで端っこ寄っててくださいねー!!」
 その言葉に不思議そうに首を傾ぐも、たおやかな仕草で船首へと移動する。そこから移動しようとしないことを確認し、虎若は二度その場で跳ねてみせた。
 短く息を吐き、砂利を蹴りつけて加速する。
「よぉおおおおおおお、っしゃぁあああああああ!!」
 一際力強く地面を蹴りつけ、虎若の体が宙に踊る。
 それを呆気に取られて見ていた美女は、次の瞬間襲った激しい衝撃に思わず舟にしがみついた。
 派手な揺れと飛び散る水しぶきに、はぁと大きな目が瞬く。
「型破りな童というお話は聞いてありんしたが、舟に飛び移ろうとは。さすが冥府始まって以来の騒動主でありんすな」
「いやー、まだまだこっからですよぉー」
 未だ驚愕の余韻を引きずる声色に照れたような笑みを見せ、虎若が河原へと向き直る。
 すると美女がその言葉の意味を考える暇さえなく、次の衝撃が襲った。
 またしても船体が大きく揺れると、きらりと光る猫目が立つ。
「受け止め役サンキューな虎若。走り幅跳びなんてひっさしぶりだけど、案外飛べるもんだなー」
「死んだ時期も関係あるんじゃないか? お前の場合現役だったし。全員がこの舟乗ろうと思うと場所がアレだし、俺が受け止めて下ろすって庄左ヱ門の作戦、やっぱいいな!」
 ケタケタと笑うその会話に、美女は今度こそ言葉を失う。
 団蔵、金吾、喜三太、兵太夫と続き、まったく水に濡れることなく船の乗員は増えていく。
 やがて跳躍力に自信がない者か死亡時期が老年になってからの者になったのか怒涛の乗船風景は一段落したものの、今度は自力での跳躍ではなくしんべヱによる投擲へと形を変えた。
 まさに型破りすぎるその一幕に、美女の唇からは溜め息しか出ない。
 けれどようやく十人が乗り込んだのち、河原には明らかに跳躍に向かないしんべヱだけが残されていた。
 それを見て、艶やかな顔はどこか安堵したように目元を緩めた。
「おや、あの子は一人置き去りかえ? ここまで型破りでありんしたが、さしもの騒動主も策は尽きしか」
 ほほと笑うその声に、船上の十人でにやりと笑みを返す。
「さて、それは」
「どうでしょう、か、ね!?」
 見れば舟から河原まで、一直線に縄が伸びている。
 その端はそれぞれに虎若としんべヱが握り、たゆむことなく張られていた。
「おんしら、そのようなものをどこで……!」
「これですか? いくら冥府の川といえど、舟を留め置くための設備はなにかあるだろうと思いまして。みんなで河原の石を軽く蹴って探したら、杭と共にこれが。僕らの持ち物はすべて没収されてこの姿ですが、ここにあるものは使えますので」
 まさかといった表情を見せた美女に、庄左ヱ門はしれっと返す。
 その間にもその後ろでは着々と準備が進められ、全員がそれぞれ船尾からずらりと並んで配置についたのを知ると、策士は大きな柏手を打った。
「みんな準備はいいね? じゃあ行くよー! せーのっ!」
「どっせぇええええええい!!」
 掛け声に合わせてしんべヱが飛び上がり、さらにそれと同時に全員で縄を引く。
 すると当然縄を掴んでいるしんべヱの体は引力に従って舟に引き寄せられ、丸く大きな体は舟の上空に放り出された形になった。
「ちょ、さすがに舟が……!!」
 美女の焦った声色など、もはや聞こえるはずもない。
 やがてこれまで以上の衝撃が舟に襲いかかり、大きな水しぶきが壁のように立ち上がる。
 しかしそれでも舟はなんとか崩壊の危機を免れて川に浮かび、それなりに濡れてしまった衣服での大笑を溢れさせた。
 笑い転げる十一人に、美女も思わず噴き出す。
「っふふ、まさかこのような。なんとも無茶な童どもでありんすなぁ。これは主様もご苦労なさろうが、どちらにしろ罪の程度は濡れてありんすな。よござんす、されば対岸へ参りやんしょうか」
 まさに愉快そうに笑みを浮かべたまま、細い腕が櫂を操る。
 遠く見えた対岸は、舟に乗ってみれば驚くほどに近い。
 これもまた恐らくは冥府の掟によったなんらかの作用なのだろうと乱太郎が興味深く元の河原を見返ると、先程庄左ヱ門と兵太夫が恐車の術を仕掛けた鬼の居た近辺が美しく輝くのが見えた。
 それに、思わず声を上げる。
「あれ……!!」
「ん? どうしたー乱太郎ー?」
「きりちゃん、あれ……! って、あれ?」
 再度見れば、光はすでにそこにない。
 目を擦ってもやはり光は現れず、乱太郎ははてと首を傾いだ。
「どうしたの乱太郎、なんかあった?」
「……うん、ごめんねしんべヱ。私の見間違いだったみたい」
 ないものは仕方がないと思い直し、気にしないことにして先行して船を下りた友人たちのあとに続く。
 しかしその誰もが舟を降りてすぐに足を止めているのに気付くと、舟に残っていた三人は揃ってその視線の先を追った。
 口を開けたまま見上げている先には、巨大な樹。
 しかもその幹からは髪の白い男が上半身だけが生えており、幹から枝に移動しては掛けてある衣を回収して回る。
「はぁ、水に濡れた着物ってなぁなんでこうも重いもんなんでげすかねぇ。あのオババは一体どこで油売って……」
「誰がオババだい、このボケジジイ」
 疲れ切った愚痴に対し悪態を返したのは、先程まで艶然と笑んでいたあの美女だった。
 岡場所の言葉と一変したその声色と口調に驚愕の声が挙がる前に、おやおやとひょうきんな調子で男が降りてくる。
「お戻りでやんしたか。急にどっかに行っちまうから心配しましたよぉ」
「アテはこちらも騒動主らを迎えに舟を出しておりんした。ちゃあんと言い置いて参りやんしたのに、すっかり忘れておらんしたのはそっちでありんす」
 ふんと鼻を鳴らし、にっこりと十一人を見返る。
 何度も騒動主と呼ばれればさすがに気まずさが勝ってくるのか、それぞれがちらちらと視線を逸らして身じろいだ。
 それをヒョイを覗き込み、ほほうと男は手を打つ。
「あぁ、あなたがたでござんすかぁ! いやはや冥府始まって以来の居座り事件、この懸衣翁(けんえおう)の耳にも入っておりやすよぉ。こんな黄泉路に至ってまでも条理を捻じ曲げるお方々ってなぁいったいどのくらいの罪を背負ってらっしゃるのかと、かねがね興味があったんでござんす」
 ささと手を差し出す仕草に、揃って首を傾ぐ。
「……なんだろう」
「三治郎ー、喜三太―」
「ごめん、僕らも分かんない」
「ケンエオーさん? って聞いたことないよぉ」
 手を出されたからにはなにかを渡さねばならないのだろうと見当をつけるも、持っているものなど最初の坂で手にしていた蝋燭しかない。
 しかしそれよりも喜三太の発言に衝撃を受けたのか、懸衣翁と名乗った男はしょんぼりと肩を落としてみせた。
「ははあ……聞いたことがござんせんかぁ……。アタシに対する信仰も、もう随分なくなっちまったんでござんすねぇ……」
 きらりと光るものを目尻に浮かべての一言に、なにか悪いことを言ってしまったらしいと口を噤む。
 しかしなにがいけなかったのか、山伏だった三治郎にも分からないとなれば謝罪のしようもない。
 理解していない上辺の謝罪など白々しいだけだと頷き合い、話題を切り替えることを選択した。
「あの、それでケンエオーさん? その手は……」
「おおっとそうでやんした。いえね、ようは今お召しになってる着物を脱いでですね、この樹に掛けさせてほしいってことなんでござんすよ」
 乱太郎の疑問に、懸衣翁はニコニコと説明を始める。
 けれどそれを聞いていた美女はあぁダメだダメだとうんざりした様子で手を翻し、ずずいと乱太郎に詰め寄った。
「あんな言い方じゃあ、脱ぎたいもんも脱ぐ気にゃおなりになりやんしょう。どれ、ひとつアテが脱がして差し上げやんしょうか」
 妖艶な唇が眼前に迫り、着物の袷を肌蹴させていく。
 その手慣れた仕草に思わず面食らうも、脳裏に浮かぶ最愛の妻の顔が横切り、乱太郎は途端に額を青褪めさせて叫んだ。
「あ、あの! 私には、ユキちゃんってれっきとした奥さんがですね……!!」
「これこれ、おちょくるのも大概にしてやんなせぇなそこのオババ。アンタぁアタシの嫁さんで、奪衣婆ってぇ年寄りでしょうが。いくら岡場所の神さんに祀られたからって言ってもねぇ、そんな年甲斐もねぇ格好して亭主の前で浮気未遂たぁさすがにいただけやせん」
 カラカラと笑いながらの制止に、美女は面白くなさそうに乱太郎から手を放す。
「ふん、お言いでないかいボケジジイ。甲斐性もないのに旦那面したって、これっぽっちも怖かぁないよ」
「ほう、言ってくれやすね」
 じりじりと険悪さを増していく雰囲気に、十一人は肩身を狭めて身を寄せ合う。
 特に先程まで艶やかな仕草を見せていた美女が奪衣婆と呼ばれた瞬間からがらりと声色を変えて凄み始めたのを、やはりくノ一に限らず女性とは恐ろしいものだと言外に視線を交わし合った。
 そのうち、場の空気に耐え切れなくなった金吾が恐る恐ると口を挟む。
「……あのー、僕たちそろそろ先に進みたいんですけど……とりあえず着物を脱いだらいいんですか?」
 その一声に、あぁそうそうと懸衣翁が手を打つ。
「こりゃあ失礼しやした。ようやくおいでくだすった大事なお客人だ、こんなことでまた歩みを止められちゃあ、アタシらの主も報われねぇってもんでさ。ささ、早いこと脱いでおくんなさい。代わりにコイツをどうぞ」
 ニコニコと差し出された白装束に思わずおおと感嘆の声が挙がる。
「死に装束だ!」
「これってここで着替えるんだ?」
「でも葬式の時にも着せられるよね」
「わざわざ生前の着物でこっちにいるのに、ここでも白装束になるのかー」
「なんかさー、正直二度手間じゃない?」
 冥府ならではの感動が過ぎ去れば、わいわいとダメ出しに花が咲く。
 それを当事者の前でやってのける豪胆さにひくりと片頬を引き攣らせ、懸衣翁はははと乾いた笑みを漏らした。
「この冥府でその度胸、いやはやさすがは噂の騒動主さんらでげすなぁ。もう気付きゃあ随分お時間を頂戴してしまいやしたか。早々に送り出さにゃあ、アタシらもお叱りを頂いちまう。ささ、どうぞお早く」
 その言葉に、自分たちだけならまだしも他人にまで説教が飛び火するのは気が引けると慌てて着物を放り出す。
 当然その脱ぎ散らかしっぷりに伊助から雷が落ちたものの、畳まずそのままでと促されて甘えることにしたらしい。
 懐かしい井桁模様の忍装束から白装束へと着替え、やはりそこかしこで感嘆の声が挙がった。
「妖者の術で何回か着たりしたけど、本物って感じするなー!」
「うん。今の僕らは正真正銘、本物の幽霊だろうからね」
「庄ちゃん、こんな時も本当に冷静ね」
 はしゃぐ声の後ろで、さてそれではと声がした。
「アテどもの仕事はここいらまで。次の裁判所までは少々遠ぉござんすが、せめてこの牛車に乗っておいでやんし」
「半日ほどで初江庁にお着きになりやすよ。それでは、良い黄泉路をお祈り申し上げておりやす」
 二人の頭が深々と下がれば、しゅるりと枝が伸びて十一人の体をヒョイと掴み上げる。
 動転する間もなくそのまま巨大な牛車の中に放り込まれ、御者もいないのに車輪はひとりでに進み始めた。
 ずんずんと地響きが聞こえるような牛の歩みに揺られながら、十一人は顔を見合わせる。
「……ずっと乗り物に乗せてもらってるよね」
「本当ならここ、全部歩かなきゃいけないんだろ?」
「それを、とにかく早く行け! って乗せてもらってるんだもんな」
「今はまだ怒られてないからいいけどさぁ。さっきの河原の件もあるし……」
 顔を寄せ合い、やがて一つの予感に苦笑が浮かぶ。
「あの坂に居座ったこと、どっかで絶対怒られまくるよね、これ」
 声を揃えて結論を出し、全員でハハハとカラ元気の笑いを見せる。
 本来四十九日かかると言われる五つの裁判、果たしてどんな早さで巡ることになるのやらと黄泉路の曇天を見上げた。


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