――― 宵闇の手前に





 軒下に吊るした鈴が風に揺らぐような虫の音が、広い庭には溢れていた。
 既に日も暮れ、宵闇が薄く辺りを覆う。秋風の吹き抜ける、恐らく月見をするには絶好の場所と設えなのだろうと思われる部屋の中で、伊助は一人、緊張した面持ちで膝の上に拳を握り締めていた。
 この四年間でも数えるほどしか来たことのない、格式ばって見える武家屋敷に視線を泳がせる。侵入者からの攻撃を想定してか、忍術学園のものよりもなお低めになっている天井に、これでは例え忍者刀であっても上段に構える事は出来ないようだと息を吐いた。
 文が届いたのは一昨日の午前中のことだった。
 あの人当たりのいい事務員が手紙だと言って手渡してきたその差出人には見覚えがなく、いったいどういった用件のものだろうと怪訝に首を傾いだのも記憶に新しい。しかしそれも、書面を開いて三行ほど読み進めた辺りで改めた名乗りがあり、その正体に二度見直した衝撃に上塗りされて随分と薄れていた。
 伊助の座す場所は紀伊の佐武村、その首領としての役目をこなすために生活の場とは別に作られた、佐武家別宅の一室だった。
 鈴虫の羽音が、緊張し続けている伊助の心臓をなおも焦燥に駆り立てる。
 その耳に僅かに廊下が軋む音が届き、思い切り肩を震わせた。
「すまない、待たせてしまったね」
「いえ、大丈夫です!」
 するりと闇の中を滑るように表れた白い面と独特な顔立ちに、反るほど背筋を伸ばした伊助が震えた声で返す。唇を真一文字に結んで目を見開いたまま正面のみを見続ける姿に、少し気を緩めなさいと低い音が気遣った。
 頭を覆っていた黒い頭巾をするりと解き、照星が伊助の向かい側へ座る。たったそれだけの仕草にも拘らず、場に溢れた不思議な空気にこくりと喉が上下した。
 この場に、本来ならば同席していても可笑しくない次期首領の姿はない。むしろ書面にはあらかじめ釘を刺すように、決して連れ立っては来ないようにと記されていた。  それを読んで以降、いったいなにを話されるのだろうと心臓の痛む思いをしていた伊助に、照星が改めて唇を開く。
「まずは急に呼び出してすまなかったね、伊助くん。忍術学園からここは少々遠い。せっかくの休日を潰させてしまった」
「いいえ、その点に関しては本当に、全然気にしてはいないので……。……でも驚きました。まさか照星さんから私に文が来るなんて。しかも偽名で」
 届いた文の差出人を思い返し、思わず苦い表情が浮かぶ。
「私からの文と分かれば、事務員の小松田君が間違って若大夫に届けるかもしれないと思ってね。もしそうでなくとも、私の名が見えれば誰かが話に出さないとも限らない。少々悩みはしたが、無事君だけに用件が伝わって安心しているよ」
 相変わらず表情の読めない照星の言葉に、伊助は未だ治まらない緊張をどうにか押さえつけながら戸惑い交じりの相槌を返す。用件と言っても今日この日に佐武村の屋敷に来てほしいという文面だけで、他になにか大切なことが書かれていた覚えもない。
 ますます高まっていく釈然としない思いに、伊助が痺れを切らして唇を噛んだときだった。
 心情を見透かしたように、照星の鋭い目が伊助を射抜く。
「ところで伊助くん。君が佐武衆に入ることを検討していると若大夫から聞いたのだが、本当かね」
 問いただす声音に、思わず冷や汗が滲む。もしかしたらと思っていた件に早々に話が及び、いったいどう反応を返せばいいのかと唾液を飲み下した。
 廻る思考は正回答を探してこめかみを痛ませる。しかし射抜いてくる視線は、逡巡も誤魔化しも拒絶して真実だけを問い掛けていた。
 じりと火縄で焼かれるような感覚。その威圧感に覚悟を決め、伊助もまた照星を睨みつけるように座を正す。
「……はい。去年、虎若とそう話しました」
「それはなぜ。君は火器を用いた戦術に重点を置いて勉強しているという話は聞いている。しかし佐武衆はあくまでも火器全般を用いた戦術集団ではなく、火縄銃を主とした傭兵集団だ。それを考えれば、君の目指すものとは差異を感じざるを得ないのだがね」
 畳み掛けてくる質問に、これは恐らく適正試験なのだと察し、伊助の背筋に冷たいものが走る。学園の先達であり今や佐武衆への就職も果たした田村も、確か五年になって適正試験が行われたと聞いた覚えがあった。
 佐武衆は本来であれば村の住人を主とした一個の傭兵集団。今やすっかり馴染んでいるものの、本来であれば照星のように狙撃手をさらに雇い入れることや、田村のように別の場所で訓練を積んで就職するということは稀でしかない。
 無論それも、佐武昌義を筆頭とした一枚岩に僅かでも反乱や裏切りなどといった亀裂を生まないための自衛処置であり、よほどの信用を勝ち得ないことには内部へ、しかも核たる首領や次期首領の傍近くにはいられないことも理解している。
 しかしだからこそ、この質問への回答に迷いを見せた。
 寄せられた眉間と伏せられた視線に、照星もゆっくりと面を伏せる。
「色恋が発端だと言うのならやめておきなさい。そんな甘やかな感情で乗りきっていけるほど、この世界は優しく出来てはいない。君にとっても若大夫にとっても、辛いだけの選択になってしまう。戦場においては、常に傍にいることなど到底出来ないのだから」
「っ、そんなつもりではありませんっ!!」
 重々しく落とされた言葉に、声を荒げて反論する。その唐突さに多少形とも驚いたのか、照星は目を見張って伊助を見返した。
 ともすれば言葉と共に立ち上がりそうだったのか、僅かに前へ傾倒した体が小さく震えていた。
「確かに、最初の切っ掛けは照星さんから見れば不純な動機かもしれません。だけど私は、虎若の傍にいたいなんて馬鹿な考えで佐武に入りたいと思っているわけではないんです。私は火器が好きになりました。それは学園で所属した委員会の影響があったり、田村先輩やもちろん虎若の影響もあると思います。だけどそんな、憧れや恋慕の感情で佐武のような結束の固い場所に入り込めるとは思っていません。だけど、出来るなら」
 一度唇を噛み、座りなおす。
「出来るなら私はあいつになにかあったとき、弾の一発分でもいい、時間を稼いでやりたいんです。それは私が相手の手元を打つ一発でも、もしくは、あいつの盾になる一発でもいい。それだけあれば佐武衆なら、体勢を立て直せるだけの実力がある。それに火縄銃に特化した佐武の中に他の小さな火器を得手にしている人間がいれば、咄嗟の目くらましや囮にだってなれるでしょう。あいつを逃がす時間、あいつが永らえる時間、それが佐武衆全体を守ることにもなると考えています。……あと、きっとこんなことを口にしたら縁起が悪いと言われてしまうかもしれませんが」
 言い澱んだ伊助に、照星の目が煌く。言葉には出さないまでも静かにその先の言葉を強要する空気に、戸惑いながらも再度唇が開いた。
「あいつがもし戦に倒れて事切れるようなことがあったら。もしあいつが戦の最中に捕らえられて、首を落とされるようなことがあったら。そのときは私が首を抱いて逃げると、そう約束したんです」
 言葉に、首をと照星が復唱する。
「だがそうすると、君は下手を打てば佐武の者からも狙われかねない」
「分かってます。そんなこと、本当なら許されることじゃない。だけどあいつは、手柄首として並べられるくらいならいっそ捨ててくれと言いました。佐武に持って帰られても、忍に盗まれないとも限らない。それならいっそ、誰にも触れられないように持って逃げて欲しいと頼まれました。……私はもしそんなことが起これば、依頼を実行するつもりです」
「依頼、か」
「依頼です。佐武衆の若太夫から、忍としての二郭伊助にと請われた依頼。虎若は一言だってそんな言葉は使いませんでしたけど、……照星さん、色々考えたんです。佐武にだって、一人くらい忍が紛れ込んでいてもいいんじゃないかって」
 真摯な瞳が真っ直ぐに照星を見る。部屋に入り、話をし始めてからおよそ四半刻。けれどその間に最初目に見えていた緊張は消え失せ、今はただ静かに語る伊助の姿に、ふむと小さな声が漏れた。
「そのために君は染物屋と佐武衆の二束の草鞋を履き、諸国の情報を佐武にもたらし、都会での佐武の基地ともなり、その上で戦の場では佐武衆として仕事をこなし、有事の際には裏切りにも見える忍仕事をやろうと? 随分と欲張りな話だ」
 溜め息まじりの言葉に、返す言葉もありませんと頭を下げる。しかし伏せたその頭で、四方髪の術を考えていることまで伝わっているとは思わなかったと苦笑を浮かべた。
 相変わらず敬愛する人物に対しては隠し事が出来ないらしい虎若の顔を思い浮かべ、帰ったらまず一度殴っておかなければと拳を握る。
 そんな伊助を、照星の目は僅か微笑ましげに緩んで見つめていた。
 しかし気取られぬまま、するりと普段の能面のような顔へと戻る。
「……君の言い分は分かった、ならばもう話すべきことはなにもない。ここまで足を運んでもらってすまなかったね」
「いえ、あの」
 いっそ素っ気なくも思える言葉に、伊助の頬が青褪める。もし仮にこれが佐武衆での適性を見る試験なのだとしたらその言い方は不合格を表しているようにしか思えず、余りにも余計なことを喋りすぎてしまったかと後悔が胸の奥に渦巻いた。
 立ち上がった照星を不安げに見上げる顔を、くるりと見返り大きな目が瞬く。
「用件が済んだら佐武家で夕食でもと昌義殿から言付かっている。私も呼んで頂いているので共に赴こう」
「へっ!? え、あ、はいっ!」
 突然の申し出に、一瞬わけも分からず声がひっくり返る。それを始めて可笑しそうに笑って見遣り、照星は手を差し伸べて伊助の体を引き起こした。
 しっかりと地に足を着けたことを流し目に確認し、大きな手が背中を叩く。
「それと君は佐武の忍が君だけだと言ったが、昌義殿も私も、君だけではなく若大夫や田村くんのことも、忍者として佐武にいてもらいたいと思っているんだよ」
 薄く笑んだその表情に、やはり理解も及ばず曖昧な返事で頷く。しかし短い言葉の中にある違和感に首を傾いだ伊助がやがてはたとその正体に気付くと、その表情が華やいだものへと変わった。
「もちろん、今から昌義殿とも存分に話してもらってから正式に決まることではあるのだがね」
「はいっ!」
 もはや五歩ほど先を進む照星を追って、伊助の足先が床を蹴る。その広い背中に並んだあと改めて先ほどの言葉を反芻したのか、もう一つの違和感に眉間が寄った。
「あの、照星さん。さっきのお言葉なんですが、私だけじゃなくて虎若や田村先輩もっていうのはどういう意味なんですか?」
 足幅の広い照星に置いて行かれないようにと追い縋る伊助に、さてと厚い唇が弓なりに吊った。
「君の言ったもしものときが来る頃までに、その意味を考えておきなさい。私達が君に求めているのは、まさに忍者としての部分なのだから」
 意味深長なその言葉に、これ以上の回答は得られないと知ったのか静かに頷く。すっかり宵闇に呑まれた空は藍青よりもなお暗く村を閉ざしていた。
 いつの間に雲が垂れ込めていたのか月もなく星明かりもない夜に、どこかそら寒いものを感じて身を震わせる。それがなにによる物なのかを知ることもないまま、結局この日は虎若の実家に泊まることになりそうだと頬を掻いた。



−−−了.