――― 手鞠花





 相変わらずのことだが、この委員会はいつか死人を出すんじゃないかと思わずにはいられない。
 もはや霞むほど先に行った委員長の背中はこちらの息切れも知らずにますます遠くなっていき、息切れを起こしつつも必死に追い縋る自分や一学年上の先輩など恐らく忘れ去られているのじゃないだろうかと一瞬ひやりとする。
 そういえば三年の次屋先輩の姿がまた見えないと不意に気付き、この後捜索隊が開始されるのだろうかと溜息がつい口をついた。
 時折振り返ってくれる紫衣の心配顔に強がりじみて疲れた笑みを返し、汗を拭って足を速める。
 裏々山の木の葉が頬を掠め、僅かな痛みに眉間を寄せる。飛ぶように後ろへと遠ざかっていく景色の色に、そういえばもう春も終わる頃だったかと意識が逸れ、その瞬間視界の端を捉えた花に思考を持って行かれた。
 紫陽花とよく似た大きな手鞠花の群生。鮮やかとは言えないその色に、一点へばりつくようにして上昇を目指す生物を見た瞬間、足元が感覚を失った。
「……あ、れ?」
「ちょ、金吾!!」
 青い制服姿の腕が、慌てた声音を伴って自分へ向けて伸ばされる。その手を不思議な思いで見つめながら、理解も及ばないままにゆっくりと腕を持ち上げた。
 ただその指先も触れないままに、ようやく体に感覚が戻る。気付いた時には、急な坂を転がり落ちる衝撃と驚きと、とにかく痛む体と先輩達の絶叫が聞こえた。


 ボロボロの体を背負われたまま、医務室に連れ込まれたときにはさすがに申し訳なさも極まって謝罪も口をつかなかった。
 四郎兵衛も滝夜叉丸も、鬱蒼とした坂道を転がり落ちた自分の救出のために充分満身創痍になっていて顔や腕に細かな切り傷が見られる。ごめんなさいと小さな声で呟くと、自分を背負った三つ歳上の先輩は委員会中だけ見せる表情で困ったように馬鹿だなぁと笑みを漏らした。
 背負われた自分を下から見上げる目も、責める色もなく手を伸ばして慰めるように背中を叩いてくれる。その手の感触に、泣き虫から脱却できない自分の視界がじわりと滲んだ。
 医務室に届けられ、当番で在室していた伊作に預けられて手当てを受ける。既に三之助の捜索に向かった二人にさらに申し訳ない気持ちを募らせつつ、嫌に沁みる薬に金吾は顔を顰めた。
「……っつ!」
「あぁ、ごめん。やっぱりこれ沁みるね。独自調合を加えて改良したら、薬の効能は良くなったんだけどやけに沁みるようになっちゃって。しばらくしたら痛みもマシになってくるから、それまでちょっと我慢してね」
「あ……はい……」
 市販薬になにを加えたんだろうかと訝しみながらも、効くと言うのなら甘んじて受けておこうと眉間を寄せつつ痛みに耐える。けれどあまりの沁みに僅かに震えた腕に気付いたのか、伊作はくしゃりと笑みを浮かべた。
「小平太がごめんね。いけどんもいい加減にしなきゃダメだよとは言ってるんだけど」
 くるくると器用に包帯を巻きながら同学年の友人として謝罪の言葉を呟く伊作に、金吾が慌てて首を振る。
「七松先輩は悪くないです。委員会中は集中しないと怪我をするのが分かっていたのに、それが出来なかったのは僕ですから」
「……火種取り扱い中の火薬委員でもなければ毒持ち生物に餌やり中の生物委員でもないのに」
「体育と会計は毎回が戦みたいなもんですから」
「そりゃまぁそうか。ハイ、手当て終了! しばらくは清潔にね。左手首は軽い捻挫をしてるから、あまり暖めないこと。たぶん一週間程度で治ると思うけど、土井先生と山田先生には僕から伝えておくね。委員会には戻らず、今日はもう部屋に戻ったらいいよ。多分他の委員会メンバーだってそのつもりだろうし」
 くしゃくしゃと頭を撫で頭巾を被せてくる手の大きさにくすぐったげに肩を竦め、ありがとうございましたと頭を下げ医務室を退室する。捻挫と言われた左手首は確かに動かそうとすれば鈍い痛みが走り、剣の鍛錬に支障が出るかもしれないと眉間を寄せた。
 忍たま長屋へと戻り、自室の障子戸を開ける。普段なら同室の喜三太だけ、もしくはそこに付け足すようにナメクジ数匹が闊歩しているだけの室内から、見慣れた十の顔が自分を振り返った。
「あ、金吾帰ってきたー。お帰り金吾ぉ」
「さっき医務室帰りの乱太郎から聞いてさぁ。ズタボロだったって言うから顔見に来ちゃった」
「馬鹿だなー金吾。体育委員会で余所見なんて、潮江先輩の前で帳簿によだれ垂らして居眠りするようなもんだぞ」
「二人のはちょっと切実すぎるよ……」
 いつもどおり朗らかな笑顔で手を振る喜三太に続き、三治郎、団蔵が茶化し言葉を投げ、伊助が苦笑しつつ場所を空けて喜三太と自分の間に座を促す。それをありがたく享受し腰を下ろすと、障子近くにいた乱太郎がにこにこと首を傾いだ。
「でもさ、善法寺先輩がいるときで良かったよ。私じゃそんな満身創痍の手当て、時間かかっちゃうだろうしね。金吾が帰ってくる前にひとっ走り行って医務室の窓から聞いてきたけど、切り傷擦り傷打ち身に捻挫だって? 新しい薬、結構痛いでしょ」
「うっひゃー、本気で満身創痍じゃん。金サマ男前ー」
「やめなってば、きりちゃん……」
「でもホントに痛そうだよー? 大丈夫?」
 覗き込んでくるしんべヱに平気と笑みを返し、そんなに酷く見えるのだろうかと頬に塗られた薬を撫でる。途端ひりりとした痛みが走り、鏡を見ていないから分からないだけかもしれないと頭を掻いた。
「見た目よりは平気だと思うよ。自分の感覚的に言うなら、兵太夫スペシャルに掛かった時のほうが酷かった」
「うん? なになに? 次のからくりの実験体に是非立候補したいと。よしきた」
「ごめんなさい勘弁してください」
 即座に頭を下げた金吾に、部屋中から笑いが起こる。ヘタレだなんだと言われようと、こればかりは標的にされたくないと苦笑を漏らした。
 笑いが収まった頃、怪我を観察していたらしい庄左ヱ門が相変わらずの真面目な顔で口元に手を宛がう。
「しばらくは清潔第一かな。切り傷も刀傷ほど鋭くはないだろうし、いくら保険委員特製の薬を塗ったと言ったって、擦り傷もそうそう早くは完治しないはずだ。実習の時には乱太郎にちゃんと傷を覆ってもらって、終われば水洗い、そのあとまた薬の塗布をしてもらったほうがいいだろうね」
「庄ちゃんてば相変わらず」
「冷静ね」
 お決まりの台詞で突っ込みを入れつつ、伊助の視線が団蔵と虎若に向かいちらりと泳ぐ。その温度の冷たさに思わず背筋を伸ばし、二人は表情を引き攣らせた。
「な、なんですか伊助さん」
「僕らになにかおありですか」
「べぇっつにぃ。ただ、金吾はしばらく二人の部屋には立ち入り禁止かなぁと思ってさ。脳筋トリオが三人揃って駄弁る機会が減るのが可哀想だなぁーって。清潔第一な状態の金吾が、あの部屋に入るのはちょっとねぇ」
「どういう意味!?」
「言われたくなきゃ掃除しろこの漢部屋住人!!」
 綺麗に重なった二人の声音よりさらに大きな声で怒鳴る伊助に、きり丸が呆れた笑いを浮かべて頬を掻く。母ちゃん怒ってるなと呟かれた言葉に、そりゃあねぇと兵太夫が同意した。
「馬鹿旦那と馬鹿大夫の面倒見るのはオカンしか出来ないだろうから、ストレスも溜まるんでしょ」
「リーダーはとっくに、部屋に関しちゃ見放したもんなぁ。伊助も見放しゃいいのに」
「それが出来ないのが、我らがオカンでしょ」
「それもそうか」
 けらけらと笑い合うきり丸と兵太夫に、三治郎が異論もなくにこにこと笑顔で同調する。既にクラス全員から母親役として認識されている伊助に乾いた笑いを漏らし、乱太郎は喜三太のナメ壷に視線を落とした。
 喜三太の傍らに当たり前のように置かれた壷。その中身を想像しやはり引き攣ったような笑みを見せ、乱太郎は僅かに喜三太の方向へ膝を進めた。
「でもそうなると、喜三太もしばらくはこの部屋でナメクジの散歩はやめたほうがいいね」
「はにゃ?」
「前に善法寺先輩も言ってたけど、ナメクジってあんまり綺麗な場所にいる生物じゃないからね。金吾がキレてタコ壷の中で寝ちゃって以降、もうあんなに部屋が汚くなることはなくなったみたいだけど……やっぱり……ねぇ。夜はちょっと可哀想かもしれないけど、ちゃんと蓋して、間違っても壷から出てきちゃわないようにしとかないと」
「あぁ、いいよ乱太郎そこまで気を遣わなくても。ちゃんと傷は包帯や薬で覆ってるんだし。野菜クズが腐ることもカビの繁殖ももうなくなったしさ、喜三太のナメクジにももう慣れちゃったから」
 乱太郎の言葉に、さらりと返答を返す金吾に部屋中が静まり返る。あまりにも自然に出された声音にいっそ呆れ返ったとばかり言葉を失くすは組メンバーの中、よく話すためか若干の耐性があるらしい団蔵と虎若が頬を引き攣らせながらようやく口を開いた。
「金吾って……」
「どこまっでも、喜三太に甘いな……」
「なんだよ! 別に普通だろ! 慣れちゃってんだから!!」
「普通だと思ってるところが普通じゃないよ」
 重なる九色の声に、金吾の肩ががくりと落ちる。そんなにかなと困った表情で頭を掻く姿に、自覚がない辺りがもう末期だと伊助が背を叩いた。
 苦笑で冷え切った空気の中、ふわりと広がった髪が僅かに傾ぐ。
「でも僕、金吾の怪我に良くないならナメクジさんの散歩は外でやるよ?」
「喜三太」
 予想外の一言に、十対の瞳が一斉に喜三太へ集中する。
「え、だって、……いいの?」
「いいよー? だってナメクジさんが部屋でお散歩したら金吾の怪我が治るの遅くなっちゃうんでしょ? それで一緒に遊ぶのがお預けになっちゃったら嫌だもん。だから僕、ナメクジさんのお散歩は外でするよー?」
 所在なさげに手と視線を泳がせながら困惑を隠そうともしない金吾に、喜三太の朗らかな笑顔が返る。その表情を正面から受けてぐぅの音も出なくなってしまった未来の剣豪候補を見遣り、あぁと曖昧な苦笑が周囲で漏れ落ちた。
「なんとかってことわざが似合うと思うんだけど……なんだろーなーこれ……」
「子供は貸すといい?」
「それを言うなら子はかすがい!」
「だいたいそれじゃあ伊助と虎若じゃないか」
「じゃあ、痴話喧嘩は犬も食わない」
「喧嘩してないしてない。そりゃどっちかって言うと庄ちゃんと団蔵」
「花より団子ー!」
「しんべヱ個人だろそれは!」
 団蔵、きり丸、兵太夫、庄左ヱ門、三治郎、乱太郎、しんべヱ、虎若の順に的外れなボケとツッコミを繰り返す級友に、まぁまぁと伊助が手で諌める。反論もなく大人しく静まり返った部屋の中心付近でコホンと一つ咳を払い、とはいえ特に良いことわざが浮かんだわけでもないんだけどと苦笑しつつ、ちらりと喜三太を流し見、くしゃりと笑みを浮かべた。
「無理に難しいことわざ当てはめなくってもさ、この二人の場合、仲良きことは美しき哉で良いんじゃない?」
「えー」
「つまんなぁーい」
「つまんないってなんだ、つまんないって! 僕らで遊ぶな!」
「やだ!!」
 憤慨した一言に怯むことなく間髪入れずに反論を返してきたからくり部屋住人に、金吾の肩がまたがくりと下がる。それを指差して笑いながら盛り上がり始めた会話の渦に紛れ、金吾は僅かに困った顔で笑った後、隣に腰掛けてナメ壷を抱えている喜三太の膝を手の甲で軽く叩いた。
 それに気付き、なぁにと首を傾ぐ喜三太にほんの少し距離を詰める。
「明日の放課後って、委員会ないよね?」
「うんー。いきなり呼び出されたりしなかったら、ないよー」
「じゃあさ、授業終わったら一緒に裏々山まで行こう」
「はにゃ? 怪我大丈夫?」
「これくらい平気。見た目より痛くないんだよ、多分。今日委員会の途中で、手鞠花の群生を見つけたんだ。紫陽花くらい大きな手鞠花。見に行かない?」
「ナメさん!?」
「僕が見つけたのはカタツムリだったけどね」
「行く!! 行く行く行く! 行くったら行く!! 金吾大好き!!」
 きゃあとはしゃいだ声を上げて抱きついてくる喜三太を慌てて抱き止め、照れ臭さで紅潮する頬を戒めるように唇を噛む。けれど一気に静まり返った部屋の会話に気付いた時には既に遅く、言い表しようもない笑みを浮かべた級友達が視線を向けていた。
「ふぅん、あぁそうー。怪我の原因って、それ」
「盛大にずっこけたって聞いたからなにかと思えば、そーゆーことか」
「僕はなんとなく予想はついてたけどね。だって金吾だもん」
「でも、なぁんか心配して損しちゃったなー?」
「ま、委員会中でもそれだけ余裕があるってことだよね?」
「甘い甘いとは思ってたけど、いっそ病気だよそれ」
「まぁ、なにはともあれ」
「みんなが言いたいことは、一個だけだよねー?」
 しんべヱ以外のにこやかな怒りに晒され、喜三太を抱き止めた姿勢のまま身動きが取れない金吾の額から血の気が失せていく。言い訳も口をつけない状態で、壁のように立ちはだかった級友に引き攣った笑みを見せた。
「や、あの、ごめ」
「くだんない原因で心配かけんな、このヘタレぇーーーー!!!」
「ご、ごめんなさいーーー!!」
 計八つの怒声から逃げるように身を縮め、抱き締めていた喜三太に隠れる。訳も分からず辺りから響いた声と慌てて隠れた金吾に首を傾げ、喜三太はとりあえず、なにもなかったようにへにゃりと笑って金吾の頭を撫でた。





−−−了.