――― 水仙





 一人きりの室内に、自分を取り巻くのはナメクジ達と先日からゆっくりと増えつつある宝物。それを障子にもたれながら見渡し、喜三太はまたとっぷりと暮れてしまった空を見上げて溜息を吐いた。
 暦で言えば今日の月は宵待月のはずだが、幸か不幸か雲が厚くそれも見えない。それに面白くなさそうに頬を膨らませ、喜三太は寝着の足を抱え込んだ。
 敷いた布団は二組。けれど三日前から暖められることのない一組の布団を恨めしげに見遣り、日中とは違い背の中ほどで結わえられた癖の強い栗色の髪が揺れる。
「……今日も、まだ帰ってこない」
 小さく愚痴を零して唇を噛み、振り切るように立ち上がり自分の布団の中へと身を沈める。怒りからではなく顰められた眉間は四年前と変わらずもどかしい思いに歪み、もやもやと渦を巻くばかりの胸中を押さえ込むようにその指が袷を握りこんだ。
 想いも知らず、夜は進み月は沈む。
 やがて宵闇は青鈍色から黎明の瑠璃紺色に輝き、早朝の朱色から水浅葱色へと姿を変えた。


「金吾は! 僕を甘やかしすぎだと思うんだ!!」
 いつもの学園の朝、教室の戸を開けるや否や五年は組の教室に響き渡った声にその場にいた面々が何事かと目を向ける。
 既に授業準備を始めていた庄左ヱ門と伊助、そして、席に着いたばかりで今から雑談でも始めようかと腰を浮かせていた兵太夫と三治郎が目を丸くして喜三太を見上げていた。
 喜三太の目の下にはうっすらと隈が出来、どうやら昨夜は一睡もしていないようだと窺わせる。けれど肩を怒らせ叫ばれた声の大きさよりも、むしろその内容に四人は数度瞬きを繰り返した。
「……今更?」
 思わずといった声音で庄左ヱ門から零れ落ちた言葉に、今度は喜三太の目が瞬く。その仕草に伊助は困ったように苦笑を漏らし、兵太夫はなにもなかったように三治郎の隣に移動して呆れたように壁に背を預けた。
「つーか、四年経ってようやくそれを言うわけ?」
 庄ちゃんじゃないけど冷静に突っ込みたくもなるよと鼻で笑う兵太夫に、慌てて喜三太が四人が集まっている机に駆け寄る。
「なに、みんなそう思ってたの!?」
「そりゃあ……もう……」
「だって見てて恥ずかしいくらいの溺愛っぷりだもんね」
 言葉を濁す伊助に代わり、三治郎がさも楽しげに口を開く。伊助の様子も決して戸惑いが原因ではなく、むしろ自分がその事実に気付いていなかった現実にどう反応したものかと考えあぐねているらしいと察し、喜三太は力が抜けたようにへたり込んだ。
「えー……四人にそう思われてるんじゃ、ほかのみんなにもそう思われてるかなぁ……」
「うん。確実完全完っ璧に」
「思われてるねぇ」
 さらりと返してくるからくり部屋住人の言葉に、もう一度喜三太の肩が落ちる。一晩考えてやっと出した結論だったのにと悲しげに眉間を寄せる喜三太の姿に伊助が首を傾ぎ、窓から吹き込む風に揺れる髪にそろりと手をかざした。
「どうしたの。なにかあった?」
「うわぁん、お母さーん!!」
「あーもーハイハイ分かったよお母さんだよ。四年間足掻いたけど結局このポジションで固定なのか私は!」
 机越しに抱きついてくる何人目かの息子を受け止めつつ、ついに固定認識されたと思しき呼称に溜息を吐く。嫌ならやめるよと首を傾ぐ喜三太に、こっちこそ今更だからもう気にしないようにするよと苦笑した。
「で? どうしたの」
「うん、あのね。……実習で学園を出たときは、絶対お土産を持って帰ってきてくれるんだ」
「……はい?」
 呟かれた言葉に、四人の声が綺麗に揃う。意味が分からないと視線を交わすそれぞれをきょろきょろと見渡し、喜三太はえぇとと手をばたつかせた。
「あのね、ナメさんだったり、お団子だったり、お饅頭だったり、あと、ちょっと珍しい形した石とか、そういうの」
「……はぁ」
「それが、困る」
 僅かに膨らませた頬でそう締め括られた言葉に、壁にもたれていた兵太夫がずり落ちる。引き攣った頬がひくりと吊り上がるのを目にすると、伊助がこっそりと額を押さえた。
「喜三太ァ、惚気話だったら受けて立つよ? こっちだって三ちゃんへの溺愛っぷりなら金吾なんかにゃ負けてないんだから」
「ちょっとちょっと兵太夫。そういう話にもってかないの」
「惚気話なんかじゃないよー。だってさ、実戦実習の時もだよ? 戸部先生と一緒に、個人実戦に行ったときもだよ? ……そりゃあ、ナメさんが増えたら嬉しいけどさぁ……」
 どう言ったらいいんだろうと眉間を寄せる喜三太に、やり取りを観察しながら思案していた庄左ヱ門が音を立てて手を打つ。意味が分かったのと顔を覗く三治郎に、大筋はねとにっこりと笑みを返した。
「つまりこっちは心配して帰りを待ってるんだから、お土産なんて気にせずとっとと帰って来いってことだよね?」
「そう! そう、そうそうそう!! さっすが庄左ヱ門!」
 ようやく話が通じた嬉しさにはしゃぐ喜三太を目にし、そういうことかと残り三人も納得に至り数度頷く。
 確かに状況を我が身として考えてみれば、同室者、もしくはそういった感情を抱く相手の帰還が遅くなればその分待機側の心労は増すばかりで、しかもそれは日を追うごとに気が気ではなくなってくる。無事に帰って来ればそれだけで充分その代償になることに変わりはないが、帰還が遅れた要因の一つが自分への土産探しだとしたら、例え喜ばしい土産であってもそれを受け取った時の嬉しさは半減することは容易に想像できた。
「そうかぁ。確かに去年後半になってから、金吾や虎若、それに団蔵、きり丸の実戦活躍型は単独での実習が増えてきてるしなぁ。待ってる身としちゃ心配だよね」
「その点、同じ単独実習と言っても俺は相手さんの進路予測地帯にからくりの森を築くのに特化してるところがあるしなぁ。三ちゃんだって戦のど真ん中に放り込まれてるわけじゃないし、……うん。そっか。そりゃ俺らはなんとも言えないな。いくら腕を信頼してる気持ちは同じでも、友達の帰りが遅くなるのと好きな人の帰りが遅くなるのじゃ、まるで別物だもん」
「特に喜三太の場合、帰ってきたら一番に分かる同室者だしね。きり丸は寄り道せずに真っ直ぐ帰って、出来るだけ早く乱太郎やしんべヱや先生達の顔を見たいタイプだけど、金吾は心配させた分喜ばせたいタイプだし。……悪気はないから、文句も言えないのが辛いね」
 三治郎、兵太夫、伊助の順に撫でる手に逆らわず大人しく下を向く。未だ帰らない金吾の身を案じて不安げに眉間を寄せる喜三太を眺めていた庄左ヱ門が、不意に中指でその眉間を弾いた。
「デコピンッ」
「はにゃっ!」
「ちょ、庄ちゃん!!」
 突然の行動にフォローも忘れ喜三太に目を取られる伊助に代わり、逆隣の三治郎が慌てて庄左ヱ門に声を投げる。常ならそれこそ兵太夫か団蔵、きり丸辺りがやりそうな行動に面食らい、当の兵太夫も目を見開き何事かと瞬きを繰り返した。
「どしたの、庄左ヱ門」
「いや、つい。なんか昔と違って、喜三太が大人しくなっちゃったなと思って。三年生までは結構わがままだったのに、本格的な実戦実習が増えた頃からあんまり困らせるようなこと言わなくなっただろ? それがちょっと寂しくってさ」
「だからって庄ちゃん……」
 眉間を押さえて軽く涙目になっている喜三太をよしよしと撫でる伊助が苦笑を漏らすと、ごめんと素直に謝罪する。その後喜三太の頭に些か乱暴に手を置きくしゃりと撫でる手に、未だどこか幼さを残す瞳がこそりと見上げた。
「喜三太は近頃、金吾にも僕らにもちょっと遠慮しすぎなんじゃないかな。今だっていっぱいいっぱいになるまで抱え込んでから爆発しちゃったろ? それも対象の金吾じゃなく、あの時点では不特定多数の状態だったは組に。……危険な忍務も多くなってきて、特定の誰かに負担をかけたくない気持ちは分かるつもりだけどさ。だけど僕らだって金吾だって、無理してない喜三太を見てるほうが安心するよ。だから金吾が帰ってきたら、ちゃんと正直に言ってご覧?」
「……っ、うんッ!」
 にっこりと笑顔を向ける庄左ヱ門に、喜色満面の笑顔が返る。それを見届けよしと再び笑うと、級長は机に手をつき腰を浮かせた。
「じゃ、僕はまだ来ない奴のとこをちょっと覗いてくるよ。先生が先に来ちゃったら、級長の仕事しに行きましたって言っといて」
 言って、止める間もなく窓からひょいと身を躍らせる。途端、待機していたらしくがらりと開いた扉から顔を覗かせた五人に、兵太夫はそういうことかと唇を吊り上げた。
「あれ、今庄左ヱ門がみんなのこと呼びに言っちゃったよ。教えなきゃ」
「いいのいいの。庄ちゃんは庄ちゃんで、クラスのまとめ役の仕事をちゃんと全うしてんだから」
「……いいの?」
「いーの」
 兵太夫、三治郎の言葉には組全員が同調する中。
「遅刻だぞ、金吾」
「実習から帰った直後に辛口コメント聞かせに来るとは、我らが学級委員長は優しいね」
 忍たま長屋へ至る道で、未だ私服姿の背中に声をかけると苦々しい表情がゆっくりと振り返る。その頬に幾筋かの細かい切り傷があるのを見つけ、庄左ヱ門は一瞬だけ視線を宙に泳がせた。
 恐らく今回の実習で手裏剣がかするかなにかしたと思われるその傷は、きっと不安なまま待機していた喜三太を多少なりともさらに困惑させることを連想させる。
 そのくせ、その手には話に伺っていたとおり、どこかの茶店で買ってきたと思われる菓子包みが提げられていた。
「なにが帰った直後だよ、さっき教室の外を歩いてった癖に。……聞いてたろ? 喜三太の不満」
「……あぁ」
「溺愛するのもいいけど、たまにはちゃんと相手の表情窺ってやれよ。忍務に危機感抱かなきゃいけなくなってきた時期にあんな風に不安にさせると、喜三太も、その内お前も危なくなる。それに連動して、は組全体もだ」
「…………ごめん」
 視線を伏せ僅かに唇を噛む姿に、やれやれと小さく溜息を吐く。落ち込む背中を軽く叩き、早く顔見せてやれよと軽く笑った。
「今日のところはお土産を持って帰れなかった謝罪して、まっすぐ帰ってきたってことにしとけば良いよ。そしたら喜三太だってちょっとは我儘言いやすいし。じゃ、僕はちょっと委員会室に寄ってから先に教室戻るぞ」
「うん。……って、へ!?」
 手に提げていたはずの微かな重みが消えていることに気付き慌てて振り返ると、上機嫌な背中が菓子包みを持って駆け足で去っていく。委員会室に寄ると公言したからにはどうやらそれを今日の委員会中に食べるつもりらしいその後ろ姿にもはや言葉もなく、ただ咄嗟に伸ばしてしまった右手だけが虚しく風に晒された。
「……やられた」
 歳を追うにつれいつかの変装名人を彷彿とさせる性格になっていく庄左ヱ門に苦笑し、アドバイス代と思えば腹も立たないかと短く息を吐く。思えば出立日から数えて四日目。久しぶりだと思えてしまう学園の空気に瞼を下ろして思いきり息を吸い込み、金吾は迅速に出席準備を整えるべく長屋へと足を速めた。



−−−了.



※ 水仙(黄):花言葉「私のもとへ帰って来て」