金吾、そして喜三太が黄陣へ向けて発ってから程なく、きり丸は菱も撒かず鳴子もつけず、果ては下緒すら張らずにただ蝋燭を一つ灯して陣屋の中央に坐して目を閉じていた。
 蝋の解ける音が静まり返った室内でやけに耳につく。外を駆ける清かな風の音とそれに踊る木の葉の音さえも聞き分け、まるで仏堂で瞑想でもしているかのようなその姿に場に満ちた空気さえも息を潜めた。
 その緊張しきった雰囲気を壊すかのように、騒々しく草木を揺らし、足音を隠すつもりもなく慌ただしげにこちらに走る足音を聞き咎め視線を上げる。出城を囲む柵から内部には何も仕掛けていないとはいえど、それより外側に当たる森と山中には喜三太の使う虫達を放してある。けれどそんなものはまるで眼中にも入らず思考にも上らない様子で一心不乱に駆けてくるその音がいよいよ出城の門を潜り陣屋の眼前にまで迫ったことを感じ取り、きり丸は手元に纏めていた縄標に指をかけた。
 閉め切られていたはずの木戸が、なんの戸惑いもなく音を立てて開く。
「たのもー!!」
 叩きつけられるような木戸の開門と同時に、狭い陣屋内に響き渡る大声に思わず耳を塞ぐ。発声が終わった後すらじんじんと鼓膜を揺らす声音に思わず涙目で門戸を見遣ると、この行動に相応しい人物がボロボロの恰好で胸を張っていた。
「たのもーって……六年ろ組の神崎左門先輩じゃないっすか。六年生は審判役でしょ? なにやってんですか、こんなとこで」
「おぉ、なんだお前達のクラスだったのか! とりあえずなにか食い物をくれんか、腹が減って死にそうなんだ!」
「食い物ぉ!?」
「うむ、実は昨日の授業の後から、なぜか長屋に辿りつけなくてな! おかげでなにも食えていないのだ!」
 髪に枝葉を突き立てた上に破れや濡れも目立つ、所々には赤いものすらも見受けられる姿でありながら気にもせず快活に笑う声に、がっくりと項垂れる。道なき道を突き進んだと思しきその姿にそれは確かに有り得そうだと引き攣った笑いを漏らし、きり丸は座りなおしてちらりと土間へと視線を走らせた。
 鍋の蓋がほんの少しずれ、中に雑炊の残りが見える。
「……いくら出します?」
「ほぅ、金を取る気か」
「当ったり前っすよー! どケチからタダで物を恵んでもらおうなんて虫が良すぎますって。ほら、考えただけで蕁麻疹が出ちゃう体質なんですから」
 ほらと腕を捲くって見せた場所に蕁麻疹とはいかないまでも鳥肌が立っているのを見止め、なるほどと数度頷きを繰り返す。たいしたケチっぷりだと感心したように漏れ落ちた声に、得意になって胸を張った。
「そりゃあね、俺を誰だと思ってんすか。天下に轟くどケチの申し子、おりんばあさんの一番弟子、四年は組のきり丸様っすよ? まぁどーしてもっつーなら晩飯の残りくらいは出せますけどぉ」
 歯を見せて笑うきり丸の視線が、上り口に腰を下ろしたままの姿に目を移す。現在の位置からでは見えない右手に違和感を覚え、浅く短い息を吐いた。
「……飯やったら旗は見逃してくれんのかねぇ、学級委員長?」
 笑んだ声音に、影になっていた表情がにぃと笑みに歪む。途端皮を剥ぐようにして現れた庄左ヱ門の顔が、自嘲ともおどけともつかない表情で視線を泳がせた。
「やっぱバレてたか」
「そりゃ、このタイミングだしな。それに庄左ヱ門。わざわざ傷まで作ってもらってきて悪いんだけどよ、その右手の赤布、いくらなんでも不自然に真赤だから誤魔化し効かないぜ? 口調もちょーっとばっかし違う気するしな。冷静すぎ」
「残念、まだまだかぁ。これからもっと音声の訓練もしないとな」
 敵陣の只中だというのに真剣に反省点を考え込む庄左ヱ門に、つくづく冷静すぎる奴だと苦笑する。けれど折角機会に恵まれ正面からやり合う機会を得たというのに無駄話だけではさすがに興醒めだと視線を尖らせた。
「……で? 実技じゃ俺に結構な差をつけられてる庄左ヱ門くん。わざわざ捕虜になりに来てくれたかな?」
「まさか。銭の計算以外ではまだまだ詰めの甘いきり丸くんの、自信過剰と傲慢の隙でも突いてやろうかと思ってね」
「……っにおぅ……! 言ったな、この野郎!!」
 怒りに任せ、きり丸の手から縄標が飛ぶ。咄嗟に右方へ飛びかわした庄左ヱ門に、一度縄を引き、標を手元へ戻した。
「後悔させるぞ庄左!」
「そっちこそ、こっちに武器がたくさんあることを忘れないようにね!」
「あんだとぉ!?」
 叫ぶきり丸の頬を、なにかが掠め飛ぶ。苦無かと思い嘲笑すれば、背後から聞こえた必要以上に重く突き刺さる音に、恐る恐る壁を振り向いた。
 衝撃を消しきれず、柄を震わせた包丁が深々と突き刺さっていた。
「お、おま、包丁はまずいだろ!」
「あるものはなんでも使うべし、ってのは忍者の基本でしょう。土間を獲った僕のが有利だね、きり丸」
「っ、武器の多さで勝ち負けが決まりゃあ、弁慶と牛若は弁慶の圧勝だっつーの!」
「それもそうだ!」
 投げつけられる縄標をまな板で防ぎ、代わり袖の中に忍ばせていた棒手裏剣を同時打ちで返す。それを縄を回転させ叩き落したきり丸は、余裕の表情で足を鳴らした。
「やっぱ実技じゃたいしたことねぇな、庄左! 俺をここから一歩動かすことも難しいか!?」
「なんの、僕に近付くのを怖がってるような腰抜けには負ける気はしないね!」
「お前、マジで口悪いぞ、今日!」
 青筋を浮かせ叫んだきり丸を尻目に、庄左ヱ門が場に似合わず柔らかに笑む。それに言いようのない怖気を感じ、きり丸の手が一瞬停止した。
 隙を突き、土間から未使用だった釜に紐が巻かれ下向きに投げ入れられる。
「釜……?」
 怪訝に思う視界の端で、庄左ヱ門が耳を塞ぐ。その仕草に不穏なものを感じ慌ててそれに倣おうとするも、手指が耳に届くよりも早く、それは陣屋を揺るがした。
 釜の中に投げ入れられた百雷銃の炸裂音が、釜の壁に反響し、異常な騒音となって鼓膜を襲う。
「イっ……!!」
 あまりの騒音に、三半規管を侵されきり丸の体が傾ぎそのまま壁際に跪く。壁板すらも震えるほどの騒音、それに仕掛けた庄左ヱ門すらも苦悶に眉間を寄せ膝をついたが、きり丸の姿を細目を開けて確認し、一度唾液を飲み下して耳を塞いだままあらん限りの声で天井へと声を投げた。
「ど真ん中の床板だ! ぶち抜け、団蔵!!」
「待ぁってましたぁ!!」
 声と共に、綿と木皮で耳栓をした団蔵が天井を蹴破り室内へ落ちてくる。天板と梁の破片を纏わせ降りながらも心底楽しげに表情を輝かせ、その勢いのまま体重を乗せた右拳が、床板へと思いきり叩きつけられた。
 下へとかかる力に反比例し、衝撃と共に舞い上がる床板の破片。その内の一枚の裏側が木目ではなく、墨で塗られた紙が張り付けられて僅かに膨らんでいるのを目に止め、迷いなくそれを掴み取った。
「旗ゲットぉ! 頼むぜ、兵太夫!!」
 叫び、釜に巻かれていた紐を木片にぞんざいに括りつけ手を離す。それを見越し持ち手を引いたそれともやはりカラクリを作動させたのか、見る間に闇夜へ消えた木片を数瞬茫然と眺め、きり丸がふらつく足で立ち上がり団蔵を睨みつけた。
「団蔵、てめ……っ!」
「無理すんなって、頭グラグラしてるだろ? 庄左ヱ門が同室者の特権で持ち出してきた、伊助特製の百雷銃だぜ? 俺のこの耳栓でも結構耳に来てるのに、間近で聞いたお前が平気なわけないだろ。兵太夫は姿を見せてないから、どこを追っかけていいかも分かんない。人海戦術ならなんとか出来ても、お前一人じゃ無理だと思うぞ。ちなみに、俺と庄左に聞いてもマジで知らない。三治郎の布取っただけでも今回は収穫じゃん。それともこの上足掻いて、お前も布取られて失格になったほうがいいか?」
 ほんの少し意地悪く肩を竦める団蔵に、奥歯が軋んだ音を立てる。平衡感覚は回復したものの、先に掛けられた言葉通り現状は自分一人しか手駒はおらず、どう追撃したらいいのかも分からないとあればせめてこの布だけでも死守するのが得策かと思考が廻った。
 しかし思考と感情は、必ずしも同じ主張をするわけではない。
「ちぃいいいっくしょおぉおおおおおお!!」
 悔しさに叫び、壁を殴りつける。きり丸のその咆哮に団蔵と庄左ヱ門が困ったように目を見交わす頃、演習終了を告げる鐘が鳴り響いた。
 闇はより深く更けていく。
 審判役の六年生を含めた全員が無事集合し学園グラウンドに戻ってくるまでに、時刻は亥の刻へと迫っていた。もちろんその原因の一員はといえば学園一の迷子と名高い二人の六年生がまたしても山中での迷走を果たし、その捜索に時間を要されたに他ならないが、今回は迷走の発端からの一部始終を六年全員が見張っていたために比較的迅速に救出することが出来た。
 その紆余曲折を経てようやく至った学園グラウンドの中央で、陣ごとに並んだは組の面々を見渡し、前に立つ山田が満足げに口を開く。
「えー、私達が想定していたよりもえらく駆け足な実習になってしまったが、今から今回の結果を発表する! まずは旗を守りきり、且つ他陣の旗を見事奪取した陣、赤陣だ。庄左ヱ門の策があったとはいえ、それぞれの役割をよく理解し、そしてよくこれを果たした! 先生方も、初めての実習というのに素晴らしいことだと皆目を見張っておられたぞ。続き、惜しくも旗を奪われたものの、奪取するにも成功した陣、青陣だな。こちらもきり丸を筆頭に互いがよく互いの特性を理解し、そしてその能力を遺憾なく発揮した。虎若に至っては一度捕らえられはしたものの、よく相手を観察し、旗を奪取するに至った観察眼は評価が高いぞ。そして、残念ながら奪えず守れずといった結果になってしまった黄陣。しかし落ち込むことはない。他陣よりも人数の少ないハンデを乗り越えどこよりも早く他陣の位置情報を手に入れ、しかも赤青双方が争う中目を盗み虎若を捕虜とすることに成功した功績は非常に高い。功を焦った感はあるものの、初めての演習授業の結果としては皆本当によくやった! 私も土井先生も、本当に鼻の高い思いだぞ」
 人のいい笑顔を向ける山田の言葉に、全員が照れ臭そうに頬を染め頭を掻く。ここまで手放しに褒められることに慣れていないことが見て取れるものの、だからこそなのか普段よりも自信を見せ胸を張る生徒達に、隣で様子を眺めていた土井も表情を綻ばせた。
「こう私達が褒めたところで、各々自分の中で反省点の見つかる者、悔やむところがあった者も多いだろう。だが、そういう者も決して落ち込むことなくこれからに向けて気持ちを切り替えてもらいたい! あとこの半分でもいいから、教科にもやる気を見せてくれると嬉しいんだがなぁ」
 情けない声で締めくくられた教科担任の言葉に、全員から笑いが起こる。いつもの騒動の時のような助言もなく、ほぼ一日中自分達の判断を頼りに行動する演習での疲労を微塵も見せず朗らかに笑うは組を見遣り、山田は安堵したように息を吐いた。
「さて、では本日はこれで解散とする! 皆汚れが酷いからな、疲れていても風呂に入って休むように。明日も早いから遅刻するんじゃないぞー」
 笑顔で見守る担任二人に就業の挨拶をし、全員で足並みを揃え風呂場へと向かう。一部ボロボロになってしまった制服を互いが囃し立てるように軽口を叩き合い、やはり疲れなど知らぬ顔で騒々しく夜中の長屋を通り抜けた。
「しんべヱ、今度組み手付き合ってくれよ! 一回でいいからさー!」
「えー、やだよぉ。団蔵ってば本気でやってくるんだもんー」
「ねぇ伊助、さっき浦風先輩に聞いたんだけど、虎若とエロいことしてたってマジ?」
「なにそれなにそれ兵ちゃん! 伊助、僕も聞きたい!」
「してないっての! 言っとくけどそれ本気で誤解だからな!? 明日先輩にも弁解するから!」
「あ、乱太郎。部屋に帰ったらきり丸にかゆみ止めあげてねー。あと金吾に傷薬。さっき見たら、庄左ヱ門にもいるかなぁ」
「うえ!? 金吾は分かるとしても、きりちゃんと庄左になんかあった!?」
「うん、きりちゃん三治郎に毒カエルぶつけられたんだって。庄左は分かんないけど怪我してた。あ、あと虎若ー! 明日、今日使った出城修理したいから委員会の報告書よろしくー」
「ほいよ、了解ー。金吾ー、今度の休みでいいから俺と喜三太に団子奢れー」
「分かった分かった。って、元はといえばお前の救出に行ったのになんで奢んなきゃいけないんだよ!」
 夜中だというのに自分達の長屋だからか遠慮なく声をあげる級友達に苦笑を浮かべ、庄左ヱ門はふと視線を落とし目を泳がせる。先頭を歩くきり丸は先刻までの緊張感など忘れ去ったように機嫌良く歩を進めてはいるものの、それに甘え自分の胸の中で渦を巻いている感傷に目を瞑ることを良しとせず、庄左ヱ門は一度強く拳を握り締めた。
「あのっ、きり丸っ」
「んー? なんだよ庄左」
「……さっき、ごめん」
「なぁにが」
「詰めが甘いとか、腰抜けとか、色々」
 気まずげに視線を逃がす姿に、あぁときり丸が嘆息する。その声音が不快を示すものでないことを感じ取り、庄左ヱ門は反射的に顔を上げた。
「気にしてないのか」
「んー、まぁホントのことだしなぁ。それに、ありゃあ俺をあの場所から動かすための怒車の術だろ? アレに引っ掛かった時点であの悪口は的を射てたってことだよな。気にしてたらキリねぇよ」
 飄々と受け流すきり丸に、拍子抜けした様子で肩を落とす庄左ヱ門の肩を乱太郎が叩く。振り向いた先にある柔らかな笑顔にほんの少し涙腺を刺激され滲んだ視界で、級長はゆっくりと唇を噛んだ。
「庄左は頭がいいけど、私達だってその気持ちが分からないほど頭が悪いわけじゃないよ。こんな演習であった一言二言で、僕らは組の仲が壊れたりなんてするもんか。そうでしょ、学級委員長」
 笑う乱太郎に加え、次々とクラスメイト達が顔を覗かせる。考えすぎなんだよと口々に発される軽口の渦に囲まれ、庄左ヱ門は泣きそうに眉間を寄せて笑って見せた。
 細く息を吸い込み、闇夜を見上げる。
 今回の演習で得られた情報、つまりは今現在各自の持っている能力とその実力は後で審判役の各人に聞いて廻れば大体のところは分かる。自分がこの目で見たことだけでも、恐らく今までのどの四年生よりも実戦には慣れているはずだと思考を巡らせ、庄左ヱ門は普段のように笑って級友と風呂場へ進む。
 そう遠くないうちに確実に開催されるだろうクラス対抗演習でどれほど自分がそれらを纏め上げられるかを構想し、そのために今からまた兵法書を読みあさらなければと楽しげに口元を緩めた。



−−−終業.