かたりと鳴った微かな音に反応し、気配を殺して陣屋の中を移動する。戸口は閉め切ってあると言っても屋内を二分するための木戸を取り払い、例え最奥であってもすぐに陣屋内の異変に対応できるようにと神経を尖らせていた喜三太の視線が忙しなく辺りを窺った。
 至る所を這い回るイラガの幼虫やマツケムシが撒き菱以上の強力な守りになっているとはいえど、相手が同じは組の面々であればその程度では安心出来るわけもないと、掌に滲んだ汗をこっそりと袴で拭う。
 戸口に手を掛けた二つの気配に、僅かに身を屈め苦無を握りしめた。
「あー……っと。ナメクジさんが、好き、です」
 聞こえた声と言葉に、数瞬前の警戒など忘れて大きく目を瞬く。そして慌てたように箸を取り出し、辺りの毛虫を回収しつつ木戸へと声を投げた。
「しんべヱのワカメ!」
 言葉の間にも、素早く虫達を回収していく。箸に摘み上げられるたびに逃れようと体をうねらせるそれらにごめんねと声をかけ、万一にも飛ばされた毛針に触れぬよう注意を払った。
 全てを坪に回収し終え箸を仕舞い、ようやく一息吐いた表情が柔らんでもう一度口を開く。
「団蔵の馬ー」
 それを合図に、陣屋を閉め切っていた木戸ががらりと開く。そこを潜り入っていた二人の様子に、喜三太は純粋な疑問を感じて小首を傾いだ。
 先に入ってきたきり丸はと言えば体中から臭気を漂わせた上に顔と右手が赤く腫れ上がり、ひっきりなしに掻いているからにはかぶれたかなにかしたらしいと察しがつく。しかし金吾に至っては殴り合ったような顔の痣の他にも、なにをどうなったのか見当もつかぬほどボロボロに破けた制服に、駄目押しのように髪の至る所へ枝葉が刺さっていた。
 二人の不貞腐れたような表情が、なんとはなしに奇襲の結果を告げる。
「……旗、とれた?」
 予想してはいるものの、断定してしまうわけにもいかず遠慮がちに声をかける。しかしやはり予想は裏切られることなく、特にきり丸が苦々しい顔で眉間を寄せた。
「取れなかったどころか、虎若の奴がドジりやがった。……たぶん、黄陣にとっ捕まってる」
「えー! 大変じゃん!」
「……まぁそれに関しちゃ今から考えるんだけどよ。それより喜三太、かゆみ止めってあるか? カエルに触ったところが痒くって痒くって……」
 不機嫌な表情から一転し、情けなそうに眉と目尻を下げたきり丸に思わず噴き出し快諾する。ついでにと水桶と手拭も用意すれば、助かったと涙目で感謝された。
 実のところは、拭いてくれないとこちらにも若干の被害が及ぶからだとは、その空気が言わせてくれない。
「カエルって三治郎? 授業用の蛙かな、委員会に寄って連れてきたんだねー。その手のカエル毒って漆にちょっと似てるから厄介なんだ。これが終わったら、乱太郎にちゃんと手当てしてもらったほうがいいよ。金吾ぉ、傷薬がちょっとないから、とりあえずこの粉を血が出てる所につけといてね。ってか、それはどうしたの」
「団蔵と派手にやり合って、腹立つのと楽しかったのはいいんだけど……気付いたら、二人揃って空高く放り出されてて……」
「んー……それも三治郎だねぇ……きっと」
「カラクリなんて……! あいつらなんて嫌いだ……!!」
「よしよし、そういうこと言わないのぉ」
 涙目になっている金吾を苦笑交じりに慰め、髪に刺さった枝葉を抜きつつ柔らかに撫でる。その光景に呆れたように肩を竦めるきり丸にも苦笑を見せ、喜三太は不意に視線を研ぎ澄ませた。
「……で、どうする? きり丸。ちなみに僕、もうお留守番飽きちゃったんだけど」
「分かってるよ。今、何刻だ? 鐘鳴ったか?」
「ううん、まだ鳴ってない。でもそろそろ鳴る時分だから、戌は近いと思うよ」
「ゴールデンタイム真っ只中って感じだな。おっし、分かった! 喜三太、待たせたな。金吾と組んで虎若奪還作戦だ。金吾、お前の体力なら行けるよな!」
 きり丸の言葉に、金吾が首肯を返す。
「じゃあきり丸が留守番? 自発的には珍しいねぇ」
「おう、ちょっと勘が騒ぐんでな。頼むぜお二人さん」
 軽口に、二人が互いに見交わし微笑を浮かべる。既に装束を着直した金吾が刀を手に立ち上がると、喜三太がはしゃいだ様子でそれに続いた。

 空は、すっかりと暮れて暗幕の中に落ちていた。
 学園の場所、そして敷地の広さゆえにもはや慣れきってしまった夜の山中ではあるものの、やはり闇夜は視界を奪う。月が昇り雲が晴れているために随分明るくはあるものの、出城の場所を知らせないようにと松明も点けぬ状態で一人で見張りに立つには、些か退屈でもあったし、それに心細くもあった。
「……虎若捕まえに行く前にご飯食べたけど、お腹減ったなぁ……」
 ひもじげに呟いたしんべヱの声の先で、がさりと草叢が揺れる。途端緊張した面持ちへと変わり身構えると、その揺れは隠そうともせずにより一層激しさを増した。
 陽動かとも辺りに気を配りつつ、そろりと足を向ける。その間も移動すらせず揺れ続ける草叢に、こくりと唾を飲み込み手を伸ばした。
 覗いたその先で、いくつもの大きく黒目がちな獣の瞳が自分を見上げる。
「わぁ、タヌキだぁ!」
 喜色満面に声を上げ、おいでおいでと手招きし緊張を解く。親子で連れ立ち食料を探していたらしいその姿に懐に仕舞っておいた干飯を差し出す姿は、やはり忍者というには余りにも警戒心が欠けていた。
 それを横目に、こそこそと軒下へ滑り込む二つの影。
「……ホント、しんべヱは順忍らしさを発揮されなきゃ、今のところはなんとかなるな……」
「来る途中たぬきに会って良かったよ。虫獣遁に役立ってもらっちゃった」
「干飯を散らしながら誘導してきたからな。久しぶりにまともな虫獣遁が見れてなによりだ」
「このテの虫獣遁は、どっちかと言うと虎ちゃんのほうがよくやるもんねぇ」
 青陣で決めた矢羽で会話しつつ、匍匐前進の姿勢で床下を進む。未だ侵入してから距離はなく、間口と正反対の場所から這入り込んだ二人は上の気配を探りつつ、ゆっくりと腕を前方へと押しやった。
 にも拘らず、乱太郎はかすかな床下の違和感に薬研を放し、隣室の伊助へと矢羽を飛ばす。床板の軋むようなそれ。まさに極小さなその音に耳を留め、未だ虎若をくすぐり続けていた手を止めて伊助は大きく肩を上下させ、息を整えた。
「い……いすけ……?」
 くすぐってくる手が離れてもなお常のようには思い通りにならない呼吸と、拷問によって涙目になった視界で息も絶え絶えに虎若が口を開く。それに対し、ようやく呼吸を戻した伊助が笑顔で振り返った。
「ごめんね、ちょっと待ってて。帰ってきたら続きしてあげる」
「……出来ればもっと魅力的な場面で聞きたい台詞だよ」
 立ち上がり、背を向ける伊助に虎若の目が間口へと走る。そこにしんべヱの気配はなく、闇夜が広がるばかり。それを確認し、虎若が動いた。
 一方、床上の異変に気付いた金吾は開き直ったように溜息を吐く。
「気付かれたな」
「だね」
 もう矢羽で話す必要性を感じないのか、蚊の鳴くような声音ではあるものの音に出して会話する。既に床上では警戒の気配が漂い、時を置かずなにか仕掛けられることは明白だった。
「床下だと分が悪いな」
「壊していいよ、どうせ直すのは僕ら用具委員だし。派手にやっても平気」
「了、解っ!」
 言うが早いか、侵入の際背負った刀を脇へ回し、居合いの要領で振り抜き梁と床板を斬りつける。咄嗟に横方向へ移動した喜三太に倣い金吾もそこから素早く退避すると、梁がずれ、床板の一部が抜け落ちた。
 それを肘で叩き割り、勢いに乗じ床上へと頭を覗かせる。
 が、視界に飛び込んだのは濛々と立ち込める薬煙。
「げっ」
「金吾、しゃがんで!!」
 叫ぶ喜三太の声に従い、一も二もなく床下へと再度姿を消す。それに対し同じ箇所から姿を見せた喜三太は、頭巾で口を覆い、懐に忍ばせていた扇を開いて薬を掃った。
「ちょっとぉ乱太郎! 部屋の中で薬を撒くなんてなに考えてんの!! ……って……。ア、レ?」
 珍しくきつい口調で叱責する喜三太の言葉に、扇の起こす風が加わり次第に視界が開ける。けれどそこに予想していた悪役然とした乱太郎の笑みはなく、喜三太は拍子抜けしたように首を傾いだ。
 壁方向から聞こえる咳に気をとられ視線を向ければ、そこにようやく、格子窓に向かい一緒になって扇を振っている乱太郎の姿があった。
「……乱太郎?」
「あー、いやぁ、ごめんごめん。手裏剣投げるつもりだったんだけど、間違って粉薬の入った袋投げちゃったもんで……」
 誤魔化しの笑顔を見せる乱太郎に、また別の箇所に穴を開けて顔を見せた金吾もつられ苦笑する。相変わらず不運だなと同情の意思を見せる金吾に、喜三太は同意しつつも疑問の目を向けた。
「前から気になってはいたんだけどさぁ。なんか金吾、感染してない? 不運」
「してないっ!! 断じて!!」
「ちょっと! そこまで否定しなくったっていいじゃない!」
 鬼もかくやという形相で否定した金吾に、乱太郎が情けない声を上げる。それを茶化すように笑う喜三太に不満の表情で目を向けたあと、金吾はわざとらしく咳を払い、醒めた視線で乱太郎を睨みつけた。
「冗談は切り上げだ。乱太郎、虎若を返してもらうぞ」
「返してもいいけど、動けるかな? ずっと笑いっぱなしだったからね。聞いたでしょ?」
「えっ、ずーっとあの状態だったの? はにゃー、酷いことするねぇ」
「優しい拷問があるわけないでしょ喜三太!」
 乱太郎の必死のツッコミにもめげずへらりと笑う喜三太を隠れ蓑に、外周警戒していたはずのしんべヱが未だに姿を見せない不自然さに金吾が眉間を寄せる。ここが二の間で、こちらへ来るには虎若のいる一の間を通らなければいけないとは言っても、そこにいるのが捕虜である以上遠慮などする意味もないはずだと思考を廻らせた。
 その矢先、恐る恐ると仕切り戸が開かれる。
「ら、らんたろぉ……」
「しんべヱ、どうし……。……あ」
「だーァれがへばってるってぇー?」
 困惑しきった顔を覗かせたしんべヱに乱太郎が投げた声がその意味を全て伝えるまでもなく、その後ろ側に立っていた虎若が快活な笑顔を見せる。その腕の中には伊助が拘束されており、首筋には苦無が押し当てられていた。
「……ごめん、乱太郎。油断した」
「しんべヱ、背中に壁をつけてそのまま動くなよ。乱太郎も同じようにしてくれるか? 俺としても、こんな理由で伊助を傷つけるのは嫌だしさ。金吾、とりあえずそっちにある俺の服持っててくれ。風邪引きそうだ。喜三太ぁ、乱太郎の薬箱あさってくれ」
 おおらかな笑顔を見せながら有無を言わさず指示をしていく虎若の最後の言葉に、黄陣の三人の表情が強張る。その反応に我が意を獲たりと唇を吊り上げた虎若が金吾に笑みを送る間もなく、指示通り薬箱をあさっていた喜三太が声を上げた。
「あ、黄色の旗ぁ!」
「予想的中! よっし、これできり丸にどやされずに済みそうだ!! おい、忍務完了! ずらかっぞ二人とも!」
「おい、それじゃ盗人みたいだろ!」
「いいからいいから、気にしないのぉ! じゃあね、乱太郎しんべヱ伊助! 実習終わったら話そうねー!」
 虎若が伊助を離すよりも早く、床板に叩きつけられた煙幕が陣屋内を覆う。それに咳き込み視界を奪われている間に、三人はまんまと逃走に成功した。
 奪還しようにも、追いつける足を持っているのは乱太郎のみだが実技の差で成功の可能性は薄い。仮にしんべヱの順忍性ならば奪い返せるかも知れないが、先述したように追いつけるだけの足は無く。
 もはや敗退する他は道のない条件に、黄陣はただ互いの顔を見合わせて愛想笑いするしかなかった。



【黄陣 敗退】



−−−続.