正酉を告げる鐘が学園全体に響き渡り、そしてその音が朱と広がりつつある闇に吸い込まれる頃。黄昏時の不安定な色彩に紛れ、がさりと昨年の落ち葉が朽ちかけた悲鳴を上げる。その微かな音にさえ叱責するように短く息を吐き、金吾は先行するきり丸の背を追った。
 事前に頭に叩き込んだ地図とそれを記憶した自分の頭脳を信用するなら、そろそろ件の赤い木々が見えてきてもいいはずだと視線を尖らせる。
 赤陣の左舷から回り込み、岩陰に隠れ火縄銃を構えている虎若に援護を任せて打って出る作戦だが、あまりの静けさに眉間が寄る。十間ほど先にようやく見えた赤布の枝々のあまりのわざとらしさに加え、恐らくこちらの行動など見透かしているはずの指揮官からの反撃がなにもないのが不気味さを増長した。
 足を止めると同時に気に身を隠したきり丸に倣い身を潜め、ちらりと視線を投げれば同じく苦々しい表情が自分を見返す。
「あからさまに胡散臭いと思わねぇ? 金吾」
「だな、我らが策士様の策全開って感じ。どうする、きり丸」
 進退を問い掛けはするものの、その答えなど決まり切っていると自嘲しゆっくりと息を吸い込む。その気配にきり丸もにぃと唇を吊り上げ、普段と変わらぬ笑みを見せた。
「一旦ここまで出てきちまったもんはもう悩んだって仕方ねぇ。とりあえず敵将の策とやらに勢い込んで飛び込んで、そんでヤバけりゃ引きゃあいい。仕掛ける前から尻込みしてて、そんで旗が取れるかってんだ」
「そうだな。それに異議なし」
「んじゃ、決まり」
 互いに一歩踏み出すと同時に、細い糸の張る音と縄に足を取られる感覚にぴたりと固まる。糸と縄、そして赤陣の編成という嫌な符号に、金吾はゆっくりと肩を落とした。
「……きり丸。なんか、引っ掛けた?」
「金吾こそ、なんか踏んだりしてねぇ? それっぽい音が聞こえたんだけど」
 言葉に出すや否や、改めて顔を見かわす暇もなく風を裂く音が耳に届き、咄嗟に避ければ何本もの矢が突き刺さる。冗談じゃないと引き攣った声で呻けば、さらにその手がなにかを押した。
 このどうしようもなく嵌められ続けていく感覚は間違いないと、額から血の引く音を聞く。
「やっぱりカラクリかぁー!!」
 綺麗に重なって叫んだ声に喝采するかのごとく、逃げるたび新しいカラクリが作動し弓だけでなく丸田槌や竹槍、果ては十字手裏剣や埋め火までが四方から飛び交う。避けるたびに飛び上がればそこには張り巡らされた糸があり、かと思って地を這えばそれはそれで土の中から竹槍が顔を覗かせた。
 とにかく、避け続けるためには走り回るしかないと知り、二人は半ば自暴自棄といった表情で駆け続ける。
「一体いくつ仕掛けてあるんだよ、クソッタレ! こんなの体力使わされるだけで、なんの得にもなんねぇー!!」
「人外相手に走らなきゃならない時はあんまり話すな! 呼吸の無駄だし、舌噛むぞ!!」
 二人の叫ぶその声から、さらに東。
 赤陣の出城、その物見櫓から生い茂る山中へと目を向けるカラクリ技師が満足げに目元を和らげる。それを横目に見遣り、その顔はあまりお勧めできないなと策士が苦笑を洩らした。
「だって見てよ、庄左。あいつら面白いくらいカラクリに掛かりまくってくれてやんの。仕掛け甲斐もあるし、学園一のカラクリ技師と名高い僕としちゃあそりゃ趣味の悪い笑いの一つも浮かべたくなるってもんだよ」
「自分で趣味が悪いって言っちゃうのもあまりお勧めしないけどね。そういうのは相手に思わせて、自分では知らん振りする方がずっと効果的だよ。……効果的と言えば、あのカラクリ。結構派手に動き回るようにしてくれたんだね。木々の揺れや葉音で、どこからどう動いてるのか分かりやすくて助かるよ」
「我らがリーダーのお気に召してなにより。……それより、ホント無我夢中で想定ルートを辿ってくれるね。普段のきり丸と金吾なら、あそこまで簡単に引っ掛かり続けたりしないのに。これってあの赤布の効果?」
 問う声に、その通りとにっこりと笑む。
 二年間いたずら好きな変装名人の下で過ごしただけあって、庄左ヱ門は今やなかなかに芝居がかった口調を披露する。それでも演出の過剰さは彦四郎には負けると豪語する級長に解説を求めると、やはりどちらも変わり映えしない気のする仕草でそれではと礼を見せた。
「いわゆる錯覚だよ。あー、思い込みのほうが正しいかな。みんな、色で陣を組み分けされているのはくじの時点で気付いたと思うんだ。それに陣の位置なんて、それこそ少ない陣営だし斥候が走ればすぐに知られる。そこでこれ見よがしに陣の位置を囲むように赤布を配置するとどうなる? 自然、そこから先が陣地なんだと思い込む。つまり、そこから手前は安全だと錯覚してしまうんだ。……後は、分かるよね」
「つまり、赤布の領域に入らなければ安全だと思って油断していたせいで、その外に仕掛けてあるカラクリに気が付かなかったってことか」
「そう。油断しているときに仕掛けられると、思いのほか体力も精神力も削られるもんさ。忍のする戦は化かし合いだからね。妖怪みたいなもんだよ」
「なーる、化かし合いね。さしずめ庄左はうちのクラスのぬらりひょんですか。こわやこわや」
 兵太夫の茶化す言葉もものともせず、ただ薄く笑って山中へと視線を戻す。未だ揺れ続ける木々のその行く先を見遣り、庄左ヱ門はさてと呟きさらに唇を吊り上げた。
 同じ頃、不意に止まったカラクリの襲撃に二人の足が止まる。上部から聞こえる葉鳴り、それがカラクリではないと察し、金吾は咄嗟に提げていた刀を抜き去った。
 途端、落ちてくる人一人分の重み。
 落下と同時に振り下ろされていた鉄双節棍の一撃を峰で受け、けれどその重みに思わずじりりと後退する。衝撃と二人分の体重を受け止め僅かに抉れた土の感触に、金吾から微かに息が漏れた。
 ただしそれは、苦痛からのものでなく。
「カラクリだけで帰らされるのかと思ったぞ、団蔵!」
「俺だって、出番もらえねぇのかと思ってヒヤヒヤしながら待ってたぜ、金吾!」
 鉄と鉄が擦れ、互いに弾き合い距離を取る。未だ地に足をつけもせず、近場の木の幹を蹴り再び攻撃へと転じる団蔵を刀を立てて受け止めながら、金吾はきり丸へ声を投げた。
「行け、きり丸!」
「了解! 任せたぜ剣豪!!」
 言うが早いか、きり丸が駆ける。ゆっくりとではあるが次第に深まる濃紺色に山中は既に暗く、団蔵がその背を追うには些か出足が遅れた。
 そうは言ったところで追えない距離でも、そこまで速度に差があるわけでもない。
 それでも尚きり丸へと意識を向けず楽しげに自分へと向かってくる刺客に、これも司令塔の読み通りかと金吾は舌を打った。
「んじゃ改めてお迎えすんぜ! おいでませ、赤陣へ!!」
「歓迎痛み入るよ、まったく!!」
 軽口とともに繰り出される左からの回し蹴りを腕で受け、代わり鳩尾を刀の柄で狙う。しかしそれは側転によってあえなくかわされ、忌々しげに歯を食いしばった。
 それに対し、団蔵はあくまでも軽い調子で鉄双節棍を構える。リズムを取るように跳ねる足に警戒の視線を示し、金吾は注意深く一度刀を鞘に納めた。
 それでも、対峙する影はどこか油断した雰囲気が抜けない。
「……やけにあっさりときり丸を見送るじゃないか。それも庄左ヱ門の作戦か?」
「まぁな。敵に回したくないよな、俺の愛しのリーダー様はよ。……とは言っても、正直ホッとしたぜ。いくら俺でも、お前ら二人を相手にしたくはないからな。金吾ったらハゲシーから、俺いっぱいいっぱい」
「やめろ! 気色の悪いっ!!」
 言葉と時を同じくして横薙ぎに振り抜かれた刃を眼球の一寸前で受け止め、今度は引き攣った表情で苦笑を洩らす。受け止めた鉄棍との競り合いで毀れ落ちる刃の煌めきまでをも目にして、団蔵はちらりと血走った目を見返した。
「……命の危険は回避じゃなかったっけ?」
「今の一瞬だけ故意に忘れた!」
「故意にって! ……まぁ、金吾はまだ喜三太に口吸いしかしてないもんな。ヘタレ坊やに激しいもクソもないか!?」
 茶化し言葉に、耳の奥でなにかがぶつりと切れた音を聞く。もしかしたら毛細血管の一つでも切れたのだろうかと思考の隅で思いながら、それでも腹の底が煮えていく感覚は抑えられるわけもない。
 もし仮定が正解だとしても、後で乱太郎にお小言の一つでももらうだけだと自暴自棄に吐き捨てた。
 もはや視界には、無礼な暴言を吐いた級友以外映りもしない。
「……いい度胸だ、馬鹿旦那。今の台詞を後悔してももう遅い。泣いて謝ってももう知らん。刀の錆にしてやるから覚悟を決めろ」
「マジで?」
 地の底を這いずるような声音に、団蔵の目が大きく見開く。それに対しわざとらしいと吐き捨てた金吾の言葉に不遜に笑い、団蔵は鉄双節棍を正面に構えた。
「やったね、超楽しみ。マジなお前と虎若、しんべヱとは一回やり合ってみたかったんだ。……かかってこいよ、剣術馬鹿。馬術だけが取り柄じゃないってこと、見せつけてやんぜ」
 嘲笑を皮切りに、耳をつんざくような鉄と鋼のぶつかり合う音が響き渡る。その衝撃か、それとも目に見えぬ速さで打ち落とされたのか、舞い落ちる木の葉が二人の影を隠した。



−−−続.