僅かな風の音の変わり具合が、戸外に来訪者の存在を告げる。けれどその気配は隠されも殺されもせず当たり前の様相で一度辺りを警戒するように駆け抜けた。
 未だ幼い若芽が、爪先で枝々を駆け巡る速度に興味津々な様子で噂話に花を咲かせる。
 その小さな声音が落ち着きを取り戻し気配が木戸の前に降り立つ音を耳に入れると、兵法書を捲くっていた手がぴたりとその動きを止め、顔を上げた。
 簡素な演習用の出城とはいえ、本陣となるべき場所には一応の戸、壁、天井、そして天井裏、床下に至るまで作りこまれた陣屋の中央、その床間の上で地図を前に座し兵法書に視線を走らせていた大きな瞳が、するりと開いた木戸へと注意を向ける。
「お帰り三治郎。守備は?」
「ただいま、上々だよリーダー。だけどごめん。乱太郎を捕虜にしようとしたんだけど、逃げられちゃった」
「いいさ、それでこそのは組だよ。祭の本番が始まるまでに囚われの身になるなんて、そんな面白くないことするはずがない」
 さも当然のごとく満足げに笑みを浮かべて返された言葉に、お説ごもっともと笑って、汚れた足元を軽く拭い庄左ヱ門の正面へと移動し腰を下ろす。他陣の場所、そしてその編成が書き込まれるために広げられていた地図を前に、三治郎は細く削れた炭を取り出しさらさらと手を動かした。
「庄左ヱ門の考え通り、各陣はほぼ等間隔の場所にあったよ。僕ら赤陣の他は青、そして、黄。青の編成は虎若に金吾、喜三太、それと斥候に走っていたきり丸。陣の前には蛸壺、周りには毒蛾やら毛虫やらうじゃうじゃだ。構成員を聞いても分かる通り、ここは間違いなく、かなり好戦的な組だね。乱太郎は黄。まぁ青陣の編成が分かれば、この陣は簡単。伊助としんべヱを含めた三人だ。火器の取扱時以外は慎重派の伊助に、体術と防衛のしんべヱ、それに救護と撹乱の乱太郎。ここは防戦の組。ぶっちゃけ金吾の姿は確認出来てないんだけど、兵ちゃんの情報から言っても青で間違いないと思うよ。虎若と一緒に、小さくガッツポーズ決めてたらしいしね」
 踊らされすぎだよねと笑う声に、思わず庄左ヱ門が眉を下げ苦笑を漏らす。今回に限ってはそれが有難くもあったわけだが、さすがに情けないのか疲れたように息を漏らす級長の姿に、タイミングよく再び木戸が開いた。
「三治郎、あの二人だけじゃないよ。もう一人いるじゃん。もんの凄く嫌な顔して見せた馬鹿旦那がさ」
「だっから、馬鹿旦那って言うなって!」
 声音にすら飄々とした雰囲気を纏わせちくりと苦言を呈する兵太夫に続き、噛み付くような勢いで団蔵が食ってかかる。その賑やかな声に体ごと向き直り仕掛け準備お疲れと声を投げると、四年でありながら恐らく既に学園一のカラクリ技師は得意げに親指を立てて見せた。
「ただいま三治郎、庄左。そっちの守備は?」
「三治郎が頑張ってくれたからね、情報収集はいい具合だよ。あぁ、そうだ。三治郎、赤布は巻いてきてくれた?」
「ん? あぁ、うん、庄左ヱ門の指示通りこの陣を取り囲むような円の形に、めいっぱいの枝に目立つように巻いてきたよ。あれでいいの?」
「もちろん。そのために変装用の赤襦袢をわざわざ裂いて持って来たんだから」
「うちの大将は、俺達にゃまず思いつかないこと考えてくれるもんなぁ」
 さすが俺の庄ちゃんと笑う団蔵に、音もなく投げられた筆が額を直撃する。あえなくあがった情けない声に対しカラクリ部屋の住人は声を立てて笑い、庄左ヱ門は肩を竦めて息を吐いた。
「そんなことより団蔵。今回は兵太夫が味方だったから良かったものの、あんな手に引っ掛かるなんてもうやらないでくれよ。もしい組と対抗戦になったとき同じ手に掛かったら、拳一発じゃ済まさないからな」
「悪かったって! そんな責めんなよリーダー!」
 降参とばかりに両手を挙げる団蔵に唇を吊り上げた笑みを見せ、それではともう一度地図に向き直る。
「兵太夫、カラクリの場所は指示した場所は一通り?」
「まあ一応はね。でもまだ仕掛け足りないかなぁ。許可もらえる?」
「いいよ。ただし、カラクリのない道線を作ってくれることと、それを団蔵に教えておくのが大前提だ。兵太夫の楽しみの一つを奪って申し訳ないけどね」
「ホントだよ。団蔵を引っ掛けるのも楽しいのに、よりによって今回は味方なんてさ」
「お前ホント勘弁しろよ!」
 叫び声に笑いを返し、治まると同時に四人が地図を中心に集まる。三治郎が探った各陣の場所とその編成、赤布を巻いた範囲に加え、兵太夫がカラクリの場所を、そして団蔵が動きやすいルートを書き込んでいく。
 それを眺め、庄左ヱ門がぐるりと思考を廻らせた。
「三治郎。各陣から煙は上がってなかった? ちょうど昼食の支度を始める頃なんだけど」
「煙? ……あぁ、そういえば盛大に上がってたような……。黄陣はしんべヱがいるから分かるけど、青陣は薪の量を間違ったのかのように濛々と」
「そう」
 にっこりと笑み、三人を見渡す。
「兵太夫、カラクリに欲しいものはある?」
「あー……そだな、ちょっと丈夫な大きめの板とか」
「そこの木戸、一枚外して使っていいよ。三治郎も兵太夫と一緒にカラクリを仕掛けに行って。集合時間が近付いたら笛を吹いて知らせる。団蔵、薪になりそうな枝を目一杯集めて松明にくべておいて。すぐに火がつくようになるべく藁を入れてくれ。僕はその間、昼食の準備と、同時に夕餉の準備を始めておく。米と魚は少し多い量を二つの鍋で煮て、一度に雑炊にする。夕食は早めに食べるが暖め直すことはしないから、先に心得ておいてくれ」
 テキパキと指示を下す庄左ヱ門に、反論もなく首肯する。とりあえずは三治郎がカラクリのためにと用意した糸や滑車、巨大なバネを手に持ち再び庄左ヱ門に歩み寄った。
「どっちかが攻めてくる?」
 言葉に、兵太夫と団蔵も視線を集める。
「そうだ、恐らくは日暮れと同時に来るよ。……青がね」
「根拠は?」
 切り返す団蔵に、もちろん説明出来ると自信に溢れた笑みを返す。まず一つは各陣の参謀の行動パターンだと指を立てた庄左ヱ門に、不可解を示し眉間が寄った。
「編成を見直そうか。青はきり丸、虎若、金吾、喜三太。黄は伊助、乱太郎、しんべヱだ。この中でそれぞれ参謀を請け負いそうなのはきり丸、そして伊助のはず。それに関しては、三人とも異論はないだろう?」
 見渡せば、そこに異論の色はない。仮に兵太夫と団蔵が別陣にいた場合は多少変化があったかもしれないが、この編成で確定してしまっている現状では、遅かれ早かれ、名の挙がった二人が実質の大将として動くのは目に見えていた。
 それを見止め、さらに続ける。
「青が攻めの体制に出るのは、このメンバーから言ってもまず間違いない。言ってみれば、先手必勝とドケチの性、かな。同室者としての経験、そしていつも参謀補佐をしてくれている経験を考慮に入れて考えて、断言してもいいけど、伊助ならまずは作戦会議に時間をかけて、周りの出方を見つつ動きを決める。きり丸の場合は逆だ、団蔵と同じと言ってもいいかな。まず仕掛けて、相手の反応次第でその場で動く。時は金なりって精神だね。問い掛けがあって、確信の持てない答えがそこにある。その場合、悩む時間がもったいないから次の段階に飛び越える。ペーパーテストじゃ良くやるだろ? きっともうどの陣も、互いの編成メンバーは把握してる。そうなれば、きり丸のことだ。長年同室で仲が良く、動きが読みやすい乱太郎としんべヱがいる黄よりも、は組全体の指揮を取る僕がいるこの赤を狙う。昼食用意と同時に夕食用意も進めて、いつもよりたくさん薪や炭を使っているから、煙が多いんだ。昔なら薪の量の間違いもあったかもしれないけど、あっちには家事に慣れたきり丸と金吾もいる。そんな馬鹿なことはしないさ。……さて、聴衆諸君。説明は以上で構わないかな?」
 にっこりと柔和な笑顔で問う芝居がかった口調に、意義もそれ以上の質問もなく三人が了承の意味を伝え片手を上げる。それに満足げに頷き、庄左ヱ門は大きく手を打ち鳴らした。
「となれば、こちらはわざと隙を見せて油断させたほうが都合がいい。あっちが仕掛けてくる頃には準備は万全、のらりくらりとしているように見せかける。そのためには迅速にカラクリ準備を終わらせて、ご飯を食べたあとは精々ゆっくりしようじゃないか!」
 一見不真面目な掛け声に、陣内が大いに盛り上がる。いっそ熱烈歓迎の垂れ幕でも作ってやろうかと茶化した団蔵に、絵文字の暗号だと思って立ち止まってくれたら最高だねと庄左ヱ門が喉を揺らした。



−−−続.