伊助が出城へ辿り着いたときには、門前に掲げられているはずの陣旗は既にそこから姿を消していた。
 演習開始から、四半刻も経っていない。ここから遠くない場所で出発した敵陣の誰かに運悪く発見されたか、それとも自分よりも迅速にここへ辿り着いた同じ組仲間が既に旗を隠したか。前者ならばこれ以上の不運はないなと失笑しつつ、随分と年季が入ったらしいその門を潜り抜け、城内へと足を踏み入れた。
 土間を抜けた先で待っていた朗らかな笑顔に、緊張も解け肩から力が抜け落ちる。
「入城は私が一番だと思ってたんだけどな。でも、乱太郎相手なら当たり前かぁ。さすがに早いね」
「足は自慢だからね。三治郎に常勝出来るまでは頑張らないと」
「それ、三治郎が聞いたら物凄い顔するだろうけどね」
「あー、それはほら、私と伊助ちゃんの間の秘密ってことで」
 ヘラリと笑う声に伊助は了承の意を込め手を翻し、きっと自陣が一番早く旗を隠すことに成功したはずだと安堵の息を吐く。旗の隠し場所を話し合うのは各陣の集合を確かめる午の刻まで待つとして、後は誰がどの人にいるかの情報を集めなければと視線を尖らせる。
 それを見透かしたようなタイミングで、乱太郎がその肩を叩いた。
「でも、伊助が同じ組になってくれてて助かったよ。もし篭城組が不在の特攻野郎ばっかりの組編成になってたら、斥候にも行けないところだった」
「え、あぁ! そうだね、ごめん。私が来るまで旗を守ってくれてたんだもんね」
「ううん、いいのいいの。どっちにしろ各組に人が集まりだしてからじゃないと、情報収集に行く意味ないしね」
 それじゃあ後をよろしくと手を振り、乱太郎が土間へと足を踏み出す。そのニコニコとした笑顔に手を振り返す直前、門の方向から隠すつもりもない足音が聞こえた。
 一瞬警戒するも、いくらは組でも敵陣にここまで不注意には近付かないだろうと顔を見合わせる。
「ただいまー!」
 その瞬間、耳に飛び込んできたお気楽な声に身を傾けた。
「た……ただいまって……」
「しんべヱ!」
「あ、乱太郎に伊助ー。ただいまぁ。同じ組なんだねー」
 自身と同じく、二人が身につけた布の鮮やかな黄色にふにゃりと笑う顔に苦笑を漏らし、言っても仕方ないかと視線を交わす。けれどようやくこれで三人目だと思考を切り替え、乱太郎が息を吐いた。
「参謀補佐に慣れてて頭が回る伊助、防衛線に強いしんべヱ、情報収集が得意な私か。これできり丸でもいてくれれば攻守は完璧なんだけどねぇ」
「あ、きり丸は青組だったよ」
「もう探ってきたの!?」
「うん、でもそれだけだよー。散歩しながら来たようなもんだし」
 散歩という単語に、思いがけず二人の表情筋が揃って引き攣る。
 再確認するまでもなく今現在は正規授業としては初めての実技演習中のはずで、しかもそれは少ない人数に組み分けされての旗取り合戦、そしてさらには自身の失格の恐れさえある多少緊張感を要する授業内容のはずだと伊助はこっそりと頭を抱えた。
「……演習中に散歩とは……」
「さすがは大物。私達とは発想が違うねぇ……」
 嫌味ではなく、素直な感想として苦笑と共に零れ落ちた乱太郎の言葉に同意を見せ、まぁ情報を得ることは悪いことじゃないねと場を仕切り直す。その伊助にしんべヱはあぁそうだと手を打ち、おもむろに懐を漁り地図を取り出した。
「乱太郎、今から斥候に出るんだよね?」
「ん? うん、そのつもりだよ」
「じゃあね、青陣の位置教えといてあげる。きり丸に聞いたら……えっと……あぁ、そうだ! ここここ。ここら辺だって言ってた」
 こともなげに話しながら、地図を広げ一点を指差す。自陣から辰の方角に当たるその場所に青陣があると笑顔で告げるしんべヱに目を丸くし、乱太郎がいっそ恐ろしげに身を震わせた。
「聞……聞いたの……? きりちゃんに……? 直接……?」
「うん!」
「……組色は……見られた、よね?」
「うん、ばっちりだよ!」
「そこは誇らしげにするところじゃないよしんべヱ! ……伊助ごめん、きりちゃんかなり怒ってると思うから、下手すりゃ狙われる……」
「……うん、いいよ、仕方ないよ……。どちらにせよ、私は青組に出来るだけここを度外視させるようにする」
 青組の出城の場所が分かったのはかなりの収穫だと呟き、伊助が地図の傍に座り込む。自陣の場所を示す×印から流し見るように青陣の場所を見、その後、丸く円を描くように染料の落ちきらない色付いた人差し指が図上をなぞった。
「私達の陣がここ、青陣がここだとすると、残りの陣はこの範囲のどこかだ。範囲を絞り込めるなら、探索時間が大幅に削減できる。あと黄に青とくれば、その陣は恐らく赤色をつけてるはずだよ。もっとも、これは染物屋の基礎知識から来るただの勘であって、信用に足るもんじゃないけどね。乱太郎、各陣の編成を知りたい。遅くなって申し訳ないけど、斥候に出てもらえる? 難しいかもしれないけど、出来るだけ青陣の連中に、乱太郎が黄陣だってことを見せつけてきて」
「了解」
 指示を受け、乱太郎が素早く陣から飛び出す。それを見送り、伊助が戸外に人の気配がないのを察して眉間を寄せた。
「……それなりに時間が経ってもこれ以上人が来る様子がない、ってことは、この陣は三人編成なのかもな……。しんべヱ、乱太郎が旗をこの城のどこかに隠してるんだ。留守番を頼める? 私はちょっと出て、辺りに百雷銃とか仕掛けてくるよ」
 どっさりと抱えた火薬仕掛けの山に、しんべヱの口から思わずうわぁと声が漏れる。それに幸せそうに笑顔を返し、伊助は陣から駆けた。
 それから程なく、既に青陣近くに到着していた乱太郎が身を隠しつつ様子を探る。
 自陣と同じく、門前に掲げられていたはずの旗は既にどこかへ移され篭城組の存在を知らせる。戸外に人の気配はなく、その代わり、至る所に蛸壺が掘られているのが目に入った。
 蓋がされず、ただ穴として存在するそれは罠の類でないことを知らせる。だとすればそれは正しく蛸壺としての使用を前提としたもので、火器使いの気配を伺わせた。
 は組に火器使いは二人。その一人である伊助が自陣にいる以上、つまりは残り一人を指し示す。
「青陣に虎若、かぁ。きりちゃんの遊撃に虎若の狙撃なんて、嫌な組み合わせだなぁ……」
 呟いた目の前を、ひらりと羽が翻る。そこからこぼれる燐粉を無意識に手で払おうとし、一瞬遅れ、乱太郎はその手を自らのもう一方の手で制した。
 翻る羽色に、思わず血の気が引く。
「冗談、カレハガ使うなんて反則だろ、喜三太……!」
 カレハガ。名の通り蛾の一種であり、大きさは蝶とさして変わらない。だが他の毒蛾とは違い、刺される時に翌日にも尾を引く激痛を伴い、発熱、そして二週間から三週間にも渡るかゆみが発症する。
 蛾毒に効くのはニラや朝顔だったはずだが、ストックがあっただろうかと冷や汗が額を濡らした。
 途端、指先に電気ショックのような痛みが走る。
「いぃいいいいったぁあああああああああああ!!」
 自重できるはずもない叫び声は、当たり前のように青陣内に届き内部から人を寄せ集める。幸いかゆみを発症させるチャドクガやカレハガの類ではなく、刺した時にのみ痛みを感じさせるイラガの幼虫に遭遇したらしいと涙目で判断しつつ、結い紐と共に髪に括りつけた黄布を青陣にこれでもかと見せつけ、乱太郎はそのまま丑の方角へと駆けた。
 伊助の指し示した範囲は、黄陣、青陣、そしてその予想範囲を頂点として正三角形、もしくは二等辺三角形が成り立つ部分。些か範囲は広いものの、それでも地図上を遮二無二走り回るよりは遥かに楽だと呟き、未だ痛む傷口に歯を突き立て、そこから血を吸い出し吐き捨てた。
 不意に、その視界の端に赤い物がちらつき足を止める。
「……あ、れ……?」
 気のせいではなく、確かな存在を主張し揺れる赤い布。
 それはその一帯の木の枝に余すことなく巻きつき結ばれ、あたかもその先からが陣地だと宣言せんばかりに否応なく視界を埋め尽くしていた。
 その光景に、訝しみ眉間を寄せる。
「これじゃ、まるで陣の場所を教えてるようなもんじゃ……うっわぁ!」
 一歩踏み出すと同時に、足を取られ派手に転ぶ。見れば雑草同士が結ばれ輪になっており、まるで一年の実習だと苦笑が漏れた。
 苦笑が自嘲に変わる間もなく視界が僅かに翳り、呆れた声音が頭上から降る。
「ちょっと乱太郎、そんな初歩的な罠に引っかからないでよ。今もーっと楽しいの、仕掛けてるところなんだからさ」
「……三治郎……」
 人の良さげな笑顔の裏に大量の悪戯心を秘めた級友の登場に、予想はしてたよと頬が引き攣る。それに対しそいつは良かったと上機嫌に返す言葉にまるきり普段どおりの余裕を感じ、乱太郎はその場にはいないもう一人の存在を感じ取った。
「ねぇ、三ちゃん。まさか兵太夫と同じ組なんじゃ……」
「さぁねぇ、どうでしょう。乱太郎はどっちがいい?」
「隠す気ないねぇ」
「そりゃ、負ける気がしないからね。乱太郎にはここでうちの捕虜になってもらうし?」
 閉じて笑んでいた瞳が、表情を変えないまま僅かに開く。その視線を敵意と見做し、咄嗟に、乱太郎は袖に隠していた苦無で足元の草を切り裂き走った。
「冗談でしょ!」
 駆ける自分目掛けて向かってくる戦輪を弾き、苦無と逆手に扇を構える。それを広げる仕草にいっそ嘲笑めいた表情を浮かべ、三治郎はさらに戦輪を指に纏わせた。
「効かないよ、霞扇の術なんて!」
「さぁて、それはどうかなー?」
 頬を掠める戦輪を紙一重で避け、足元の土を掴んで撒き散らす。撒かれることで重さを失い砂塵と化したそれを渾身の力で一煽ぎし、乱太郎は覆面となるべき頭巾の布を引き上げた。
 舞い踊る砂が、礫となり三治郎に襲い掛かる。
「痛っ……!」
 せめて眼球は傷つけぬようにと細められた瞼が、意思に反し視界を塞ぐ。顔、そしてそれを庇う腕に容赦なく叩きつけられる微塵の礫に舌打ちすると、ごめんと声だけが聞こえた。
 目を開いた時には、既にそこに乱太郎の姿は無く。
「……乱太郎……足、速くなったな……」
 羨望と、痛恨。その両方が入り混じり、僅か数瞬呆然としたように立ち尽くす。けれど実技演習中という現状を思い出し、風の音で我に帰り陣の方角を振り返った。
「とりあえず庄ちゃんに各陣の状況を伝えてこないと」
 草の鳴る音が通り抜け、あとには木の葉が揺れる音だけが取り残される。その中で、僅かに石が転がり落ちる音が穴に響き、乱太郎は狭くなった空を見上げた。
「なぁるほどね、あの赤布は庄ちゃんの作戦かぁ……。ってか、いったぁー! 三治郎も気付いてないってことは、この落とし穴昔掘られた奴だろ!? しかもターコちゃんって立て札があるってことはこれ綾部先輩が掘った奴でしょ!? いつのに引っ掛かってんのさ私!」
 相変わらず落とし穴があると落ちずにはいられないこの体質はどうにかならないかなと溜息を吐きつつ、とにかく金吾と団蔵以外の編成を把握したところで一度戻ろうと穴を這い出る。
 どちらにしろ回りは強敵ばかりだと苦笑し、否が応にも必死になるねと拳を叩いた。



−−−続.