普段気にも留めず柔らかなだけの木の葉は、その触れる速度さえ変わってしまえば刃物のようだとこそりと舌を打つ。ぱしりと音を立てて隣を掠り抜けた葉は、枝を伝い走る身に僅かな痛みとともに傷をつけたらしくほんのりとした熱さを知覚させた。
 普段背に流れている癖のない黒髪が、疾走する自身の速さに追いつかず風になびく。手首に巻かれたその布色は青く、手にした地図をちらりと流し見た吊り気味の瞳の下で、さてと唇が動いた。
 実技担当教諭の手から渡されたこの地図には演習場全体の大雑把な地形が書き込まれており、そこには手渡される直前に黒檀で書き込まれた自陣の場所が×印で示されている。どうやら敵陣の場所を自分達で調査することも課題の内らしいと頭を掻き、地図を畳んで懐へと押し隠した。
「うちに乱太郎か三治郎がいてくれりゃあ助かんだけどなぁ……だれがどの組かもわかんねぇのに、他人任せにするわけにゃいかねぇか」
 呟き、先ほど頭に入れた地図の内で自陣から離れた場所へと足を向ける。
 くじを引き、組が決まった時点で固まって行動せずに全員が違う地点からの出発を指示されたということは、集合確認が行われる午の刻までに自身の判断で動けということ。それぞれの組の仲間すら知らされていない以上、参謀役を誰が担うことになるかも分からない。そうなれば、自分達に出来ることは三つ。
 一つ、いち早く自陣へ辿り着き、旗を守る篭城役。
 一つ、敵陣に人数が集まる前に情報を集める斥候役。
 一つ、自陣周辺の地形を探り、斥候役を警戒する撹乱役。
「……兵太夫は確実に俺のチームじゃないだろうしなぁ……。あいつがカラクリ張る前に情報集めとかなきゃ、斥候に出て集合前に捕虜になりましたなんてシャレにもなんねぇぜ。くわばらくわばら」
 おどけるように肩を竦め、その気もないのに身を震わせる。
 単純に考えて、自ら篭城役に回りそうなのは庄左ヱ門、伊助、虎若、しんべヱの四人。その全員が同じ組になっている可能性は少なく、また、その役が一人でも自陣にいるのであれば仮に撹乱役が不在であっても即座に旗を奪われる危険は少ない。
 そうなれば、今の自分に一番適しているのは斥候役。
 極力葉音をたてないように駆け抜けながら、不意に人の気配を感じ素早く身を隠す。息を殺し枝上から下方を探ると、視線を廻らせるよりも早く派手な転倒音が耳に届いた。
「いぃったぁーい!」
 演習中だということすら忘るような警戒心のない情けない声に、普段の癖で思わず身を乗り出す。
「ちょ、おい大丈夫かよしんべヱ!」
「あ、きり丸ー」
 転んだ際に擦り剥いたのか、鼻を赤らめた表情がへらりときり丸を見上げる。山中であるにもかかわらず土が吹き飛び辺りに大きな岩が露出している地面は、以前演習で使われた際に焙烙火矢の被害でも受けたのだろうか。ひらひらと能天気に手を振ってくる親友の姿にようやく演習中にあるまじき失態を犯したことに思い至り引き攣るも、もうバレてしまったものは仕方ないと開き直り、しんべヱを見下ろす形で枝に腰を下ろした。
 お人好しはトラブルを招くことはこの三年間で随分学んだはずなのにと、自嘲の意味を込めて溜息を吐く。
 それでも、その表情は苛立ちでも失望でもなく、穏やかな笑顔だった。
「なーにしてんだよ、こんなとこで」
「えへへー、自分の出城に行こうとしてるんだけど、疲れちゃってぇ。きり丸連れてってぇー」
「アホか! お前なぁ、今は模擬戦中なんだからそんなん無理に決まってんだろ」
「だってー」
 拗ねたように眉間を寄せるしんべヱの様子に頬を掻き、ちらりと視線を走らせる。腕に巻かれた布が鮮やかな黄に染まっているのを見てとると、だいたい敵陣じゃねぇかと苦笑した。
 その声にしんべヱが顔をあげ、きり丸の手首に目を留める。
「なんだ、きり丸は青組なんだね」
「……お前、俺の組を見るために一芝居打ったとか言うなよ?」
「あはは、そんなことのためにお芝居なんてしないよ。きり丸ってば変なとこ神経質だねぇ」
「いやいや、演習中なんだからそんくらい警戒するのが普通だろ」
 隣にいたら叱る意味も込めて突っ込めたのにと引き攣り、とはいえ力では自分よりも随分と分のあるしんべヱの横に降りることは敵同士である以上自殺行為に等しいと考え踏みとどまる。仮に腕にでもしがみつかれて布を取られてしまえば、その時点で失格になってしまうと思考を戒めた。
「怪我、平気だろ。集合前に失格なんてお互い嫌だしよ、俺はもう行くからな」
「うん。この演習場広いから、早く行かなきゃ集合時間に間に合わないもんね。ねぇ、きり丸のとこの出城ってどこー?」
「言うわけねぇだろ!」
「やっぱりそうだよねぇ。うん、そうだとは思ってたんだけどさぁ」
 事態が分かっているのかいないのかいまいち判然としないふわふわと笑う笑顔に額を押さえ、はたと気付いて唇を吊り上げる。
 未だ不恰好な岩が取り巻く地面で体を休めたままのしんべヱに、普段と変わらぬ声音で声を投げた。
「……しんべヱ、疲れてるならお前んとこの陣まで引っ張ってってやろうか」
「え、いいの!?」
「おう、饅頭一個で手を打つぜ」
「わぁい、きり丸大好きー」
 無邪気な表情に若干の罪悪感を感じながらも、それでも危機感が薄いのがなにより悪いと心の中で言い訳を呟く。まさかこんなに簡単に別陣の場所を聞き出す機会が廻ってくるとは思ってもいなかったが、良くも悪くもこれがは組クオリティかと苦笑した。
 もちろん捕虜になるかもしれないような危険を犯してまで、本当に陣へ連れて行く気もない。参加の証である腕の布を奪取しないだけでも有難がってくれと脳裏で謝罪した。
「えっとね、僕達の陣あっちのはずなんだぁ。僕、そっちのほうから出発してきたから、もう疲れちゃって」
「あっち?」
 しんべヱが指差した方角を見遣り、懐の地図を思い起こして眉間を寄せる。自分が出発したのは、しんべヱの出発地の方角から考えて多少西へずれた場所。現在の場所はそこから東へ向かった地図の中央寄りの場所で、自陣は現地からもう少し南。それを脳内で地図に仕立て直し改めてしんべヱの指を確認すると、それは明らかに南を指していた。
 地図の範囲を考えるに、当然のように他陣は南以外の三方の何処かに散らばっているものとばかり思っていたきり丸は、不可解さに表情を顰める。
「……なんだ、演習場の広さは引っ掛けみたいなもんなのか? 離れた場所にあると見せかけて、実は陣の位置は物凄く近かったり……」
「え、なに、どうしたの? きり丸達の陣もあっち側ー?」
「んー、うん。ちょうどその方向だし、もしかしてこの演習場、各陣を離してあると錯覚させるために広く作ってんじゃねぇかとか……。でもそれだとわざわざ出発点に立ってから地図に陣を書き加えなくても最初から全部同じのを用意すりゃいいだけの話だし、ちょっと矛盾が……って、あっ……!」
 二度目の失敗に気付いたところで、もう遅い。
 どこかだるそうにきり丸を見上げていたはずのしんべヱは既に体勢を立て直し、先程までと同様の、けれど遥かに満足げな笑顔を浮かべて手を振っていた。
「青の出城はあっち、ね。ありがときり丸」
「てめ、しんべヱ!」
 普段通りの警戒心を見せない言動に流され、思わずこちらの警戒心まで解かされた挙句に情報を聞き出されたことに気付き、きり丸の顔が屈辱と激昂で赤く染まる。袴帯に結わえられていた縄標が解かれ自身へ牙を剥く前に、しんべヱは昔の愚鈍さを感じさせない動きで踵を返した。
「お前! 人が親切に送ってやろうって言った友情の言葉を利用しやがったな!」
「嘘だぁ。きり丸だって僕んとこの出城の場所を聞き出して、そのまま逃げようとしてたくせにぃ!」
「ドケチから情報盗んでとっとと逃げようとしてるその姿勢に腹が立つ!! タダで帰れると思うなよ、集合前に失格にしてやっかんな!」
「やだよ、今日はダーぁ、メ!」
 無邪気な顔で笑い、足元で群成す大岩に手をかける。その姿勢にまさかと血の気が引くも束の間、それらはまるで軽石のように上空へと放り投げられた。
 もちろん軽石などではなく、下敷きになれば命も危ない重厚な岩ばかり。
 それが落下の風音さえつれて降り注ぐ光景に、きり丸は血相を変えて回避行動へと移った。
「ど、え、えぇええええええええっ!! 死ぬ! バッカ、死ぬってこんなもん食らったら! 命のやりとりなしって説明あっただろしんべヱ!」
「大丈夫ー、僕以外のは組はみんな避けられるってー。じゃあねきり丸、情報ありがとー!」
 遠ざかる声に追尾をかける余裕もなく、もはやどこから投げられているのかも分からない大岩から逃げ続ける。それがようやくになって治まった時、辺りには鳥の気配すら消えていた。
「……っは、はぁっ、はぁっ……。あんにゃろ、自分の獲物になるモンが大量にあるってんで、ここ選んで誰か通るの待ってやがったな……!」
 誰がどの組かを見るために芝居はしないとは言ったが、要するに、どの陣がどこにあるか探るための芝居は打っていたという結果。それに今更ながら気付き、きり丸はわなわなと震える拳を握り締めて怒りのまま空に吼える。
「覚えてろよあんの怪力順忍野郎ー!!」
 鬼の怒声が森に響く。恐らくはきり丸が詐欺に遭いでもしたような憤怒の形相になっていることを想像し、そこから僅か離れた茂みに紛れ、ごめんねとしんべヱは手を合わせた。



−−−続.