――― そよかぜのうた





 春も終わり、うららかとは言い難く少しじりりと肌を焼く陽光が開け放たれた窓から教室へと注ぎ込む。ようやくになってまた一年を共にする教室の場所やなんとも言えない雰囲気の違和感も薄れ、四年は組の面々は各々に宛がわれた座席に姿勢正しく正座で座り、期待に胸膨らませた視線でさらさらと黒板に書き綴られていく文字に見入っていた。
 僅かに白い粉を落としながら現われていく文字のその初めの一行には大きく旗取り演習と書かれ、それがこの期待に満ちた視線の一番の要因だと察することが出来る。すでにそれぞれの卓上に教科書やノートの類は一切なく、唯一庄左ヱ門のみがメモの準備をしているだけだった。
 もはやクラスの全員が本能的部分で分かり切っていると理解しつつも、授業計画通りに書き記した演習目的の概要などを書き終わり、土井が黒板から教室側へと向き直る。
 クラス内を三組に分けての対抗戦、しかも二日間を期限とした演習であることを目にし、さらに期待に満ち満ちた教え子達の表情に思わず苦笑を洩らした。
「お前らなぁ、もうちょっと緊張とかしたらどうなんだ。一応教科書上では初めての演習なんだぞ? いくらお前達は補習やなんやで実戦経験豊富すぎると言っても、そんなワクワクした顔で黒板を見る奴らがいるか!」
 苦笑交じりに叫びにも似た声を上げる土井に、最前列からケタケタと軽快な笑い声が耳に届く。その主の正体すら理解しつつも視線を移すと、歯を見せながら悪戯に笑うきり丸が無理無理と手を翻らせた。
「無理っすよぉ。だってようやく出来るちゃんとした演習じゃないっすか。そりゃ期待もしますって」
 言い終わり、だよなと促す声に続きそこかしこから同意の笑いが漏れる。その声がはらむ抑えきれない期待に土井は隣に立つ山田へと視線を向け、互いに肩をすくめて唇を笑みに歪めた。
 土井が一歩後ろへと下がり、代わり、山田が教室の空気を取り仕切る。
「えー、さて。土井先生が黒板に書いて下さったように、今回の旗取り演習は校庭で行う簡単なものではなく、三組に分かれ、それぞれに別個の出城を使用し行うものである。各陣にはそれぞれ一枚ずつ色の違う旗があり、それを守りつつ敵陣の旗を奪うという実にシンプルな演習だ。旗を失った時点でその陣は失格となり、所属者全員が活動を止めて我々、もしくは今回特別に審判としてつく六年生に従うこと。いいなー」
「はーい」
 綺麗に揃った声音に満足げに頷き、ちらりと視線を走らせる。下がっていた土井が手元に箱を用意したことを見止め、今度は山田が一歩下がった。
「よーし、それじゃあくじの入った箱を持って行くので、それぞれ一つずつ取っていくこと。合図があるまで開封するんじゃないぞ。それと、決して隣の者と見せ合ったりしないようになー」
 色めき立つ教室の中、箱を手にした土井が各机を回り、くじを配り終わる。既に待ちきれない様子でくじをかざして透かそうとしている姿に笑いを漏らし、土井は開封良しと声をかけた。
 途端、教室を騒々しい音が包み込む。
「ん、僕は青ね。了解ー」
「こら、兵太夫!!」
「あ、そっか。ごっめん先生」
 くじの組み分けに誰もが涼しい顔を決め込み悟られないようにと努める中、唐突に呟かれた言葉に土井から怒声が飛ぶ。けれど悪びれる様子もなく僅かに舌を出しただけの兵太夫に頭を抱え、土井は深く息を吐いた。
 言ってしまったものは仕方がないと、額を掻き困ったように苦笑を浮かべる。
「では、今から演習場へ移動を開始する。だがその前に各自移動開始位置へとついてもらうからな。出城へは組ごとに移動するのではなく、一人ずつ、私と山田先生が引率して演習場内の待機場所へと向かう。そこで初めて組み分けの色を聞くので、それまでは決して口に出さないように! 配置についた者からその組の色の布を手渡すので、目につく場所へ括りつけること。ちなみに、この布を奪われた者は失格と見なし、その後演習内での活動、口出しは一切出来ないものとする。全員が配置につき次第、狼煙を上げるので見逃すことのないように」
「また、各自の待機場所から陣への地図はその場で手渡すので、各々で午の刻までに入陣することを義務付ける。その頃に一度、集合しているか確認に回るからな。遅れていた者がいた場合は陣に不利な条件が付加される場合もあるので気をつけるように!」
 そこで一度言葉を切り、土井と山田の目が教室を見渡す。一人でも理解に難色を示す者がいた場合にはもう一度説明をし直す必要があると考えての行動だったが、こと実践関連に関してはその心配はないらしいと見て取り、山田は満足げに頷き、土井は教科授業とのこの差はなんなんだとそろりと胃を押さえた。
「……土井先生、これ、三反田先輩から預かってるお薬です……」
「あぁ、すまんな乱太郎……」
「いえ、あの、僕らこそいつもごめんなさい……。でも治らないんですよねぇ、こればっかりは」
 誤魔化すように笑う乱太郎の頭を土井の手がくしゃりと撫で、気分を切り替えるべく短く息を吐く。その様子を苦笑にも似た表情で見遣る山田の視線をあえて無視し、土井は教室全体へと顔を上げた。
「さて、これで規定事項の説明は一通り終わったわけだが……。なにか質問のある者はいるかー?」
 その声に、クラス全体が一斉に手を上げる。

 一斉に襲いかかる言葉の群れに、山田と土井は諦めたように笑顔しか浮かばない。
「えぇい、相変わらず一斉に喋る良い子達め!」
「土井先生、私にゃあ聞きわけが出来んので頼んでもよろしいですかな」
「えぇ、ここは私にお任せ下さい」
 こほんと咳を払い、一度瞼を下ろし内容を脳内で反芻し確認を行う。それに確信を持てたのか勢いよく開いた瞳に一瞬十一人がびくりと緊張に肩を震わせ、思わず姿勢を正して座り直した。
「兵糧は各出城に二日分運び込んである。が! いつかのように一度に調理してしまって腐らせたりしないように! あと実技演習で褒美が出てたまるか! ただし、旗をどこからも奪えず、且つ自陣の旗も奪われた陣の者には一週間の掃除当番を命じる。今回は実践を模すため、多少の怪我をさせること、することを覚悟するのは大事だな。だが命に関わるようなことは避けるように。武器は自力で運ぶことが出来る物とする。自分で持ち運びできる範囲であればその数は問わない。馬はなしだ! 馬は!! 火薬の使用は認めるが、先程も言ったように殺生沙汰にならないよう細心の注意を払わないとな。焙烙火矢の使用は極力避け、それ以外の火器に関しては鉄砲生捕火などを使うのがいいだろう。演習場には一般人はもちろん、他クラス、他学年も入れないようになっている。……が、数年前の演習中に、迷子の侵入者が発見されたという事実は告げておこう。敵陣の者を捕虜にすることは認めるが、本格的な拷問行為は避けるように」
 息継ぎもそこそこに並びたてられた追加事項に、途中きり丸と団蔵が悔しげに顔を歪め、虎若と伊助が数度頷く。庄左ヱ門はすべての事項をメモするべく素早く筆を滑らせ、黒々と紙面を埋めた内容に満足げに顔を綻ばせた。
 他に質問はないかとかけられる声に、ありませんと声が揃う。
「基本的に、命の危険がなければなにをするのも自由だ。もしも問題があると思われる行為があった場合、私か山田先生が止めに入るのでそのつもりでいるように! それでは庄左ヱ門、乱太郎。自分の荷物を用意出来たら庄左ヱ門は食堂前、乱太郎は食堂裏に来なさい。移動を始める!」
 その後二人ずつ名を呼ばれ、互いの行き先も知らず待機場所へと移動する。最後の一人として待機場所へ立った兵太夫に、土井は懐を漁り、手渡すべき布を探った。
 けれどそれを取り出し、怪訝に眉間を寄せる。
「あれ。……赤しか残ってないな。お前、確か青じゃ……」
「嫌だなぁ、先生。僕は正真正銘の赤組ですよ。ちゃんと合ってますって」
 へらりと笑って掌を翻す兵太夫に、土井の肩が呆れたように下がる。
「お前なぁ……。説明が終わらない内から仕掛けるか、普通」
「基本基本。逆に、僕以外がやらなかったのが不思議ですよ」
「……しっかりしたなぁ」
「そりゃ、この三年ちょっとでみっちりマジもんの実践積みましたからねー。目に見えて引っかかったのが脳筋トリオだけってのがちょっと残念ですけど」
 にっこりと笑む表情に、まったくもって先が楽しみだと幸福交じりの苦笑が漏れる。地図とともに手渡された赤布を歯も利用し腕に括りつけた兵太夫を確認し、明日まで頑張るんだぞと土井がその場を後にした。
 程なく、開始を告げる狼煙が上がる。ある者にとっては東から、ある者にとっては北から上がったその狼煙を見上げ、その誰もが膨れ上がる期待に唇を吊り上げた。
 先ほど鐘が鳴った時刻を踏まえると、現在の時刻は巳の刻。陣中での集合義務時間まであと一刻ほどかと遥か遠くで呟かれた声に呼応するように、演習地を囲む十一の個所から踊るように駆ける影が森の中を擦り抜けた。



−−−続.