金吾が庄左ヱ門へ相談を持ちかけてから、既に四日もの時間が過ぎていた。
 結局あの日部屋に戻った喜三太は、金吾が木戸に向かって正面に座って迎えたためにまたしても動転した声を上げ、脱兎の如く逃げ出していた。
 その上駆け込んだ先が上級生長屋にある五年い組の孫兵の部屋だったものだから、金吾の落胆は計り知れない。壮絶な追いかけっこの音が響いた廊下を心配そうに覗いた級友達が、一人悲しく部屋に戻った影を招いて物言わず肩を叩いたほどだった。
 悲鳴を上げるほどなのかと鼻を啜る涙声に、確かに今のは酷かったと周囲では引き攣って目を泳がせる。しかしその中にあって尚、もう諦めるのと挑戦的に唇を吊り上げた庄左ヱ門の言葉でどうにか持ち直した。
 それから四日、逃げられようとも目を逸らされようとも、金吾はただただ喜三太の様子を観察することに努めた。
 その結果、授業中に何度も両担任に叱り飛ばされたことも悔いはない。
 そして、自分達がうだうだとやっている内にいつの間にか虎若と伊助の間でちょっとした騒動が起き、しかも見事一昼夜で片付いてしまったことも気にしない。
 今の自分が最優先で考えるべきことは現状の打破を目指すことだと念頭に置いていた金吾は、その甲斐あってかいくつかの光明が見えてきていた。
 一つ、どうあっても二人で過ごさねばならないとき、例えば就寝時や授業でコンビを組んだ場合などは、喜三太の肩が緊張時のように強張って頬が些か紅潮していること。
 一つ、誰かを交えて遊びに興じたりする場合は、二人のときと比べて随分と緊張が解れていること。
 一つ、不意に出くわしたときや何かの拍子で急接近した際、頬や顔どころか指の先まで赤く染めて逃げること。
 この三つを考察するに至り、金吾は終業後、教室の隅で頭を抱えていた。
 周りには濛々と埃が立ち、床板を掃く箒が行き来する。けれどそんなことはお構いなく、とにかくどこかに身を寄せて考えに耽らなければ不安で溜まらないのだと言いたげなその姿に、苛立たしげな溜息が落ちた。
「っ、前なぁ! 頭捻んのは構わねぇけどよ、時と場所と状況を考えてやれよ!! 掃除の邪魔で仕方ねぇんだよそこは!! 隅っこに埃が残ってたら、伊助が次の日にめっちゃ怒るのはお前だって知ってるだろ!? なんか俺達に恨みでもあんのか!?」
「まぁまぁ、きりちゃん。抑えて抑えて」
「金吾、目がどこでもないところ見てるから。きっと聞こえてないよぉ」
 罵声を投げつけるきり丸の正面に回り込み、乱太郎は宥めにかかり、しんべヱは金吾の目の前で軽く手を振る。この三年ほどで掃除を適当に終わらせることに対する代償を思い知ったのか、清掃作業が速やかに終えられない苛立ちに牙を剥いたきり丸がそれでもなお不貞腐れた表情で腕を組むと、乱太郎は安堵の息を吐いてしんべヱを見遣った。
「金吾、大丈夫そう?」
「ううん、駄目だねぇ。全然気が付いてくれない。なにかボソボソ言ってるみたいなんだけど」
 困った表情で眉尻を下げるしんべヱの言葉に、乱太郎ときり丸も顔を見合わせ、隣に屈む。よくよく見れば確かにその唇は何かをしきりに呟き続け、微かに赤い顔と呆けたように中空の一転を見つめたまま動きもしない眼球とは真逆に働き続けていた。
 それに揃って耳を寄せ、息を潜める。そうすることでようやく耳に届いた呟きに、三人はしばらくの間聞き入っていた。
 生気のない体が壁に身を寄せたまま、言葉を紡ぐ。
「……って、喜三太が、……いや、でもあの時も、じゃあ、なんで逃げて、……だけどあの顔はそうとしか……違う、だってコレじゃ都合が良すぎる……そんな、だって」
 ブツブツと呟き続ける声に、三人が揃って首を傾ぐ。その鼓膜を次の瞬間決定的な言葉が揺らし、ピシリと音を立てて空気が凍った。
「喜三太が、僕のこと……好きなわけ、ない」
 やけに響いた声に、三人が苦い顔で金吾を見る。
 完全に思考は自身の内側へ向けられているのかそんなことに気付きもしない金吾は、また呟きを繰り返して自問自答の波間を漂う。それを見ながら溜息を吐いたきり丸が拳を作り、乱太郎としんべヱに向かって拳と金吾を指さして無言で問う姿に、二人は同じく無言のまま、促すように頷いた。
 鼻から息を吐き出し、垂直に振り下ろす。
 がんと痛々しい音が室内に響く間もなく、金吾が悲鳴を上げてその場に転がった。
「いったぁあ!!」
 頭頂部を抑えて転がり涙目で呻く姿に、少しやりすぎたかときり丸が舌を出す。けれど反省する気もないらしいその様子に乱太郎としんべヱは諦めたように苦い笑みを見せ、苦悶し続けている金吾を見下ろした。
 声を震わせて身を縮め、痛みに耐えている背中に小さく声を掛ける。
「金吾、頭はっきりした?」
 気遣う様子でもない声に、ようやく金吾が反応を見せる。まだ痛みが頭部に響いているのか手で抑えたまま振り返った表情が恨めしげに唇を引き結んでいることを見て取り、乱太郎は目を逸らして頭を掻いた。
「あー……痛かったよね、ごめん。でも独り言を聞いてる内にこりゃ駄目だと思っちゃったモンで、代表してきり丸に殴ってもらっちゃった。冷やしたいほど痛むなら、手拭を濡らしてくるから遠慮なく言って」
「でも言っとくけどな、殴るのをしんべヱに任せなかっただけでも俺達の友情だと思えよ。あと、この場に他のメンバーがいなかったことも幸運だ。お前はホンット、どこまでも変な悩み方してんだなぁ」
「うん。金吾のはねぇ、ちょっと自分にも可哀想な悩み方だよ、それ」
 三人に畳み掛けられるように言葉を浴びせられ、痛みも忘れて目を白黒と反転させる。一体なんの話だと眉間を寄せた金吾がやっと普段の調子を取り戻した様子で口を開くと、それすら呆れたように、三人は顔を見合わせた。
 その仕草に不安を煽られ、きょろきょろとそれぞれの顔を見回す。
「……なに。僕、なにかおかしいことを言ったか?」
「言ったっていうか、言ってた、だよね」
 仔細を問う声に、乱太郎が肩を竦める。それに笑って同意を見せたきり丸としんべヱにも疑問の目を向ければ、同じく肩を竦め、まるで大人が子供に注意を促すような口調で詰め寄った。
「あのよ、金吾」
「っ、な……なに」
 思わず怯めば、さらに距離を詰めてきつい吊り目が睨めつける。
「庄左ヱ門から三日間は放っておいてやってくれって言われてたけど、もう四日目だから口出すぞ。お前、なんでいいところまで気付いてるのに自分で違うって思い込もうとしてんだよ。喜三太のことが好きなんだろうが。最後までちゃんとアイツに向き合ってこいよ」
 好きという単語に、血液が一気に額まで上り詰める感覚に捕らわれる。けれどそんなことはお構いなしににじり寄るきり丸は、これ見よがしな息を吐いてその鼻先を強かに指で弾いた。
 一瞬とはいえ鋭い痛みに、思わず金吾の目がきつく閉じる。
「喜三太のことが好きって言葉だけでそんなんなっちまうんだろうが。だったら素直に考えろよ。無理矢理変な風に曲げて考えてやんなよ。アイツは、お前の顔見ただけで真っ赤になってんだぜ? ちっと考えりゃ、誰でもすぐに分かんだろうが」
 べしりと音を立てて額を叩き、呆然と見上げてくるその背中を廊下に向かって蹴り出す。転がるように追放された教室を見返れば、木戸に手を掛けた三人がどこか嬉しそうな笑みで見下ろしていた。
「喜三太は校舎の裏でナメクジの散歩だって言ってたよ。行ってあげてよ。喜三太もねぇ、いーっぱい悩んでたみたいだよ」
 お願いと手を合わせるしんべヱが、ほんの少し困ったように眉尻を下げ、それでも優しく笑みを見せる。
「心配しなくても野次馬に行ったりしないから、さっさと決着つけておいでよ。お互いにもう答えは出てるだろ?」
 まるで諭す口調に、金吾が唇を噛む。その言葉に後押しされてもなお、本当に大丈夫だろうかと戸惑う言葉を呟いた金吾に、我慢の限界を迎えたらしいきり丸がついに吼えた。
「お前はホンットうじうじと! ホントでも嘘でもいいから、当たって砕けてみろよ! 告白するのが許されてんだからいいじゃねぇか!! いいからとっとと行ってめでたくくっついて来いよ、面倒臭ぇ!!」
 最終的に箒を振り回し始めたきり丸に、慌ててその場を逃げ出す。それを宥めながら見送った乱太郎としんべヱが、背中が見えなくなったのを確認して肩の力を抜いた。
 一刹那前まで荒ぶっていたはずのきり丸も、同じく力を抜いて背中の消えた方向に向かって息を吐く。
「ったく、世話が焼けるったらないぜ」
「お疲れ様」
「短気の振りも大変だねぇ」
 笑って労わりの言葉を投げる声に満足げに歯を見せ、きり丸の目が教室の天井を見上げる。
「とりあえず送り出したぞー。コレで良かったんだろ?」
 言葉を切っ掛けに、天井板が外れて六つの顔が覗く。それを片眉を上げて見遣れば、埃と共に一人ずつそこから舞い降りた。
 それを見て悲鳴のような声を上げたきり丸に、庄左ヱ門は悪びれもせずにごめんと謝罪する。
「天井裏ってどうしても埃が多いから。どうせ掃除の途中なんだし、少し手間が増えたんだと思って一緒にやっておいてよ」
「……タダ働きが……増えた……」
「仕事じゃなくて義務だから金銭が発生しないだけだよ。それより三人とも、金吾への発破掛けお疲れ様」
 無料奉仕は心臓に悪いと項垂れるきり丸にさらりと言葉を返し、代わり、先程の功労を讃えて肩を叩く。それで少しは気分が救われたのか、僅かに頬を膨らませるのみに留まったきり丸に兵太夫が悪戯に笑って見せた。
「ま、ここで見せ場がなかったら出番が消えるところだったもんね。虎若と伊助の時には助言も活躍も出来なかった分、ここでいい役どころを振ってもらえて良かったと思わなきゃ」
「ところで庄左ヱ門。ホントに野次馬しに行っちゃダメ?」
 茶化すように笑う言葉に次いで、三治郎の目が好奇心に輝く。それに対して笑って首を振った級長に、数人が面白くなさそうに唇を尖らせた。
 せっかくの進展シーンがとぼやく言葉に噴出し、いいじゃないかと笑って返す。
「お互いが心を通わせる場面なんて、他人が覗き見したって二人の高揚が伝わってくるわけじゃないんだから。経験者はそれを思い出しながら、まだの奴らはそれを楽しみにしながら結果を待とうよ」
 ねぇと視線を流した先で、団蔵が照れ臭そうに頭を掻く。その二人の姿にわざと無視を決め込み、まぁそれも友情かと七人は互いに目線を交わして笑い合った。


  ■  □  ■


 駆け足で辿り着いた校舎の裏側には、確かに見慣れた柔らかい猫毛が揺れていた。
 恐らくナメクジ達に向かって話しかけているのだろう声音に心臓が跳ねる。以前は自分にも向けられていた同じ声。それがこの数日の間、こんな状況下で自分に対して発された覚えがついぞない。例え先刻きり丸達に言われたとおり自分の予想が正しかったのだとしても、これから先、同じ声でまた自分に向かって微笑んでくれる保証などないことに金吾は手を握り締めた。
 じわりと滲んだ汗が握りこんだ指を滑らせる。それでもやはりこんな状態でい続けることのほうが耐え切れないと結論を出し、金吾は息を詰めて一歩踏み出した。
 かさりと音を立てた雑草が、喜三太を振り向かせる。
「今日も、ナメクジ達を日陰で散歩?」
 震えた声を紡げば、喜三太の目が大きく見開いて慌てたように後ろを向く。それにやはり胸を痛めながらも、恐る恐ると近付いた。
 一歩近付くごとに、手が震える。見慣れた背中が少しずつ近付くごとに、心臓までもが震える錯覚に呼吸が乱れた。
 喜三太と小さく呼べば、眼前の肩が大仰に震える。
「……喜三太。頼むから、こっち向いて。僕の顔なんて見なくてもいいから」
 舌先が乾き、喉に言葉が絡む。それでもようやく吐露出来た言葉に、金吾は胸を撫で下ろした。
 少し低い場所にある目が、ちらりと振り返る。けれど見るや否や一瞬にして赤く染まって後ろを向いてしまった顔に、悲しげに眉間を寄せた。
「……顔、見たいよ」
 切実な本音が滑り落ちる。
「言わなきゃいけないことがあるから、聞いて。出来れば僕のほうを向いてくれてる喜三太に言いたいんだ。……本当は僕を見て欲しいけど、そこまで贅沢なことは言わないから。……ねぇ。それでも、目を瞑ってでも、ダメかな」
 震えた手と、震える肩が意思をも揺るがす。押し寄せる不安に絶対の自信などやはり持てないのだと歪んだ視界で、それともやっぱり僕を嫌いになったのと震えた声で呟いた。
 この声に、弾かれたように喜三太が振り返る。
「違うよ、嫌いなんかじゃないよっ!」
 必死に縋るような声で振り向いた喜三太が、赤く染まったまま金吾の腕を掴む。この数日の出来事とは違い自分から接触を望んだ同室者に思わず目を見開くと、自分の行動を改めて見返ったのか、喜三太は慌てふためいて手を離した。
 けれど金吾は、顔を見ることの出来た事実と先程の言葉で、心の底から安心した笑顔を見せる。
「……よかった。やっと二人のとき、喜三太の顔が見れた」
 言葉と笑顔に、見ていた喜三太の頬がまた燃え上がるように赤く染まる。そのまま俯いてしまった姿にまたなにかしてしまっただろうかと困惑するも、とにかく振り向いてくれたことに変わりはないと頭を切り替え、金吾は大きく息を吸い込んだ。
 言葉にする緊張感に唾液を飲み下し、あのと掠れる声で切り出す。
「えっと、その。……言わなきゃいけないことっていうのはさ」
 そこまで言葉にしただけで、口にするべき言葉が喉の奥に引っ込み沈黙が落ちる。風もなく、切っ掛けもなく、そこには無意味な静寂だけが落ちていた。
 喜三太は俯いたまま肩を強張らせ、金吾は沈黙を強いてしまった焦りから目を泳がせる。しかし再度言葉を紡ぐだけの勇気とタイミングを得られぬままに流れる時間に、一層焦燥して顔を引き攣らせた。
 その最中、校舎上から騒がしい音が響く。
「猫が落ちたぞー!」
 焦るような声に、知らず、二人が同時に頭上を見上げる。先に見えるのは高い校舎と青い空。その中で確かに大きな黒い点が落ちて着ているのを目に留め、二人は慌ててそれを受け止めるべく見上げたまま右往左往とその場で動いた。
 やがてその形がはっきりと見取れる頃、喜三太が空に向かって手を伸ばした。
 それを視界の端に留め、倒れ込むかもしれない衝撃を受け止めてやろうと金吾が背後に回る。その腕が背後から喜三太の伸ばされた手に添えられる頃、充分な衝撃が上から降り注いだ。
 思わず尻餅をついた二人が、声にならない痛みに顔を顰める。しかしその腕の中に暖かいものがうごめく感覚に目を開くと、揃って喜色に染まった表情へと頬を緩めた。
 にゃあと鳴いた声に、喜三太が抱き上げて頬を寄せる。
「危なかったねぇ、怪我してないみたいで良かったねぇ! 校舎の中で悪戯してたの? ダメだよ? でももう大丈夫だからねぇ」
 はしゃいだ声で猫に頬擦りする喜三太に、金吾の表情が柔らかに笑む。共に尻餅をついたことで腕の中にある暖かさとその鍛えられていない柔らかさ、そして眼前で咲き誇る笑顔に、愛しさだけが募って目を細めた。
 喜三太の胸を蹴って去って行ってしまった猫を見送り、代わりにその手に触れる。
「猫、受け止められて良かったな」
 笑ってそう呟けば、腕の中の横顔が上機嫌で頷く。
「だね! 僕らが下にいて良かったねぇ」
「うん。ホントだ」
 呟いて、そのまま後ろから抱き締める。そこに至ってようやく自分の置かれた状況と体勢に気付いたのか、はにゃと声を上げた喜三太がまた顔を真紅に染めた。
 それを今は意識の外に追いやり、喜三太の髪に鼻を埋めた金吾が小さく呟く。
「……お前が好きだ」
 言葉に、喜三太の肩が震える。
「喜三太が好きだ。喜三太が僕を見てくれないと悲しくなる。……逃げられたら泣きたくなる。触っていると安心するし、お前が笑ってると僕も嬉しい。お前がナメクジが好きで、そのせいで僕がいっぱい迷惑したってそれでもお前が嬉しいなら甘んじて受け入れる。……僕はお前が好きだよ、喜三太」
 ぽつりぽつりと単語ごとに噛み締めるように呟いていく言葉に、抱き込まれた喜三太の手が震える。それくらい知ってるよと震えた声に、そうかと笑った声が返った。
「でも喜三太。……一緒にいるのに僕を見てくれないのは、凄く寂しいよ」
「うん、そうだねぇ。……ごめんね。僕、金吾の顔を見ると恥ずかしくなっちゃって、どうしたらいいのか分かんなかったんだよ」
 戸惑い気味に言葉を選び、そろそろと向き合う。その顔が互いにこれ以上ないほど赤いのを見て、どちらからともなく肩を揺らした。
「抱き止めてくれてありがとうね、金吾。……僕もねぇ、金吾のこと、大好きなんだよ」
「……うん。その事、ついさっき僕も知ったところなんだよ」
 泣き笑いに顔を歪めた金吾に、喜三太が抱きつく。それを慈しむように抱き締め返した腕の力に、にゃあと猫のような声が頬を摺り寄せた。
「ね、金吾」
「なに?」
 甘える声音に、幸福に満ち溢れた声で返す。それにまた嬉しげに頬を摺り寄せ、喜三太はあのねと肩に額を押し当てた。
「この前、夜に僕に触れてくれてたときのね。改めて口にして欲しいなぁ」
 しかし、唐突な言葉に金吾が今度は動転を見せる。
「へ、えぇっ!? やっぱり起きてたの!?」
「そりゃ起きてたよ。あの辺りずーっと、毎晩ドキドキして大変だったんだから。だからあの日してくれなかった口にして! してくれなかったの、結構ショックだったんだー」
「え、や、でも、あのっ!!」
 顔を赤くしながらもにこにこと詰め寄る喜三太に対し、金吾が逃げ場を探すように目を泳がせる。それを些か不満そうに見咎め、喜三太がひょいと身を起こした。
 突然の切り返しに、混乱から醒めない金吾が数度瞬く。
「え? あの……喜三太?」
「してくれないなら、また逃げる」
「へっ!?」
「嫌ならして! でないとヤダ!!」
「ちょ、ま……っ!」
 駄々を捏ねるような言葉に慌てて立ち上がる。しかし立ち上がって向き合ったはいいものの、一寸たりとも身動きの取れない体が軋んだ音を立てるようだった。
 既に喜三太は嬉しそうな表情を浮かべ、目を閉じている。それを眺めているだけでも心臓が胸から飛び出しそうな状況で金吾は亀よりも遅いほどの進度でゆっくりと近付いた。
 ただし鼻が触れたところで、止まる。
「……やっぱり、まだ、無……」
 緊張で上擦る声が、途切れ途切れに言葉を紡ぐ。しかしその言葉が言い終えられるまでに、不満げに目を開いた喜三太が唇を引き結んだ。
 その表情に、やはり怒らせてしまったかと金吾が引き攣った途端。
 唇に、暖かいものが押し当てられた。
「……え」
「ん。今日は僕からってことで許したげよう!」
 認識する間もなく、呆然と固まる眼前からくるりと身を翻した喜三太が嬉しそうに笑う。その頬が朱を散らして色付いている様子にくらりと眩暈を起こし、でも次は絶対してねと笑った声の求めるまま、金吾は沸騰しそうな脳で言葉なく頷くことしか出来なかった。



−−−了.



【おまけ】

「うまく事は運んだか?」
 階下を見下ろしている背後から掛けられた声に、まぁ一応はと自慢げな声が返る。濃紺の装束で窓枠に腕を掛け、楽しげに下を眺めていた三之助の隣から、滝夜叉丸はちらりとその視線の先を窺った。
 狙い通りというところかと笑う声に、ひひと悪戯な声が響いた。
「ま、コレくらいの手助けはアリじゃないですか? ほっといたら、それこそいつまであのままだか」
「無理矢理に運んだわけでもないしな。ところで四郎兵衛はどうした? 金吾を一番心配していた奴がいないとは思えんが」
「落とした猫を探しに行きました。ま、平気だとは思うんですけどね。もともと生物委員会の管轄の猫ですし、孫兵から多少高所から飛んでも平気とは聞いてたんで」
「まぁ、心配になる気持ちは分かるがな。それに貸出票を書いたからには、きちんと戻してやらんとこっちの責任問題だ」
 安堵の息を吐き、さてでは明日からも知らぬ顔でたまに冷やかしてやろうと含み笑いを漏らす体育委員長に呆れたように頭を掻く。それにしても俺達も随分と過保護ですねと嘯いた三之助に、滝夜叉丸はさてなんの話だかと笑って髪を揺らした。
 それを溜息で見送り、再度下を見る。そこでもう緊張など忘れたようにじゃれている後輩達に、三之助はおめっとさんと届くはずもない祝いの言葉を落とし、あとは見る必要もないとばかりに障子窓を閉じた。