庄左ヱ門達の部屋の木戸を開けば、普段掃除か繕い物で室内の時間を過ごしているはずの伊助の姿はそこになく、ただ壁沿いに据えられた卓上に広げた本を読み耽る級長の姿だけがあった。
 思わず声を掛けることも出来ず立ち尽くした金吾の耳に、パタリと本が閉じる音が響く。見れば突然の来訪に驚いた様子も見せず、穏やかな笑みを浮かべた庄左ヱ門がなおも目を細めて振り返った。
「声くらいかけなよ。伊助に用なら、残念ながら虎若と街に買い物に行っていて不在。だけどお前が話したいのは僕のはずだろ?」
 全て見透かしたような言葉に声を詰まらせ、返す言葉もなく目を泳がせる。それを可笑しげに見遣り、庄左ヱ門の手が座を促した。
 それに大人しく従い、腰を下ろす。
「庄左ヱ門はなんでもお見通しって感じだな」
 自嘲のように呟く金吾に、なにを馬鹿なと笑いが返る。
「お見通しなわけじゃないよ。ただお前が思い悩んでるっていうのは火を見るよりも明らかだから、そんな中ここに来るのは相談したい以外にないだろうと思って。それに、だとしたらその相手は伊助より僕のほうが適任だろうと考えるのは、ね。至って自然な流れだよ」
「そんなに僕は分かりやすいのか」
 にっこりと笑みを浮かべる庄左ヱ門に苦笑し、少しの間を開けて疲れたように息を吐く。先輩にも話を聞かせてもらったのにまだ気分が晴れないと眉間を寄せた金吾に、眼前の丸い目が数度瞬いた。
「なんだ、もうアドバイスはもらったんだ?」
「あ……いや、なんて言うか……。要約すると、気にするなって言われただけっていうか……」
「そう。まぁ喜三太のあの態度を鑑みれば、言えるのはそのくらいだよね。……ちなみに金吾。喜三太があぁなった原因とか、思い当たる節はあるのかな」
 探るような視線に、唇を噛んで目を逸らす。それだけで肯定と受け取ったらしい庄左ヱ門はただ満足げな笑みを見せ、分かったと一言で了承した。
「お互いになにか切っ掛けがあっての現状なら、僕が詮索する必要も、必要以上に深入りする必要もない。でも喜三太の逃避行動を気にせずにはいられないって言うなら、一つだけ言ってやれることがあるよ」
 口元にだけ柔らかな笑みを浮かべ、視線を伏せる。その級長の思わせぶりな言葉に思わず興味を惹かれた金吾の肩が僅かに前へ傾き、それを気配で察したのか、可笑しげに笑った庄左ヱ門が顔を上げた。
「なにも難しいことじゃない、喜三太の様子をもっとちゃんと見てやればいいんだ。アイツがお前から走り去るとき、どんな表情をしてる? 二人でいるしかない状況のとき……たとえば夜、寝る前とか。そういうときの様子は? それを今聞かれて僕にきちんと伝えられるほど、金吾。お前は喜三太と向き合ってるか?」
 柔らかな口調ではあるもののたじろがざるを得ない話題に、息を呑む。それをまた笑った唇と伏せた視線で受け止め、庄左ヱ門は背後の卓上においてある本に手を伸ばした。
「お前は咄嗟のことにショックを受けて、喜三太の内面を見てやることを忘れちゃってるんだ。自分のことで一杯一杯になるのは仕方ないけど、もうちょっと落ち着いて見てやれば、もっとたくさんのものが見えてくると思うよ。……僕が言えるのはこれだけ。あとは何日かけてもいいから、どうにか自分で解決してごらん」
 それだけ言い終わると、庄左ヱ門は机に向き直ってなにもなかったようにページを繰り始める。その背中がもはや振り返る気配も見せないのを知ると、金吾は小さな謝礼の言葉を呟いてその場を後にした。
 木戸を閉める瞬間にもこちらを見返らなかった後ろ姿を思い、そのまま木戸に背中を預け、微かに笑う。
「……どこまで僕達のことを把握してるんだか。ホント、うちの級長はそら恐ろしいな」
 気にしないでおけという受動を促す助言に満足を覚えていない自分の心情を察したのか、あえて能動的によく見て向き合えという助言を与えられたことに有難さを覚える。しかしその反面、自分にうまく出来るのだろうかと不安がる部分も存在し、これではどちらにしても駄目じゃないのかと自嘲した。
 あぁと小さく声を漏らし、ガシガシと頭を掻く。
「これ以上考えたって仕方ないっ! ……よし、部屋に帰ろう。喜三太がいなかったら待とう。今日は委員会もないし、もし逃げられたら、……うん。そのときは、ちょっとへこもう」
 想像しただけで僅かに項垂れ、重い足取りで部屋に戻る。その足音が各部屋の前を通り過ぎて自室の木戸を開閉したのを確認し、庄左ヱ門達の部屋の隣からひょっこりと二つの頭が覗いた。
 ふわりと揺れる猫毛とそれに相反したような切り揃えられた前髪、そして長い黒髪と額に行く筋か落ちた前髪が呆れたような口調で口を開く。
「あっちゃー。今の見た? 想像しただけでアレとか、重症極まりないね」
「だねぇ。そんなにショックなんだったら、面と向かって寂しいって言っちゃえばいいのに」
「駄目だよ三ちゃん。アイツあれでも泣き虫とヘタレを脱却したつもりでいるんだから、それを目指すならズタボロにプライド壊して泣き喚かせなきゃ」
「あー、そっかー。なら一週間くらい地下に閉じ込める? でもそれやると学園内で神隠しだなんだって言われて大騒ぎになりそうだし、面倒だねぇ」
「だろ? どうしたもんかね、アイツら」
 金吾の消えた廊下を覗いたままテンポ良く会話を交わす二人に、室内から遠慮げな声が掛けられる。それに胡乱そうに振り返り、兵太夫は眉間を寄せて腰に手を当てた。
「なんだよ団蔵。作戦会議中なんだからさ、少しは空気呼んで黙っててくれない?」
「いや、あの」
「違うよ兵ちゃん、きっと団蔵も手伝いたいんだよ。ホラ、罠にかけるなら囮役がいるでしょ? それに立候補してくれてるんじゃないかな」
「え、マジで! そっかー、そいつは有難いなー。じゃあ本格的に作戦が整うまでちょっと待ってて」
「いやいやいやいや!! 勝手に話を進めんな!!」
 明らかに自分達の都合のいいように流れを持って行こうとしているカラクリ部屋の住人に、慌てて制止の声を投げる。それに不服そうに頬を膨らませながらもようやく口を閉じた二人に安堵の息を漏らし、団蔵はそれでも遠慮げに目を泳がせた。
「……つか、いい加減コレ、下ろしてもらえません? そろそろ頭に血が上りすぎて目が回りそうなんだけど」
 足元に目を向ければ、何重にも絡みついた縄が団蔵の天地を真逆のものに変えようとでもしているのか天井へ向かってその足を引っ張り上げていた。
 すでに団蔵の額から目元に掛けては心なしか赤く、髪は足の代わりに床板に落ちている。天井裏に隠された滑車が重みで軋めばそれだけで体が揺らぎ、気持ち悪そうに顔を顰めていた。
 その様子に、これはまた随分と情けないと溜息が返る。
「おいおい、日々鍛錬を欠かしてないはずの若旦那がもうギブアップとか早過ぎない? もうちょっと根性見せろよ団蔵」
「意地でホラ、そのままの状態で腹筋だ! 虎若なんて一年の時点で出来てたんだし、団蔵だってそろそろ出来るよ!!」
「俺だって出来ますよ! 出来るけど、降りたいときに降りられる状態とはだいぶ違うだろ!? それとも腹筋状態で維持しろってか!! 鬼かお前ら!!」
「どーも、は組の鞭担当でぇっす」
「飴役の乱太郎としんべヱはここにいませぇんっ! 御用の際は町でバイト中のきり丸までっ!」
「チクショウなにが望みだお前らぁ!!」
 あくまでも茶化し通すつもりの二人の様子に思いがけず声を荒げる。もう随分と頭のほうに向かって流れてしまった血が思考を朦朧とさせ、そろそろと呂律も回らなくなるような始末だった。
 その姿に、本当に降ろしてやらなければいけない頃だろうかと二人が顔を見合わせたとき。
「団蔵の声が聞こえたと思えば、なにしてんの二人とも。団蔵の顔、真っ赤じゃないか。そろそろ降ろしてやらないとおかしな場所から血を吹いちゃうよ」
「庄左ヱ門」
 翳りつつある陽を遮って戸口に立った庄左ヱ門の影に、二人が誤魔化すような笑みを見せる。
「ごめん、今降ろそうと思ってたとこ」
 兵太夫が手を合わせて縄に手を掛ければ、呆れたような溜息とともに庄左ヱ門が部屋に足を踏み入れる。微かな盛り上がりを見せる床板や不自然なものを器用に避けて団蔵の下に辿り着いた級長が吊り下げられた体を抱き上げるように支えると、見計らった兵太夫が苦無で縄を切った。
 音を立てて庄左ヱ門の腕の中に落ちた体で、団蔵がへらりと笑う。
「やっべ、庄ちゃんマジカッコいい。惚れ直しそう」
「うん。惚れてくれるものならいくらでもご自由に?」
 満足げに笑み、壁に背中を預けさせて座らせる。結局いいところは全部持って行くねと笑った二人に、庄左ヱ門は困ったように眉尻を下げた。
「とりあえず二人はさ、団蔵に話を聞きたいならまずは正攻法で聞きなよ。カラクリ罠の実験と兼用されてばかりじゃ、さすがの団蔵も体を悪くしちゃうかもしれないだろ」
 正論で諭す言葉に、居心地悪そうに目を泳がせる。それをやはり困った目で見て溜息を吐く庄左ヱ門を前に、二人は窺うような目で団蔵にごめんと謝罪の言葉を呟いた。
 それに対して、もういいよと歯を見せて笑った団蔵が犬のように頭を振る。今にも鼻血を出しそうに赤かった顔色は随分と元の肌色を取り戻し、当人も体内の違和感が収まったことに安堵を覚えたのか、ほぅと安堵の息を吐いた。
 こきりと首を鳴らし、それでと口を開く。
「なに、俺になんか聞きたいことあったの?」
 首を傾ぐ団蔵に、改まって物を聞くことが気恥ずかしいのか兵太夫の肩が微かに揺れる。それを笑って見遣った三治郎が膝上に置いた手で優しく叩いて宥め、その笑顔のままで団蔵へ向き合った。
「あのね、さっき喜三太が焔硝蔵に入って行くのを見ちゃってさ。確か今日は団蔵が当番だとかって言ってたし、もしかしたらなにか相談されたんじゃないかなぁって思って、その詳細をちょっと聞きたかったんだよね。ホラ、団蔵って喜三太のお兄ちゃん役って感じがするし、僕らには話してもらえないことでも聞いてるんじゃないかと思って。……まぁその。ついつい新型の罠の性能を確かめたくって思わず捕獲しちゃったわけなんだけど、反省してるからさ。喜三太と金吾のことを心配してるっていうことだけは汲み取って、もしなにか分かったことがあったら教えてくれると嬉しいな?」
 人に警戒心を与えないようでいて、場合によっては警戒心しか与えない笑みでにこにこと小首を傾いでみせる三治郎の言葉に、団蔵はあぁそれかと呆気なく納得する。その正直さ加減に、相変わらず誤魔化されやすいと困ったような笑みを見せつつ、庄左ヱ門と兵太夫も大人しく語られる言葉に耳を澄ました。
 庄左ヱ門に至っては、先程金吾には敢えて聞かなかった事項であるものの、こうして目の前で詳細が語られるというのならばその情報を手にしない道理はないと、ある種都合よく自分に対する解説を終えていた。
 やがて喜三太に聞いた現状までへの経緯を簡略的にではあるものの話し終えた団蔵に、最後の最後で兵太夫と三治郎から悲鳴のような声が上がる。
「えぇええええー!! なんでそこで口にしないのさ! 据え膳だろ!? 行けよそこは!! 金吾は知らないこととは言っても、そりゃあんまりだろ!!」
「だね! そこは行くべきだったね金吾!! ……あ、でもねぇ、僕ちょっと分かっちゃった。だから金吾ってば余計に落ち込んじゃってるんだね。だって喜三太が余所余所しくなっちゃったのって、その朝からでしょ? そりゃ自己嫌悪も相俟って落ち込むよね。なんせあの二人って告白もしてないし、バレたっ、昨日のことで嫌われたっ! って思い詰めちゃったんじゃない? 喜三太は喜三太でやっと自覚しちゃったもんだからとにかく金吾の顔を見るのも恥ずかしくってそんな内心に気付いてるわけがないし、悪循環。よっぽどうまくしないと、纏まるのに時間かかるかもしれないねー」
 いきり立つ兵太夫の言葉に同意しながらも、三治郎が難しそうに眉間を寄せる。その発言内容にはたと気付いたらしい兵太夫も同様に悩み始めたのを見て、庄左ヱ門は頬を掻いて団蔵を見た。
「団蔵。喜三太になにかアドバイスはしてやったの?」
 出し抜けな質問に、団蔵も目が二度瞬く。
「え。……あー、いや。残念ながらなんにも言えなくってさ。とりあえず金吾の話を聞くことが出来たら言えるかもって言ってきたんだけど」
「そう。うん、適当なことを言わない辺りが団蔵の誠実さだよね」
 にっこりと笑み、満足げに目を閉じる。その表情に不可解なものを感じたのか覗き込む三人の顔に、庄左ヱ門は嬉しそうに目を開いた。
「実はさっき金吾から相談を受けてさ。喜三太の表情や態度をきちんと観察してみたらいいんじゃないかなって言ったんだ。だから団蔵が喜三太になにかアドバイスして行動が変わるなら、僕の金吾への助言も的を外れちゃうかなと思ったんだけど。……うん。これで金吾が自分できちんと気付けたら、僕らがこれ以上口や手を出さなくっても自ずと纏まるよ。せめて三日間くらいは温かく見守ってやらない? それでも駄目なら、後はは組総出で思いっきり世話を焼いてやろうよ」
 楽しげに笑って立ち上がる級長に、なんだかんだ言って過保護だよなと笑って団蔵も立ち上がる。吊り下げられていた影響が未だ残るのか立ち眩みを起こした腕を慌てて掴み、気を付けろよと注意を促した。
 僕らがかけるより早く自分でかかってちゃあ世話がないと笑った兵太夫に、団蔵は誤魔化すように笑って体勢を戻す。
 じゃああとはしばらく静観でと笑った三治郎に瞬き一つで肯定を返し、それぞれの部屋に戻る。ただし木戸を閉める間際に聞こえた足音が緊張感のない軋みとともに一番端の部屋の前で止まった事実に、各自が思わず声援の意味を込めて拳を握った。



−−−続.