――― 相思相愛性理論





 きゅうと、まるで生まれたての子犬が鳴いたような声を出して喜三太は火薬壷に突っ伏した。
 そこは肌を粟立たせるほどに冷ややかな暗所で、厚い壁の向こう側からは物音一つ入り込むこともない。上部に取り付けられている天窓部分も嵌め殺しにされているため、昼間といえども年中を通し、ここが日の光に明るく曝け出されることなどなかった。
 その中にあって、自身の抱える悩み事とはまったく関係のない様子で、喜三太の口元がへらりと緩む。
「いいよね、焔硝蔵。ここなら年中暗いし必要以上に乾かないし、ナメさんたちもお散歩にちょうど良いよねぇ。次の委員会決めのとき、火薬委員に立候補しようかなぁ」
 適当な発言が、蔵の内側に反響する。
 音の出口はたった一箇所。本来ならば湿気が入り込まぬようしっかりと閉ざされているはずの入口だけが薄く遠慮げに日の光を差し入れ、その僅かでも強い光が蔵の中をぼんやりと照らし出していた。
 地面に置かれた火薬壷にあごを乗せている喜三太と違い、棚に保管された火薬の在庫を確認していた濃紺の髪が溜息とともに振り返る。
「あのな喜三太、ホントはここ、委員会の奴以外は立ち入り禁止なんだぞ。それに俺は今、委員会の当番の在庫確認で忙しいんだよ。だいたいここでナメクジの散歩なんてさせたら、火薬が湿気て使い物にならなくなって、それこそ田村先輩や虎若が発狂するどころじゃすまないんだぞ。冗談でもそういうこと言うなよな」
 些か眉間を寄せて苦言を呈してくる団蔵に、面白くなさそうに膨れ面を見せる。
「分かってるよぉ。団蔵ってば妙なところで真面目だよねぇ」
「やらなきゃいけないことはしっかりやる! 基本だろー? それにほんとに真面目に火薬委員を勤めてたら、許可書も持ってないお前を中に入れたりしないよ。……んー、よし。在庫確認終了ー! これで俺の今日の仕事は終わり! 後は土井先生に報告書を持って行くだけだし、思い詰めた顔してここまで来たお前の相談くらいは乗ってやれるよ。で? 金吾となんかあったのか?」
 どこか笑むような口調で口を開いた団蔵が、下級生が高所の在庫を確認出来るようにと持ち込まれた丸太椅子に腰を下ろす。さも当然の如く相談内容を提示したその言葉に、喜三太は疲れた溜息を吐いた。
 やっぱりバレバレだよねと呟いた声に、そりゃあと苦笑の同意が返る。
 その言葉に、やはり思い詰めた表情で眉尻が垂れた。
「……勘違いしないで欲しいんだけどね、別に喧嘩したとか、なにか嫌なことをされたとかじゃないんだよ。でもそのせいで、どうしたら良いのかわかんなくってね? 結果的に、今みたいな状況になってるって言うか……。全部聞いてもらってもいい?」
「俺に話しても、いいアドバイスがもらえるって決まったわけじゃないって分かってるならな。とりあえず話してみろって。お前らが余所余所しいのなんて、こっちも見ててむず痒いんだよ」
 ほんの少し茶化す口調で肩を竦めた団蔵に笑い、あのねと戸惑い気味に目を泳がせる。その様子を察したのか、あえて注視することなく視線を逸らす相談相手に、喜三太はほぅと小さく息を吐いた。
 そして、思い切った様子で一度唇を噛む。
「僕ね、金吾の事好きなんだよ」
 一大報告の様相ではっきりと口にされた言葉に、団蔵はうんと返答したきり何も言わない。それを喜三太は訝しみ、団蔵は団蔵でそれ以上喜三太が何も話を切り出さないことを不思議そうに首を傾いだ。
 やがて、はたと気付いた団蔵がさっと顔色を変えて叫ぶ。
「って、え!? お前まさか、今の今まで気付いてなかったの!?」
「なんで驚かれてるの!? っていうか、団蔵、僕が金吾の事好きって知ってたの!?」
「当事者の金吾を除いて、三年の中で知らない奴がいるとは思えないけど!?」
「なんで!?」
「え……いや、なんでって言われても……。分からないほうがおかしいって言うか……」
 互いに叫びに叫びで返し、最終的に言葉を詰まらせた団蔵がなぜか肩身を狭める。一方喜三太はといえば、それこそ心臓を跳ねさせてまで告白した一大事件への思わぬ反応に、へなへなと脱力した様子で火薬壷に崩れかかった。
「……えー。なんで僕本人が知らなかったのに、周りのみんなが知ってんのさぁ……。不公平じゃない? 教えてくれたっていいのに」
 不貞腐れて頬を膨らませる仕草に、まさか気付いていないとは思っていなかったんだと引き攣ったような苦笑が返る。ただしそれにも納得のいかない様子でじろりと目線を動かした喜三太が、やがて諦めたように溜息を吐いた。
「まぁ知られてたってんならいいよ、逆に話しやすくなったようなもんだし。……うん。さっきも言ったけど、僕が金吾の事好きなんだって自覚しちゃったんだよ。それもつい二日前に! それでまぁ、……その、なんて言うかなぁ。金吾の顔を見てたり、お喋りしてると物凄く恥ずかしくなっちゃってさぁ。……声を掛けられたりすると、走って逃げちゃうような有様になっててさぁ」
 きっと突然のことで困っているとは思うんだけどと漏れ落ちた言葉に、団蔵は返答しないまま目を泳がせる。困っているもなにも当の金吾はその喜三太の仕打ちが、嫌われたからだと思い込んで初日などは真っ白になる始末だった。
 自分達も、なにをしたんだと冗談交じりに詰ってみたことは否定できない。
 かといって喜三太が部屋を出るわけでもなく、複数で遊ぶ際にはまったく変わりのない様子だったことから、誰も対処が出来ないまま現在に至る。
 まさかそんな理由だったとはと、隠れて頬を掻いた。
「……あー、まぁ好きって自覚した途端に、金吾に対して今までやってたみたいに抱きついたり手を繋いだり出来なくなったわけか。まぁ理由が分かって俺はスッキリしたけどさぁ……。……でもなんで今なんだよ。いきなり、金吾のことが好きなんだーって思っちゃったのか?」
 膝上で頬杖をつき、そこだけがまだ理解出来ないと眉間を寄せる。そんな団蔵の疑問にまた喜三太は目を泳がせ、ほんの僅か頬を染めた。
 やはりなにか切っ掛けがあったのかと内心納得する団蔵に、目を泳がせたままの体がもじもじと体を揺らした。
「んー……いやぁ、あのねぇ。金吾って、今回も体育委員会で帰ってくるのが遅くなるんだよ。滝夜叉丸先輩の戦輪教室って、意外に本格的なんだって。筋力作りのための腕立て伏せとか、各自に決められた的に命中させることが出来るまでは終わっちゃ駄目とか。そんなでね、僕が先に寝ちゃうことが多いんだけどさ。……ついひと月くらい前かなぁ。いつもみたいに僕が寝てたらね、疲れた感じの足音が長屋の廊下でしたんだよ」
 きしりと鳴った廊下の小さな悲鳴に、喜三太は目蓋を開かないまでも僅かに意識が引き戻されたのだと語った。
 大きな溜息とともに近付くその足音はやはり予想通り自室の前で立ち止まり、やがて遠慮げに木戸を開く。本当なら目を開けてお帰りと声を掛けたかったものの、どうしても睡魔に打ち勝つことが出来ず、大人しく惰眠を貪ることにした。
 木戸を開いた後も極力音を立てないようにと気遣っているのか、非常にゆっくりとした気配が近付く。それがやがて眠っている自分の傍らで腰を下ろすと、まるで小さな子供にするように頭を撫でられた。
 睡魔で混濁とする意識の中、それが嬉しくて笑みが浮かんだことは自覚しているらしい。
 ただ、思わず笑みを浮かべたその直後、柔らかで暖かなものが額に触れたのだという。
 団蔵はそこまでを聞いて、思わず顔を赤らめた。
「……それってさぁ」
「うん。口印をね、おでこにつけられたんだよ」
 恥ずかしそうに目を泳がせる喜三太の仕草の理由が知れ、団蔵も言いようのない気恥ずかしさから顔を逸らす。そのまま喜三太に見える側の片頬を覆うようにして頬杖をつき直した団蔵は、それが切っ掛けかと小さく呟いた。
 が、それにふるりと首が振れる。
「ううん、そのときはまだ。でもそれから委員会で遅くなった日は必ず寝てる僕の隣に来て、おでことか、ほっぺたとか、鼻の頭とか……髪の毛とか手の日もあったかなぁ。とにかくどこか一箇所に口印をつけてね、そのあとまた遠慮げにお風呂に行くんだよ。最初は僕も嬉しかったから金吾にまた寂しん坊の病気が出たのかなぁって思ってたんだけど、日を追うにつれてなんだかドキドキしてきてね。今日はどこにされるのかなとか考えたり、息がかかるとちょっと体が硬くなっちゃったり。それこそ金吾がお風呂に行ってから、一回心臓を落ち着けないと寝直せないくらいだったんだよ。……それが何回も続いて、で、二日前の夜」
 思わせぶりに一度唇を閉じた喜三太に、話に引き込まれてしまった団蔵の喉が小さく音を立てる。
「な……なにがあった?」
 焦れた様子で身を乗り出しての言葉に、喜三太の顔が俯く。その顔は窺える限り随分と赤く、恐らく頭巾の下に隠れている耳までも赤いのだろうと察することが出来た。
 もごもごと口篭るような動きを見せ、ようやくになってそれが開かれる。
「その日もね、金吾が返ってきたのは夜遅くになってからだったんだよ。で、僕はやっぱり先に寝てた。でもそれまでのことがあるからドキドキして眠れなくってね、頑張って寝たフリしてたんだ。バレないか物凄くヒヤヒヤしたけど、ドキドキしすぎると口の中って寝てるときみたいにカラカラになるんだね。おかげでバレなかったんだけど……まぁ、問題はその先だったんだよねぇ」
 一度苦笑し、そのときと同じく緊張のために唇が乾いたのか噛むような仕草で湿らせる。その後改めて呼吸を整えた喜三太が、より一層恥ずかしげに、目元を伏せた。
「……その日始めて、起きてたりしないよねって聞いてきたんだよ。小さい小さい声で、それこそ夜中じゃないと聞き取れないくらいの声で。バレたのかと思ってドキッとしたけど、きっと金吾も細かい変化に気付かないくらいドキドキしてたんだろうね。聞いてきたのは金吾なのに、最初から僕からの応えなんてないって思い込んでる感じで、……その。やっぱりいつもみたいに、顔が、近付くのが分かって。なおの事僕はドキドキして気が気じゃなくて、で、ふと気が付いたんだよ。息がかかる位置が、いつもより下だって」
 話す喜三太も聞き入っている団蔵も、既に顔がこれ以上ないほどに赤く上気している。団蔵に至っては些細なことで話の腰を折るまいと必死に声を殺し、頷くことも出来ずに視線だけを喜三太へ向けていた。
 ただし喜三太はもはや過去の回想へ意識が飛んでいるのか、そんなことも気付いていない様子で、どこか夢見心地に続きを語る。
「おでこのときは髪がほんの少し揺れる。ほっぺたのときは耳が少しくすぐったい。鼻の頭のときはあまり息がかからない。でもそのときはいつもより距離が近くて、震えたような息が口元にかかったんだよ。……小さく、その前の声よりもっと小さく喜三太って掠れた声で名前を呼ばれて、死ぬんじゃないかと思うくらい心臓が鳴ってた。鼻の頭がちょっとだけ掠って、それこそあと四半寸もないくらい近くなってるのが分かったんだ。きっと口が触れたら、我慢できなくて目を開けちゃうだろうなって思った。寝たフリを続けるなんて無理だよなぁって。……でもねぇ、結局金吾、口を吸うことだけはしなかったんだよ」
 残念そうに悲しげに、喜三太の眉尻が下がる。呼吸も押し殺してまで話に入り込んでいた団蔵はその呆気ない結末に一瞬理解出来ない様子でポカンと口を開き、やがて納得いかないといった風に不満の叫びを上げた。
「えぇえええー! なんだよー、そっからが面白いんだろー! なんでそこで一歩踏み出せないかなぁアイツー!!」
 オチのない話を聞かされたときの兵太夫か三治郎のように愚痴を叫ぶ団蔵に、喜三太は少し楽しげな笑みを見せる。しかしそれもすぐに形を潜め、先刻のような寂しげな表情へと様変わりした。
 その気配に、愚痴を漏らしていた団蔵はすぐに申し訳なさそうに口を噤む。それを微かな笑顔で見返し、それでと喜三太がまた話し始めた。
「金吾はそのあとすぐにピタッと止まってね、ゆっくり離れてったんだよ。それからいつものようにお風呂の準備をして、部屋の外に出た。……でも木戸が閉まってても聞こえたんだよなぁ、金吾がそこで思いっきり自分の顔を殴った音。金吾はほら、真面目だからさ。寝てる僕のおでこやらには口印をつけられても、口を吸うなんて真似は自分で許せなかったんだろうと思うよ。だからそこに関してはらしいなぁと思ったんだけど。……それとは真逆にさ、口が触れなかったことを物凄く残念に思ってる自分に気付いちゃったんだよ」
 照れたように、自嘲するように、喜三太が笑う。
「せっかく金吾から触れてくれる数少ない機会なのに、口吸いだけは駄目だったんだなぁって思ったら凄く残念で寂しくて悲しくて、少しの間落ち込んじゃって。でもその時思ったんだ、そういえばなんで僕はわざわざ寝たフリしてたんだろうって。眠れないなら眠れないで、それなら普通に金吾にお帰りって言えばいいのに、なんでそうしなかったのか自分で疑問に思った。……考えてみれば簡単な話だよね。僕は金吾が自分から、いつか接吻してくれないかなって期待してたんだ。そうポンッと結論が出たら、あ、僕から金吾への好きは友達の好きじゃないんだって自覚しちゃってさぁ。……そしたら、こんな状態」
 苦笑とともに肩を竦め、自身を茶化すように明るく笑った。
「誰かと一緒なら意識しないで済むんだ。だけど二人になると途端にその瞬間のこととか思い出しちゃって、気が付いたらまともに顔も見れなくて走って逃げちゃってる。それに好きって自覚した途端に、剣術の稽古してる金吾が視界に入ると顔が真っ赤になっちゃって。その他にも、みんなと馬鹿話して笑ってる金吾も物凄く可愛く見えちゃって。それに下級生が、皆本先輩かっこいいーとかって言ってると、思いっきり同意するのと一緒にちょっとムカッとなったり、もー頭の中がグッチャグチャ。どうにかしたいのは山々なんだけど、解決法のかの字も見つかんなくって。で、煮詰まって団蔵にこうして話したってわけ」
 にっこりと笑みを浮かべ、なにかアドバイスはもらえますかと首を傾いでくる喜三太からちらりと目を逸らす。アドバイスとは言ったところで自分が経験していない感情へのアドバイスをどうやってしてやればいいのかと眉間を寄せた。
 元より話を聞く前置きとしてアドバイスを与える確約はしなかったものの、それでも出来るだけ悩みの解決へ導いてやりたい気持ちが頭を悩ませる。
 だが結局はいい案も浮かばず、ぐったりと項垂れた。
「あー……悪い。アドバイスするためには、多少なりとも金吾のほうの考えも聞いてみないと出来ないや。少しだけ待ってもらってもいいか?」
「うん、いいよいいよ、気にしないでー。元々話を聞いてもらいたかっただけなんだよ。自分で煮詰まってるだけって思った以上にしんどくってさ、おかげで少しスッとした。でももしアドバイスがもらえるならよろしくー」
 へらへらと笑って、硬い地面に座り込んでいたツケが回ってきたのか尻を摩りながら立ち上がる。袴についた砂埃を叩き落として背筋を伸ばしたあと、委員会当番中に邪魔して悪かったよと笑って焔硝蔵の入口を押し開けた喜三太は、外の眩い白さにうひゃあと素っ頓狂な声を上げた。
 それを見送り、さて自分も行くかと帯に挟んでいた鍵を手に持って一歩外に出る。目も眩むほどの太陽光に顔を顰めて眉間を寄せ、団蔵は少しだけ疲れた様子で南京錠を掛け直した。
 不意に視線を泳がせたその先で、喜三太がのんびりと歩いていくのが目に止まる。確かにここに来たときは随分と楽になったようだと肩を竦ませると、その僅か左側で、剣術指南に稽古をつけられている金吾が視界に入った。
 いつも通り真剣そのものの気迫と視線。ただその視界にも揺れる猫毛が這入りこんだのか、たった一瞬殺気も危機感も綺麗さっぱり失せさせた剣豪候補に、痛そうな一閃が入る。
 怒鳴り声に慌てて居住まいを正して謝罪する姿に、こりゃあっちも相当重症そうだと団蔵は頭を抱えた。



−−−続.