乱太郎の部屋で九人が頭を突き合わせているのと時を同じくして。
 自室の木戸を開いた団蔵は、既に中で待機していた人影を見つけると同時に素早く木戸を閉じた。いくら怒涛の流れで周りが決定していったとは言えど、授業では近付くなと言っていた当事者が喧嘩相手の部屋に転がり込んでくるとはどういう神経だと、忌々しげに眉間を寄せる。
 いっそのこと左吉の部屋にでも上がり込んで時間を潰そうかとも考え、歩き出そうと足を浮かせた瞬間、閉じたはずの扉が内側から開かれた。
「なにやってんですか若旦那。ほら、早く入らなきゃ」
 にこやかな声音と、学園内ではあまり聞くはずのない、しかも忍たま長屋から顔を出すはずのない声色に驚いて目を向ける。振り向いたそこには、予想していた通りの顔が自分に笑みを向けていた。
 無論のこと、体には濃紺の制服を纏ったまま。
「……清八の顔と声を使うのは卑怯だな」
「まぁそう言わず。こうでもしなきゃ、お互いに顔を見ただけで殴り合いになりかねないじゃないですか。伊助さんから話し合いを薦められた挙げ句、他の皆さんからも強引に人部屋に纏められる始末なんで。精いっぱい努力してみたんですよこれでも」
 困ったような笑みを浮かべながら頭を掻く馬借の姿に、ゆっくりと息を吐き、い組長屋へと向いていた足を室内へと向ける。それを見遣り、清八へと顔を変えた庄左ヱ門も静かに元の場所へと戻った。
 それでも暫し、沈黙が場を支配する。手持無沙汰に足を掻いた指の音さえもが、酷く響いて鼓膜を揺らした。
 気まずい静けさに、焦れた団蔵がちらりと清八の仮面を被った庄左ヱ門へと視線を泳がせる。
 そこにいるのは自分達の級長と分かってはいても、顔の皮一枚違うだけで混乱しそうになる思考を戒めるため、ぶると頭を振った。
 そんな団蔵を見遣り、清八の顔はにっこりと正面を向く。
「怒られている理由、ほんの少しでも考えましたか? 若旦那」
「……ソレやめよう、庄左ヱ門。清八に化けるのは、マジで卑怯だ」
「いいえ。黒木庄左ヱ門だと、二人で話すなんてとてもとても。……この顔のほうが、若旦那は素直に色々話してくださるでしょう?」
「…………庄ちゃんのそういうとこ、嫌いだ」
「ごめん」
 この事柄については誤魔化すでもはぐらかすでもなく、普段の声音で謝罪の言葉を呟いた庄左ヱ門に団蔵の表情が微かに和らぐ。そして沈黙やこんなやり取りが続くことになんの意味もないことを認識し、言ってても仕方ないかと小さく口の中で呟き、睨みつけるように向き直った。
「分かった! お前は今から清八だ! 庄左ヱ門とは呼ばない!!」
「はい」
 互いの納得を得たところで団蔵が突然寝転がり、肘を使って移動しつつ、庄左ヱ門の膝に遠慮なく頭を乗せる。清八と思い込むと宣言した後でこの態度とはどういうことだと苦悩しかけたが、仕方なく、そのままの体勢を許容した。
「それで、さっきの質問にまだ答えて頂いてませんよ若旦那」
「質問?」
「聞いたじゃありませんか。怒られている理由、ちょっとでも考えてみましたか?」
「……あぁ、それな」
 強引に膝枕を仕立て上げた団蔵が、下から見上げる。
「言葉足らずが罪悪だのって言ってたのは、金吾から聞いた。でも誤解が分かってんなら、それで納得すりゃいいと俺は思う」
「……それだけですか?」
「考えるのって苦手なんだよ。知ってるだろ」
「知ってますがね、それじゃあ三十点ってとこですよ」
「合格点は?」
「譲歩しても七十ってところじゃないですか?」
「キッツ。それじゃあ到底無理だ」
 嘆息して目を閉じる姿に、どうやら回答が遠すぎて思考することすら放棄してしまったらしいと察し、庄左ヱ門は自身の失策に眉間を寄せる。相手に合わせた対応を講じられないほど頭に血が上っていたらしい昨日の自分を振り返り、まだまだ先輩達には及ばないと隠れて舌を打った。
 思い直し、膝上で転がる団蔵を見下ろす。
「じゃあ、例え話をしましょう」
「例え話?」
「はい。例えば、馬借便の配達の話」
 話すと同時に、手元にある髪を柔らかに梳く。
「若旦那は、ある商人に国越えの馬借便……仮に、地名をユハラとしましょうか。そのユハラへ荷物を頼まれました。それもなかなかに大きな荷物です、とてもじゃありませんが、能高速号だけでは運べません。なので、私も同行することになりました」
 寝物語のように黙って聞き入る団蔵に、ゆっくりと語りかける。時折閉じた瞼がひくりと動くことで思考しているらしいことを見止め、庄左ヱ門は気にせず続けた。
「出発前、若旦那は依頼人の方に届け先の確認をしました。ユハラで間違いないですね? はい、間違いではありません。……そして、二日かかってユハラへ到着しました。なのにユハラでは、そんな荷物に覚えはないと言われます」
 ここまで話した時、団蔵の目が勢い良く開いた。
「依頼主が、品を間違えた?」
「いいえ、言葉足らずの結果です」
 不可解な言葉に、眉間が寄っていく。きちんと説明しますと笑った声音に、団蔵は本当に清八みたいだと苦笑して見せた。
 変姿の術の使い手としてはこれ以上ない褒め言葉に、庄左ヱ門は清八の顔だということも忘れて満足げに笑む。
「聞けば、ユハラの近くにユバラという場所があるそうで、どうやら依頼品はそこへのものだったようです。もちろんそれを聞けばすぐに納得も出来、品物もそちらへと運べば済むこと。……が、本当に納得できますか?」
 問い掛ける言葉に、眉間を寄せたままの団蔵が不機嫌そうに首を振る。ではその理由をと問う庄左ヱ門の言葉に、横たわっていた体はひょいと上半身を起こし、胡坐をかいて座り込んだ。
「場所を確認したし、そこで合ってると言われた」
「そう、分かりやすく聞いて、その返答をもらいました。だから若旦那は帰った後、依頼人のところへ赴き、違っていたと報告しました。そうすると、依頼人は言います。あの場で発音の間違いに気付いてはいたが、訂正するのも面倒だし、行けばそこと知れるだろうと思っていたと。……さて、若旦那はこんな依頼人から、もう一度仕事を引き受けたいと思いますかね」
「……無理。絶対、二度と嫌だ」
「そうでしょう?」
 返答に、満足げに笑う。その上で、未だ不愉快に顔をしかめている団蔵の正面に座り直し、目元の雰囲気だけを普段の自分に戻して庄左ヱ門は改めて口を開いた。
「若旦那と金吾さんの間に、良からぬ噂がたちました。けれどそれは毒虫の症状を見るに長けた人間が見れば明らかなもので、放っておけば治まることが分かっている程度のものです。ですが黒木庄左ヱ門はそれが気に食わなくて、若旦那の口からきちんとした否定を聞きたかったので問い掛けました。実習中に欲求不満に陥って、金吾と遊んだりしたのかと。で、答えが肯定のみだったわけです」
 整理されつくされた言葉に、先程の例え話で全てを理解した団蔵の顔から血の気が引いていく。目の前には口元だけをにこやかに歪めた、あくまでも清八の顔をした庄左ヱ門が座り、自分を静かに見つめていた。
「……いや、あの」
「欲求不満に陥って金吾と遊んだりしたのかと聞いたら、満面の笑顔と共に、遊んだと答えられたわけですよ」
 静かに繰り返された言葉に、じりと団蔵が膝で後ろへと下がり、わずかな距離をとってからゆっくりと土下座する。冷や汗すら滲んできた掌に床の埃がついたことなど気にせず、ただ青ざめてその体勢を維持した。
「え、っと。あの。……とりあえず清八の顔、やめてもらってもいいですか庄左ヱ門」
「顔だけでいいんですか?」
「や、声も。声もやめてください頼むんで」
「理由を言ってください若旦那」
「きちんと庄左ヱ門に謝りたいんでっ!」
 言葉に溜息が返り、程なくしてぱさりと皮の落ちる音がする。何度経験しても確実な恐怖を感じざるを得ないその状況に、団蔵が恐る恐ると視線を上げた。
 すっかり普段の顔に戻った庄左ヱ門が、柔らかな笑顔で見下ろしていた。
「言葉足らずを侮っていると情報伝達に違算が生じるって、ちゃんと伝わったかな」
「伝わりました。身に沁みて伝わりました。冷や汗ダクダクです」
「じゃあちゃんと謝罪して」
 いっそ氷室の中かとも思えるような冷やかさを漂わせる言葉に、思わず団蔵の目に涙が浮かぶ。自分が仕出かしたこととはいえ、この状況に一人で対処しろというのは些か罰が過ぎるのではないかと助けを呼びたい気分だった。
 その気持ちを堪え、こくりと生唾を嚥下する。
「寝ぼけた俺でも分かりやすーく言ってくれてたのに、全っ然気付かず、それどころか最悪な返事をしました! ごめんなさい!」
「ホントに思ってる?」
「思ってます、ホンット反省してます!!」
「そ。それなら」
 にっこり笑み、無理矢理に腕を引く。咄嗟のことでバランスを崩した団蔵が慌てる間もなく、文字どおり目と鼻の先に迫った笑顔に思いがけず背筋を寒いものが走り抜けた。
「しょ、庄、ちゃん?」
 先程とはまた違う冷や汗に額を濡らして引き攣る団蔵に、なおも庄左ヱ門は笑みを見せる。
「反省したなら、ちょっと女装の勉強をして、それから僕の下になってみようか?」
「待っ……!」
 既に青い顔色をさらに青白く変貌させ、脳内で高らかに鳴り響く警鐘にぐらぐらと頭を揺らす。
「反省はしたし女装の勉強は妥協するけど、庄ちゃんに下にされるのだけは絶対イヤなんだってばぁああああ!!」
 断末魔のような絶叫を残し、忍たま長屋の陽が落ちる。乱太郎達の部屋で女装訓練をしていた面々は、この時点を以てして夕食に二人がやってこないことを予見した。


   ■   □   ■


 翌日の井戸周り。
「おはよ、金吾」
「あー……おはよう、庄左ヱ門、団蔵。昨日の夕飯食べてないし、空腹だろ。早めに食堂行って、先に朝食食べたらいいよ。みんなはまだ掛かるだろうし」
 歯を磨いているところへ揃ってやって来た二人に、思わず目を逸らす。そのよそよそしい金吾の様子に、やっぱりあの絶叫は長屋中に響いていたかと団蔵は項垂れた。
 それを見、庄左ヱ門が笑う。
「ありがたいことに、夜中に廊下に出たら饅頭が置かれていてね。多分しんべヱ達の土産だろうと思って、二人で食べさせてもらったから心配には及ばないよ。それより、昨日は久しぶりに自分の部屋で寝たんだろ? やっぱり喜三太の隣のほうがよく眠れたかい?」
「……っ!」
 庄左ヱ門の一言で沸騰するように紅潮する金吾に、思わず団蔵が噴き出す。それに恥じ入り、大声を上げて食ってかかろうとした矢先、団蔵の背後から巨大な影が圧し掛かった。
「ぃよう、団蔵! 仲直りしたか!? んでついに上下逆転を許したか!?」
「虎若っ」
「上下逆転なんてさせるか、ちゃんと現状保持したっての!! つか朝から重い! 暑い!」
「……朝から鍛錬トリオが揃うと、夜着だってのにむさ苦しいね」
「庄ちゃん酷くね!?」
 さらりと呟かれた歯に衣着せぬ言い方に、団蔵だけでなく金吾と虎若までもが少なからずショックを受ける。それを勿論冗談だと笑い飛ばし、庄左ヱ門は早朝から上機嫌な虎若へと視線を移した。
「昨夜はうちの部屋に泊まり?」
「おう、やっととばっちりの浮気ごっこが終わったからなー。昨日は兵太夫達も、うちと一緒でイチャイチャしてたんじゃないか? カラクリが動く音がしてたから、地下に行ったんかもしれんけど」
「実技の授業に支障が出なきゃいいけどね」
 可笑しげに笑う庄左ヱ門を横目に、歯磨きを終えた金吾が手拭を肩にかける。もう部屋に戻るのかと問われた声に、喜三太を起こさなきゃと照れた声が返った。
 初々しいねと揶揄した団蔵に、木桶が投げつけられる。
「……あ、そうだ。兵太夫達が起きてこなかったらどうする? 起こしに行く経路、よく知らないんだけど」
「あの二人は大丈夫、一定時間寝たら起きるから。それより喜三太を起こすの頑張って」
 手を振る庄左ヱ門に、やはり金吾の頬が染まる。慌てて長屋へと戻る背中を笑いながら見送り、団蔵は井戸の水を引き上げた。
 派手な音を立てて注がれる水が、清涼な朝の空気をより一層ひやりとさせる。
「あー、そうだそうだ! 悪い虎若。伊助ちゃん起こして来てくんね? 繕い物頼んでたんだ」
 突然思い出したように声を上げる団蔵に、虎若が些か驚いて目を見開く。しかしその内容に呆れたように肩を竦めると、困ったように眉間を寄せた。
  「おいおい、なにもこんな朝に。……って。……分かった。一個貸しだぞー」
 責める言葉に両手を合わせて懇願する団蔵に、仕方なさそうに了承してひらりと手を翻し、長屋へと向かう。金吾に続き虎若をも見送り、庄左ヱ門が薄く笑みを浮かべた。
「……で? 虎若を厄介払いしてなにをする気かな」
「ありゃ、バレバレ?」
「分からない方がどうかしてるさ」
 喉で笑う庄左ヱ門の方に手を掛け、押さえつけるようにして喉元に食らいつく。
 きつく吸い上げられる痛みに微かに眉間を寄せたのを知ってか、団蔵が唇を吊り上げ、水音を残してそろりと離れた。
 甘く焦れるような痛みと突然の行動に面喰っている表情に、してやったりと笑顔を見せる。
「痕が喧嘩の発端なら、仲直りの最後も痕じゃないとな!」
 当たり前のようにそう言い放つ団蔵の言葉に、ぱちぱちと大きく瞬く。次第その馬鹿馬鹿しい主張にくしゃりと表情を崩し、庄左ヱ門は呆れるような笑みを向けた。
「……この天然馬鹿旦那」
「おう!」
「褒めてないよ」
 堪え切れず互いに笑いながら、改めて朝の準備を再開する。恐らくは頭巾をつけても微妙に見え隠れするだろうそれを想い、さてこの数日間どう周りに誤魔化そうかと、庄左ヱ門は楽しげに思考を巡らせた。



−−−了.