翌日にもなれば、は組内の空気は酷くぎこちないものになっていた。
 特に教室の左側が酷くギスギスとした雰囲気に満たされ、庄左ヱ門を挟む三治郎と伊助、そして団蔵の隣の虎若にとっては逃げ出したいほどの居心地の悪さとしか言いようもない。無論、教科の授業中ともなれば話す必要も、またその機会さえも少ないが、空気と言うものはそれだけで第三者にも気取られる。その証拠に教室に入った瞬間、土井の眉間は怪訝に潜められ、なにかあったのかときり丸に問い掛けた。
 きり丸がそれに曖昧な苦い笑みを見せた後、返答に口を開く前に庄左ヱ門が笑顔で遮る。
「なんでもありません。それより先生、早く今日の分の授業に取り掛かりましょう」
 基本的に普段は素面を貫く庄左ヱ門の必要以上の笑顔と、その斜め後ろで面白くなさそうに鼻を鳴らした団蔵の様子に、事情を察した土井がそうかと頷く。原因さえ分かってしまえば問題はないとばかりに教材を開いた土井に、仲の取り持ちを期待していた面々は不満を訴える声を上げた。
 元より庄左ヱ門と団蔵の喧嘩であればさして珍しいわけでもなく、わざわざ仲裁に入るまでのこともないと判断したらしかった。
「ま、上級生になれば色々あるからな。……しかしあまり長引いてくれるなよ」
 仔細は問わず、ただそれだけ忠告した土井の言葉に庄左ヱ門はただ笑みだけを返す。それを後ろから睨みつけていた団蔵は、そいつ次第ですけどねと吐き捨てるように小さく毒づいた。
 気付かない振りを通す土井と庄左ヱ門以外、全員がひやりとした汗を掻く。
 その発言は庄左ヱ門の示す非の模索を団蔵が放棄し、互いに謝罪を求める態勢に入ったことを暗示していた。
「……こりゃあ嫌でも長引きそ」
 うんざりとした様相で零れ落ちた兵太夫の言葉に、乱太郎、しんべヱ、きり丸、喜三太は同意も露に苦い笑いを浮かべた。
 その全ての呟きと思惑を受け流し、あぁそうだと土井が呟く。
「そういえば明日、山田先生の女装の授業があるから心の準備をしておけよ。特に今回は女装が苦手な者を重点的にというお話だったから、自覚がある者は予習しておくように。……そうだなぁ、女装と変姿が得意なきり丸や庄左ヱ門、兵太夫に教えてもらうといいかもしれないな」
 自覚がある者という言葉に、団蔵、虎若、金吾から悲鳴が上がる。その声に教室中が笑いに包まれるも、はたとなにかに気付いたきり丸が兵太夫にちらりと視線を投げた。
 一瞬のそれに訝しげに訝しげな表情を見せるカラクリ技師に向かい、意味ありげにぱちりと片目を瞑って見せる。
「土井先生の提案、いーじゃん。じゃあ今日の放課後、バケモノ候補を集めて講習会でもしちまうか。俺、金吾な」
 まるで日常の、面白いことに飛びつく習性そのままに話を切り出したきり丸の言葉一つで意向に気付く。伊達では組の悪知恵担当を担っているわけではないと自身に嘯くも、次に口を開いた金吾にこめかみを引き攣らせた。
「え、僕きり子姉さんに指導されるのか? 習うなら庄左ヱ門がいいんだけど」
 思惑を台無しにしかねない金吾の言葉に僅かに苛立ち、額に向かい、常に袴の中に入れてある小石を一つ弾く。それが勢い良くぶつかった痛みに非難を示して睨んでくる剣豪に対し、声に出さず馬鹿と罵った。
 額は痛むわ罵倒されるわで意味の分からない金吾は、にわかにショックを受けたように口をへの字に曲げる。
 その表情に、鼻で笑うように兵太夫が流し見た。
「わがまま言うなよ、学園きっての美人に失礼だろ? じゃあ僕は浮気相手だしぃ、虎若取ったりー! 喜三太もついでに顔の処理するから、後で僕の部屋来いよ。三ちゃんも虎で遊ぶよねー?」
「うん、遊ぶ遊ぶー!」
「お前ら俺をおもちゃにする気だろ! 絶対そうだろ!!」
「はにゃ、僕も行くの? また眉毛剃られるのー?」
「喜三太は眉毛さえなんとかしちゃえばアリな見た目になるんだから、文句言わなーい」
 不安に叫ぶ虎若と喜三太を尻目に、目と目を交し合ったきり丸と兵太夫が互いに唇を吊り上げる。それを目にし、庄左ヱ門が険しく眉間を寄せた。
 まさかと呟いた時には、伊助、乱太郎、しんべヱの三人すらもその場の連携を見せる。
「そういえば乱太郎、女装用の紅が切れたって言ってたよね。私も髪飾りを新調したいから、今日一緒に出掛けない? どっちにしろ女装しなきゃだけど」
「あ、それなら僕もー。おシゲちゃんにあげる簪を買いに行きたいんだぁー」
「ホント? 助かる! 実は着物もそろそろ古びてきてたから、新しいの欲しかったんだ。目の肥えてる二人に相談出来るなら助かるよ。土井先生ー、後で外出届お願いしますねー」
 授業開始の時刻も気にせず、はしゃぐままに纏まった話の流れに分かった分かったと笑顔で了承しながらも、土井の表情は僅かに困ったように歪む。
 女装の授業に関連する話題だからと納得は出来るものの、およそ男だらけのクラスでの会話とは思えなかった。
「どうでもいいが、お前達のその会話を聞いているとくノ一教室みたいだなぁ」
「いーじゃないっすか、俺達どっちかってーと、伝子さんより半子さんになろうと必死なんすからぁ。あ、そういうことだから庄左ヱ門! 悪いけど団蔵の特訓、よろしくな!」
 咲くように笑うきり丸の表情に、庄左ヱ門の奥歯がぎりと鳴る。その膝にそろりと手を載せ、振り向いた顔に申し訳なさそうに伊助が苦笑を浮かべた。
「ごめんね、庄ちゃん」
「……伊助まで」
「心配しなくても、夜になっても解決しないならまた相談に乗ってあげるよ。だから女装の手伝いでもしながら、団蔵の言い分も聞いてあげたらいい」
 柔らかな笑みに怒る気も失せ、けれどやはり困惑は消えないままに顔を顰める。ちらりと後方に視線を流せば、そこには団蔵が同じく顰め面を見せて、窓の向こうへと目線だけを投げていた。
 気に食わないのはお互い様かと溜息を吐き、ようやく再開する授業に意識を向ける。その中で考えを巡らせ、普段は生徒同士の喧嘩には極力口を出さない教科担当教諭までもがきり丸にパスを出すほどに、室内の雰囲気を悪くしていたらしい自身に叱責の意味で舌打った。
 滞りなく、日常は過ぎていく。
 上級生になってから教科の授業はだいぶんと一日の量が減り、代わって実技の授業が割を占める。この日も体力作りのための走り込みや、より高い塀越えのための人馬の練習などが続き、一日が終わった時には半数が深い溜息を吐いていた。
 汗を流すために集まった井戸で、先に終えたきり丸が清々しい笑顔で全員に敬礼する。
「じゃ、特訓の下準備始めとかなきゃなんないんでぇ、きり子お先に失礼しまぁーす! 金吾、逃げんじゃねぇぞ」
「……分かってるよ」
 女の声音と一変し、どすの利いたそれに渋々ながらも了承を返して肩を落とす。その金吾に満足げに笑い、きり丸は兵太夫に向かってぱちりと片目を閉じて見せた。
 言葉もなく、全て承諾済みとばかりに兵太夫も同じ動作で返す。
「庄左ヱ門達は団蔵達の部屋でやってくれる? うちの部屋だと虎若が嫌がるし、かといって喜三太の部屋は僕が嫌だから、そっちの部屋を貸してほしいんだ」
 にっこりと人のいい笑みを見せる兵太夫に、しばらく無言で冷めた視線を送る。その無言の間に引き攣りそうになるのを必死になって堪えるのを目にし、庄左ヱ門はやれやれと肩を竦めた。
「若干わざとらしいのが玉に瑕だけど、いいよ。伊助も女装用の着物が古びてるっていう乱太郎のために、自分の予備の女着物を持って、そっちで着替えてから行くんだろ?」
「……級長には敵いません」
「当然」
 思惑が見抜かれていることに頭を垂れる兵太夫に、余裕を見せて笑みを浮かべる。
「まぁ、みんなに出来るだけ心配をかけないで済むよう、僕も努力だけはしてみるよ」
 ぼそりと呟かれた言葉に兵太夫が肩を叩き、応援してるよと耳打つ。庄左ヱ門はそれに喉を揺らして笑い、脱いでいた上着を肩にかけて踵を返した。


   ■   □   ■


「……とまぁ、二人を強引に漢部屋に押し込めて、我々はそこから一番遠い乱太郎達の部屋に来たわけですが」
 こほんと咳払い、普段からすれば二名足りない円座に並んだ面々を見廻し、兵太夫が膝を打つ。
「ぶっちゃけ上手くいくと思う? きり丸」
 疑問は斜め向かいに座るきり丸へと向かい、全員の目がそれに倣って注がれる。この即興計画の首謀者とも呼ぶべき濃紺の髪の持ち主はそれに対して多少の動揺も見せず、ただ低く唸って、やがておどけたように片眉を上げて見せた。
「ま、ぶっちゃけ難しいんじゃねぇの? あいつら意地張ったらなっげぇから」
「だーよねー」
 さも当然のように言い放たれた言葉に、三治郎が笑って同意する。それに困ったような苦笑を漏らしながらも、乱太郎は膝の上に手を組んだ。
「庄左ヱ門はこのクラスの級長として、直さなきゃいけない欠陥部分を憂いて怒ってるんだよね? まぁ団蔵もそれを薄々分かってはいるんだろうけど、なにせ二人ともキッツイからなぁ……。出来るだけ機会を作ってあげるのはいいことだとは思うんだけど、今回のはちょっと無理矢理すぎない?」
「いいんだよこれで。雰囲気悪くなってるーってのがあからさまに分かってもらえりゃ、とりあえずは御の字なんだから」
「きり丸って、結構やり方が強引なんだよねぇー」
 自信満々に言い切るきり丸に、しんべヱがに柔らかに突っ込みを入れる。それに一瞬たじろぐも、土井先生のパスなんだから仕方ないんだよと口の中で愚痴を零した。
 そんな様子を眺め、金吾が困ったように眉間を寄せる。
「でも問題は団蔵のほうだ。今は怒りで頭がいっぱいで、人の言うことに耳を貸せる状態じゃなくなってる」
「あー、そうだそうだ。昨日なんてまんま子供みたいなこと言いだしてさ。あれじゃ火に油を注ぐ結果になるかも知れないぞ。それだとますます泥沼化しないか?」
「そこは大丈夫じゃないかな。うちの部屋にまで団蔵の声聞こえてたし、庄ちゃんもその程度は承知の上だったから」
 金吾に同意する虎若の意見に、即座に伊助がフォローを入れる。その言葉にまぁそれならと安堵してみせた虎若が、今度は兵太夫へと視線を移した。
「とはいえ、この後はどうする? 床上と床下に潜んで、事の次第を見届けるか?」
「冗談。そんなことしたら、庄左ヱ門どころか団蔵にまでバレちゃうよ。そしたら次から僕らも身動きがとれなくなる。怒りの矛先をむやみに増やす愚行はしたくない」
「じゃあどうする」
「決まってる。最初の提案通り、みんなきちんと明日の授業の特訓だよ。だろ? きり丸」
 ニィと唇を吊り上げる兵太夫と視線を見交わし、同じく趣味の悪い笑みを浮かべる。それに虎若と金吾が引き攣ると、逃げられないようにと三治郎と乱太郎が二人を抑えた。
 反射的に暴れようとする二人を尻目に、にこにこと邪気のない笑顔を浮かべたしんべヱと喜三太がはしゃいだ声で賛成を訴える。
「じゃあ僕、町から帰る前にみんなにお土産買ってくるね! 乱太郎と伊助を連れて行きたいお茶屋さんがあるんだよ。おいしいお饅頭食べたら、きっと団蔵も機嫌直るよねぇ」
「あ、いいねぇそれ! 僕達、いっつも気がついたら仲直り出来てるもんね! 今回の喧嘩も、お饅頭で仲直りできたらいいねぇ」
 幼い頃と変わらない様子ではしゃぐ二人に、押さえつけられていた二人が思わず沈黙する。
「お前ら、この二人の天然オーラを無碍に出来るのか?」
「……無理です」
「よし、分かればよろしい」
 声を揃えて肩身を狭くした虎若と金吾に、兵太夫が満足げに頷く。それを見遣り、きり丸は楽観的な様子で頬杖をついた。
「ま、俺達がちょくちょくお膳立てさえすりゃああとは二人がなんとかするさ。なんせあいつら、うちのリーダーズだからな」
 唇を吊り上げて笑ってみせるきり丸に、それもそうかと全員が納得する。
 そうと決まれば後はとりあえず全員で女装だと笑った三治郎の声に、金吾と虎若が情けなく顔を歪めた。



−−−続.