「とりあえず本気であれ以上の説明がないんだが、なに。俺は謝りゃいいの?」
 酷く機嫌を損ねた声音で団蔵がそう切り出したのは、夕食も終えて宵の口に入った頃だった。
 室内には金吾と虎若が腰を下ろし、それぞれに眉間を寄せて腕を組み、考え込むように俯いた状態で、団蔵のその言葉に答えあぐねていた。
 授業中の様子については、さすが庄左ヱ門と言おうかまったく普段と変わらず日常が進行した。けれどそれ以外、例に挙げるのなら休憩時間や実技直後の井戸端での様子が尋常ではない雰囲気を醸し出し。
 団蔵のいる方向へ顔を向けることもなく、言葉は耳を素通りする様子で、まさしく全く、その存在を無視し続けていた。
 さすがにその様子には騒動の発端を担った伊助や兵太夫もたじろいだものの、笑顔で切り返されてはぐうの音も出ずに押し黙るほかはない。その上その頃には兵太夫が先走ってしまった金吾の首筋の件は、見ただけでそれと気付いた乱太郎によって毒虫によるかぶれだと判明していたので、気まずさもひとしおだった。
 呆れたように兵太夫に説教していた乱太郎の姿が、閉じた瞼の裏に浮かぶ。
「あのね、兵太夫。実際に金吾を確認しなかった私も悪いけど、ぱっと見で即決して、騒ぐのは今度からやめようね。毒虫の体液にかぶれて、ちょっと赤黒くなってるだけだよ。さすがに金吾も団蔵も可哀相でしょ? 身に覚えもない上に、今ちょっとややこしい事態に陥っちゃってるんだから」
 一限の終了後、庄左ヱ門が級長の仕事のため退室したのを見計らって金吾を診察した乱太郎の言葉に、兵太夫だけでなく伊助、三治郎、きり丸も引き攣り、その事実を確認しようと競って金吾の制服を剥ぎにかかった。剥がなくても見えるだろうがと叫んだ金吾の声でその場の収集はついたものの、それ以降、事実を告げても態度を変えない庄左ヱ門に全員が一つの事実に気付く。
 浮気ではなく、それ以外のなにかに怒っている。
 無論、気付いたところでなにをどうすればいいのかの見当は一切つかなかった。
 そんな一日を終え、今ここに至る。
「理不尽だっ!!」
 沈黙に耐え切れず声を荒げて床を叩いた団蔵を、二人がかりで宥める。それでも納得できない様子で大きく息を吐いた姿に、虎若は空笑いを漏らした。
「ま、納得はできないよなぁ。朝っぱらにごちゃごちゃ押しかけられて、パニック状態のところをいきなり殴られたようなもんだし。しかも浮気の誤解が全員に解けた今でも、あの様子じゃあなぁ」
「だろっ!? だよな、そうだよな!? 俺、今回は全っ然悪くないよな!?」
「悪いところがあるから、庄左ヱ門が怒りまくってるんだろうと思うけどな。……当てつけのように伊助を手放さないし」
 対策をなんとか捻りだそうと考えていたらしい金吾が呟くと、今度は虎若が情けない声を上げて頭を抱える。伊助を父ちゃんに取られると叫んだ声に、団蔵が面白くもなさそうにひらりと手を翻した。
「庄左ヱ門を父ちゃんって呼ぶんなら、伊助は母ちゃんなんだから似合いだろ」
 素っ気ないその言葉に、場を和ませようと考えての行動だった虎若が、こそりと金吾に口を寄せた。
「……団蔵、マジで機嫌悪いな」
「まぁそりゃそうだろ。このニセ浮気ブームみたいな状況を早くなんとかしたいのは、僕だって同じだ」
 不貞腐れた口調に、こっちもかと苦笑し肩を叩く。安い慰め方をしないでくれとさらに不貞腐れた声音に、やれやれと肩を竦めた。
 不機嫌な団蔵と不貞腐れた金吾を見遣り、ふむと呟いて口元を覆う。
「つか、なんで金吾にそんなかぶれが出来たんだ」
 純粋な疑問に、団蔵と金吾が顔を見合わせる。
「それは」
「アレだ」
 まるでリレーのように言葉を継ぐ語列に、首が傾ぐ。それを見て、えぇとと二人が数回膝を打った。
 思い至り、揃って人差し指を立て、口を開く。
「寝そうになった時、かぶれりゃ痒くて眠気も覚めるかと思って」
 一言一句違えず合った声に、がくりと肩が落ちる。
「……実習中にそんなことで遊んで……。あ、それで遊んだって言ったわけか」
「そう」
「でもあの場面でその言葉が出た時は、僕も頭が真っ白になった」
 納得する虎若に重々しく頷く団蔵、空気の読めなさを揶揄する金吾の言葉を最後に、再び室内に沈黙が落ちる。まさかその悪ふざけがこんな大事になるとは思っていなかっただろうと同情しながらも、徹夜のテンションからいけば自身もやっていたかもしれないと虎若は隠れて苦笑した。
 その雰囲気だけを察し、団蔵はさらに深い層に唇を尖らせる。
「それより、だ。ほとんど全員が、ほぼなんの疑いもなく俺が金吾に手を出したと信じたことがムカつく。俺はそんなに節操なしか!? 伊助には虎若にまで手ぇ出したとか言われるし! あんまりじゃね!? 伏木蔵みたいに粉モンさんとデートしまくりの奴ならまだしも、なんで納得されちゃうわけ!?」
「っ、そうだ、それについては僕も一言言いたい! なんで僕が悪ふざけやなんやらの軽いノリで、こいつに簡単に身を任せると思われたんだ!? 僕はそんなに不誠実な男に見られてるのか!」
 二人の怒りの声に、一度は納得してしまった虎若は目を逸らす。
「……まぁ、あれだよなぁ。実際に浮気したこと自体はなくても、ふだんの団蔵の仕草と言うか、下級生やくノ一への態度と言うか、そういうのを目にしてれば……無理からぬと言うか……。金吾に関しては、ほら。喜三太に対しての押しがあまりにも弱すぎるから、まぁ、うん。団蔵が徹夜テンションの押せ押せ状態になったら、拒否しきれずに流されんじゃないかなぁと……多分みんな思ったんだと思う」
「失礼にもほどがあるぞお前ら!」
「言っとくが、僕は団蔵に犯られるくらいなら殺る方がマシだ」
「金吾さん、なんか今の、意味合い違いませんでした!?」
「あー、まぁそりゃそうか。ごめん」
「虎若もつっこまねぇし! しかも俺に謝ってもねぇし!!」
 もう完全に挫けたと声を上げて後ろに倒れる団蔵に、二人で笑う。どうにかこの場の雰囲気だけでも和ませることに成功し、虎若はゆっくりと息を吐いた。
「なんにしろ当面の悩みは、どうやったらこの状態を元に戻せるかだよな」
 分かりきっている結論を提示すれば、言葉少なに同意が返る。さて後はどうやって回答を得るかだとカッコをつけて言ってみたが、それに関しては誰一人案すら出ていない様子だった。
 面子を考え、それもそうかとまた苦笑する。
「……ちなみに団蔵。謝る気は?」
「庄左ヱ門に対して? 俺が? なんで? さっきも言ったけど、今回に関しては俺に非なんてないからな」
 金吾の問いに対して突き放す口調に、どうやら解決への道のりが遠いことを二人が悟る。けれどその悟りに任せたままにするつもりもなく、一刻も早く自室に戻れることを目標に、また一言虎若が切り出した。
 朝は勢いのままに浮気に便乗して簡易的な引っ越し作業まで済ませてしまったものの、自身の今夜の就寝場所がかのカラクリ部屋であることに、虎若は並々ならぬ危機感を抱いていた。
「じゃあさ、庄左ヱ門が怒ってる理由って思いつくか?」
「理由ー?」
 問いに胡乱な声を上げるも、今度はひょっこりと身を起してしばし頭を捻り、黙り込む。ここで糸口でも掴めれば少しは進展があるかと期待したが、その期待もむなしく、団蔵はぐしゃぐしゃと頭を掻き乱して大声を上げた。
「あー、もうっ! そんなん分かるわけねーって!! アイツの考えること、俺の思考回路と真逆なんだもん! だいたい俺程度の頭でアイツの考えが分かるなら、い組の奴らはクラス対抗戦であんなに苦労しねーっての!!」
 叫びにもっともだと納得する半面、暗に自分の頭の悪さを露呈した団蔵にほろりと涙が浮かぶ。それを気取られないうちにそっと拭い、そうだなと生温かい声音で同意した。
 けれど金吾は、そういえばと低い位置で手を上げる。
「朝にも言ったけど、言葉が足りないのは怒ってる理由の一つじゃないか? 二人で話してるとき、なんかそんなことを言ってた。言葉足らずは罪悪だとか何とか」
「言葉足らずは罪悪ぅー?」
「庄左ヱ門らしい芝居がかった言い方だが、俺そういう回りくどいの嫌い!」
「団蔵。意見にゃ同意なんだが、その言い方じゃまるっきり駄々っ子だぞ」
「嫌いっ!!」
「……金吾、ダメだこりゃ。頭に血が上り過ぎて、子供返りしてる」
「だな」
 どうやら今夜はこれ以上議論が進みそうにないことを察し、深く溜息を吐く。この気まずい雰囲気を少しでも紛らわすためにも、ニセの浮気をやめるつもりはなさそうだったカラクリ部屋住人を思い返して気分が落ち込んだ。
 明日の朝日を無事に拝めますようにと手を合わせる虎若に、金吾は物言わず肩を叩いた。


   ■   □   ■


 時を同じくして。
 既に日も暮れた後の暗さに、蝋燭の灯が揺れる。そのすぐ傍で針仕事をしていた手を止め、一つ部屋を隔てた場所から時折聞こえる叫びにも似た声に顔を上げた。
 その声の苦悩の一因を担うだろう同室者は、別場所に灯した蝋燭の傍らで兵法書の勉強に勤しみ、気にした様子もない。
 それを見止め、伊助は膝上に置いた繕い物を手早くたたみ、庄左ヱ門へと向き直った。
「ねぇ庄ちゃん、少しいい?」
 静かに声をかければようやく顔を上げ、柔らかな笑顔で振り返る。
「どうした?」
 自分に対しては普段と全く変わらない様子を見せる庄左ヱ門に、どうしたものかと思わず苦笑が浮かぶ。それを見た親友はと言えば、その心情すらも察したことを和らげた目元で語り、開いていた兵法書を閉じて一度息を吐いた。
「みんなを巻き込んだのは悪かったよ。まさか虎若が乗ってくるとは思わなかった」
「僕自身のことはいいんだけどね。虎若もちょっとした悔し紛れのお遊び感覚だし、気にしなくていいよ。兵太夫や三治郎もそうだろうし、喜三太もそれに乗っかってるだけ。……でも団蔵は、きっと本気で怒ってるよ」
「怒らせておけばいい。時に適した説明が出来ないことが、場合によっては大きな引っ掛かりに繋がることを覚えるべきだ。いい機会だよ」
「また、そんなことを言う」
 困惑に眉間を寄せ、音もなく立ち上がって庄左ヱ門の眼前に屈み、頬に手を宛がう。
「すぐに解ける誤解と分かってても、金吾と団蔵が噂されたりするのがちょっと嫌だったんだろ」
 笑って目を覗き込めば、僅かに視線が逸らされる。その動きにまた笑い、ほらやっぱりそうだと伊助は眉尻を下げた。
「私や三治郎、喜三太、乱太郎との噂ならきっと気にしなかったろうにね。金吾やきり丸とは気性が似ているのを自覚してる分、やっぱり嫌なんだ」
「たいした問題じゃないよ。団蔵の受け答えがまずかっただけだ」
「庄ちゃんが話を誤魔化す時はね、目がちょっと左右に泳ぐんだよ。そんな言い訳じゃ私には通用しない」
「……伊助には勝てる気がしないな」
 溜息を吐き、降参とばかり両手を上げる。その仕草に満足げに笑ってみせると、伊助はそのまま座り込んで天井を見上げた。
「まぁ、面白くはないよね。特にあれだけ分かりやすい聞き方してるのに、誤解してくれって言わんばかりの回答をされちゃうとさ」
「なんと言っても団蔵だからね、みんなが言うとおり馬鹿旦那を地でいく奴だから。そのうちあぁいう性格を逆手に取られて、身に覚えもない隠し子騒動でも起きるんじゃないかと思ってる」
「庄ちゃん、今日はとっても辛辣ね」
 動揺も見られないはっきりとした物言いで酷い未来予測をする庄左ヱ門に、思わず引き攣った笑いが漏れる。けれど今はそれも仕方ないことと了承し、伊助は小首を傾いでみせた。
「許してやんないの?」
「朝、みんなの前で言ったろ? アイツがなにを言ったのか、そしてそれがどういう状況を生んだのか。それをちゃんと理解して僕に謝罪したら許すよ。それまでは許すつもりはない。これは僕個人の感情論だけじゃなく、は組を一つの忍び組と見て、改善すべき点だと結論付けての必須条件だ」
「んー、たまには感情論で動いてもいいと思うんだけどなぁ。でも庄ちゃんはうちの指揮官だから、どうしてもそっちの考えが適用されちゃうのかもしれないね。……なんだか団蔵も庄ちゃんも、切ないな」
 ぼそりと呟かれた言葉に、庄左ヱ門の目が大きく瞬く。
「憐れんだ?」
「違うよ、馬鹿言うな。好きな相手のことを考える時に全体のことも考えずにはいられないなんて、私にはどういうものなのか考えつかないから。勝手に切なくなっただけ」
「……そう。伊助はいつでも優しいね」
「庄ちゃんは私を買い被り過ぎだよ」
 褒め言葉に苦い笑いを返す伊助の顔を覗いたまま、庄左ヱ門が口を閉じる。その不自然な沈黙に瞬き、見返して怪訝に眉間を寄せた。
「庄左ヱ門?」
「……ねぇ伊助、本当に浮気しようか。このまま顔を寄せて、口でも吸って、そのまま押し倒してしまえば簡単だ」
 静かに語られる口調に、伊助もゆっくりと口を閉じ、沈黙を落とす。僅かに伏せた目元が蝋燭の火に睫の影を落とすと、二人は互いに黙ったまま静止した。
 次第、伊助の唇が笑みに歪み、押し殺したような笑いが肩を揺らす。
「……伊助?」
 声をかければ、やはり押し殺したような笑みを浮かべたまま、伊助が視線を上げる。その目が庄左ヱ門を捉えた瞬間に、伊助は笑いを止め、柔らかな笑顔を浮かべた。
「馬鹿だね、庄ちゃん。私の親友はね、事の後、手をついて謝って後悔しなきゃいけないような真似をするわけはないんだよ」
 朗らかな笑顔に、持ちかけた庄左ヱ門の方こそが唖然として眼を見開く。まるで毒気を抜かれてしまったようなその表情に嬉しそうに笑み、伊助は柔らかにその背に腕を回した。
 肩口に顔を埋め、拍をとるようにゆっくりと背を叩く。
「今日は一日ずーっと怒ってたから、よっぽど疲れたんだね。今日はお風呂に入る前に布団を敷いて、上がった後すぐに眠れるように準備しておこう。自棄になった庄ちゃんなんてなかなか見られないから貴重だけど、そのせいで団蔵との不仲が続くのは嫌でしょ?」
「……うん、そうだね」
 癒すような声音と温かな体温でじんわりと滲んでしまった目元に気付かれないように笑い、悪かったと小さく謝罪する。その言葉に返答こそないものの、背を叩く手が拍を外して二度叩いたことで、その返事と受け取った。
 まどろみ始める意識に、どうやら本当に疲れていたようだと理解し、どうせならこのまま甘えて眠ってしまおうと瞼を下ろす。僅かに重みが増したはずの体に嫌な気配も窺わせず、ただお疲れ様とだけ呟いた伊助の声に、庄左ヱ門はゆっくりと睡魔に身を委ねた。



−−−続.