――― 最初から答えは言っている





 夏にもなろうという熱い日の、じっとりと汗ばむ暮四ツ半だった。
 その日は団蔵と金吾が双忍実習に出かけてからおよそ七日。は組の誰もが二人の帰還の遅さを心配しながらも、各自の部屋で大人しく就寝準備に入っていた。
 暮四ツ半ともなれば、亥の刻まで半刻と迫った深夜。屋外での自主鍛錬をする気配もそろそろと消える頃になって、きしりと軋んだ渡り廊下に、喜三太は横たえていた体を起こした。
 遠慮気に木戸が開き、疲弊した様子の金吾がのろのろと顔を覗かせる。
「…………ただいま喜三太」
「おかえりぃ。ってか、うっわぁ……今回はいつにも増して酷い顔だねぇ」
「うん……。今回、ホント、寝る時間もろくに……とれなく……」
 言葉尻まで言い終えることも出来ず、そのまま喜三太に向かって倒れ込む。完全に弛緩してしまった体を慌てて受け止め、喜三太はそろりとその顔を覗き込んだ。
 疲れきったように眠りを貪る寝顔に、仕方ないなぁと苦笑する。
「はにゃあ、よっぽど疲れたんだなぁ金吾。お風呂にも入らずに寝ちゃった」
 お疲れ様と囁き、そのまま自分の布団の中に引き入れて頭を撫でる。せめて髷を解かなければと髪に手を掛けたところで、その首筋に朱が散っていることに気がついた。
「……カミキリモドキにでもやられたかな」
 朝になったら薬を渡さないとと呟いて、自身も睡魔に抗えずとろとろと瞼を下ろす。七日振りに感じる汗の臭いに嬉しさを隠さず唇を吊り上げると、夢見心地のまま、お休みなさいと囁いた。
 それが翌朝になり、事態は一変する。
 いかに睡眠時間が少なくとも、基本的に金吾は寝坊というものをしない。従い、この日も目を開いた途端に飛び込んできた喜三太の寝顔に飛び退くようにして部屋から這い出し、一気に上昇してしまった血液をどうにか下げるべく井戸へと降りていた。
 先に顔を洗っていた兵太夫が、金吾に気付いて手を上げる。
「はよ」
「……おはよ」
 よろよろと水を汲み、まるで桶に沈める勢いで顔を洗う金吾に可笑しそうに兵太夫が笑う。また喜三太がなにかしたのかと揶揄する声に、気にしないでくれと言い捨てた。
 その後も音を立てて顔を洗い、ようやくになって顔の熱が引いた頃に溜息を吐きながら顔を上げる。その目に、兵太夫の引き攣ったような苦い笑いが飛び込んだ。
「変な顔してるぞ兵太夫」
「美人揃いの作法委員を捕まえて変な顔とか言うな馬鹿。それよりお前、首。なんとかしろよ」
「首?」
 怪訝さに眉間を寄せ、自身で見ようとしても見られる位置に異変はない。勿論自分で見られる位置に首はなく、視界は肩、もしくは鎖骨より下の胸元程度にしか行き渡らなかった。
 尚更不可解を覚えて顔を顰める金吾に、兵太夫は頭を押さえて視線を逸らす。
「痕くらい隠せっつってんだよ、やらしいなぁ! 実習の後だってのに、さすが体育委員は体力あるっていうかなんて言うか……。喜三太ももうちょっと場所考えてつけりゃあいいのに」
 ぶつぶつと文句を呟く兵太夫の言葉に、身に覚えもなく慌てて自身の首回りを弄る。その上に自分の顎下付近に、皮膚が僅かに爛れたように腫れていることに気がついた。
 思い至り、なんだと息を吐く。
「違うよ、喜三太じゃない。団蔵にやられたやつだ」
「だ、団蔵!?」
「実習中に、まぁ悪ふざけみたいなもんだよ。大体、いくらなんでも昨日の晩にそんな体力残ってるわけがないだろ」
 くだらないとばかりに肩を竦める金吾を尻目に、兵太夫が長屋に駆け戻る。その様子を首を傾いで見送るも、次の瞬間、長屋中に響いた大声に金吾は血の気を失った。
「庄左ヱ門ー!! 団蔵と金吾が実習中に、一発ヤッて帰ってきてるー!!」
 兵太夫の正面で閉ざされていた木戸はその瞬間だけ声量でびりびりと震え、一瞬の静寂の後、音を立てて開かれる。
 しかしそこから鬼の形相で姿を現したのは当の庄左ヱ門ではなく、彼の一番の親友を自負している伊助だった。
「団蔵がなんだって!?」
「伊助ママン、大変だって! 団蔵が悪ふざけで浮気した! 山中の出城での実習最中に!!」
「ママンって言うな、せめて母ちゃんと呼べ!」
「そして山中で実習最中での情事と聞いては、保健委員も黙ってられませんが!?」
 伊助の反論に続き、慌てて眼鏡をかけたであろう乱太郎も血相を変えて隣室から飛び出す。もはやどんどんと大きくなっていく騒動に金吾が動転し説明も弁解も出来ない状態でいると、頭に血の登った伊助、何事かを心配している乱太郎、そして火をつけた兵太夫は勢いのままに団蔵と虎若の部屋の木戸を、これもまた音を立てて開け放した。
 突然の朝の光と盛大な打ち木にも似た音に、まずは虎若が飛び起きる。
「な、なんだ!? 俺、遅刻した!?」
「遅刻はしてないがそろそろ起きろ! そして団蔵を出せ!」
「……伊助? 団蔵なら、ここにいるけど」
 寝ぼけ眼を擦りながら、虎若が自身の布団の中を指差す。それにさらに血相を変えた伊助が乱暴に布団をめくり上げると、未だ幸せそうに寝息を立てる団蔵が、虎若に抱きついた状態で姿を現した。
 これに思わず、乱太郎と兵太夫が頭を抱える。
「と、と、虎にまで手ぇ出したのかこの馬鹿旦那ぁあああ!!」
 伊助の叫びに、虎若がひらひらと手を翻す。
「出されとらん、出されとらん」
「うー、うっせ……」
「起きとけ団蔵。なんか知らんが、母ちゃん滅茶苦茶怒ってんぞ」
 呼気を荒げる伊助を前に未だ惰眠を貪ろうと愚図る団蔵を揺さぶり、虎若が慣れた様子で覚醒を促す。それでようやく目を覚ました団蔵が、眼前に迫った伊助と乱太郎の表情に思わずびくりと体を震わせた。
「……はい?」
「団蔵、庄ちゃんを泣かせるような真似したら怒るよって、昔言ったの覚えてる?」
「あのね団蔵、私達は犬や猫じゃないんだから。山の中でなんて、体に悪い物が入るかもしれないとは考えられなかったの? 金吾だけじゃなく、団蔵だって病気になるかもしれないんだよ? 分かる?」
「は? え? なにが?」
 混乱を始めた団蔵の声を遠くに聞きつつ、未だ井戸端で冷や汗を流す金吾の耳に砂音が飛びこむ。その音に不意に肩を震わせて向き直ると、さして慌てた様子もなく、庄左ヱ門が歩み寄って来ていた。
「しょ、庄左ヱ門……」
「おはよう金吾。朝から騒々しいね」
「あ、あぁ。そうだな」
 にこりと笑む表情に、そら寒いものを覚えて顔が引き攣る。まるで普段通りの朝の挨拶を交わし終わると、庄左ヱ門は目を据え、金吾の首筋をするりとなぞった。
 怖気すら感じ、ひっと小さく声が漏れる。
「なるほど、これが騒動の原因か」
 睨めるような視線に、知らず体が震える。ついと顎を上げる指の動きにも抗えずなすがままにされている金吾に、庄左ヱ門は可笑しそうに喉を揺らした。
 指先が一瞬頸動脈に爪を立てる。こくりと、喉仏が上下に動いた。
 極度の緊張に見舞われているその姿に、庄左ヱ門はそれまでの雰囲気を霧散し、くしゃりと笑ってみせる。
「鬼の体育委員副委員長が、情けない怯え方するもんじゃないよ。金吾」
 手を放し、言外に冗談と示して両手を上げる。その仕草にようやく人心地がついたのかゆっくりと息を吐いた金吾が、それでも首元の不快感がまだ拭えない様子で乱暴に手拭で拭ってみせた。
 趣味の悪い冗談だと愚痴ると、面白くもなさそうな笑いが返る。
「言葉が足りないことは時に罪悪だ。うちのクラスにはそれを実感として知っているやつは少ないからね、せっかくの機会に知らしめておこうと思ってさ。……まぁ、だいたいのことは見て触れれば理解できた。あとは団蔵次第だ」
「……なにかする気か」
「さぁね。言ったろ? 団蔵次第だよ。まぁ悪い方に転んだ場合、金吾には否応なく巻き込まれてもらうけど」
「ちょ、おい!」
 いっそ清らかにも見える笑顔を見せて飄々と長屋へと戻って行った背中に、嫌な予感を感じて後を追う。
 騒ぎの中心には、先程はまだ起きていなかったはずのきり丸としんべヱ、三治郎、喜三太までもが揃っていた。
 そろりと覗き込めば、団蔵を中心に見る間に話が膨らんでいる。
 団蔵自身は、もはや脳の処理が追い付かずにグラグラと目を回していた。
「いーい? 特に隔絶された場所にある土にはいろんなものが混ざっててね? 特に汗も流せないような不潔な環境で必要以上に肌を接触させたりするとタムシになる場合もあるんだし、辛いのは団蔵だけじゃなく金吾もなんだよ?」
「え、ちょっと待って乱太郎。じゃあ昨晩ずっと抱きつかれてた俺も? 俺もインキンになったりする? やっぱヤバいの? 朝から風呂入って来た方がいい?」
「七日程度も我慢できないとか、それこそ馬鹿じゃないのこの馬鹿旦那……! そんな奴に庄ちゃんをやった私自身も憎いけど!」
「天然タラシがまさかただのタラシに進化するとは、僕も想定してなかったからなー。伊助ちゃんには辛いよねぇ」
「しっかし金吾にねぇ。まぁ団蔵の趣味から言ったら妥当かもしんないけど、よくあのカタブツがそんなこと許したなぁ」
「えー、でも団蔵と金吾がそんなことするかなぁ?」
「だよねぇ。僕あれ、きっとカミキ」
「うっわホントだ! 金吾ってば隠しもしないで堂々と!」
「え、いや、だからこれは!!」
 各自の話が入り乱れる中、背後の金吾に気付いた三治郎が声を上げる。またしても反論を許されない雰囲気で凝視され、金吾は困惑しきった表情で庄左ヱ門を見た。
 その金吾自身を見、喜三太はやっぱりと首を傾ぎ、乱太郎は眉間を寄せて数度瞬いた。
 誰からも声が上がらぬ中を、縫うように庄左ヱ門が団蔵へと近付き、膝を折る。
「団蔵」
「……あ? しょーざえもん?」
 未だパニック状態の団蔵を宥めるように、軽い調子で頭を撫でる。その感触に少し安堵したのか表情を緩める顔を覗き込み、庄左ヱ門が柔らかな口調で問いかけた。
「団蔵、実習中に欲求不満に陥って、金吾と遊んだりした?」
 にこやかな声音とはいえ、その内容に周囲がざわめく。それを理解していないのか、団蔵は考え込むように一瞬眉間を寄せた。
 その後間もなく、思い至ったようにぱっと笑って口を開く。
「ん、遊んだ!」
 沈黙と、ともすれば各自から血の気が引くような音が聞こえ。
「はい、アウト」
 庄左ヱ門が優しげに笑ったかと思えば、その頬に思い切り拳が打ち込まれていた。
 骨が鳴るような音が聞こえ、正面を向いていたはずの団蔵の顔は強制的に角度を変えられている。唐突とも言えるその事態が理解出来ないのか、しばらく大きく目を瞬いた団蔵は、理解に至ると同時に怒りで紅潮した。
 殴った庄左ヱ門の胸倉を掴み、眠気や混乱など忘れ去ったかのように食ってかかる。
「っきなりなにすんだ、てめぇ!」
「言える立場じゃないだろ? 理由が分からないってんなら、ここにいる誰にでもいいから聞いてごらんよ。きっとみんな同じことを言ってくれると思うけどね」
 掴む手を払い落し、見下すような目線で見据える。なにをとさらに食い下がろうとした刹那、団蔵は周囲の引いた視線に気付き、あれと首を傾いだ。
 ぱちぱちと瞬き、顎に人差し指をあてがって首を傾ぐ。
「……俺、なんかした?」
 問いかけても、返答はない。ただ世界に絶望したような表情で空を見上げる金吾と、心底憐れんだような表情を浮かべた乱太郎、喜三太がゆっくりと視線を逸らした。
 事態を掴み切れず辺りを見回す団蔵を尻目に、庄左ヱ門が再びにこやかな笑みを見せる。
「虎若、すまないけれどしばらく伊助を浮気相手として借りてもいいかな。なに、大したことはしないから」
「は!? どういうこと!?」
「庄ちゃん!?」
 突然の発言に衝撃を受けた虎若が満足に返答も出来ない間に、庄左ヱ門の腕が伊助を抱き寄せる。そのあまりに自然な動きに愕然とした虎若は、さらに、事態を察した伊助の手が謝罪の形に合わせられたのを見て石で頭を殴られた気分に陥った。
 伊助が了承したとあれば、なぜか悲しくなって周囲を見回す。
「じゃ、じゃあ俺も! 浮気する! さんじ」
「団蔵と金吾が浮気するなら、僕は喜三太と浮気するー!」
「はにゃ!?」
「あっれぇ!? そこは俺じゃないの!?」
「虎若とだと、本気っぽくて兵ちゃんに怒られるもん」
 ごめんねと舌を出した三治郎に、マジでかと項垂れる。しかしその肩を叩く指先に気付いて、虎若は期待の眼差しで顔を上げた。
 が、些か冷たい笑顔がそこで待つ。
「浮気ならこっちにしろきな、とーらーちゃん」
「ゲッ、まさかの兵太夫……!!」
「ゲッてなんだ、不満でもあんのか作法委員捕まえて!!」
「顔より性格派なんだよー。やっぱ伊助が恋しいー。伊助ぇー」
 べそを掻く虎若に手を伸ばされた伊助は一度苦笑を見せてから、未だ険悪な雰囲気を見せる庄左ヱ門へと視線を移す。経験上、随分と苛立っている様子の庄左ヱ門の表情に、伊助はこれはもうなにを言っても無駄だと察して諦めの息を吐いた。
 その溜息を完全な同意とみて、庄左ヱ門が団蔵に背中を見せる。
「お前がなにを言ったのか、どういう状況を生んだのか。それをちゃんと理解して僕に謝罪したら許してやる。それまで授業以外で近付くな」
 言い捨て、部屋を後にする。それを思わず茫然と見送り、残された全員が静まり返って顔を見合わせた。
 そして自然と部屋の引っ越し作業が始まり。
 気付いた時には、室内には団蔵と金吾だけが残されていた。
「…………どゆこと?」
「僕とお前の国語能力のなさに、委員長が怒り心頭って話だよ……」
 挫けそうだと肩を落とす金吾を見上げ、事態は把握できないまでも非常に危険な状態だということを察知した団蔵が引き攣る。けれどそれ以上に慌てた様子で長屋を走っていく級友達の足音を聞きつけ、二人ははたと我に帰ってみなりを確認した。
 始業の鐘が学園に鳴り響き、ようやくになって絶叫する。
 その声を背後に聞き、庄左ヱ門は不機嫌そうに鼻を鳴らした。



−−−続.