――― 隣歌唄うは君の唇





 辺りは肌を焼くような緊張感に包まれ、不意に触れ落ちていく木の葉ですら鋭利な刃と化して皮膚を裂くかのように錯覚した。
 額を濡らす冷や汗がやがて頬を伝って顎へと至り、幾粒か交わって地面へ落ちる。内側から衣服が冷やされていく明らかな不快感が肌を苛むも、それすら気に留めることなく、金吾は忙しなく周囲へと視線を巡らせた。
 軋んだ音を立てて砂利を踏み砕く足元は、学園内で履き慣れた忍足袋と違い滑りやすい草鞋のまま。使い古されているとは言えど、だからこそ履き込まれた光沢をも見せる藁は柔軟性と共に潤滑性にまで優れてしまっている。
 それを自覚し、金吾はより一層の重みと警戒を込めて一寸足らずの距離を後ずさった。
 視界に映り込むのは木々と伸び放題の雑草のみ。
 しかしその中に潜む幾人かの気配を確実に察し、未だ未熟と称される剣豪見習いは腰に提げた刀の鞘に指を這わせながら忌々しげに舌を打つ。
「密か事だから仕方ないとはいえ、こっちは忍装束でもなければ一揃いの忍具も持っていない。対してそっちは準備万端な上に人数も多いとなれば、いくら忍者と言っても、これはあまりに卑怯なやり方じゃないのか?」
 嫌味交じりに呟くも、その愚痴は相手の気配を僅かも揺るがせることはない。その反応のなさに随分と冷たい対応だと眉間を寄せると、突如、金吾の背後にある藪が大きく音を立てた。
 同時に風に流れた見覚えのある焦(こがれ)香(こう)の髪と撫子色の着物に、あぁと諦めと切なさ交じりの溜め息をこぼす。
「東側から回ったんじゃなかったか?」
「んー、あっちなら手薄かと思ったんだけどねぇ。やっぱり見事に読まれてたみたい」
「なるほど。で、ここまで押し戻されたか」
 わざと軽い口調で声を掛ければ、へらりとした気安さで返答がくる。先程まで心臓を圧迫し続けていた緊張感をたった一度の遣り取りで打破してみせた普段通りの和やかな雰囲気に、金吾はゆっくりと息を吐き出した。
 背中合わせに感じられる体温があるだけで安堵する心情に、自らのことながら嘲笑を禁じえない。
 自嘲からのものか、それともこれまでの緊張が解れたことからくるものか。いずれにしろ僅かに震えた呼吸に気付き、衣擦れするほどの近さから喜三太が楽しげな笑いで鼓膜を揺らす。
「ちょっと、緊張しすぎだよ。そっちがそんなんじゃ、ここまで押し戻されて良かったなんて思っちゃうじゃないか」
「……お前は僕を子供扱いしすぎなんだよ」
「その台詞、普段の金吾にそっくりそのままお返しするね」
 不機嫌に声を押し込めようとも、可笑しそうに上下する肩は遠慮を見せない。その昔から変わらない子供じみた仕草にやれやれと額を拭い、金吾はちらりと空を見た。
 充分に冬の様相を感じさせる素肌の枝々を透かし、高い蒼が目を細めさせる。
「もう八ツ刻も過ぎた。……残念だな」
「まだ行けるよ。せっかくだってのに、そんなに簡単に諦めちゃうの?」
「いや。でも本当言うと」
 区切られた言葉に、喜三太の目が背後を窺う。覗き見えた表情は学園で見せるそれよりも随分と緩んで、眉尻を下げた憂いのものになっていた。
「僕は行けなくても、せめてお前だけでも辿り着いてくれればいいなと思ってたから」
 口惜しげにぽつりと零れた言葉が、喜三太の目までをも細めさせる。
「ははっ、思うようにはいかないもんだねぇ」
 軽い調子で返った言葉は裏腹に、慰めを孕んで僅かに指先を絡ませた。
「一番は二人で行けること。そうでしょ?」
「……まぁな」
「なにさその返事。へこんでるねぇ」
「うるさいよ」
 揶揄にごつりと音を立てて後頭部をぶつければ、短い悲鳴と共に非難が返る。日常ではごく当たり前の遣り取りではあるものの、まるで状況を無視したその空気にようやく金吾の唇が緩んだ。
 呼気が漏れたほどの幽かな笑みに満足したのか、背中にかかる喜三太の重みがゆっくりと増す。
「金吾はさっき、僕だけでもなんて言ったけどねぇ。……正直、僕としちゃあ金吾と行けないなら、いっそ行けないほうが嬉しかったりするんだよ」
 まるで子供の甘えをそのまま音にした言葉に、馬鹿なことをと金吾の唇が動く前に。
「心にもないことを……っ!!」
 忌々しげな声音が迸り、藪の中から飛び出してきた影が白刃を閃かせる。その禍々しい輝きを咄嗟に握った苦無で弾き返し、喜三太は不満そうに唇を尖らせた。
「心にもないなんて酷いなぁ。ちゃんとホントにそう思ってるよ」
 顰めた目元だけが覗く覆面を睨み返し、苦無を構え直して吐き捨てる。先刻の罵倒をまさに心外だと言わんばかりのその態度に苦笑を漏らし、金吾が小さく肩を竦めた。
 その心情を知ってか知らずか、今度は逆側の藪ががさりと音を立てて揺らぐ。しかし先のように荒々しい兇刃も罵倒もそこから飛び出すことはなく、あくまで穏やかな人影がゆっくりと、そして堂々と身を現した。
 喜三太に対峙した人物と同じく忍装束と覆面で正体を覆い隠しているものの、にこやかに緩んだ目元が一時の休戦を言外に知らせる。
 ただし瞳の奥には隠しようもないギラついたものを感じさせ、正面から見据えられた金吾は静かに息を呑んだ。
「……ようやくお出ましか。随分回りくどいことをしてくれるじゃないか」
 引き攣る唇を半ば無理矢理嘲笑に見せかけて声を投げれば、首謀者と思しき影はより一層笑みを深くして首を傾ぐ。
「正面から交渉をとの意見も出たんだけどね、結果的にこうも手荒なやり方になってしまっていることは謝罪するよ。ただ、こちらの要求はただ一つだ。それさえ了承してくれるのであれば、もちろんこれ以上邪魔立てするつもりは毛頭ない。むしろどうぞとお通り願い、なんなら道中の警護まで承ろうかという心持ちですらある。……承知の上で抵抗を続けているのはそちらだろう?」
「勝手な言い分だ。元より、そっちの要望は手に余る。買い被られようとも僕らは学生の身の上。それほど余裕がないことなどお見通しだとばかり思ってたんだが?」
「それに関しても重ね重ね申し訳ない。多少の援助は惜しまないと言う者もいるが、大半の者はやはり自発的な厚意に縋りたがってしまってね」
 悪びれもせず紡がれた言葉に、噴き出すような笑いが漏れる。堪えきれず落ちたらしいその音に背後を見返れば、喜三太が苦々しい表情で唇の端だけを持ち上げていた。
「変なの。ここまであからさまにオネダリしてるのに、自発的だなんて。ねぇ金吾、脅迫の間違いだと思わない? いくら僕らが国語苦手だからって、そのくらいの違いは分かるよねぇ」
「まったくだ。綺麗な言葉で飾られたところで、説得力の欠片もない」
 歯に衣着せぬ直球の嫌味に、思わず呆れるものの嘆息と共に同意する。それをさも楽しげに肩を揺らして享受し、対峙した人物は覆面の上からでもそれと分かるほどに唇を歪めた。
「例え虚飾だろうと強要の賜物だろうと、そちらが首を縦にさえ振ればこちらは充分。さぁ、それを踏まえた上で……改めて色好い返答を頂こうか?」
「僕らと違って国語が苦手とも思えないが、どうやら無理だと言っても通じないらしいな」
 要望を呑むまでは引くつもりはないらしいと見て舌打ち、鯉口を切る。殺気を滲ませ刀を握った金吾に呼応するかのように周囲からもまた溢れ出した敵意に視線を巡らせ、喜三太が面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
 その耳に風を切る音が届き。
 そして刹那と間を置かず、金属がぶつかり合う振動が空気を震わせた。
「針を飛ばすとは穏やかじゃない!!」
 喉を開いた怒号を響かせ、金吾が吼える。喜三太を目掛けて放たれた飛針を刀で叩き折り、怒りに任せて踏みつけた。
 軌道上には喜三太の懐。むしろそこに隠し持った幻覚剤や毒薬入りの皮袋へと伸びていた手元を狙ったらしいことはこの数年の経験から明らかではあるものの、例え口先だけだったとしても手荒な手段を詫びた舌の根も乾かぬ内の行為に忌々しげに眉間の渓谷を深く刻む。
 しかしそれにさえ、首謀者は飄々とした雰囲気を崩すことはなく。
「これはとんだ失礼をば。しかしこちらとしてはかなり温い手で警告させて頂いたつもりなんだけれど、やはり未来の剣豪殿は少々過保護が過ぎると見える」
「やかましい。今はそんな話をしてるんじゃないだろ」
 さっと朱の挿した頬を擦ることで誤魔化しながらも、怒りの治まらぬ様子で牙を剥く。それをどこか嬉しそうに横目で眺め、喜三太は相手方が金吾に気を取られている隙をついて豊かな髪の中、否、よく見れば襟元の僅かな部分に誂えられた物入れからごく小さな皮袋を取り出した。
 しゅるりと音を立てて解かれる組紐に気付き、金吾の目が一瞬、怒りも忘れて恐怖に慄く。
「喜、喜三、太?」
「んー? いやぁ、金吾ばっかり過保護扱いされるのもなんだか癪でねぇ。僕だって金吾のこと、普段から思いっきり甘やかして大事にして、そんでもって心配もしてるつもりなんだけど」
 表情と口振りはにこやかと錯覚しかねないものであるにも拘らず、醸し出される雰囲気は明らかに不愉快さを表して憚(はばか)らない。むしろ不愉快と表現するよりも、当事者の一人であるはずの自分を除け者にしたまま進行していく会話が気に入らないとばかりに拗ねた気配を漂わせる喜三太に、金吾はあぁと頭を抱えた。
「いや、でも喜三太。その薬はちょっと強かったような覚えが……」
「だってそろそろホントに時間がなくなってるんだよ? ちょっとの間足を止めてもらうだけだから大丈夫」
「ちょっとって言っても……!」
「学園のすぐ傍でこんなにあられもない殺気を振り撒かれると、正直迷惑なんだけど?」
 不毛な押し問答を始めかけた二人の言葉の隙間に、抑揚の少ない低い声が微かな怒りさえ孕んで吐き出される。その声の聞こえた方角を思わず揃って見返れば、影のよく似合う血色の悪い人影が霊体のように静かに佇んでいた。
「っ、平太!」
「やぁ金吾、なんだか大変そうだね。喜三太、いくら苛立ってるって言ってもこんなに学園に近い場所で薬を撒こうとするのは危ないからやめてくれない? 無関係な子達が巻き込まれたら可哀想だ」
「……はにゃ、ごめぇん」
 叱責するわけでもなくただ諭されただけの言葉に、先程までの様子が嘘のように喜三太がしょげ返る。その反発意識の欠片もない素直な仕草を目を細めて受け止め、平太はゆっくりと金吾、喜三太の背後にぴたりと背中を寄せた。
 言葉もなく参戦意思を伝える体勢に、どこかから小さな戸惑いの声が漏れる。
「金吾これ、今度はなんの騒動? 詳しいことはよく分からないけど、二人で忍務なんだよね。道は僕が開けるから、早めに突破して」
「え、あ、いや」
「道を開ける? 一人で? なるほど、随分と侮ってくれている。いくら忍術学園の生徒といえど、こちらの人数を把握していない現状でそんな大口を叩くのは如何なものかな」
「侮るもなにも、僕がやるのは露払い程度。払いきれないものはもちろん自分達でなんとかしてもらうつもりだよ」
「さて、露払いにもなるかどうか」
 金吾の狼狽を尻目に、平太の言葉に挑発を返した首謀者がじりと距離を詰める。見る間に緊迫していく雰囲気はまさに先刻金吾が追い詰められていた時と同様で、戸惑いを感じながらも今更その空気に口を出せる状況ではなくなっていた。
 言い様のないバツの悪さに、金吾と喜三太は困惑の表情を見合わせる。
「……はにゃー。どうしよっか」
「どうしようって言っても……。本当にどうする?」
「平太が来たとき、金吾がちゃちゃっと説明しちゃえばよかったのにー」
「な……っ! お前だってなんにも言わなかったんだから同罪だろ!?」
 ひそひそと密談めいた会話を交わしながら責任の押し付け合いを始める姿に、つい先程まで敵意に満ちていたはずの周囲の空気すら呆れと当惑に満ちたものへと変化する。
 しかし二人を無視する形で間合いを詰め始めた両者がやがて本格的に獣じみた唸りと殺気を漏らし始めると、周囲を取り巻く全ての意識が困惑の色を濃くした。
 張り詰めた緊張に耐え兼ね、どちらかの奥歯が軋む音。それを合図に爪先が砂を蹴り、互いの得物が振り上げられた。
 片や帯に括り付けられていた鉄双節棍、片や袖の中にしまわれていたと思しき鎖分銅。共に凶悪なまでの硬質部が空を切り、あわや互いの身を損なうかに思われた時。
 盛大な音を立て、白い煙幕が辺りを包む。
「ぅわ!」
「っ……! 残念、見つかったか」
 事態を把握し切れていない声と、口惜しげな舌打ちが同時に落ちる。途端に霧散した緊迫感。しかしそんな二人のことも、そして顛末に安堵したかのような周囲の空気をも気に留めた風もなく、煙幕の向こうから立腹した声が飛んだ。
「はい、そこまで! みんなちょっとやりすぎ!!」
「もー、怪我なんかしちゃったら大変だよー? ちゃんと誰かが止めなきゃー」
「私達がちょっと他の用事を言い付かって目を離した隙に、まったくもう! おら、みんなさっさと出て来い!!」
 聞き慣れた三色の声に、平太が何事か察した様子で金吾を見返る。ありありと映し出された驚愕の色に無言で両手を合わせ、見つめられた剣豪見習いは元より、咄嗟に背後に隠れた喜三太までもが申し訳なさそうに眉尻を下げた。
 叱責に従い、まるで悪戯を見咎められた童が両親の前に渋々姿を現すかのごとく、自ら覆面を剥ぎ取りながら一様に唇を尖らせた影が次々と居並ぶ。
 既に煙幕は風に掻き消え、いくらか煙っているとは言えども視界に影響はない。先刻まで殺意すら込めて対峙していた人物とは思えぬほど悪びれることなくにこやかに口元を綻ばせた黒木庄左ヱ門を含め、森の中に身を潜めていた気配がすべてそこに整列すると、金吾と喜三太は大人しくその脇に身を置いた。
 ずらりと並んだ六年は組。今しがた到着すると同時に怒声を投げた乱太郎、しんべヱ、伊助を除いて神妙に肩身を狭めた面々の中に、なぜか六年い組の彦四郎の姿があることを見止め、平太は呆れ果てた表情で肩を落とした。
「……なにしてんの、みんな」
 当然の一言に、叱られる側に並んだ全員から照れたような苦笑が返る。明らかな誤魔化しの意図を感じるその仕草に眉間を寄せれば、険悪な表情に気兼ねしたのか喜三太が情けない声を上げて微かに身を捩った。
「はにゃ……んー、あのね平太。ちゃんと説明しようと思ったんだけど、タイミングを逃がしちゃってね。つまり、あの。……金吾が僕にね、ちょっと高いけど美味しいお茶屋さんに誘ってくれたのがきっかけでさぁ。みんなには内緒で行こうって話してたんだけど、どっかから話が漏れちゃったみたいでねぇ。美味しいところに行くならお土産お土産ってみんなにせがまれちゃって。でもほら、金吾だってそんなにたくさんお金持ってるわけないし、全員分なんて無理な話でしょ? そしたら、うん。学園を出た途端に強制おねだりが始まっちゃって。念のため別々に出たんだけど、庄左ヱ門にはそんな小細工通じなくってねぇ」
 目を泳がせながらも紡がれる説明に、平太の視線の温度がゆっくりと下降していく。まさしく言葉も出ないと言わんばかりの白けた空気を受け、再度金吾が音を立てて謝罪の手を合わせた。
「勘違いさせたことは本っ当に申し訳ない! 今更じゃあ言い訳にしかならないけど、聞かれたときにきちんと答えようとは思ったんだ。なんだけど、顛末が余りに馬鹿馬鹿しすぎるから咄嗟に返し辛くて……! で、そしたら庄左ヱ門がなんか、その。急に挑発し始めたもんだから取り返しのつけようがなくってさ……」
「いやぁ、そう言えば平太との組み手はなかなか授業でも機会を得てなかったなと思ってね。どうせやるなら本気でやり合ってみたいじゃないか」
 さも当然の欲求だとばかりににこやかに答える庄左ヱ門に、隣に立った彦四郎が反省を促して肘で突く。こちらはいくらか申し訳なさに身を縮めてはいるものの、しかし同席しているからには罪状は同じと見て、平太はそちらにも冷めた目を向けた。
「で、彦四郎は? なんでいるの?」
 静かな声色が逆に不気味なのか、びくりと肩を震わせて大人しく向き直る。
「や、その、なんでって聞かれると、ちょっと言うのが恥ずかしい理由なんだけど……。つまりアレだ、平太。美味しいものが転がり込んでくるかもしれないと思うと、人間は本能に従って行動を起こす生き物であって……」
「つまり一緒になってお土産をねだってたわけだ。さすがは美味しいものに目がない学級委員長委員会」
 身も蓋もなく撥ね付けられた言葉に身を縮め、やはり誤魔化すように愛想笑いを浮かべる。以下同様にへらへらと媚び諂うような笑みを見せる面々に溜め息しか返すことの出来ない平太の肩を叩き、乱太郎、伊助、そしてしんべヱが改めて頭を下げた。
「勘違いさせたばかりかもうちょっとで怪我させるところだった! ごめん! 申し訳ない!!」
「普段なら庄左ヱ門が止める立場なんだけど! あいつ知っての通り面白そうなことには飛びつく癖があって!」
「おねだりするならちゃんと自分達の分はお金を払うべきだよって言ったんだけどねー、ごめんねー」
 三者三様の謝罪に、別に三人に謝られることではないと穏やかに返して慰める。そんな平太の様子にどうやら真剣に怒っているわけではないらしいと察し、金吾は心の底から安堵の息を吐いた。
 やがて緊迫感と罪悪感が過ぎ去った頃、そろそろいいだろうかと辺りを窺って仕切り直しの声を上げる。
「じゃあ僕達は行って来るから! 土産が欲しい奴はちゃんとそれぞれ金子を渡してくれ。あと本当は夕食までに戻るつもりだったけど今からじゃ遅くなりそうだから、僕と喜三太の分は部屋に運んでおいてくれると嬉しい。……平太にまで迷惑かけたんだ。もうこれ以上の邪魔立てはないよな?」
 うんざりとした気配を漂わせながら問う声に応えはない。それを無言の肯定と受け取って追い払う仕草を見せた金吾に、数人は茶化し交じりの文句を投げ、またその他の数人は軽い謝罪と共に、笑って財布の中から数枚の銭を差し出した。
 その中でも、庄左ヱ門はやはり悪びれることなくにこやかに前に立つ。
「それじゃ、これ学級委員長委員会全員分の茶菓代。委員会経費で落としたいから、学園長の名前で領収書もよろしく」
「だったら最初から渡してくれれば面倒もないのに……」
 経費だというのなら懐が痛むこともないだろうにと愚痴をこぼした金吾の一言に、カラカラとした大笑が返る。
「うちの委員会ではね、多少強引にでもねだって手に入るものは素直に強奪しようって教えがあるんだよ」
「うっわー、なにそれすごい迷惑!」
 手の平を翻しながらそう言ってみせた庄左ヱ門、そして隣で苦笑を浮かべつつも訂正することもなかった彦四郎を揃って苦々しい顔で見送り、後には金吾、喜三太、平太の三人だけが取り残される。静まり返った森の中、やがて大きく息を吐いた平太が普段通りの穏やかさで口を開いた。
「二人とも、僕に構わずそろそろ行っておいでよ。お茶屋さんってことは、そう遅くまでやってないだろ? ……せっかく放課後の逢引なんだし、楽しんで来たらいい」
「あいび……っ! ……あぁ、うん。まぁ美味しいものを堪能しては来るよ」
 耳元で囁かれた最後の一言に思わず赤面しながらも、金吾は否定することも出来ず僅かに俯くに留める。相変わらず嘘をつくこともうまく話題をすり替える事も苦手な剣豪見習いに、平太はこの日初めて楽しげに目元を和らげ、今度は喜三太へと向き直った。
「喜三太、先刻の迷惑料。僕へのお土産は無償でよろしく」
「あ、やっぱり欲しい? なんだかんだ言って平太もちゃっかりしてるよねぇ」
 経緯を省みれば無碍にするわけにいかない頼みを受け入れ、静かに手を振る平太に見送られつつ町へ至る道に出る。ただ茶菓子を食べに行くだけの予定が想定外の騒ぎになってしまった事実に、二人は無言で顔を見合わせ、どちらからともなく噴き出した。
 笑壷に入ってしまったものか、しばらくそのまま会話も出来ず笑い続ける。その波がやがてゆっくりと治まった頃、呼吸を整えるために大きな息を一つ吐き、金吾は喜三太へと手を差し伸べた。
「遅くなっちゃったけど、舌鼓と洒落込もうか」
 朱色を乗せた頬で紡がれた言葉に対し、満面の笑顔が指を絡ませる。八ツ刻は過ぎたと言えどもまだ空に蒼は濃く、夕刻と呼ぶにはまだ早い。今からならばまだ充分甘味を楽しめるはずだと顔を上げ、金吾は隣で幸せそうに鼻唄を口ずさむ喜三太の手を引いた。



−−−了.