帰還を待ち構えるかのように牢の手前の木に背を任せ、腕を組んで睨みつける視線に庄左ヱ門はふわりとにこやかに笑んで見せた。
 四半刻には間に合ったかなと問う言葉に、返答はしない。しかし面白くない心持ちで踵を返した足元に気付いたのか、感心したように吹かれた小さい口笛の音にひくりと眉間を寄せた。
 そのまま、不機嫌を隠さず振り返る。
「なんだよ」
「別に。しっかり四半刻を計ってたんだと思って」
「当たり前だ。警戒してる奴を相手に、体感時間なんかで猶予をやれるほど僕は甘くない」
「そこまであからさまに信用がないと、いっそこちらも気が楽だよ」
 刺々しい言葉に対してあっけらかんとした声音で返す庄左ヱ門に、短く溜め息を吐く。
 先程まで自分の立っていた足元には影の位置を記した線が描かれ、影の位置を用いて凡その時間の目安にしていたことを回想した。
 しかしそんなことも気にした様子もなく牢へ向かい、気安く肩を叩きながら進む友人へ困惑のまま軽く唇を噛み、仕方なく彦四郎も後へと続いた。
 牢の前には、余裕の表情を見せたい組の面々が揃い踏んでいる。
「お帰りー庄左ヱ門! ちょうど今ね、残ってるは組全員を罠に掛けて、残らず捕まえちゃおうって話し合ってたんだよー」
 にこやかに手を振りながら、まずは一平が楽しげに声を掛ける。
 その笑顔に警戒の色は微塵も見られず、そんなことでいいのだろうかと隠れて奥歯を噛み締める。しかし見る間に周囲を取り囲んだ級友達のどの表情を見てもそんなものが見られるわけもなく、彦四郎はやはり、自分だけが間違っているのだろうかと僅かに胸の内を揺らした。
 そして勝利を確信した級友達に囲まれながら、同じく嬉しそうに受け応える庄左ヱ門の表情にも僅かな曇りは見られない。
「そう。ちなみに、は組で残っているのは誰?」
「兵太夫と団蔵、それにきり丸と金吾だ。厄介な奴らばかり残ったけど、こちらは無傷の全員揃い踏みだからな。万一にも負ける要素がない」
 庄左ヱ門の問いに、伝七が自信に溢れた態度で答える。その言葉に周囲も同意しているのか同じく唇を持ち上げた表情の並ぶ面々を見回し、そうと庄左ヱ門は牢へと足を進めた。
 は組と接触するつもりかと思わず焦り、その背中に追い縋る。
 しかし牢を覗き込んだ庄左ヱ門はまるで噴出すように笑い、知らぬ内に捕虜の仲間入りを果たしていた友人に対して肩を震わせた。
「やっぱり乱太郎、捕まったんだ。どうやって捕まった? 僕は一応、穴を掘っておけば乱太郎は勝手に落ちてきてくれるよと言っておいたんだけど」
 さも可笑しそうに身を震わせて話す庄左ヱ門に、いくらなんでも酷い所業じゃないのかと呆れも過ぎて声も出ない。それは牢の中の面々も同じなのかぽかんと口を開いた状態で、やがて笑われた当人が顔を赤くして食って掛かった。
「ひ、酷くない!? 庄左ヱ門! いや、確かに私は穴に落ちたんだけどさ! だけどあまりにもちょっとおざなりな作戦って言うか……!!」
「だってそれでも捕まっちゃうだろ? 乱太郎は。悪いけど、僕は手を抜けるところは手を抜くよ。でないと頭の中がこんがらがっちゃうからね」
 多少嫌味なほどに自信に溢れた笑みを見せ、くるりと牢に背を向ける。そのまま少し離れた場所に行き、庄左ヱ門は口元に人差し指を当てる仕草を見せながら全員を手招いた。
 その仕草に興味を惹かれ、他の面々は意気揚々と、彦四郎も戸惑いながら近く寄る。まるで円陣のように身を寄せ合ったその中で、そろりと策士が口を開いた。
「いくら牢の中にいる六人が捕虜だと言っても、これから立てる作戦を聴かれるのはまずい。万が一誰かが助けに来ちゃったら、全て筒抜けになっちゃうからね。見事は組全員を捕まえてい組の実力を知らしめたいのなら尚の事だ。……ちなみに彦四郎。どんな策を立てて残る四人を捕らえる? きり丸と兵太夫は抜け目ないし、団蔵と金吾は普通に強い。牢番に二人残したとして、バラバラに四人を狙ったんでは少し辛い算段だと思う」
 潜められた声音が、ちらりと自分へと向けられる。それを合図にしたように全員の視線が集中してきた事実に、彦四郎は僅かに戸惑ったように目を泳がせた。
 そこから、小さく深呼吸をして目を閉じる。
 演習場となっている林の全容を頭の中に思い描き、そこから考えられる案をくるりと仮想実行してはやり直す作業を繰り返す。それを何度か繰り返し、一番リスクが少なく成功率の高いものを取捨選択して、ようやく静かに息を吐いた。
「……全員を一箇所に集めて、周りを包囲して一網打尽にする。それなら逃げ場所もないし、誰かが相手をしている隙に、手の空いてる人間がタッチすればいい。相手は四人、こちらは牢番の二人を抜いても十一人。……これなら確実に捕れる」
 呟いた声音に、円陣が微かな声を上げて喜色を孕む。その決断に満足したのか、庄左ヱ門までもが嬉しそうに表情を綻ばせて軽く彦四郎の背を叩いた。
「さすが彦四郎、僕が考えたのと同じ答えだ。……問題は四人をどうやって集めるかなんだけど、それに関しては僕のほうから案がある。天唾の術を仕掛けよう」
 挑むように唇を吊り上げて囁かれた言葉に、彦四郎の目線が尖る。
「天唾の術? だったら、あの中の誰かを故意に逃がせって言うのか」
「その通り。ただし心配しないで欲しいのは、僕は牢に近付かないし、逃がす誰かの監視について行ったりもしないってことだ。あくまで僕がするのは、ここで案を口に出すだけ。そのあとはみんなが一斉捕獲に行ってしまうまでこの場から動かないよ。策に参加は出来ないから牢番の役はさせてもらうけどね。……それでどうかな、彦四郎」
 窺う視線に、またそれかと舌打って目をそらした。
「……どんな天唾の術をかけるのか聞いてからだ」
「ありがと」
 即座に却下しなかった事への感謝なのか、ふわりと浮かれた声音が返る。それをどこかくすぐったく受け流し、彦四郎は次いで話される詳細に集中した。
「不自然さを出さないように、出来るなら術を掛けるのは一平がいいと思う。なぜなら一平は演習が始まってからほとんど牢番として過ごしてるし、みんなが出払った後、いや、実際には隠れているだけでもいい。とにかくみんなの姿が見えないところで牢をこっそり開けたとしても違和感はないだろ? 牢の中にはずっと委員会を一緒にやってる三治郎に、去年まで一緒だった虎若、そして今年一緒の喜三太も揃ってる。……一平の性格なら、あまりにもこちらが有利すぎる状況にが心苦しくて、ちょっとだけ情けをかけたくなったと言っても通るだろう。そして、こう言う。は組を全員捕まえるために、林の中に大量の罠を仕掛けた。演習時間はもう少しだから、全滅を避けたかったら挑発に乗らずに陣の周りでじっとしていろ。……ってね」
 肩を竦めた庄左ヱ門の言葉に、おぉと感嘆の声が漏れる。確かにそれならうまく運ぶはずだがと納得しかけ、彦四郎ははたと気付いた。
 ぐいと庄左ヱ門の腕を掴み、意識を自分へと向けさせる。
「もし一平が牢を開けたときに、他の奴らまで逃げたらどうするつもりだよ」
「それについては否定出来ないけど……ないと思うなぁ」
「なんで」
「は組だからだよ」
 まるで他に理由など必要ないとでも言いたげに自慢げに目を細めた庄左ヱ門に、えもいわれぬ説得力を感じて押し黙る。それは他の誰もが同じなのかそれ以上なにも言えずに顔を見合わせ始めた姿に、やがて彦四郎はがりがりと頭を掻いて項垂れた。
「……分かった、その案に乗ろう。ただしさっきお前自身が言ってた通り、これから僕達がは組の陣に動くまでの間、お前はここを動いたり、話したりもしないこと。……いいな」
「了解、級長」
 わざとらしい忠誠心を見せ付けるように唇を吊り上げての言葉に、ふんと鼻を鳴らしてそっぽを向く。しかし邪険にしてみたところで結局は提示される案を採用しているようでは、まだまだ自分も甘いのだろうと自責の念に駆られた。
 やがて全員が牢から見えない場所に潜み、一平が天唾の術を仕掛けるのを見届ける。本来ならもっと実戦慣れしているはずのは組にこんな形で勝つのは本意ではないのだと些か大袈裟なまでに語り、辺りを窺う仕草のあとこそりと牢から抜け出させたのは虎若だった。
 まさか敵から解放されるとは思っていなかった様子で戸惑いながらも林の中に消えた背中を見送り、隠れていた面々がそろりと姿を現す。
 その隠れていた数々の人影に罠とようやく察したのか、乱太郎達が青褪めた表情で声を荒げていた。
 が、投げ掛けられる言葉を全て聞き流し、彦四郎は空を照らす太陽を見上げる。
「……虎若が陣について、説明して、全員が揃うまで……まぁ四半刻もいらないだろ。少ししたら僕達も出よう。……一平、庄左ヱ門と牢の見張り、よろしくな」
「大丈夫ー! 庄左ヱ門は頼りになるからさ! みんなが戻ってお祝いするまで、二人でお喋りでもしてるよ!」
 庄左ヱ門と牢を見張ってくれと言った言葉の意味を履き違えているのか、楽しげに拳を振り上げて見せた一平に訂正も出来ずただ困ったように眉尻を下げる。しかしそれをニヤニヤと趣味の悪い笑みで覗き見るような背後からの視線に気付き、彦四郎は焦って振り返った。
 見れば、視線から感じたままの趣味の悪い笑みを浮かべた庄左ヱ門が、冷やかし交じりに自分を見ていた。
 罵倒するわけにもいかず、赤面して足元の石を投げつける。
「……っ! 行くぞ! 今日こそは組の奴らに、僕らには敵わないって思い知らせてやろう!!」
 照れ隠しにあえて大きな声を出し、鬨の声を上げる面々に出陣を命じる。その言葉に従い勇ましく飛び出した背中を追うべく土を蹴りつけた彦四郎は、腕を引かれる感覚に慌てて踏み止まった。
 見返ったそこで、一平が幸せそうに笑う。
「この演習が終わったら、彦四郎も庄左ヱ門のこと、ちゃんとい組の仲間だって受け入れられるよね。そしたらみんなでお団子食べに行って、ちゃんと歓迎会やろうね」
 悪意のない言葉に、思わず毒気を抜かれて目を見開く。視界の端に捉えた庄左ヱ門は未だ牢に近付こうとはせず、大人しく自分が策を実行してくるのを待っているように見えた。
 その姿に、やはり疑っていた自分が間違っていたのだろうかと心が揺れる。
「……そうだな。これが終わったら、ちゃんと庄左ヱ門のこと歓迎してやろう」
 本心からそう同意し、一平の頭をくしゃりと撫でて再度土を蹴る。背後からは行ってらっしゃいと叫ぶ声が聞こえ、恐らく勢いよく手を振っているのだろう姿が想像出来、思わず表情を緩めた。
 先に立った友人達の背中はもう視界の中になく、遅れをとってしまった事に小さく舌を打つ。しかしあと三町ほどで予定の地点だと気を引き締めたところで、林の中に轟音が轟いた。
 それと共に、木々までもが耐え切れず身を揺らす。その震えから振り落とされぬようにと思わずしがみ付いた彦四郎は、その音が自分の向かう先から響いた事実に気付くと顔色を変えた。
 たった一刹那轟いただけの音はすぐに静けさをもたらし、その中を縋る思いで駆け抜ける。
 だがようやく辿り着いた木の上から見下ろした場所は、中心に据えられたは組の陣を避けるように、巨大な落とし穴が口を開けていた。
「……冗談……」
 現実を否定するように、嘲る言葉が口をつく。
 だがその言葉が儚い望みでしかないことは明白で、恐らくはあの轟音とそして衝撃のために揺れた木々から振り落とされたのだろう級友達が穴に落ちているのが散見される。その上それを悠々と楽しげにタッチして回るきり丸と金吾、そして虎若、兵太夫を見つけ、彦四郎はまた青褪めた。
 残してきた一平を思い、息を呑んで踵を返す。
「あの野郎……っ! やっぱり……!!」
 届くはずもない罵り言葉を吐き捨て、い組の陣へと一直線に走る。やはり少しでも信用すべきではなかったのだと苦々しく顔を顰め、せめて自分が辿り着くまでは本性を見せてくれるなよと手前勝手な願いに望みを賭けた。


  ■  □  ■


 ずずと腹の底に響くような轟音が林を揺らしたあと、庄左ヱ門はその音の大きさに苦笑を漏らし、対して一平は飛び立つ鳥達を見上げて不安げに表情を曇らせていた。
「今の音、なんだろう。彦四郎達は大丈夫かな、巻き込まれたりしてないよね」
「うん、そうだね。みんながいる方向から響いてきたから……無事だといいけど」
 なんだろうと問いつつ、地滑りかなにかを想定しているらしい一平に庄左ヱ門は曖昧な応えを返す。明確になにが起こったのかの予想は出来ないものの、ほぼ確実に兵太夫による罠であることを確信し、庄左ヱ門はくるりと頭の中に策を廻らせた。
 牢の中の友人達も音に驚き、なにごとかと動揺に声を震わせている。今ならばは組が逃げ出そうとしていない分、騒動に乗じて多少無茶な理屈でも通るのではないかと目を煌かせた。
 そう決めるや否や、おろおろと視線を漂わせる一平にそっと近付く。
「一平、心配なら見ておいで。牢番は僕が引き受けるし、こっちのことは心配しなくていい。先生が審判役でいてくださってるとは言っても、怪我なんてしてたら助けの手は多いほうがいいだろうしね。……鍵も僕が預かっておくから。だから行っておいでよ」
 あくまで気遣う言葉を掛け、不安げに見上げてくる視線に優しく笑いかける。それでも動揺のためか牢番という責任感のためか、でもと言い澱んで決断を下さない一平に小さく囁きかけた。
「……もし地滑りに巻き込まれてたとしたらの話だよ。彦四郎は級長としての責任感も強いし、もしそうならみんなを先に逃がそうとして、自分は逃げ遅れたかもしれない。だけど彦四郎はまだ僕を信じてくれていないから、僕がここから動くわけには行かないんだ。……動けるのは一平だけなんだよ」
 誘うように蠱惑的な声音で、じりじりと良心や恐らく自覚のない思慕の情を誘導する。巧みとは言えないまでも通常の学園生活を送ってきた一平にとってあまり馴染みのないその語術に、やがて戸惑うばかりの瞳の下で、そろそろと鍵が取り出された。
 焦らず、それに手を差し出す。
「ここは僕が守るから大丈夫」
 再度呟き、差し出される鍵が手の平に置かれるまでじりじりと待ち構える。やがてその金属の端が皮膚に僅かに触れる頃、庄左ヱ門はほくそ笑む表情を隠すことも出来ず、唇を吊り上げた。
 その背後に、殺気にも似た気配が落ちる。
「タッチ!!」
 怒声の要領で響いた声に振り返る間もなく、力一杯叩かれた背中の痛みに思わず声を漏らす。そしてそれを驚いた目で見守っていた一平の前に彦四郎が滑り込み、それと同時に捕獲成立の笛の音が響いた。
 その音に、ようやく彦四郎に安堵と余裕の笑みが浮かぶ。
「……そうだよな。い組への編入が正式に決まったわけじゃない現状なら、お前の所属はあくまでもは組だ。い組の誰かがお前にタッチ宣言をしなきゃ、お前はいつまでも野放しだったってことだろ」
 吐き捨てるような言葉に、一平だけでなく牢の中の面々もざわめく。その混乱の声と彦四郎の指摘に、背の痛みに顔を顰めていた庄左ヱ門は深く息を吐いて正面から見返した。
 おどけたように肩を竦め、やれやれと首を振る。
「残念、もう少しでい組を全員捕まえられたはずだったのに。……一平がお前を少し引き止めたかことで、兵太夫の罠に掛からなかったんだね。ズレまで考えられなかったのは僕の落ち度だ」
「神様じゃあるまいし、全部が全部お前の思い通りになってたまるか。……でもまさか、虎若に天唾の術に掛けたと思っていた僕ら全員が天唾の術に掛かっていたとは思わなかった。一箇所に固められて一網打尽にしようとしてたのは、お前らのほうだったんだな」
「そういうこと。でも勘違いして欲しくないのは、僕は一人で企んでただけだってことだよ。現には組との接触は僅かな時間だ。一言二言しか出すことが出来なかったヒントを拡大解釈して、見事にい組を捕まえてくれた奴がいたから出来たことだ」
 幸せに目を細める庄左ヱ門の言葉に、不穏なものを感じて振り返る。しかしそこには話についていけず目を白黒とさせている一平がいるばかりで、彦四郎は読み間違った事実に戦慄して僅かに身を引いた。
 するりと庄左ヱ門が身を引き、その後ろから濃紺の影がひょいと飛び出す。
「惜っしい! こっちでした!」
 庄左ヱ門の肩を支えに、身を浮かせた団蔵の腕が彦四郎へと伸びる。それを咄嗟に叩き落し、彦四郎は一平の手を引いて僅かに距離を取った。
「庄左ヱ門はもうこっちに捕まってるんだぞ! その後ろに潜むなんてアリか!!」
「タッチしようとしたのは庄左ヱ門じゃないし、牢に入れてないのはお前らの勝手だろ? 使えるものはなんでも使えってのが忍者の兵法! 使えるなら、級長の背中でもなんでも使うってぇの!」
「理屈が通じないところが嫌いなんだよ、は組は!!」
「そいつはどうも!」
 苛立たしげな罵声に、気にも留めず団蔵が笑う。互いが互いに向かって地面を蹴り、苦無を構えつつ手を伸ばしたのとほぼ同時に。
 林の中に、授業終了を告げるの音が響く。高らかに通るその聞き慣れた金属音に、戦闘体勢に入っていた二人はそのまま地面へと滑った。
 それを見下ろし、一平と庄左ヱ門が口を揃える。
「……終わりだって、彦四郎。大丈夫?」
「お疲れ団蔵。全員捕まえられなかったのは残念だけど、早く集合しよう」
 鼻を擦り剥いたらしい二人を立ち上がらせながらのその言葉に、彦四郎と団蔵も士気を殺がれて項垂れる。彦四郎も団蔵も、そして一平もがちらりと庄左ヱ門を見、飄々と笑顔を見せるその表情に疲れ果てたような溜め息を吐いた。
 結果は、六人を捕獲したい組に対し、十人を捕獲したは組の勝利となった。ただ今回の演習は単純な勝敗だけで納得出来るわけもないと終了時に質問とその回答を求める声が殺到し、教師達を困らせたことは言うまでもない。
 しかし詳細は後で庄左ヱ門から聞くようにと告げられただけで、その場では解散を命じられた。
 直後、両学級の面々が庄左ヱ門に詰め掛ける。
 その説明曰く。
「いや、僕はは組を勝たせたくて色々考えてたんだよ。で、団蔵と喧嘩したのも事実でね。だけどあんなこと言われたら腹も立つし、ちょっと捻くれちゃうじゃないか。で、さらに考えて閃いた。双方の先生方に了承を取って、は組にかん谺の術を仕掛けようって」
「……かん谺の術? ってなんだっけ」
 庄左ヱ門の解説に、は組から疑問の声が上がる。それを苦笑で見る庄左ヱ門を尻目に馬鹿にした様子で鼻を鳴らした伝七が、これ見よがしにチチチと舌を鳴らした。
「かん谺の術。これは雇い主の了承のもと、味方を裏切って敵に寝返ったように見せかけ、敵も味方も欺く術だ。三年にもなってまだ術の名前と内容を覚えられてないのか?」
「うるっさいよ。自分だって知識で知ってるばっかりで、いざ仕掛けられたら気付きもしなかったくせに」
「な……! 知っ、知らないよりはいいだろ!?」
 得意満面で疲労した知識を兵太夫の白けた口調で一蹴され、羞恥に顔を赤くして食って掛かる。それをまぁまぁと周囲が宥める中で、庄左ヱ門はゆっくりと解説を続けた。
「で、なんだけどね。最初に厚着先生に掛け合ったんだ。こういうことがあったんでかん谺の術を仕掛けることを思い付いたんですが、い組がちゃんと間者に気付けるかということも含めて、僕を双方にとっての鬼という位置に据えてみてくれませんか? って。まぁ本当はもうちょっと色々と話したりもしたんだけど、結局面白そうだってことで認めてくださってね。安藤先生と土井先生、山田先生には事後承諾で話を通して頂いたんだ。……でもは組のみんな。僕少しは気付いて欲しいなと思って、土井先生にお願いしてたんだけどな。この演習までの間、かん谺の術って授業でやらなかった?」
 情けなそうに窺う視線に、十人がはてと首を傾ぐ。その仕草に溜め息を吐き、庄左ヱ門は懐から取り出した忍たまの友をぱらぱらと捲った。
 やがて止まった手が、くるりと反転させて見開きの頁を突きつける。
 四章、謀略術と書かれたその項目に、何人かが音を立てて手を打った。
「最近見た気がする!!」
 返答に、庄左ヱ門が崩れ落ちる。
「……うん、予想はしてたけどね……。でも土井先生が泣いちゃうだろうなぁ」
 最後の言葉に、は組全員が目をそらす。それを重々しい溜め息一つで遮り、彦四郎が苛立たしげに庄左ヱ門を睨みつけた。
「つまりお前は、僕らも試してたってことだよな? ちゃんと間者を知ることが出来るか、そしてそれを止めることが出来るのか」
「そういうこと。彦四郎は僕を間者としてちゃんと警戒してたけど、ちょっと警戒しすぎだったかもしれないね。安藤先生はどうにか僕の役割を伝えたくて仕方がない様子だったのに、お前は僕に付きっ切りだったから。さすがに本人を前にして言うのは憚ってらっしゃったみたいだしね。でもちょっと稚拙な策だとも言われたし、不自然な点も拭えないとは言われたんだけど、彦四郎の適正が見られたのは良かったってさ。さっき厚着先生が仰ってたよ」
 にこやかにそう告げた庄左ヱ門の言葉で、全員の目が彦四郎へと注ぐ。確かにこの中でただ一人だけ庄左ヱ門の違和感を目に留めて警戒し続けていた存在に、やがて誰からともなく歓声と拍手が沸き起こった。
 慣れない注目と喝采に、次第、彦四郎の顔が真紅に染まる。
「そ……っ! そんなこと言って褒めたって、もう絶対お前のことは信用なんてしないんだからな!! 絶対だからな! 騙されたこと、僕は忘れないからな! 来年こそは覚えとけよこのお山の大将!!」
 そう叫び、羞恥に耐え切れなくなったのか走り去る。それを慌てて追いかける形でい組もその場から姿を消し、は組の面々だけがその場に残された。
 やはり素直でない反応を見せた彦四郎を笑って見送るその談笑の中で、団蔵だけがこそりと庄左ヱ門の隣に傍付く。
「……ちなみに俺は何点?」
「うん? あぁ、僕個人が採点するお前の点数? そうだな……。あ、一平が仕掛けた天唾の術の言葉、よくちゃんと解釈してくれたよね」
「お前の頭の中を考えろって言われたからな。虎若が戻ってきた時点でお前の策だってのは分かったし、陣に固まれって言われたから、じゃあここで捕まえりゃいいんだよなと思って」
「大雑把な解釈だけど、まぁ間違いではなかったよ。甘い点数をつけて、90点ってところかな」
「お、人生初の高得点」
「もうちょっと普段も頑張れよ」
 互いに喉を揺らして笑い、友人達に囲まれていることにはたと気付く。結果的に戻ったとは言っても騙していたことには違いないのだと一瞬目を泳がせる庄左ヱ門に、周囲は悪戯な笑みを見せた。
 そのまま、一発ずつ軽い拳を見舞われる。
 もうこんな心臓に悪い術は勘弁してくれと笑いながらじゃれ付いてくる級友達に、庄左ヱ門は同じくじゃれ付くような笑いで応えながらそれを快諾した。



−−−了.