かさりと枯葉の踏み鳴らされた音に、それまで絶望した表情で面を伏せていた伊助がひくりと肩を揺らし、希望を孕んで顔を上げる。無論期待したのはせめてもの挽回に、い組の生徒が一人でも多くこの牢に連行されてくることに他ならない。しかしその視界の先に捕らえた人物に、また絶望めいたものを感じて唇を引き結んだ。
 走るでもなく、そして人目を避けるように忍ぶでもなく、さもは組の陣地にいることが当たり前の様子で手を振ってくる庄左ヱ門の姿に、僅かに戸惑いながらも身構える。
「伊助、お疲れ様。守備はどう?」
 にこやかに手を振り、まるでいつもの実習で合流を果たしたような様子を見せる親友からじりと距離を取る。
「……さっぱりだよ。正直、どうやったらそっちに勝てるのか見当もつかないね」
「うん、い組の人数が全然減っていかないのが気になってね。頃合いを見てこっちを見に来たんだ。……ごめん。団蔵に腹が立ってたとは言っても、少しやりすぎたかもしれない。普段の読みを全部あっちに伝えちゃったんだ」
 眉尻を下げて申し訳なさそうに視線を伏せる姿に、ことごとく裏を読まれる理由を察して納得する。庄左ヱ門があちらについた時点である程度予測はしていたものの、やはりそうだったのかと腑に落ちれば、この現状も納得して受け入れられた。
 そうと呟き、小さく息を吐く。
「庄ちゃんが助言してたんだ。だろうとは思ってたけど、やっぱりい組は頭がいいんだろうね。綺麗に裏を突いてくるよ」
「そりゃあね。特にい組の纏め役は彦四郎だから、一筋縄じゃいかないよ。……それにしても、ちょっと無用心じゃない? 牢に人がいないとは言っても、牢番は伊助だけ?」
 きょろりと辺りを見回し、警備の甘さに不満を漏らす庄左ヱ門に思わず苦笑する。指摘されても仕方のない状況とは分かっているものの、既に何人もが戻らず、そして他の面々が躍起になってい組を捕まえようと走り回る中ではこの割り当てが最大の譲歩なのだと溜め息が出た。
「もうそんなに人員を割けるような状況じゃないんだよ」
「それは分かるけど、いくらなんでもこれじゃあね。待ってるだけの伊助の気力は下がるし、なにより、ほら」
 困ったような笑みを見せる庄左ヱ門に、首を傾ぐ。それを見てなお肩を竦める親友に、伊助はどうしたのと笑って見せた。
 その笑みに、庄左ヱ門は哀れみにも似た目を向ける。
「そういう油断がね、伊助。捕まえてくれって言ってるようなものなんだよ」
「……へ?」
 残念だったねと呟く声が鼓膜を揺らすのと同じくして、見慣れた手がゆっくりと近付く。哀れみの視線に見据えられながら、伊助は果たしてこの手からどう動けばいいものだろうかと困惑を始めた。
 そして、伸びた手が肩に触れる僅か一寸前。
「なにしてんだ! とっとと逃げろ!!」
 頭上から降ってきた怒鳴り声にはたと我に返り、慌てて振り払って後退する。すると伊助と入れ替わる形で飛び込んできた濃紺の影が、棍棒を振りかぶっていた。
 庄左ヱ門の唇から、忌々しげに舌打ちが漏れる。
「やっぱりお前が近くにいると思ってたよ!!」
「そうかよ!!」
 棍棒が肩を打つ寸前、庄左ヱ門は体を捻って一撃をかわし、懐から取り出した木製の鎖鎌を取り出して強かにそれを叩き伏せる。それを得意げに笑って見せた唇に今度は団蔵が舌打ち、僅かに距離を取って身構えた。
 その距離の隙に、庄左ヱ門が背後へ向けて叫ぶ。
「彦四郎、伊助を!!」
 その言葉の意味に、伊助が慌てて背後を振り返るほどの余裕もなく。
「タッチ!!」
 高らかに宣言された声に、捕獲成立を告げる笛の音が響く。見れば随分と肝を冷やした様子の彦四郎ががっちりと腕を掴み、とりあえず一人確保できた安堵に額の汗を拭っていた。
「……っ! 庄ちゃん、騙した!?」
 血の気が失せて見返れば、当人は団蔵との立ち合いに気を張り詰めていて返答するどころの様子ではない。そのため得ることの出来ない答えに唇を噛むと、隣に立つ彦四郎が小さく息を吐いた。
「あいつの言ったことをよく思い出せよ。頃合いを見てこっちに来たとは言ったけど、自分一人でとは一言も言ってない。お前はあいつの事を信用しすぎなんだ」
 呆れたような口調に、反論も出来ず押し黙る。それを当然のように一瞥もせずに受け流す彦四郎に、庄左ヱ門が僅かに口を開いた。
「言ってる暇なんてないんじゃないかな、彦四郎。こんなところで僕と団蔵の決着を待ってたら、お前だって捕まりかねないんだ。僕はもう少しコイツと遊んでいくから、伊助を連れて先に帰っててくれ」
 ひりと肌を焼くような緊張感を縫い、視線も寄越さず告げる言葉に彦四郎の目が僅かに尖る。寄せられた眉間のその意味を伊助が訝しむ間もなく、どこか不満げに引き結ばれた唇から軋んだ音が漏れた。
「……分かった、だけど長くは待たないぞ。四半刻しても本陣に戻らない場合、お前が寝返ったものと見做す」
「そりゃ厳しいね。……でもいいよ。なんとかそれまでに戻るさ」
 唇の端が吊り上がるのを見届け、伊助の腕を掴んだまま彦四郎が地面を蹴る。捕まってしまったからには伴われて牢へ向かわねばならず、残った二人を名残惜しく見返りながら伊助もそれに従ってその場を後にした。
 じりと砂を踏み砕く音だけがその場に響く。
 片や右手に棍棒、そしてもう一方は木製の鎖鎌を構え、互いの姿だけを見据えて円を描くように摺り足で移動する。得物の攻撃可能距離としては庄左ヱ門のほうが有利ではあるものの、直接的な攻撃力では団蔵のほうが上であることを互いに承知の上で仕掛ける機会を待った。
 呼吸を読まれぬよう、わざと呼気を乱すことも忘れない。
「……ところで団蔵。僕の小細工なんかなくても、お前が指揮を取れば楽勝だとか言ってなかったか?」
「そのはずだったんだけどな。どっかのアホが寝返って、こっちの読みを全部敵方に伝えちゃったもんだから、全部パーになったんだよ」
「ははっ、ザマぁないね。しかも指揮を取るはずが、伊助にお鉢を取られてたら世話ないよ」
「るせぇ!! 第一、お前がい組に行くなんて誰が予想出来るか!!」
 罵声と共に、懐から取り出した手裏剣を投げつける。相変わらず軌道は標的から逸れているものの、危機感を抱かせるには充分なそれに庄左ヱ門が先に動いた。
 左に走りながら鎌の柄を持ち、鎖分銅の部分を投げつける。危険のないようにと製作された模造品ではあるものの充分に長さのあるそれに、団蔵は忌々しげに唇を歪ませて体を反らした。
 その隙に乗じ、庄左ヱ門が一気に距離を詰める。
「なに言ったって、大口叩いた奴の負け惜しみにしか聞こえないんだよ!」
「あぁそうかよ、クソッタレ!!」
 体勢を支える足を払おうと蹴りの姿勢をとる庄左ヱ門から避けるべく、腕をついてくるりと後方に回転する。起き上がったところでそのまま体を安定させ、今度は逆にその足を掴んだ。
「お前がいたら絶対勝てるって、そう思ってるからあんなこと言ったに決まってるだろ!」
 引き倒し、タッチしようと手を伸ばす。しかし庄左ヱ門はその腹部を蹴りつけ、威嚇するように鎖を回した。
 痛む腹を押さえつつ、その場に転がっていた棍棒を改めて手に取る。それを邪魔することもせず、鎖の向こうで寄せられた眉間が牙を剥く。
「分かってるよ! だけどだからって、なにも考えずに実習に臨めなんて無茶を言うのが悪いんだろ!? 毎回必死で考えてる策まで馬鹿にするようなこと言って!!」
「それに関しちゃ悪かったよ! だけど、仕方ないだろ!! あの時ホントは、お前と遊びたくってウズウズしてたんだから!!」
 羞恥をかなぐり捨て、大声で本音を吐露する。そのまま棍棒を構えて鎖に突撃し、巻きつく鎖にあえて得物を絡みつかせて力任せに放り投げた。
 木々を越えて遠のいたそれに目もくれず、団蔵は目の前の庄左ヱ門に手を伸ばす。
「タッチ! ……今回はお前にもう助言なんて頼めないけどさ。ちゃんと反省してるから、せめて明日からはは組に帰って来いよ。みんな寂しがってるんだから」
 宣言と共に肩に触れたまま、項垂れてポツリと言葉を落とす。搾り出すでもなく疲れきった声音で漏れたそれに苦笑でも浮かべたのか、微かに震えた肩に度し難いものを感じて顔を上げる。
 そこには、どこか嬉しそうな笑みが咲いていた。
「そういえば団蔵。この牢の周り、罠を張っていないんだね。兵太夫ならやりそうなものなのに」
「え? あ……。そういや今回はみんな出払って……」
 そこまで口に出し、未だ笛の音が響いていないことに気付く。
「……あれ? そういえば笛の音は?」
 きょろりと見回し、審判役の教師を探す。しかしその影を団蔵が見つけるよりも早く、触れていたはずの肩がするりと離れて地面を蹴ったことに気付いた。
 慌てて振り仰げば、枝上からにこりと笑んだ表情が見下ろす。
「僕の頭の中をよーく考えてごらん。正解が出たら、丸ごと全部許してやるよ」
 それだけ言い置き、木々の葉の中に姿を消す。
「ちょ、おい! 今お前捕まっただろ!?」
 混乱のままに手を伸ばすも、既にその姿はない。まるで狐狸にでも化かされたような心地に憮然と眉間を寄せ、一体なんなんだとその場にどっかりと腰を下ろす。振り返った牢の中には未だに一人たりとも影はなく、しかも目の前で一人捕獲されたばかり。追い詰められている状況で何を考えろと言うんだと頭を掻き、団蔵は鬱憤を吐き出すように声を上げた。
 そこからそう時を置かずにきり丸、金吾、そして兵太夫が姿を見せる。
 誰もがあまりの成果のなさに項垂れ、憔悴しきった表情をしている事実に無理もないかと溜め息を吐く。しかし兵太夫だけは疲れた顔を見せながらもどこか苛立たしげに眉間を寄せていることに気付き、怪訝に声を掛けた。
「兵太夫? どうかしたか?」
 言葉に、ぎろりと動いた瞳がその不機嫌さを伝える。それを察して余計なことを言ってしまったかと戦慄するも、兵太夫はそのまま視線をそらし、林の逆側に位置するい組の牢を睨みつけるように吐き捨てた。
「どうしたもこうしたもないよ。さっき僕がヘマして、三ちゃんが捕まっちゃったんだ。しかも伝七にタッチされて!!」
 情景を思い出したのか、より一層苛立たしげに委員会仲間の名前を挙げる姿に、それはどうしようもないと三人で顔を見合わせて苦笑を漏らす。ただその困ったような笑いが逆鱗に触れたのか、睨みつける眼光が一瞬にして自分達に向けられたことに思わず背筋を伸ばした。
「なに、なんか可笑しい? 僕が左吉から逃げそびれてるところを三ちゃんが戦輪で助けてくれて、その結果僕だけ逃げて伝七が三治郎を捕まえてさ。しかも後ろから聞こえてきたのが、兵ちゃんが助かったから悔いなしって満足そうに叫んでる三ちゃんの声でさ。助けられちゃった悔しさとか三ちゃんが可愛いすぎるのとか、そういうのを全部纏めて伝七にムカついてるのがそんなに可笑しいですか」
 抑揚のない声音が逆に恐怖心を煽り三人は揃って首を振る。その仕草に面白くなさそうに鼻を鳴らし、兵太夫はまた先程と同じように林の向こう側を睨み始めた。
 ぶつぶつと小さく動き続ける唇が、どうにかして報復を考えているであろうことを悟り、あえてそれには触れずに無視を決め込む。
 ただ愚痴に触発されたのか、金吾までが重々しい溜め息を吐いたことにきり丸が片眉を上げた。
「なんだよ。お前までなんかあったか? 喜三太が捕まったのは最初の辺りだろ?」
「……なんで喜三太のことだって言うんだよ」
「お前がこういう状況で頭抱えるのなんて、喜三太のことくらいしかないだろー。戸部先生が空腹で倒れたわけじゃあるまいし」
「うるさいなぁ! いいだろ別に!!」
 顔を紅潮させ、噛み付くように反論する。しかしどうしようと本音のところを言い当てられてはそれ以上言うべきことも見当たらないのか、また気落ちした表情で肩を下げた。
 その気配に、敵陣を睨み続けていたはずの兵太夫までもが興味をそそられて振り返る。
「なに? 喜三太、捕まったときになんかあった?」
「あったって言うか……。いや、別にそこまでじゃないんだけど」
「なんだよその煮え切らない言い方。言うなら言うでちゃんと言えよ」
 奥歯に物の挟まったような物言いにもどかしさを覚え、団蔵の肘が金吾の脇を突く。それを不愉快そうに振り払い、やがて目を泳がせながら口を開いた。
「喜三太がタッチされたとき、姿が見えるくらい近くにいたんだよ。だから僕が左吉にタッチしたら喜三太はそのまま開放されるんじゃないかと思って、慌てて行ったんだよな。まぁ左吉のことだからちょっとした立ち合いにはなるかと思って、竹光に手を掛けて。……そしたら気配に気付いたんだろうな。あいつ、喜三太のこと抱き上げて逃げてさ。……たったそれだけなんだけど、やけにお似合いだったのがちょっと頭から離れなくて」
 はぁと重い息を吐き、項垂れる金吾の姿にものも言えず沈黙が落ちる。つい先日告白し合い、晴れて自他共に認める恋仲になった身分で何をくだらない悩み方をと脳裏に浮かんだものの、さすがに現状でそれを言うのは酷かと誰もが口を噤んだ。
 代わり、誤魔化すように笑ったきり丸が肩を叩く。
「まぁ、ほら! 喜三太の足の遅さは俺達の学年で知らない奴はいないしさ! しんべヱほどじゃねぇけど一平とどっこいだから、お前から逃げようと思ったらそうするしかなかったんだよ! お前だってそれくらい分かってんだろ!」
「……うん、それは分かってるんだけど。抱き上げるってのが……」
「いや……そんなこと言ってもお前。左吉が喜三太の手を引いて走ってたとしても、それはそれでショック受けてたに違いないだろ。手に手を取っての逃避行に見えるとか言うに決まってんだから。……なぁ、お前ちょっと本気でさ、喜三太に対する色眼鏡は外せ? あいつはお前が思ってるほど可愛くないから」
「いっ、色眼鏡なんてかけてない!!」
 自分の審美眼を否定されたことへの反論なのか、それとも喜三太の容姿を冷静に諭されたことに対する反論なのか、どちらにしろまた頬を赤らめての言葉にきり丸がはいはいと手を翻す。その興味のなさそうな態度に不満そうに唇を尖らせる金吾の存在を受け流し、そうだと呟いて団蔵が膝を打った。
「そういえばさ、さっき庄左ヱ門がここに来た」
「へー。……って、はぁ!?」
「なんで!?」
「伊助がいないの、そのせいか!? あいつも捕まった!?」
 発言に対し、一拍程度の空白を置いて顕著な反応を見せた三人に気圧される。その勢いのまま伊助が捕まったことは肯定したものの、まぁ少し落ち着いてくれと苦い笑みを浮かべた。
「あー、まぁ伊助が捕まったのは庄左ヱ門のせいみたいなもんなんだけど、実際にタッチしたのは彦四郎なんだ。で、ちょっと変なことがあってさ。……俺、庄左ヱ門にタッチしたんだよ。だけど笛の音が鳴らなかった。これってどういうことだと思う?」
 僅かに声を潜める言葉に、思わず三人も距離を詰める。そしてその内容を頭に入れるや否や互いに顔を見合わせ、自分の考えが他の面々も共通しているかどうかを視線で確かめた。
「そりゃあ、それは、なぁ」
「……そういうことなんじゃないの?」
「それしかないよな、やっぱり」
「みんなもそう思う?」
 チラチラと見交わしながら、互いに頷き合う。それを確認し途端にニィと唇を吊り上げると、三人は楽しげに団蔵を見た。
「他には? 何かなかったか?」
「牢の周りに罠を張ってないのは兵太夫らしくないって。あと庄左ヱ門の頭の中をよく考えてみろってさ」
「ふぅん。じゃ、とりあえず罠は了解。庄左ヱ門の頭の中のことは団蔵に任せるよ。金吾、僕の護衛よろしく」
「分かった」
 言うが早いか立ち上がり、周囲の地形を一瞥して即座に駆けた兵太夫の後を金吾が追う。その二つの背中を見送り、さてときり丸が呟いた。
「そんじゃま、こっからはお前が策士代理だ。俺は精々、お前の頭が爆発しないか周りを見張っててやるよ」
「おう。よろしく!」
 手を叩き合わせ、背中合わせに座り込む。視線の遥か先にはい組の本陣。それに挑むように唇に笑みを貼り付け、結局自分達はあの策士の手の平の上なのだと悔しさ交じりの嬉しさに顔を綻ばせた。



−−−続.