それから四日、確かに庄左ヱ門は彦四郎の傍から離れることもなかった。
 自分から言い出したこととは言えど些か気味が悪くなるほどに、休憩時間中だけに留まらず、風呂や厠に至るまで自分を誘いに来るその姿に怪訝な目を向ける。
 しかしそれを伝えたところで、そっちが言い出したことだろうと首を傾げられれば、反論する言葉も出ない。強要されたはずのそれを、あえて自分から望んだように振舞っていることが違和感なのだと奥歯を噛む。
 たったそれだけのことにも拘らず、言葉にしようとすればうまく言い表せない靄を胸の奥に抱えながら、彦四郎はその全ての行動を注視した。
 前述したように、辺りを窺って個人行動をすることもなければ誰かになにかを報告している様子も見られない。は組の面々に対してもそれは同様で、場を同じくすれば当然のように話すものの軽い挨拶程度ですぐに別れていた。
 ただし、は組に戻ってくれという嘆願を聞くと苦笑を返すのみで言葉少なに手を振る。特に団蔵とすれ違った際などは、目を合わそうともしないで足早に擦り抜けた。
 さすがにアレは気の毒じゃないのかと進言しても、別にと素っ気ない様子で突き放される。
 その全てが、は組との関わりをすでに過去の級友達と割り切っているようにも見えた。
 以上の観察結果を踏まえ、彦四郎は風呂場の脱衣所で頭を悩ませていた。
「……それにしてはどうにも腑に落ちない……。なんでアイツ、は組に戻ってくれって言われると言葉を濁してるんだ。団蔵に怒ってるだけなら謝らせればいいだけだろ。なのに当の団蔵には嫌味の一つも言わないままだし、なんだか違和感があるんだよな……。顔も見たくなければ声も聞きたくないほど怒ってるのかもしれないけど、庄左ヱ門の怒り方ってそんなんじゃないだろ……」
 唸りながら、頭を掻き毟る。暖かな湯気が漏れ入ってくる木戸の向こうでは機嫌の良さげな話し声が聞こえ、それに対しても彦四郎は苛立たしく目を吊り上げた。
 のぼせて先に出たのは自分の決断ではあるものの、寒い脱衣所で待ち人がいるというのに長湯するのはどういう了見だと人差し指で肘を叩く。
 中には庄左ヱ門のほかに、左吉と伝七、一平がまだ体を温めている。
 三人を始めとする他のい組の面々は既に庄左ヱ門を信用してしまっているのか、実に楽しそうに、疑いもなく話を振る。それ自体は別段責めることでもなし、むしろ教室内が纏まっているのならばそれに越したことはないと思うものの、それに代わって彦四郎は疑い深いのだと笑われることがどうにも不快だった。
 気にしないでやってくれと庄左ヱ門の肩を叩く級友を思い出し、苛立ちで唇が引き攣る。
「違う、僕は疑い深いわけじゃない。疑って当然の人間に、疑いが晴れるまで目を光らせてるだけだ。嘲笑されようと気にすることはなにもない」
 自身に言い聞かせるように小さく呟き、弱気になりそうになった心根を正すために頬を打つ。そのヒリヒリとした痛みに思わず涙が滲むと、からりと音をたてて風呂場の木戸が開いた。
 体の芯まで温まった様子で、頬を朱に染めた庄左ヱ門がようやく姿を見せる。
「……どうしたの彦四郎。なにかあった?」
「別になんでもないよ。それより、随分と長湯だったな。おかげで湯辺りして出たはずの僕は今や湯冷めしそうだよ」
「そう言われてもなぁ。それに湯冷めしそうなんだったら、もう一回入って来ればよかったのに」
「いっ、一回着た夜着を脱ぐのはなんか嫌だったんだよ!」
 体を拭きながらも相変わらずの冷静さを発揮する庄左ヱ門の言葉に、その発想の浮かばなかった彦四郎は悔し紛れに声を荒げる。その反応だけで本音のところが分かってしまったのか、分かったよと笑った声が眉尻を下げた。
 い組の友人達とは種類の違う気安さに、不貞腐れて頬を膨らませる。
「……いよいよ明日は対抗実習だってのに、未だにお前の腹が読めないのが気に入らない」
「痛くもない腹を探られるのはこっちだって気に染まないよ。だけど甘んじて受けてるんだ。そろそろ気を許してくれてもいいと思うけど」
「兵法に曰く、故に上兵は謀を伐つ。軍事力の最高の運用法は、敵の策謀を未然に打ち破ることだ。僕は今それを必死に考えてる」
「さすがい組だね。兵法を出してくるとは」
「茶化すなよ。お前だって読んでるのは僕だって知ってる。鉢屋先輩と尾浜先輩から、ご卒業のときに頂いただろ」
 呆れて嘆息すれば、可笑しげに喉が揺れる。脳裏に浮かぶ愛用の兵法書は確かに役には立つものの、表紙をめくればそこには様々な落書きと共に自分達へのことづけが所狭しと書かれている物だった。
 まるで子供の落書き帳のようなその頁に、一瞬呆然としてしまったことも記憶に新しい。
「でもなんにしろ、お前の思い通りにさせるわけにはいかないからな。もし仮に本当にお前の言葉が本心でも、明日が終わるまでは警戒させてもらう」
「分かってるよ。……さて。僕ももう準備が済んだし、部屋に戻ろうか。明日はい組にとって負けられない実習だからね。級長に風邪でもひかれたら大変だ」
 にっこりと笑んで肩を叩いてくる庄左ヱ門の仕草に、この気安さが侮れないのだと眉間を寄せる。しかし脱衣所を出た途端に足先から駆け上がった震えに、確かに文句を言うよりも先に部屋の布団に潜り込んだほうが得策らしいと溜め息を吐いた。


  ■  □  ■


 翌日はよく晴れ渡った冬晴れの朝だった。
 演習開始の諸注意などを受けるために集められたそれぞれに引き締まった表情でずらりと並ぶ。しかしその表情はい組のほうが僅かに自信に満ち、は組は緊張したように唇を引き結んでいた。
 それを壇上から見下ろし、各学級の実技担当である厚着と山田はどこか満足そうに目元を綻ばせる。
「それでは、これよりい組対は組のクラス対抗演習を行うに辺っての規則と諸注意の説明を行う! みな聞き漏らしのないように、しっかりと耳を向けるように!」
 通りのいい声で、厚着がまずは注目を集める。無論そうするまでもなく既に真剣な面持ちで向けられる視線に、やがて山田が一度咳を払っって一歩前に出る。
「えー、ではまず規則説明は私、山田から行う。まず今回の演習内容は事前に安藤先生、土井先生からも説明のあったように、相手クラスを捕まえながら逃げるいわゆるケードロ方式だ。しかし役割を決められているわけではなく、両クラス共に捕獲と逃避を実行するわけだから、今まで行ってきた実習とは違ってより実践に近いものとなる。捕獲時には必ず、大きな声でタッチしたことを知らせること。あと、一度捕まった者もそこでガッカリすることはない。牢の鍵を開ければ逃亡し、実習にまた加わることも可能だ。実習範囲はあちらに見える林の中のみ。各陣の牢となる小屋は西と東に位置している。授業終了時に捕獲している人数がより多いほうが勝者とする。また、審判は各先生方に協力をお願いしているので全力で取り組むように!」
 高らかに宣言された声に、全員が一斉に即答する。それを一度頷いて受け、山田はするりと後ろへ引き下がった。
 代わり、厚着が一歩前へと出る。
「次に、実習中の諸注意に移る。今回は武器の使用を可とし、多少の戦闘行為も許可する。ただし苦無と手裏剣を除く刃物は不可とし、代わりに木製のものを使用するように。火薬や、医療行為を目的としない薬物も使用は出来ない。怪我をしたものは審判の先生に申し出、新野先生に手当てを受けること。以上、なにか質問がある者はいるか?」
 厚着の目がくるりと居並ぶ生徒達を見回す。その中の一点に目を留めた様子に、彦四郎は誰か質問の手を上げたのかと予想した。
 その予測通り、隣列の後方からにこやかな声が上がる。
「先生ー、ナメクジさんは連れて行ってもいいですかぁー?」
 どこか間延びした声音に、それまで緊張感を保っていた場が一気に崩れ去る。それでも転がったりせずに苦笑するだけに留まっているは組の慣れっぷりに引き攣りつつも呆れて笑えば、壇上で同じく呆れていたと思しき厚着が仕切り直しのためか数度咳き込んだ。
 慌て、両学級が姿勢を正す。
「あー……ナメクジに限らず、遁術に使用するための虫の使用や林の中に生息している生物の利用は許可する。ただしこちらも危険性のあるハチなどの毒を持つものや、いないとは思うが狼、猪といった類のものは利用しないように。他に質問は……うむ、ないようだな。ならばあと四半刻後の開始に備え、それぞれの陣へ向けて駆け足!」
 号令に従い、全員で駆け出す。そんな自分達を見送りながら、彦四郎は教科担任の安藤が心配そうに拳を握っているのを目に止めた。
 普段ならば自信満々に見送ってくれるはずの担任の姿に不穏なものを感じつつも、足を止めて聞きに走るわけにもいかない。そういえば今回は庄左ヱ門の手綱を締めるあまり教科担任へ助言を聞きにいくことも出来ずに終わってしまったことを回想し、とてつもない失敗に思わず青褪める。
 まさかこれが狙いなのだろうかと庄左ヱ門へと視線を流すも、見遣った先の表情に変化は見られない。ならば他に狙いがあるのか、それとも本当になにも狙いはないのかと頭が混乱を始めた。
 けれど、言ったところでもう助言を求められるはずの担任達に話しかけることも出来ない。こうなればなにがあろうとも自分が気を張り続けるしかないのだと頭を振り、彦四郎は緩く唇を噛んだ。
 実習の開始から、およそ半刻。
 しかし彦四郎の不安など意にも介さぬ様子で、庄左ヱ門のもたらしたは組の情報とそこから練られた作戦は見事に功を奏し、牢の中には既に喜三太、虎若、しんべヱの三人が捕らえられていた。
 喜三太は怪我をした演技を見せる左吉を助けようとして呆気なく。
 虎若は向こうでタッチされてしまったので陣へ連れて行って欲しいと言った一平に。
 そしてしんべヱは、枯れ枝に刺して焼いた鶏肉の匂いにつられて自ら陣へとやってきた。
 対し、い組の捕虜は今のところ存在しない。そのことに沸き立ち、級友達は意気揚々と更なる捕縛を狙って林の中を所狭しと走り回っている。
 本来ならば喜ぶべき現状に、彦四郎は面白くなさそうに鼻を鳴らす。
「どうしたの彦四郎。つまんなそうだね?」
 牢番を任されている一平が顔を覗き込み、不貞腐れたその頬を両手で引っ張る。その邪険に出来ない痛みに困ったように眉間を寄せ、なんでもないと溜め息を吐いた。
 その横から、楽しそうな笑い声が響く。それをぎろりと睨みつけ、彦四郎は忌々しげに唇を尖らせた。
「なんだよ」
「いや、別になんでもないよ。ただよっぽど僕がは組に寝返らないのが不満なんだなと思って」
 含み笑いのまま喉を揺らす庄左ヱ門に、小さく舌打つ。
「誰が。お前の態度がはっきりしないから、ずっと警戒するのに疲れて来てるだけだ」
「言いがかりだよ。僕は前日からずっと、い組の味方だって言ってるじゃないか。ねぇ酷いと思わない、一平。彦四郎はまだ僕のことを信じてくれないんだよ。こんなに尽力してるっていうのにね」
 わざとらしく目元を押さえ、庄左ヱ門は泣き崩れるフリで一平に寄りかかる。まるで抱き込むようなその仕草と、ありゃと笑いながら受け止める一平の姿に彦四郎は血液が沸騰する音を聞いた気がした。
「おい、こら! 一平にベタベタ触るなっ!」
「なんで? いいじゃないか。一平はまだ誰とも恋仲じゃないんだろ?」
「こいな……っ」
 しれっと吐き出された言葉に、思わず怒りとは違う感情で顔が熱くなる。しかしこのまま黙ってしまったのでは一平に怪しまれてしまうことを懸念し、一度停止しかけた脳を必死に回転させ、なんとか言葉を紡いだ。
「誰と恋仲でもないから! 余計に!! お前は触っちゃダメなんだ!!」
 荒げた声に、庄左ヱ門はつまらなさそうに唇を尖らせる。
「ふーん。だってさ一平。彦四郎ってばまるでお父さんみたいなこと言ってるね」
「だよねー。左吉達にはそんなこと言ったことないのに、彦四郎ってば変なの」
 可笑しそうに声を上げて笑う一平の目を盗み、彦四郎の手が庄左ヱ門の袷を掴んで引き寄せる。間近に迫った顔に随分と大胆だねと笑いかける声を聞いて、ふざけるなとまた頬を赤らめた。
「お前ホンットいい加減にしろよ……! なんでそう一平にばっかりちょっかい掛けてるんだよ……!!」
「なんでって。一平可愛いよね?」
「可愛いさ! あぁ可愛いさ! でもお前にやる気は毛頭ないから手ぇ出すな!」
「手を出したつもりはないけどなぁ」
「お前になくても、もし仮に万が一、一平がお前に惚れたらどうするんだよ! 絶対駄目だからなそんなの!!」
「そんなに牽制するくらいならさっさと告白すればいいのに。金吾だってこの前やっと喜三太に告白したよ? 一平だってのほほんとしてて鈍いんだから、誰かに盗られても知らないからな」
 極力押し殺した声で畳み掛ける彦四郎に反し、庄左ヱ門は一言でそれを黙らせる。嫉妬して口煩く言うよりもずっと道理に適った言葉に思わずそれ以降の声を飲み込み、彦四郎は僅かに引き下がった。
 その少しの隙に、袷を掴んでいた手を軽く叩き落される。
「さて。牢の中の三人も大人しいし、陽の位置から言ってもそろそろ演習時間も折り返しを過ぎた頃だろう。彦四郎。僕も一人くらいは捕まえておかないと面目が立たないと思うんだけど、行ってきてもいいかな?」
 数歩歩いて背筋を伸ばし始めた庄左ヱ門に、苦々しい思いを振り払って後を追う。
「ちょっと待て。お前が動くなら僕も同行する。……一平、任せても平気か? 誰か戻ってきたらしばらく一緒に牢番を頼んでてくれ。僕達もすぐに戻る」
「うん、だーいじょうぶ! しっかり捕まえてきてね!」
 にこやかに手を振る一平を残し、西へと駆ける。気配を窺いながらも表情を消して走る庄左ヱ門に、彦四郎はバツが悪そうに目を泳がせた。
「……庄左ヱ門」
「なに、彦四郎」
「…………なんでもない。でも、その。……けしかけるのは勘弁してくれ」
 目を泳がせながらの言葉に、庄左ヱ門が不意に足を止める。それにつられて足を止めるも、顔を直視出来るだけの威勢を今は持ち合わせず、彦四郎はやはりちらりと横目に見るだけに留めた。
 それを、庄左ヱ門はくしゃりと撫でて嬉しそうに笑んで見せる。
「彦四郎も可愛いところあるよね。一平に毒気がなさ過ぎるから奥手にならざるを得ないんだろうけど、見てると微笑ましくっていいなぁ」
 それこそまるで父親が子供を見るように目を細めて笑う庄左ヱ門の言葉に、気まずさも忘れて彦四郎が呆然と口と目を開く。それもまた可笑しそうに頭を撫でてはそろそろ行かないと見つかったら面倒だと肩を叩いた友人に、先程からのやり取りはからかわれていたのだと気付いてまた羞恥と怒りで頬が熱くなるのを自覚した。
「お前っ、ホンット性格悪くなったな!!」
「失礼なことを言うもんじゃないよ。友人にじゃれ付いてるだけじゃないか」
「そういうのは時と場所と場合を弁えてやってくれ!」
 走りながら楽しげに笑う庄左ヱ門に噛み付くように反論する。しかしその視界の端には組の本陣である牢が見え、気配を悟られぬようにと声を潜めた。
 木々の影に隠れてそろりと近付く。牢の中に人影はなく、今は形ばかりの牢番となってしまっている伊助が気落ちした様子で溜め息を吐いていた。
 それを目に止め、行ってくると庄左ヱ門がひらりと手を振る。さてどんな手で伊助の不意をつくつもりかと息を呑んだ自分を尻目に、当たり前のように正面から声を掛けた姿に、確かに思ってもない不意のつき方だと眉間を押さえた。



−−−続.