騒がしさを増すばかりのい組とは対照的に、は組はと言えば通夜ででもあるかのように静まり返っていた。
 一時限目に予定されていた教科授業はつい先刻自習を申し渡され、今は教師の姿もない。しかし普段であれば遊び騒いでいるはずのその中で、十人中九人がどんよりとした空気を纏って項垂れていた。
 伊助と三治郎が、中央に不自然に空いた席を見ては重い溜め息を吐く。黒板に書かれた自習の文字すらも、い組の担当教諭達と話があるのでと説明を受けた今ではこの重さに拍車をかけることしか用を成さない。
 誰もが気だるげに机に肘、または顎を乗せて虚ろな視線を漂わせる中で、兵太夫が溜め息と共に口を開いた。
「ホンット、信じらんないよな」
 小さく呟かれたはずの言葉が、静まり返った教室内には大きく響く。その些か責めるような口調に団蔵の肩がひくりと動くも、反論が繰り出されるよりも早く伊助が同意を見せて顔を上げた。
「まさか庄ちゃんがい組につくなんて考えたこともなかったもんなぁ」
「ホンットだよ。実践では俺達のほうが上って偉そうな顔できるのも、あとちょっとかー」
 つまらなそうに頬杖をつき、きり丸も同じく頷く。見回せば全員がその諦めの雰囲気に飲まれていることに気付き、ただ一人団蔵だけが憤慨した様子で席を立った。
「なんだよ! そんなのまだ決まってないだろ!? やる前から諦めるなんて、は組らしくないぞ!!」
「やる前から予想がついちゃうことはあるって」
「少なくとも、ものすごーく難しくなったことは事実だろー?」
 噛み付くような反論に対し、金吾と虎若から静かな正論を返され押し黙る。それきりまたしても室内は葬式じみた陰鬱さに取り囲まれ、しんべヱですらも机に頬をつけて唇を尖らせた。
「一昨年は先生の助言でどうにかなったし、去年は庄左ヱ門の機転で乗り切れたもんねぇ。でも今年は庄左ヱ門はあっちについちゃったし、先生からの助言も激減するんでしょー? 正直勝てる気はしないよねぇ」
「はにゃあ……今年は惨敗かぁー。せめて庄左ヱ門の代わりになるくらい、作戦立てられる人がいたらいいんだけどねぇ」
「あ、じゃあきり丸は? 近頃、庄左ヱ門とナゾ掛けし合ってたりするじゃないか」
「冗っ談きついぜ。俺はまだそこまで頭が回らねぇよ」
 乱太郎の言葉を受けつつも、きり丸がうんざりした表情で手を翻す。それにやはりダメかと項垂れる面々に、団蔵はわなわなと拳を震わせた。
「だから! なんでそんなに諦めムードなんだよ!! 庄左ヱ門がいなくったって平気だって! 俺達は実践に強いことが自慢のは組だぞ!? あいつ一人いないくらいで、そんな簡単にい組なんかに……!」
「そういう言葉はね、団蔵。私達が庄左ヱ門に助けてもらわなくても大丈夫だって言えるほど、それぞれに臨機応変さと知識が身についてからじゃないと言えないと思うよ」
 今度は伊助から発された苦言に、またしても押し黙る。それはそうかもしれないけれどと唇を噛み締めた団蔵がそれ以上反論することも出来ないまま、やがて静かに教室を閉ざしていた木戸が開かれた。
 咄嗟に視線が集まった先で、疲れた表情を浮かべた両担任が姿を現す。
「っ先生! 庄左ヱ門、帰ってきますか!?」
 誰からともなく投げられた問いに、便乗して同じ言葉が輪唱する。それを困惑のまま見止め、まずは落ち着きなさいと土井が手を打ち鳴らした。
 乾いた音に、騒がしかった室内が静けさを取り戻す。つい先程まで憤り立ち上がっていた団蔵も、今は常のように自席に腰を落ち着けていた。
 物言わず見つめる十対の目に、土井が小さく咳払う。
「えー、安藤先生、厚着先生と少しお話をしてきた。お前達の予想している通り、今日の朝からい組に行っている庄左ヱ門のことについてだ。なにしろ私達も今朝になるまで事の詳細を聞いていなかったので非常に驚いたわけだが……まぁ本人の希望もあり、しばらくの間はい組で勉強を進めさせてやりたいと思う」
 はっきりと言い切られた言葉の衝撃に、室内から不満の声が上がる。それを苦々しく受け止めた土井に代わり、今度は山田が前に出た。
 どうにか取り戻したいのだと言わんばかりの表情に、理解を示しながらも窘めの言葉を紡ぐ。
「無論、お前達の気持ちも分からんではない。しかし庄左ヱ門が決めてしまったことだからな。それに本当にい組に編入することになるかどうかはまた後日の話だ。もし仮にそうなったとしたって、お前達と庄左ヱ門の友人関係が崩れるわけでもない。少しの間、ほんのちょっと距離を取ってやってだな。本人の意思を尊重しつつ動向を見定めてやるのも友人としての勤めだとわしは思う。普段冷静な庄左ヱ門が珍しく見せた突発的な行動だ。些か稚拙ではあるが、ここは気概を買ってやって……」
「山田先生」
 言葉に引っ掛かりを感じたのか、土井が小さく咎めるような声を漏らす。それだけで咎められた理由を察したのか慌てて口を噤んだ山田が、いかんいかんと頭を叩いた。
 不思議そうに見遣る生徒の目を誤魔化すように、にっこりと笑んで言葉を濁す。
「えー、まぁとにかくそういうことだ。い組との対抗実習も近いので不安もあるだろうが、作戦の相談ならいつでも私達が受け付けているから心配しないように! だが誰が指揮を執るかは最初に決めねばならんからな。皆で話し合って、明日の朝までに私か土井先生に報告するように。では土井先生、座学の授業をしっかりとよろしくお願いします」
「はい、お任せください。では、忍学の授業を始める! 忍たまの友の四章を開くように!」
 まるで失言を増やさないようにと気を遣うように早々に退室していく山田と、それを気取らせないようにか早急に授業を開始した土井の僅かな違和感に、団蔵が一人訝しげに眉間を寄せる。しかしちらりと周囲を見回してもそれを感じているのは誰もいない様子で、やはり面白くなさそうに溜め息を吐いて大人しく教科書の頁を繰った。
 かん谺、弛弓、身虫と書き連ねられている術の記述や説明も頭に入る気がしない。もともと勉強は苦手な性質なのだと開き直り、わずかに頬を膨らませて鼻から溜め息を吐く。
 脳裏に浮かぶのは、昨日、対抗実習の策の件で思わず口をついた一言だった。
 頭を振り、苦々しく唇を噛む。
 い組の相手ならばいつも通り軽く捻ってやれると笑った自分に、三病まで患っていると苦言を呈されたことが切っ掛けだったことは疑いようがない。しかし軽い説教だけならばまだしも、常勝している相手に対して蛍火の術を使うことまで提案した庄左ヱ門の考え方が、自分にはただただもどかしかったのもまた事実。
 どうにかそのもどかしさを伝えようと、苛立ちのままに口をついて出てしまった言葉がぐるぐると頭の中で反芻する。
 ―― いつもいつも自分だけが賢い顔をして小難しい策なんて立ててさ! そんなのなくったって、い組なんか俺が考えた作戦でも楽勝で勝てるんだよ!!
 それを叫んだ刹那、向き合っていた表情がすっと冷めたものに変化していった情景が頭から離れない。
 失言に気付いて思わず口を押さえ、慌てて取り繕おうとしてももはや謝罪の言葉を聞くつもりもない様子で背を見せた庄左ヱ門の背中を思い返す。それに追い縋ろうとした自分に対し、だったら僕は口を出さないよと突き放した冷徹な声音が、再度鼓膜を揺らす錯覚に襲われた。
 この経緯を、級友達は恐らく知ってはいない。けれど自分との口論でこの事態が引き起こされてることは想像出来ているのか、時折刺々しい態度を見せるその雰囲気がまた団蔵をじりじりと追い詰めていた。
 憎々しく舌打ちし、グシャグシャと頭を掻き毟る。
「……だってこんなことになるなんて思わないだろ、普通……! なんであの一言でこうなるんだよ、あの頑固モン……!!」
 小さく吐き捨てた言葉も、授業中の静けさの中では充分に人の耳に届く。困った顔でありながらも真っ直ぐに投げつけられたチョークが額に直撃する。その瞬間的な痛みに思わず声を上げて呻くと、きちんと授業を聞いておきなさいと笑いながらの叱責が向けられた。
 忍び笑いが室内に満ち、羞恥心に頬が熱くなる。
 それもこれも全てがい組に亡命などという突拍子もない行動を起こした庄左ヱ門が悪いのだと責任を転化し、肩身も狭く唇を尖らせる。ただし叱責されてもなお開かれた教科書の文字に魅力を感じることなど出来ず、団蔵はやはり面白くなさそうに眉間を寄せた。


  ■  □  ■


 授業後、一人欠けたは組が集合したのは、やはりいつもの伊助と庄左ヱ門の部屋だった。
 作戦会議の際に誰かが欠けるという事態は、さすがに学園生活も三年目ともなればたびたび起こってきたと言ってもいい。しかし今回はそれとは事情が違い、ただ外出や用事で一時的に欠けているわけではなく、編入騒ぎという穏やかではない事態での欠席に、集まった面々もどこか座りが悪そうに視線を見交わしていた。
 しかもそれが本来、この部屋の主だという事実がさらにその座りの悪さに拍車をかける。
 そのさざ波のようなざわめく空気の中、伊助がやがて静かに溜め息を吐いた。
「とりあえずさ、今回の実習では私が庄ちゃんの代わりに策を立ててみるよ。なんだかんだ言ってもやっぱり一番近くで庄ちゃんの作戦立案を見て来てると思うし、い組が相手でも少しは対応出来ると思う。ただ私の考えられる策なんて庄ちゃんの劣化版でしかないから、頭の回るきり丸と兵太夫にサポートを頼みたい。二人とも、お願い出来るかな」
 荷の重い役割に既に重責を感じているのか、あまり乗り気ではない口調で伊助がちらりと目線を走らせる。それに対し出来る範囲でいいならばと請け負ったきり丸と兵太夫に、団蔵が慌てた様子で口を挟んだ。
「や、あのさ! 今回の実習もホラ、現場で臨機応変に組み替えたほうがいい内容だよな!? だったらなにも伊助に頑張ってもらうより、俺がその場でさぁ!!」
「それはそうかもしれないし、団蔵が現場指揮に向いてるのは否定しないけどさ。だけどある程度は事前に作戦を立てるのは大事なことだと思うよ。行き当たりばったりで忍務に臨んで成功するなんて、本来はなかなかないんだから。面倒に巻き込まれたときだって、一旦はみんなで作戦会議を開くじゃない」
「それにお前の作戦って、基本的に相手とタイマンするだけだろ? 直感で相手の作戦の流れを見つけたり、その隙を突いたりした後の指示は頼りになるけど、それ以外だとちょっとなぁ。全体的にお前に任せるのは、僕はちょっと勘弁願いたいね」
 言葉を選びながら説明を試みる乱太郎と、それとは真逆に歯に衣着せない物言いで肩を竦めて見せた兵太夫の言葉に、団蔵はまた言葉に詰まって押し黙る。本日何度目かのそれにギリと奥歯を軋ませると、だったら現場でなんとでもしてやるよと吐き捨てた。
 その拗ねたような響きに、虎若が肩を抱いて慰める。
 お前のことを信用してないわけじゃないんだぞと宥める声に、それでも不満げに、小さく頷く。その仕草を見る限り、庄左ヱ門がは組という枠を外れたことで一番動揺し、そして身の振り方に戸惑っているのは団蔵らしいと見て取り、伊助が人知れず溜め息を吐いた。
 普段であれば意見をぶつけ合いながらも互いに確固としてそびえているはずの双璧が、対を失ったことで一種の混乱に揺れている。背中合わせに立ちながらも拳だけを触れ合わせていたそれが揺らめく今、やはりどうにか別の場所で支えるしかないと眉間に渓谷を刻んだ。
「団蔵にはその場での対応を頼みたいんだ。だから信用してないわけでも、頼りにしてないわけでもない。むしろ私が考えられる程度の作戦で、団蔵がちゃんと動けるのかが心配だよ。……詳しい作戦はまたゆっくり考えて立てるけど、とりあえず左吉を団蔵、伝七を兵太夫、一平を三治郎に請け負ってもらいたい。それだけは先に言っておくよ。今回は私も慣れてないし、それに従うみんなもギクシャクするだろうけど、これ以上はなにも問題を起こさないようにだけ気をつけて欲しい。そういうわけで、今日のところは解散しようか。きり丸と兵太夫は残って、ちょっと私の相談に乗ってもらえる?」
 疲れた笑みを見せる伊助に従い、それぞれが立ち上がって退室していく。決して軽快ではないその足取りや空気を唇を噛んで見上げ、団蔵は虎若に促されながら立ち上がり、言葉に出来ない胸のつかえを毟り取るように着物の袷をきつく掴んだ。



−−−続.