――― 鬼は此方か





 小雨の降る、どこか煙ったような空気の立ち込めた暗い朝だった。
 水音が響くほど一粒が大きいわけでもなく、かと言って地面が濡れないかと言えばそうでもない。小雨と言うよりは正しく霧のような雨に包まれた学園内を、誰より早く学舎へと向かって歩いていた彦四郎は憂鬱な表情で見回した。
 まるで宵の口でもあるかのようなその暗さに、これから一日が始まるというのに縁起が悪いと彦四郎は眉間を寄せる。
「季節に関係なくこういう朝はたまにあるけど、なんか不吉な感じがして嫌なんだよな。面倒ごとに巻き込まれそうな予感がするって言うか……。まぁ、あのは組じゃあるまいし大丈夫とは思うけど」
 溜め息を吐きながらも冗談めかして笑い、独り言を繰り返しながら教室へと進む。毎朝まだ他の級友達が睡魔の淵でまどろんでいる頃に起き出し、授業が始まる前に今日室内を軽く清掃しておくのが彦四郎の常となっていた。
 出来るだけ早めに就寝し、早く起床したほうが脳の回転率が上がる。それを教えられたのは昨年卒業して行った不思議な髪質の先輩だったが、それを実感し始めたのは実践に移しておよそ半年が経過した頃からだった。
 最初は体が慣れていなかったせいかやけに眠気が勝っていたが、確かに早く起床し、そして授業までの間に軽く手指を動かすことしていれば授業がよりすんなりと頭に入る。ただし委員会を同じくするもう一方の先輩から、これを教えてくれた当人が寝坊の常習犯であることを聞かされなんとも言えない気持ちになったのも、今では懐かしく思えた。
 ふふと小さく笑いを漏らし、陰鬱な天気に代わってせめて教室くらいは輝かんばかりに磨き上げておいてやろうとその木戸を開く。
 しかし予想だにしない事態に、にこやかに笑んだままだった彦四郎は思わず時間を止めたように身を固めた。
 本来ならばいるはずのない人物が、よりによって自分の座るべき場所に腰を下ろして教本を読み耽っている。しかもさも当然と言った様子で遠慮の欠片も見せずに座している事実に、一瞬思考が混乱を起こした。
 もしや通い慣れた教室を間違える愚行を犯してしまったのだろうかと冷や汗を流す気配に気付き、件の人影がようやくになって顔を上げた。
 にこやかな笑みが、悪びれることもなく朝の挨拶を告げる。
「やぁ、おはよう彦四郎。話には聞いていたけど、本当に早いんだな。まだ七ツ半だって言うのに教室の清掃に励むなんて凄いじゃないか」
 手放しで褒め称える言葉に、今は自尊心をくすぐられもしなければ羞恥心も湧き上がることはない。ただ理解の出来ない事態を理解しようと努める脳内は恐ろしい速度で回転し、引き攣った表情のまま唇を吊り上げた。
「あの、さ……庄左ヱ門。僕、もしかして教室を間違えたか……?」
 恐る恐る問い掛け、返答を待つ。ただし問われた当人はなにを馬鹿なことをと殊更楽しげに表情を綻ばせ、開いたままだった教本を閉じた。
「いいや。ここは正真正銘、三年い組の教室だよ。まさか君が教室を間違えるなんてあるわけがないだろ? は組のみんなが起き出す前にと思ってここに来てしまったから、どうにも座る場所にも困ってしまってね。それで悪いとは思ったんだけど彦四郎の席に座らせてもらってるだけだよ。すぐに退くから、気にせず掃除をどうぞ」
「いや、そういう問題じゃないだろ!!」
 立ち上がって掃除を促す笑顔に、思わず壁を叩いて反論する。
「僕が教室を間違えたんじゃなけりゃ、なんでお前がここにいるんだよ! しかもは組の奴らには気付かれないように!? あと別に僕の席に座ってるのは構いやしないけど、とりあえずちゃんと分かるように説明しろ!」
 言葉と同時に歩を進めて詰め寄り、噛み付くほどの勢いで額をぶつける。その痛みに降参の両手を挙げた庄左ヱ門が、分かった分かったと眉尻を下げた。
 その言葉に、呼吸を落ち着けて僅かに距離を置く。そんなに熱くなられると思っていなかったと苦笑を浮かべる庄左ヱ門に鼻を鳴らし、さっさと言えと促した。
 従い、口元だけを綻ばせた言葉が紡がれる。
「僕、今日からい組に入るから。昨日の内に安藤先生と厚着先生にも許可は頂いているからそこは心配いらないよ。だから今日からよろしくね、委員長」
 なんの戸惑いもなくつらつらと告げられた重大事項に、またしても彦四郎の思考が一時の停止を強いられ、それに伴って目が見開かれる。理解を拒んで首を傾げよという脳の命令に従い小首を傾げば、有無を言わさぬ笑顔が、よろしくとまた繰り返した。


  ■  □  ■


 朝から三年い組教室は騒々しいざわめきに包まれた。
 それもそのはずだろうと、その騒ぎを尻目に彦四郎は嘆息する。は組とい組は各自それなりに仲がいい友人がいる場合もあるとは言えど、基本的にはライバル関係にある。しかもその総大将とも言える庄左ヱ門が朝一番から教室で出迎え、しかも今になってい組への転入許可を得たという話を聞いては話題を攫うなと言うほうが土台無理な話だった。
 中でも、それぞれは組内に友人を持つ左吉、伝七、一平はより顕著に興味を示す。
「まぁ確かに庄左ヱ門ならい組に入っても授業についていけるとは思うし、正直は組なんかにいるよりは捗るとは思うけどさ。えらく突然じゃないか?」
 彦四郎の隣に座る庄左ヱ門の眼前に頬杖をつき、左吉が眉間を寄せつつ口を開く。その疑問も勿論当然の疑問と受け入れているのか、問われた当人は表情を曇らせることもなくそれを肯定した。
「まぁ唐突だという意見は当然だと思うよ。でも左吉、君もは組に入りたいって相談に来ることが今までに二度三度あったじゃないか。それを僕は相談という過程を経ず、そのまま先生達に打診に行ったまでのことだ。そう考えれば、特におかしなこととは思わないんじゃないかな」
 人当たりのいい笑顔に、しかしどこか刺々しいものを感じ、彦四郎が背けていた顔を戻す。そう言えばこの男が必要以上に笑顔でいる状況などなにか腹持ちならない事態が起こった時くらいしかないのだと思い至り、真っ先に頭に浮かんだ快活な笑顔の主の名前を口に出す。
「……団蔵となにかあったのか?」
「今その名前は聴きたくもないよ」
 それまでの和やかさなど嘘のように、ぴしゃりと撥ね付けた声音がそれ以上の発言を拒む。そのあまりの豹変にかえって確信を得た彦四郎は左吉と顔を見合わせて苦笑を浮かべ、つまりこちらは巻き添えという形なのだと肩を竦めた。
 その流れを受け、今度は伝七が顔を覗かせる。
「でももう少しでうちとは組の対抗実習だろ? 今年はまだ遊びの延長みたいなもんだから実戦演習とは言えないし、こんなことを僕が言うのもなんだけど、……お前がいなくて、あっちは大丈夫なのか?」
 言葉尻で目を泳がせながらの一言に、やはりなんだかんだと言いながらは組を気にしているんだと一平が囃し立てる。そのからかいに顔を真紅に染め、なにを馬鹿なことをと反論しだした伝七へ庄左ヱ門がやはりにこやかに笑みを向けた。
「だからだよ」
 ただ肯定だけの言葉に、食って掛かっていた伝七が一瞬なんに対しての返答か分からず目を瞬く。その隙に庄左ヱ門の前へと回りこんだ一平が、どういうことと目を輝かせた。
 若干近すぎるその距離に、彦四郎が無理矢理割り込む。
「彦四郎、いきなりなんだよ! せっかく話聞いてるのに!」
「一平には悪気はないんだけど、こいつにはあまり近付けたくなくって! ……で、庄左ヱ門。今のはどういう意味だ」
 不貞腐れた顔で文句をぶつけてくる一平に対しては精一杯取り繕った表情を見せ、庄左ヱ門に向き直る際にはそれが仮面だったかのように憮然としたものへと変える。その変化に笑いを禁じえない様子の伝七と左吉に一瞬だけ牙を剥き、彦四郎はわざとらしく咳払った。
 やり取りを見守っていた庄左ヱ門が話を切り出す機会を伺っているのを知り、どうぞと促す。
 それに笑顔を見せ、この三年間同じ委員会で見慣れてしまったどこか本心の見えない唇が開いた。
「そのままの意味だよ。対抗戦があるからこそ、この時期にい組に編入することを決意した。僕が言っていいことじゃないかもしれないけど、い組は教科ではは組を引き離している分、実習では辛酸を舐めさせられ続けている。優秀と言われ、安藤先生の期待も背負っておきながら、もうその予定調和じみた関係性も歯痒い頃だろう? ……そろそろは組をボロボロに負かせてみたくはないか?」
 言葉の最後、邪悪に吊り上げられた唇に思わず引き攣る。これはよほどなにかあったらしいと察した左吉と伝七が目を見合わせると、またしても好奇心に駆られた一平が身を乗り出した。
「ねぇ、庄左ヱ門がそこまで言うなんて、ホントになにがあったのさ」
 仔細を聞き出そうとする言葉に、三人が目を見開いて一平を見る。恐らく確実に内心は苛立っているはずの庄左ヱ門にそれを問えるだけの度胸があるとはと身を強張らせる面々を尻目に、あくまでも問いを受けた本人はにこやかに応える。
 ただし、その満面の笑みとも言える表情が、一平以外にとっては酷く恐ろしいものに見えた。
「うん、僕の策なんて小賢しいものがなくたって、団蔵が指揮を執れば頭でっかちのい組の相手なんてちょろいらしくてね。是非ともそのお手並みを拝見したいんだよ」
 深く息を吐き出しながらの言葉に、一瞬教室全体が静まり返る。直後怒号にも似た大音声が室内を揺るがし、い組教室内は庄左ヱ門を見止めたとき異常の騒然とした空気に包まれた。
 その中でもやはり我らこそがい組の中心とばかりに立ち上がって拳を振り上げてた左吉と伝七が、怒りのあまり顔を笑みに変えて声を荒げていた。
「俺達の相手がちょろいとか、よくも言ったなあの馬鹿!! いいかみんな、今回こそはは組を泣かせるぞ! むしろ主に団蔵を泣かそう!! 泣いて土下座させよう! 六桁の計算を十問、一回も間違えずに解けるようになってから大口叩けって言ってやる!! きり丸に代わってくれて万々歳だ!!」
「そうだ、は組の癖になんて言い様だ!! こっちにはあいつらの頭脳である庄左ヱ門が亡命してるんだ、そう簡単に行かせるわけにはいかない! あとこの機会に兵太夫も泣かそう!! ちょっとアイツ近頃ホントに歯止め利いてないから!!」
「二人とも、最後はちょっとズレてないー? 他のみんなは気にせず怒ってるからいいけどー」
 扇動する二人の脇で笑いながらも周りの雰囲気を楽しんでいる一平に、庄左ヱ門の目元が和らぐ。一平はいい中和役になりそうだねと笑った声に返答せず、彦四郎はただただ猜疑的な眼差しで見据えた。
「……本当だろうな」
「なにが?」
「とぼけるなよ」
 肩を竦める庄左ヱ門に、拳一つ分の距離を縮めて睨みつける。
「お前と団蔵が作戦のことでたびたび衝突してるのは知ってるさ。だけどその話がここまで発展するのか? お前は基本的に、いつだっては組の仲間が最優先だろ。団蔵一人と喧嘩したからって、残る九人までその巻き添えにするような真似をするとは思えない」
 真意を探るように目の奥を覗き込む。髪と同じ枯茶の瞳は揺らぐことなくそれを正面から受けはしても、決して奥深くに立ち入らせない堅牢さを見せて不意に逸らした。
「彦四郎は疑い深いね」
 笑った声音が、視線を伏せる。
「いくら僕がは組を大事にしているとは言っても、今回のはちょっと我慢が聞かなくてね。い組への転入を他のみんなに知られればきっと引き止められると思って、わざわざ早朝に起き出してここでい組の授業を予習していたんだ。とは言ったところで、本当に編入するかどうかはまだ決まってないんだけどさ。とりあえず本当についていけるのか、お試し期間ってところだよ。対抗戦では精々、主観的で抽象的な団蔵の策がどこまでい組に通用するのか見させてもらうよ」
 不敵に笑んだ庄左ヱ門がやがてもう言うこともない様子で立ち上がり、い組の騒ぎの中で便乗する。酷いことを言われたものだと慰める左吉の手に同意しては盛り上がるその姿を一人離れた場所から見守り、彦四郎はやはりまだ納得のいかない様子で眉間を寄せていた。



−−−続.