地下の牢を飛び出してものの数瞬と経たぬ内、前を走る背中が鬼神のようだと恐れにも似た震えが走った。
 この砦が元々腐りかけ、また、朽ちかけていた事も一因とは知りつつも、それでもその認識は揺るがない。小平太の足が床を蹴りつければそれだけで空気までもが震え上がる。まるで自分達を避けるように裂けていく風が鳴る音が、金吾の耳には怯えたか細い悲鳴にも聞こえた。
 刀を手に後ろに続く自分の出番などないように、動揺する男達を問答無用に、その上素手で薙ぎ倒していく。その背中を表現するには、幼い語彙ではそれしか思いつかなかった。
 肘で柱を折り、蹴りで壁を破壊していく。嵐のような怒涛の攻撃に慌てふためく男達は、小平太の姿認識するや否や、七松小平太だと引き攣ったような声を上げた。
 それを見返り、獣のようにぎらついた目が獰猛に笑む。
「そうだ! 忍術学園六年ろ組、七松小平太ここに推参仕った! うちの低学年が一人消えたとの報が入り、調べるうち貴兄らが再興を企んでいること、学園の知るところとなった! 城主の血筋の者を戴くならばまだしも一切関係のない幼子を抱き込もうとするその考え、捨て置くわけにはいかん! その上残念だが、あの子は風魔を導く血筋。否が応にもそちらにやる道理はない!」
 高らかに宣言したその言葉に、慄いたのは周囲にいた男達ばかりではない。風魔の血筋というだけならまだしも後継者を彷彿とさせるような発言に、金吾は目を丸くし、思わずその後ろ髪を軽く引いた。
 くいと顎の上がる感覚に、獰猛さのない見慣れた先達の顔が振り返る。
「どうした金吾」
「そんな嘘、ついちゃっていいんですか?」
 嘘という言葉に、小平太の首が傾ぐ。その仕草にじれったげに数度足踏みし、ですからと背伸びして耳元に口を寄せた。
「喜三太が風魔の後継者だなんて。調べればすぐに嘘だったってバレちゃいますよ」
 万が一にも周囲に聞こえないようにと潜められた声音に、また小平太が反対側へと首を傾ぐ。不可解そうに眉間を寄せてなにやら考え込んでいる表情に、いったいなにをそんなに悩むことがあるのかと金吾もまた眉間を寄せた。
 やがて思い至ったように、あぁと声が漏れる。
「嘘だと思っているのか」
「嘘じゃないですか! 喜三太ですよ!?」
「んー、そうか。お前はそう思ってるんだなぁ」
 困ったように苦い笑みを見せ、小平太の手がくしゃりと頭に置かれる。そのどこか哀れむような動作に不安を煽られ、金吾は言い知れないものを感じてその表情を見上げた。
 そこから目を逸らし、鬼神の唇が笑みを消す。
「私にはな、金吾。風魔の手練の忍と、若くしてその右腕になった者。それに決して幼くは見えないが相手に警戒心を一切抱かせず近付ける者が、いくら繋がりが出来たからと言って何度も畿内へ足を運ぶとはどうしても思えんのだ。……まるで喜三太の様子を伺うように、何度もな」
 どこか遠くを睨み据えるような視線に、思わず背筋を寒いものが走り抜ける。
「七松、せん、ぱ」
 怯えて声を掛けた金吾に、くるりと振り返る。条件反射で怯えたように震えた肩と引き攣った表情は、けれど鬼神のような鬼気迫るものではなく、普段見るくしゃりとした笑みだった。
「さて、ここから先はもう私だけでいいだろう! お前は早く喜三太のところに行ってやれ。待ってくれているんだろう?」
 ほらと背を押す手に戸惑いながら、見返りつつ走り出す。その背中を見送り、小平太は僅かばかり肩の力を抜き、静かに息を吐いた。
「さすがに家老を脅すようなところを見せたくはないしなぁ。……それに、金吾にまだ言わなくてもいいことを言ってしまった。ちょっとでも長く一緒にいさせてやるのは私なりの詫びだ」
 この甘やかしっぷりでは他の奴らのことを言えた義理ではないと哂い、さてあと一暴れしてくるかと牙を剥いた。


   ■   □   ■


 下の階は、もう随分と崩れ落ちていた。上からぱらりと落ちてくる木屑に気付けば、すぐに体を動かさないと腐った梁の下敷きにされる危機感。その真っ只中を走り抜け、金吾はこの砦のどこかで自分を待っているはずの喜三太の姿を探した。
 まさかもうどこかに滑落してしまったか、落ちた梁や天井の下敷きになってしまったのではと怖気が唇を震えさせる。
「喜三太! どこにいる!?」
 張り上げた声が、崩落音に掻き消される。その絶望感がさらに金吾の足を速め、不安で早鐘を鳴らす心臓は潰れてしまうのではないかと思うほどに苦しさを伝えた。
 ただし苦しさから来る酸素不足と逸る感情は、集中力を欠けさせる。
 喜三太の名をもう数えるのも面倒なほど呼び掛けたとき、金吾の足元が腐った床板を踏み抜く。がくりと落ちる視界と思いもしなかった事態に、金吾の思考は一瞬理解を拒絶した。
 酷く遅く感じる一瞬。動かした眼球から入り込む視界は暗く、まるで奈落だと漠然と感じた。木屑と共に落ちていく感覚と奇妙な浮遊感に浮かされ、金吾は諦めたように溜息を吐く。
 その腕を、柔らかな手が縋り付いて引き上げた。
「だめ、金吾!!」
 声に、はたと正気に戻る。浮遊感は止まり、代わり、足元に地面のない不安定さだけが身を襲う。ぶらつく体は振り子のように揺らぎ、それを支えているただ一点を見上げて金吾は目を見開いた。
「喜、三太」
 体中を埃にまみれさせ、歯を食いしばって自分の手を掴んでいる喜三太を見上げる。よほど力を入れているのかその顔は赤く、額には汗が滲んでいた。両手で縋るように掴まれた腕はゆっくりと引かれ、じりじりとその高度を上げる。やがて後ろに倒れ込むようにして、金吾の体を完全に床上に引き上げた。
 息切れを繰り返し、倒れ込んだままの喜三太を覗き込む。
「喜三太、大丈夫?」
 自分がさせてしまったこととはいえ、心配しないわけにはいかない。些か白々しくも思える台詞に嫌気を差しながらも、それでも金吾は本心から心配してその顔を見た。
 途端、伸びた腕がぎゅうと抱きつく。
「きっ、喜三太!?」
 動揺に、思わず腕をばたつかせて事態の把握を図る。しかしそれでも抱きついた腕が解かれることはなく、それどころかより強く絡んだ力に金吾は困惑しきって眉尻を下げた。
「……あ、あの。喜三太……?」
 おろおろと目を泳がせる金吾の耳に、微かに泣き声のような掠れた声音が響く。それに慌てて顔を上げ、もう抱きつく腕を解こうとはせずその顔を改めて覗き込んだ。
 ぐしゃぐしゃに歪んだ顔があられもなく涙を流しているのを見、引き起こして抱き締める。
「……ごめん、心配させちゃったよね」
 謝罪する言葉に、声にならないまま癖の強い髪が何度も頷く。喉が引き攣ったような啜り泣きを数度漏らしながら泣き続ける喜三太の背を静かに撫で下ろしてやりながらまた一度、ごめんと謝罪した。
 不安にさせてしまったことを申し訳なく思うと同時に、心配してくれたことを嬉しく思う自分の感情に後ろめたさを感じる。けれど肩口に広がっていく熱いようで冷たい涙の染みに、目元と口元が和らぐのを止めることは出来なかった。
 不誠実とは知りながら、また強く抱き締める。
 その目の前に、今度は大量の瓦礫が崩れ落ちてきた。
「なんだお前達、まだこんなところにいたのか!」
 ガラガラという音と共に振り落ちてきた声に、慌てて二人の顔が上がる。そこには気を失っている様子の老人を脇に抱えた先達が笑って立ち、崩れる梁などものともしない様子で笑っていた。
 思わず呆然と見上げる二人の様子を改めて見遣り、小平太は気まずげに頬を掻く。
「……あー、なんだ。邪魔をしたのなら悪かったが、しかしここはそろそろ崩れる。さすがに置いて行くのも気が引けるし、一緒に降りてもらうことは可能か?」
 らしくもなく遠慮げな言葉に首を傾ぐと、ようやくになって自分達の状況を省みた金吾が慌てて喜三太から離れる。顔を赤黒く染め上げて違いますと弁解すれば、分かった分かったとからかうような笑みが返った。
「別に否定することはないと思うが、まぁ違うと言うのなら信じてやろう。喜三太、お前も来い。しがみつくのには慣れていないだろうから、こっちの脇に抱えてやろう。金吾、肩車するぞ」
 にぃと笑んだ顔に逆らえるはずもなく、観念して背中からよじ登る。おずおずと髪を掴むと、抜けない程度に力を入れておけとまた笑みが返った。
 その小平太にそろりと近づいた喜三太が不安げに見上げると、有無を言わせず抱え上げる。
「安心しろ喜三太、ここにこうして抱えているものは振り落とさん。だから金吾は気をつけて捕まってるんだぞ。落ちたら探すのが大変だからな!」
「は、はいっ!」
「よし、じゃあ行くぞー! いけいけドンドーぉン!!」
 掛け声と共に、風になる。崩れ落ちる梁や倒れこんでくる柱をすり抜けるよう駆け抜け、時に穴に落ちてもその自由落下を楽しむように豪快に笑い、僅かな足場を見つけては体勢を立て直すその身体能力に、金吾はただ感嘆の声を上げるほかなかった。
 そして、ものの数刹那で外へと飛び出す。まさに身一つで宙に飛び出した体は吹き抜ける風に髪を煽られ、目の前に広がる山中の緑に思わず息を飲んだ。
 着地の衝撃と共に、背後で派手な音が聞こえる。
「うん、いい感じの脱出行程だったな!」
 満足げにそう笑った小平太の言葉に、思わず引き攣る。ずずと音を立てて崩れ落ちる砦はまるで山に飲み込まれるように見え、土煙を上げたそこからは腐った柱がいくつか生えるように露出するのみで、元からなにもなかったかのように文字通り埋葬された。
 呆然としながら、とりあえず肩車から飛び降りる。そして脇に抱えられた喜三太の顔を覗けば、やはり呆然とした様子で砦跡を眺めていた。
 立ち尽くし、同じく跡を見遣る小平太の傍に先ほどの強面の男と、気弱げな男がやってくる。
「……派手だな」
「やっちゃったなぁ……」
「なにを言う、これくらいが丁度いいだろう! 家老も少し脅させてもらった。もう無理に再興を企んだりはせんはずだ。とはいえ、頭がはっきりしてない間に円満退職に持ち込んだほうがいいだろうがな」
 呵々大笑で済ませる姿に、男達と共に金吾も苦い笑みを浮かべる。その男達に気を失っていた老人を押し付け、後は仲間内で相談しろと手を振る。もはや遺恨も未練もない様子で見送る小平太に男達も困ったような笑みを見せ、ただ一言、世話になったと言い残してその場を後にした。
 見えなくなるまで見送り、小平太はやっと思い出したように喜三太を下ろす。
「すまん、忘れていた。苦しくはなかったか?」
「大丈夫です。あの、それよりありがとうございました!」
 勢いよく頭を下げる喜三太に、気にするなとまた笑う。そんな二人を眺めていた金吾に、小平太はさてと呟いて手を繋がせた。
「金吾から受けた喜三太救出の依頼と、喜三太から受けた依頼は済んだ! あとは私も家に帰るだけだ。帰り道は分かるか? ここからなら山を下ればすぐに宿場町だ。山中で夜を過ごすことにはならんだろう。無論、不安ならそこまで送っていくが」
「いえ、それには及びません。ご助力頂いて、本当にありがとうございました! 休み明け、委員会になにかお土産を持って行きます」
「おう! 楽しみにしている!」
 笑って、軽く金吾の肩を引き寄せる。咄嗟のことに面食らった表情を見せた金吾に、小平太は笑みを消し、掠れるほど小さな声で囁いた。
「あの子を守るのは、相当強くならんと難しい。覚悟があるならなにがあってもブレるんじゃないぞ」
 先刻と同じように、時間の先を睨むような視線に息を飲む。その上その言葉の意味をまだ金吾は理解出来ず眉間を寄せたが、それでもただ、唇を噛んで頷いた。
 それを嬉しそうに見、そうかと大きな手が背を叩く。
「それじゃ、暗くならん内に山を降りろ! 私はここで別れだ」
「はい。……って、そういえば七松先輩はなんでこんなところにいらっしゃったんですか?」
「うん? あぁ、なに。休みの間に、いったい何日で陸奥まで行けるかやってみようと思っていてな! 今日がその初日だったんだが気にすることはない。丁度家に忘れ物をしていたからな、どうせ取りに戻らねばならなかったんだ。お前達を助けることになったのも縁というもの。だが、ここから先はあまり物を拾ったりしないように帰れよ」
 からかい言葉にくしゃりと笑い、揃って返事をしてから頭を下げる。何度も見返りながら歩き出すと、早く行けと笑った声が背中を押した。
 はしゃいだ声で軽く笑いながら走り、再度見返ったときにはそこに先達の姿はなかった。
「ね、金吾」
「ん?」
「七松先輩、いい先輩だねぇ。ちょっと怖いのかなぁって思ってたけど、すっごく優しかったよ」
「……うん。優しくって、強くって、かっこいいよ。僕、いつかあんなふうに誰かを守れる人になりたい」
「大丈夫だよ、金吾だったら絶対なれるよ」
 繋いだ手を振り回し、楽しそうに笑う喜三太に照れて笑う。その脳裏に先刻、そして先々刻の言葉が棘のように引っ掛かったが、やはり理解は出来ず、金吾はそれを胸の奥にしまっておくに留めた。
 相模まで後十日余り。その間に答えが出るわけもないが、せめてその間だけでもこの柔らかな手を守らなければと軽く顎を引く。そんな金吾に喜三太はどうしたのと首を傾いで見せ、やはり風魔の後継者などと言われても嘘としか思えない表情で笑いかけた。



−−−了.