――― 想い唄





 山中を歩く耳に、蝉の音がけたたましく鳴り響く。シャワシャワとまるで井戸端で小豆でも洗っているかのようなクマゼミの羽音に、金吾はまだ遠い相模を思って照りつける太陽を見上げた。
 夏休みに入り、まだ二日。珍しく補習授業もなく、また学園長の迷惑な思いつきなどもなかったことで通常通りの休みを確保できたことに奇跡だと感嘆の声を上げたのは遠い過去ではなかった。
 現在は相模への帰省の最中。無論のこと片道十五日の道のりを一人で帰る気にはならず、例のごとく喜三太と連れ立っての道行きになったものの、今現在、傍らにその姿はなかった。
 歩くわけにも行かずぼんやりと道祖神の傍らに腰を下ろしているだけの状態では、何もかもが遠い追憶のように思えて溜息を吐く。
 山林の中に消えて行った喜三太を待ち、既に四半刻が経っていた。
「……甘やかしてるつもりはないんだけど、そろそろ迎えに行ったほうがいいかなぁ」
 待つのも飽きてしまったと頭を掻き、仕方なく立ち上がる。陽はまだ高いと言っても相模まではまだ遠く、山中で夜を迎えるのは危険が多すぎた。
 気に入るナメクジは見つけられたのだろうかと思いつつ、大声で呼び寄せるべく胸一杯に息を吸い込む。
「ただいま、金吾!!」
「うわぁああ!?」
 いざ呼ぼうとした瞬間に、突然背後から抱きつかれて必要以上の大声で驚愕する。それも全ては大声を出す準備をしていたからに他ならないが、あまりにも大きな声で驚かれた喜三太は些か不機嫌そうに眉間を寄せた。
「ちょっと、何もそんなに驚かなくったっていいのに」
 不貞腐れて頬を膨らませる喜三太に、未だ跳ねる心臓をなんとか落ち着けながら金吾は怒ったように反論する。
「今ちょうど喜三太を呼ぼうと思って、いっぱい息を吸い込んでたんだよ。それにそんなこと言うなら、喜三太こそ僕を脅かさないでほしかった! ずーっと待ってたのに、ちょっと驚いたらそういう顔するんだもん」
「……はにゃあ。じゃあ僕が悪かったよ」
 自分よりもはるかに不機嫌そうに顔を顰めて見せた金吾の様子に、普段は我が侭を押し通しがちな喜三太の眉尻が垂れ、反省に曇る。その表情に怒りを和らげ、金吾は喜三太の手を取った。
「いいよ、もう気にしない。それよりナメクジさんはいた?」
 手を繋いで歩みを促しながら尋ねる金吾の言葉に、機嫌を伺うように上目遣いに見ていた喜三太の表情が見る間に華やぐ。
「あのね、ナメクジさんはいなかったんだけどね! いいもの拾ったんだよ!」
「いいもの?」
 首を傾いで見せる金吾の目の前で、顔面を喜色に染めながら喜三太が懐を漁る。それを大人しく待ちながら、もしやまたなにか変なものだろうかと頭の中で覚悟を決めた。
 その眼前に、両手に乗せられた守り袋が突き出される。
「はいっ、お守り! 金吾にあげる!!」
 満面の笑みと共に差し出されたそれに一瞬呆気に取られ、僕にと疑問を投げる。喜三太はその疑問符にも嬉しげに頷いて見せ、守り袋の表に刺繍された文字を指差した。
「武芸上達って書いてあるからね、金吾にあげたらいいなぁって。誰か落として行ったんだろうけど、見つけてもらえずにボロボロになっていくならもらってもいいかなって思って、持ってきちゃった」
「持ってきちゃったって。大事なものが入ってたらどうするんだよ」
「んー、それは思ったんだけどねぇ。でも中に入ってたのはボロッちい紙だけだったし、それもなんか意味がありそうなことは書いてなかったから。だから、武芸上達! 金吾にあげる!!」
 悪びれる様子もなくにこやかに差し出し続ける喜三太の様子に折れ、守り袋を受け取る。着物の端切れで作ったんだろうと思しきそれは前述したように刺繍が施され、その丁寧な刺繍がなぜか違和感を感じさせた。
 ともあれ好意で差し出されるものを無碍に扱う主義ではなく、金吾は複雑ながらもにっこりと笑んで見せた。
「ありがとうね。大事にしまっておくよ」
「うん! 金吾の剣術、もっともっと上達するといいねぇ」
 にこにこと機嫌よく笑いながら、繋いだ手を勢いよく前後に振りはじめる。それを好きなようにさせながら金吾は手の中に握り締めた守り袋をちらりと覗き見、気恥ずかしげにくしゃりと笑んだ。
「でもねー、いると思ったんだよナメクジさん。なのにいなくってねぇ」
「そうだね。きっと陽が照って暑いから、ナメクジさんは湿ったところに隠れちゃったんだよ」
「日陰を探したのにねぇ。ね、みんなも友達が増えなくって残念だよねー」
 心底残念そうに唇を尖らせながら背負ったナメ壷に話しかける喜三太に、ほんの少し苦笑が漏れる。けれどそれももう慣れたものとして受け入れて、金吾は何気なく辺りの景色を見回した。
 その視界の端に、一瞬奔る影が映る。
「っ、!?」
 咄嗟に警戒の態勢を取るも、その影は再度見回したときには既にない。むしろ緊張感に研ぎ澄まされた金吾の様子を訝しがり、喜三太がきょとりと首を傾いだ。
「金吾、どしたの?」
「……今、誰かいたような気がする」
「えー?」
 不審げに見渡し、そこになんの気配もないことからまた反対側へと首を傾ぐ。鹿かなにかじゃないのと零された言葉に同意しながらも、肌にひりひりと感じる嫌な気配に注意深く視線を廻らせた。
 腰に挿した数打ちの刀に手を掛け、喜三太の手をより強く握り締める。
「なんだか嫌な予感がする。走ろう」
 小さく囁かれた声を拒絶することなく、喜三太が砂を蹴る。最初はそれに引かれるように、けれどすぐに追い越して逆に手を引くように力の限り走ると、自分達に併走するような木の葉のざわめきを耳に止めた。
 勘違いでなく自分達が標的と知り、金吾が速度を上げる。
「喜三太、もうちょっと早く!」
「は、にゃっ! そんなの無理ぃいいい!」
 そもそも全力疾走する機会の少ないは組の中で、喜三太は決して足が速い部類とは言い難い。その喜三太が所属委員会の関係上仕方がないこととはいえ、持久力と脚力がつきつつある金吾に追い縋るには現状ですら足が縺れんばかりだった。
 次第に繋いだ手ばかりが先行し、結果、喜三太は砂利道で派手に転倒することとなる。
「喜三太!」
 転んだ拍子に解けた手が、金吾を数歩離れた場所まで行き過ぎさせる。砂利に足を取られながらも慌てて踵を返し、駆け戻ろうとした目の前で喜三太の体がふわりと浮き上がった。
 現実感のない情景に、二人は不思議そうに目を瞬く。
 見上げれば、黒鳶色の装束を纏った忍が喜三太を小脇に抱え上げていた。
「悪いな小僧、友達を少し借りるぞ」
 覆面の下から低い声が漏れ落ち、それだけ言い置いて山中へと姿を消す。喜三太の困惑した声が聞こえ、半ば呆然とそれを見送った金吾は相手が消えてから顔面を白く変えた。
 喜三太と呟き、姿を消した方角へ向かい走り出す。
「喜三太、喜三太っ! 喜三太、どこ!?」
 走りながら名を呼び、震える足を戒めて辺りを探る。陽は高く、蝉の鳴く音は鼓膜を揺らし、微かに耳に届いた喜三太の悲鳴を掻き消していった。
 酷く暑いはずの温度すら感知出来ないかのように、頬には冷や汗が張り付く。
 不安に跳ねる心臓の音は先刻喜三太に脅かされたときの比ではなく、足の震えに拍車をかける。見回した山中はどこも同じように木々が生い茂り、もはや本当にこの方向に相手が去ったかも分からなくなってしまった状況に、金吾は絶望感で目を潤ませた。
 それでも光があるならばまだ探索は可能だと唇を噛み、拳を握って足を踏み出す。
「喜三太ぁ!」
 叫びにも似た声が山中に木霊する。返事はなく、ただ蝉の音と風の抜ける音だけが静寂を演出した。否が応にも、それが無力感と孤独感を煽り続ける。
 本格的に泣き出しそうになる瞬間、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「っ、喜三太!?」
「違う、こっちだ!」
 振り向くとほぼ同時に、反対方向に首を曲げられる。顎と頭頂を抑えられ無理矢理に振り向かされる行為に確実に覚えはあっても、予期すらしていない思考は混乱を訴えてグラグラと頭を揺らした。
 混濁する思考の間にも乱暴に頭を撫でてくる大きな手の平に、やがて焦点の合った目線が一人の人物を捕らえた。
「な、七松小平太先輩……!」
「なんだ、随分と他人行儀な呼び方をするじゃないか金吾! それにまた泣きべそでも掻いていたような顔だ」
 屈託なく輝かしい笑顔を見せる所属委員会の長の表情に、また金吾の表情が呆然としたものに変わる。それを不思議そうに見遣る小平太が首を傾ぐと、緊張の糸が切れたらしいその体はぺたりとその場に座り込んだ。
 表情を崩さないまま静かに流れ出した涙に小平太の腕が脇に回り、慌てたように抱き上げられる。
「おい、どうした金吾。物も言わずに泣いていては、私にはなにがなんだか分からないじゃないか」
 顔を覗かれ、些か狼狽した様子で眉間を寄せての言葉に唇を噛み締める。その様子にいよいよ困った事態になったことを察し、小平太は頭を掻いてその場にしゃがみこんだ。
「三度ほど深呼吸してみろ。その後、私の持っている竹筒の水を少し飲め。それで随分落ち着くはずだ。出来るな?」
 問いかけに静かに頷くと、安堵の息と共にくしゃりと頭を撫でられる。よく知ったその大きな手の温もりに鼻を啜れば、それでこそ体育委員だと笑う声が耳に入った。
 言葉に従い三度の深呼吸の後、差し出された竹筒に口をつける。たったそれだけで本当に随分と落ち着きを取り戻した心臓や思考に素直に驚き、改めて向き直って頭を下げた。
「……すみません。ありがとうございました」
「細かいことは気にするな! それよりどうした。確か休みの間は友達と相模へ帰省すると言っていなかったか?」
 地面に胡坐を掻き、腕を組んで自分を見るその目に言葉が詰まる。休みであるからにはそれぞれに予定があることは判然としており、それでなくても普段から自学級は面倒ごとを引っ張り込む天才だと思われているのは自覚済みだった。
 けれど口元に笑みさえ浮かべて自分を見つめてくるその目を見返し、金吾は震えた唇で居住まいを正した。
「七松先輩」
「うん?」
 見慣れた、どこか自信に溢れたその笑顔を前に、ゆっくりと頭を下げる。
「断って頂いても構いません。でも、お願いします。お力をお貸しください」
 祈るような心持で口に出した言葉は、地に下ろした指先を震わせる。自分の力無さを自覚し、助力を請える誰かにそれを願うことは決して恥ではないと胸の内で繰り返し、金吾は返答を待った。
 その耳に、ふむと機嫌よさげな声が入る。
「うん、いいぞ!」
 一も二も無く、それどころか事の詳細も聞こうともしないまま快諾する笑顔に金吾が勢いよく顔を上げる。その驚きの表情に心外だと快活に笑い、小平太はまた乱暴に頭を撫でた。
「可愛い後輩の頼みを聞けないほど器の小さい男じゃないぞ。たとえ無茶だろうがなんだろうが、お前が私を頼ったのなら手を貸すとも。で、金吾。どこの城を攻めるんだ?」
 あくまでも太陽のような笑みを絶やさぬまま首を傾いだ言葉に、いえそこまではと引き攣った苦笑を返す。けれど自分一人で行動を起こすよりは随分と心強くなったことに深く息を吐き、金吾は小さく喜三太の名を呼んで拳を握り締めた。



−−−続.