その日は蒸し蒸しと暑いものの、よく風の通るすごしやすい夜だった。
 人目を忍んで山中に建っている学園だけあって、カエルや虫の声もうるさいほどに響きわたる。そのぶん遠い街の灯はキラキラと魅惑的に輝き、迫りくる夏休みへの思いを否応なしに掻き立ててくれた。
 その灯火に改めて作戦の成功を決意し、十の影が思い思いの場所で身を落ち着け、部屋主の片割れである学級委員長、もとい、ここに至ってはもはや指揮官と呼ぶべき人物へと視線を向ける。
 ホワイトボードの前に立つその表情は策の順調さを告げるようににこやかで、なんの危うさも感じさせない。だからこそ十人はどんな叱責を受けようと、また、他者から哀れみの目を向けられようと素知らぬ顔を決め込んで毎度安心して身の振り方や自身の処遇を任せることができるのだと目を輝かせた。
 やがて、これまでわざと失敗に終わらせた策をすべて白板に書き出し、庄左ヱ門はまずは一週間お疲れ様と労りの言葉をかけた。
「この一週間、みんなには様々な方法で策に参加してもらった。斬り込み役になってもらったきり丸を始め、喜三太、兵太夫、団蔵、しんべヱ、そして僕自身。当初の作戦通りすべて滞りなく実行し、そして見事失敗を重ねてくれた。肩身の狭い思いもたくさんさせてしまったけれど、それも今日でおしまいだ。明日の夜、予定通り決行する。そのためにも勉強会と称した作戦会議は今回で終了し、明日は怪しまれないよう、各自決行まではフリでなく、本気で机にかじりついて勉強してほしい。あぁ、勉強が辛くて半泣きになるのも有効だね。もっとも、これは言わなくてもみんな自然となるような気はするんだけど」
 ふふと楽しげに肩を揺らす庄左ヱ門に、自分達もその予感がしているのかうんざりと顔を曇らせる。しかしそれもより確実性を高めるためと割り切り、それぞれが互いを勇気づけるように肩を叩き合った。
 そんな姿を流し見、指揮官はホワイトボードにペンを走らせる。
「きり丸が最初に偵察してくれたとおり、先生方は最初から僕らがテスト問題を狙っていると想定して警戒していた。そのためそれを逆手に取り、あえてかなり雑な作戦ばかりを複数けしかけ、先生の苛立ちを煽り、その裏で本来の策のための準備を進めたわけだ。最初に職員室を襲ったナメクジ事件、あれでずいぶん楽にテスト問題の保管場所の見当がつけられた。感謝するよ」
 庄左ヱ門の言葉とともに全員が喜三太を見、よくやったと声を上げて手を叩く。思わぬ拍手の波に照れ笑いをしてみせるナメクジ使いに、指揮官はお世辞じゃないからねと茶化すように片目を瞑った。
「喜三太の役目は職員室内に埃でカモフラージュした小型カメラを取り付けることだった。僕達じゃ職員室内に入ることすら難しいけど、その点、ナメクジを使える喜三太がいてくれるのは本当に助かったよ。ナメクジをペットにしているのは中等部のみならず学園中に知れ渡っているし、触るのは気持ち悪いけど飼っているとなると殺虫剤なんかで処分するわけにもいかない。結果、喜三太は先生公認で唯一内部に入り込めたってわけだ。その上どこにでも這い上れるナメクジは、小型カメラを設置するのに最適な場所にいても怪しまれない。たとえ実際にはいなかったとしても、いる可能性は払拭できないからね。しかも先生に台を務めてもらえれば目に付く危険もない。素晴らしい功績だ」
 再度讃え、喜三太のこなした策の部分に赤丸、そしてカメラ済と書き込む。
「そして次に兵太夫」
 出された名に、胸を張るシステム技師が一人。
「こちらも兵太夫でなければこなせない策だった。土日、吉野先生がシステムの巡回をなさる時間を狙っての強行アクセス。もちろん表向きはテスト問題データの奪取だからハードディスクのコピーを試みてファイアウォールの突破を派手にしてもらった。けれどそちらもフェイク。ファイアウォールへのアタックは兵太夫自作の自己学習演算スクリプトで吉野先生の防御攻撃ソースを解析後、毎回二、三行の有効プログラムを書き加えることで自動的に攻撃してもらったんだ。その裏で兵太夫本人は監視カメラの制御システムにアクセス。二日間かけて怪しまれない速度で支配権を奪い、決行時までは本来のシステムを実行し続け、作戦実行中は監視カメラは兵太夫の制御下に入る。このとき喜三太の仕掛けたカメラも含めて僕らの目になってもらうから、万一先生達が見に来てもすぐに撤退などの対処がとれる。ほとんど兵太夫任せになってしまってるけど、誰も不安を覚えていないあたりがその実力を示してるよね」
 さすがは将来ウィザードを目指すだけのことはあるとの言葉に、兵太夫の顔がにんまりと笑みに歪む。あからさまな褒め言葉でも悪意を感じないことが優越感を掻き立てるのか、まんざらでもない様子で胸を張るその姿に誰もが控えめな拍手を送った。
 その隙にホワイトボードにはまた、システム済の文字が書き加えられる。
「で、次が団蔵だ。団蔵には当日忍び込むための穴をあけてもらった。もちろん職員室の窓ガラスのことだね。狙い通りガラス換えは間に合っていない。ガラス屋さんにも都合というものがあるからね。あの大きさのガラスなら、そうそう取り替えなんてしてもらえるもんじゃない。あればかりは先生達でもどうにもできないらしく、ガムテープで応急処置されている状況だ。赤外線での防犯程度はされている可能性があるけど、それもかわすのは難しいことじゃない。これで侵入口は確保された」
 今度は侵入口済と手早くペンを走らせ、ホワイトボードに向かったまま口を開く。
「で、しんべヱによる小松田さんの勤務予定の確認だ。いくら進入口を確保したと言っても、あの人をどうにかしないとテスト問題の奪取はおろか、人のいない校舎への侵入だってまず無理だからね。そこで世間話をしつつ、テスト期間は忙しくなるはずだから直前の土日くらい実家に戻ってゆっくりしてきたらいいと勧めてもらった。その甲斐あって、小松田さんは今日の夜から実家にお戻りになっている。これで侵入経路に立ち塞がる傷害は、警備役の犬達のみ。でもこれも普段から生物委員会で世話している子達だからね。経験者の虎若、三治郎、喜三太、団蔵、伊助の手を借りれば造作もないはずだ」
 侵入経路済の文字を踊らせ、さてと肩を鳴らす。一気に説明を繰り出したためか些か疲れた顔を見せた庄左ヱ門に、近くにいた伊助が心配そうに眉間を寄せた。
 その仕草に気付いたのか、学級委員長はすぐさま背筋を伸ばし、大丈夫だよと破顔する。
「このところ作戦の経過に気を遣りすぎて、ちょっと寝不足でね。明日に備えて今日はゆっくり寝るつもりだから大丈夫だよ伊助。ちょっと早いけどみんなにも言っとくね。今日はみんな勉強はしっかりしてもらうけど、きちんと睡眠もとるように!」
「言われなくても、勉強しようとした時点で眠くなると思うけどなー」
 相変わらずいらぬ一言を口にするきり丸の太股を、乱太郎が一瞥もしないまま強く抓りあげる。その痛みに思わず大声を上げて飛び上がった敏腕アルバイターを宥めるようにぽんぽんと叩き、しんべヱが静かに沈黙を促した。
 親友二人に諭されては聞かぬ訳にいかないのか、ぶつぶつと唇を尖らせながらもきり丸がおとなしく肩身を狭める。それを肩を揺らして見遣ったあと、庄左ヱ門は短く息を吐いた。
「で、昨日僕がこなしてきたのが職員室の床……というよりも、土井先生の机近くの床に二つの印を付けてきたことだ。より分かりやすい目印を付けたことで、保管場所の目途をつけやすく、そして伝えやすいようにしてきた。まぁ大事をとっての準備だったから、そう難しいことをしていないのが恥ずかしいところなんだけどね」
 ぺろりと舌を出し、自嘲に肩をすくめる。しかし誰も揶揄することなく、むしろそれもやはり重要な任務だったのだと認識している様子で自分を見つめる十対の目を、庄左ヱ門はくすぐったそうに見返した。
「そして前準備で一番大切な今日! 再度喜三太としんべヱに一働きしてもらった。この策の立案時、すぐさま三治郎に走ってもらった連絡先……つまりオーマガトキ薬品の使者が来た件だ。もちろんあちらのお二方は僕らの策など知る由もない。だって」
「タソガレドキ製薬社長の名前と声でオーマガトキの社長に電話して、そっちの諜報部の実力を試験するために諜報学園のテストをもらってきたらどうだって持ちかけたんだもんねー」
 庄左ヱ門の言葉を遮り、さもおかしそうな声を上げて三治郎がベッドに転がる。少々不真面目なその姿を咎めるでもなく笑って同意した面々に、その通りと級長も続いた。
「簡易ボイスチェンジャーを使ってタソガレドキの社長になりすまし、オーマガトキの社長に話を持ちかけてもらった。オーマガトキはタソガレドキに買収されたからね。社長からの指示とあれば、そうそう断るわけにはいかないさ。それに諜報部のお二方が来園なさるのも今日だとおよそ見当をつけていた。後付けで創設された部署とは言っても、普段はほかの部署や元の部署の手伝いに駆り出されている身だから、なかなか社外への外出機会は得られない。だけど金曜日ともなると、週末を前にみんな肩の力が抜けるからね。よほど急ぎの仕事でもなければ、手伝いの人材はお役御免になる」
 にっこりと笑み、一息ついてまた口を開く。
「そして思惑通りの来園だ。事前に示し合わせた通り、門を常に気にかけてくれていた喜三太がすぐさまお二方を応対してお茶をたくさん振る舞ってくれた。喜三太が来客にお茶を出すという習慣は学園内で知られてるところだからね、なんら不自然はない。ちょっとばかりその量が多かったとしても誰も気に留めることはないだろうし、そしてこの暑さだ。冷たいお茶を出されたら、誰だって一気に飲み干してしまうだろう。利尿効果の強い健康食品を混入していても、多少の味の差なんて暑い太陽の下では気にもならない。貝原さんの方により多くお茶を注いで、さらにお代わりも薦めてもらったから、当然トイレが近くなって一時戦線離脱だ。そこで一緒に入ったしんべヱが言葉巧みに食堂に誘い、おばちゃんのおいしいデザートを食べてらっしゃる隙にしんべヱが変装。貝原さんとして無事侵入できた。おかげで保管場所はしっかりとしんべヱが確認することができたし、兵太夫がカメラ映像を録画もしてくれてもいる。お二方は互いの話の噛み合わなさに少々首を傾げるだろうけど、無事にお使いを遣り遂げたことのほうに重きを置くだろうからわざわざ確認には来ない。これで、すべて準備は整った」
 言い終わり、やれやれとその場に腰を下ろす。ひとまず事前準備の成立に安堵したのか疲れを見せるその背中に、伊助と乱太郎が目配せした。
 持参していた保健印の手提げ袋からそろりと密封された湿布薬を取り出し、そろそろと背後に這い寄る。そんな乱太郎を面白そうに見て、庄左ヱ門以外の面々はわざとチラチラと視線をそらした。
 しかし保健委員会をもってして強力と言わせしめる湿布薬の臭いに、級長が気付かぬはずもなく。
「乱太郎。いくら老成していると言われる僕でも本当のおじさんじゃないんだから。まだそれのお世話にはならないよ」
 茶化す声色に、やっぱりバレるかと舌を打つ。
「だって庄左ヱ門、近頃本気で肩凝りがひどくなってそうだったからさぁ」
「だからってそれはなー。先生方が貼ってらしてもそれと分かるほど臭いがキツいし、なにより肩凝りで湿布を貼るだなんて、それこそ三十ほども歳をとった気になりそうなんだよ」
 苦々しく顔を歪め、ありがたいんだけどと言いながらも丁寧に辞退する仕草に、仕方ないかと渋々袋に戻す。だが話の腰が一度折れたことで発言しやすくなったのか、次いで団蔵が声を投げた。
「でもさ、ホントなんでオーマガトキの二人から問題とっちゃわなかったんだ? そっちの方が絶対楽だろ?」
 言葉に、数人が同意見の様子で頷く。やはりこれも説明がいるかなと首を傾げば、是非にと声が揃った。
 ならばと再度立ち上がり、級長は音を立てて手を打つ。
「まず早急にテスト問題の奪取をしなかったのは、より確実に手に入れるためと、もう一つ。僕らの手中に入ったと知られた場合、問題を作り直されるリスクを減らす為だ。それをやられたら、いくら試験当日に準備をしていっても意味がない。むしろ全員が零点をとる可能性すら濃厚だ。今回オーマガトキのお二方を利用しておきながら、そこから問題を奪わなかった理由も同様だよ。あのお二方は諜報に携わって日が浅い。そしてはっきり言うのも戸惑われるほどに、その。……迂闊だ。そしてスパイとしての意地やプライドも持ち合わせてはいらっしゃらない。だからせっかく手に入れたのに奪われた、または、コピーを頼まれた、なんて話をあちらの上司どころか、こっちの先生にも言う可能性は高いだろ? そうなると、さっきの懸念が現実のものとなってしまう。だったら少々回りくどいが、堅実に自分達で手に入れた方がバレる確率は低いんだ。……こんな説明でどうだろう?」
 両手の平を上に向け、おどけるように肩を竦めて全員に問う。そこに至ってようやく納得いった様子の十人に、よしとさわやかな笑顔が返答した。
「明日の予定は分かってるね? 役目を振られていない者はそれぞれ自室で勉強を続け、たまに部屋を行き来したりして先生達の目を引きつけておく。その隙に乱太郎と金吾が、兵太夫のナビで職員室に侵入だ。少々騒動もあるかもしれないけれど、慌てず騒がず、本来の任務を実行してほしい。さて、明日に向けてなにか質問は?」
 くるりと見渡しても、誰一人手は挙げない。それを満足げに見遣り、今度こそ庄左ヱ門は大きな息を吐いた。
「じゃ、今日はもう解散しようか。順調に進んでくれてることで少し気が抜けちゃったらしくて、もう眠くて眠くて……。明日はしっかりやるから、頼むよ」
 それまで睡魔を感じさせなかった精悍な顔つきが一変し、くあと大きなあくびをこぼす。それを了解と笑って受け流し、それぞれが翌日の健闘を祈って手を振った。
 汗ばむ、蒸し暑い夏の夜。十一人はそれぞれに翌日を思い、暑さからくるものとは違う汗を手の中に握りしめた。


  ■  □  ■


 さやさやと植え込みが囁き合う。陽も落ちて久しい午後十時。じっとりと汗の滲む、そんな夜だった。
 替え玉のマネキンを自室に置き、不在中のアリバイ工作は在寮する仲間にすべてを任せる。仮にそちらからバレたとしてもどうにでも誤魔化してくれるはずと全幅の信頼を預け、乱太郎、そして護衛役の金吾は校舎側へと足を忍ばせていた。
 想定通り、校舎の周りには警備用に飼育されている犬達が放たれている。二人から離れた場所に生物委員経験者達が待機しているとは言ってもそれなりに獰猛な犬種と分かっている以上軽率に飛び出せるわけもなく、乱太郎は襟元につけた小型マイクに唇を寄せた。
「私達は配置についた。いつでも行けるよ」
――了解。犬班も準備済みだけど、もうちょっと待って
 代わり、耳にかけたインカムから兵太夫の声が聞こえる。
 監視カメラを制御下に置いていると言っても、フェイク映像への切り替えが不自然では意味がない。
 人の多い昼間ほど難しくはないものの、それでも犬達がうろついている場面が途切れる一瞬を狙っての作業は集中力を要するらしかった。
 やがて、インカムから長い溜め息が聞こえる。
――全カメラフェイク画像に切り替え完了。まずは犬班、よろしく
 その一言に、闇が動く。
 すすとグラウンドを滑るように動くその影に犬達が機敏な反応を示し、低い唸り声を響かせて散っていく。臨戦態勢と言うべきその牙の剥きように、いくら世話人を務める生物委員会経験者ばかりと言えども不安を感じざるを得ず、乱太郎と金吾は息を呑んで各自の配置場所に目を凝らした。
 そんな懸念を知らず、犬達の向かった先々で彼らを可愛がる声が聞こえてくる。
「よーしよしよし、いい子だねー。悪い人がこないか、ちゃんとお仕事してるんだねー!」
「今日もあっついからなー。スタミナ切れちゃ意味ないし、ジャーキー持ってきてやったからなー!」
「ここじゃゆっくり食べられないだろうから、水飲み場までおいで。ほんの十分程度なら、侵入者なんてこないよ」
「ほら、一緒に行こうー」
「お前達だっていつも頑張ってくれてんだから、たまには差し入れくらい持ってきてやらないといけないよなー」
 犬を相手に言葉巧みにというのもおかしな話だが、それでも普段委員会で接しているように、まるで飼い主然として優しく話しかけていく。
 ここで物静かに好物だけを振る舞うような真似をすると不自然さに犬達が警戒し、それこそ不審者と判断されかねないと経験者達は語っていた。
 そしてその言葉通り、いつもの世話役達が気の利いた差し入れを持ってきてくれたと考えたのか、ほとんどの犬が抑えきれない高揚感に尾を振り、嬉しそうに後を追って駆けていったのを確認して胸を撫で下ろす。
「セーフ」
「第一関門突破だな」
 ちらりと後ろを見返って人差し指で先を促してくる三治郎に軽く手を挙げ、木の陰を走る。
 カメラは掌握済み、犬も退け、唯一の脅威である事務員も不在となれば、校舎側へと侵入する事は容易かった。
 程なくしてガムテープ補修の目立つ不格好なガラスの脇に到着すると、乱太郎は再度襟を唇に近付ける。
「兵太夫、職員室前に到着。室内の防犯状況は?」
――その破れ窓の近くに赤外線センサーが三基。型番から言って反射型だね。二人とも黒服で行ってるだろ? ならほとんど問題ないよ。頭隠すマスクと手袋持ってる? 黒のヤツがいいんだけど
「持ってる。基本だしな」
――オッケー。んなら右下のガムテープ貼がしてガラス片はずしてから鍵開けて。そこが一番大きい破片ばかりで塞がれてる。でも落とさないように気をつけろよ。あと切っ先で怪我して、血痕とか残さないようにな
「はいはい」
 金吾に対し軽薄な口調で指示を出してくる兵太夫に、後方支援担当は随分簡単に言ってくれると愚痴を呟く。それを笑って諫め、乱太郎は腰後ろのポーチから耐震用の小さなジェルパッドと大きめの吸盤を取り出した。
 指示されたガムテープに接しているガラス片に、ジェルパッドをペタペタと張り付けていく。その上から吸盤を押しつけ、強く引いても取れないを確認すると、金吾がそっとガムテープに指をかけた。
 ちりちりと甲高い音を立てて、ゆっくりと剥がされていく。緊張のためかやけに大音量に聞こえるその音に冷や汗を浮かべ、乱太郎の目が忙しなく周囲を警戒する。
やがてかちりとガラスの擦れる音と共に吐かれた大きな溜め息に振り向けば、見事ガラスを外した金吾がゆっくりとサッシの鍵を開けるところだった。
 しゃこんと高く低く響く音を立て、鍵が跳ね上がる。ようやく室内に入れる安堵感とさらなる緊張に拳を握りしめ、二人は素早く窓を越えた。
 そのまま土井の卓前に至り、視線を走らせる。
「……目印……、あった。兵太夫、私達が見えてる?」
――もちろん、ばっちり。カメラの情報としんべヱの情報を合わせると、テスト問題はそこから左に行った突き当たり……そう、そのロッカー。その右側三段目に入ってるはずだ
「了解」
 明確な指示に、そっとロッカーに手をかける。しかし当然のことながらそこは鍵がかけられ、引いた程度ではびくともしなかった。
「さすが、用心深い」
「まったくだ」
 言いながらも、焦る様子は微塵もない。ポケットの中から小石大のパテを取り出すと手のひらで揉むように捏ね、パン生地のように柔らかくしていく。
それを鍵穴に押し込み続け、やがて入りきらずパテが押し戻されるようになると、二人は携帯用の小型扇風機のスイッチを入れた。
 見る間に、柔らかそうだったパテが硬化していく。指の形にへこんだ余剰部分がプラスチック性の光沢を見せ始めると、乱太郎はカチカチと爪で硬さを確かめた。
 しっかりと握り、くるりと回す。扉の奥でなにかが外れる音が響くと、二人は思わず顔を見合わせ、嬉しそうに肩を揺らした。
 静かに開き、ペンライトで中を窺う。中には確かに全学年分のテスト問題が保管されており、生徒としては当然縁遠いその光景に、乱太郎は大きく息を吸い込み、興奮に胸を高鳴らせた。
「……三段目、これだね」
 逸る気持ちを押さえ込み、震える指で指示場所の問題を手に取る。それには確かに今年度の表記と中学三年生用という文字が明記され、出題範囲や傾向から言っても間違いなく乱太郎達が受ける予定のテスト問題だった。
 深呼吸を二度繰り返し、気を落ち着ける。
「国語、数学、理科、社会、英語、家庭、保体、美術、それと情報、火薬、諜報。……うん、これで全部だな」
「じゃあ犬達が戻らないうちに、さっさと退散を――」
 そこまで言ったときだった。
 突如として学園中にサイレンが響き渡る。
 当然乱太郎と金吾の心臓と肩は跳ね、もしや自分達がミスでも犯したかと血の気が引いていく音を聞いた。
 しかしすぐさま、それを否定する兵太夫からの連絡が入る。
――みんな、今すぐに撤収。ガチの侵入者だ。先生達も来るだろうし、高等部の先輩方も侵入者の撃退に来る可能性が高い。騒動大好きな僕らが出向かないのも不自然だ。在寮組も今からそっちに向かう。順次監視カメラの映像を本来のものに切り替えるから、うまく騒動に紛れて。
 鋭い声音に、冷たい不安が背筋を駆け上る。テスト問題を乱暴に上着に隠し、慌ててロッカーを閉めて即席の鍵をズボンに押し込んだ。
 外からは、すでに怒り狂った犬達が誰かに吠えたてる声が聞こえる。
「先に行け乱太郎。僕はガラスを戻してから追いかける」
「でもそれじゃ金吾が先生達に……!」
「いざとなったら逃げるよ。でも乱太郎が逃げないと今回の作戦自体が水の泡になるし、もしうまく隠し通せるようなら、僕らが侵入した形跡は残さない方がいいに決まってる。そうだろ?」
「っ、金吾!」
 話しながら、乱太郎を窓から押し出す。
「早く。僕らの夏休み、乱太郎に任せるぞ」
「――っ、うん!」
 ひらりと手を振る金吾を振り切り、植え込みの陰を走り隠れる。騒ぎはますます大きくなり、高等部三年のガンマニアが模擬戦用の銃弾を発砲しているのすら目に入った。
 どこの誰だか知らないが外部からこの学園に侵入するなど愚かなことをと、哀れみにも似た感情が苦笑を浮かべさせる。
 その視界に、大きな悲鳴を上げながら走っていく人影が映り込んだ。
 面長な輪郭と、少ししゃくれた顎。そしてなにより夜だというのにかけられたままのサングラスに、乱太郎はあぁと顔を引きつらせた。
「ドクタケの風鬼……。よりによって生徒みんながピリピリしてるこんな時期に来なくても……」
 思わず合掌し、無事の帰還を祈る。いかに敵対視されている組織の人間とはいえど、友人の父親が怪我をしてしまう事態は避けたい。
 人数はますます増え、風鬼を追いかけている面々は高等部の先達や教師のみに留まらない。なにを探りにきたのかは知らないが、このままでは時を置かず白状させられることになると頬を掻いた。
「乱太郎」
 その背後から――
 遠慮ない声量で名を呼ばれ、どきりと心臓が跳ねる。しかし振り向けばそこにいるのはにこやかな学級委員長ほか見慣れた三組の面々ばかりで、乱太郎はへなへなと肩を落とした。
「庄左ヱ門……ビックリさせないでよ。心臓が止まるかと思った」
「ごめんごめん、驚かせるつもりはなかったんだよ。任務は?」
「もちろん、無事に」
 そう言って、服の中に忍ばせた紙の束をちらりと見せる。それを満足そうに見遣り、級長はお疲れ様と肩を叩いた。
「首尾よく事が済んでなによりだった。兵太夫、残った金吾の現状は?」
「さっきガラスの復旧作業をあらかた済ませて、もう職員室を離れてる。どうにか他の生徒や先生方には見つかってないよ。今頃はどこかの木の陰かな」
 スマートフォンでも映像を確認し続けていたらしい兵太夫は、それだけ告げると安堵した表情でポケットの中に端末を押し込む。突然の事態に一番冷や汗を滲ませていたらしいその様子に、お疲れ様と三治郎が頭を撫でた。
「そう。金吾も無事ならなによりの報告だ。ありがとう兵太夫。――いやぁ、正直失敗したかなと思っててね。風鬼をけしかけることに成功したときに、ちゃんと策を組み直して、護衛役の金吾の位置に用具委員経験者を配置すればもっと早く撤収できたはずなんだけど……今日の昼間、そこまで考えが及ばなくて。申し訳ない!」
 音を立てて手を合わせ、謝罪の言葉を口にした庄左ヱ門に、たまにはそんなこともあるさと誰もが口を合わせて許容する。しかしその言葉の不自然さに最初に伊助が首を傾ぎ、それを相談する密やかな囁きに、ようやく気付いた九人が怪訝に眉間を寄せた。
 くるりと疑わしげに庄左ヱ門を見返り、えぇとときり丸が引きつった声を漏らす。
「……風鬼をけしかけたって……お前が?」
 言葉に、ぺろりと舌が出る。
「もう少し目眩ましが必要なんじゃないかと、ずっと考えていてね。今日の朝になっても良い案が浮かばなかったから、もうそのままいこうかとも思ってたんだ。だけど街に買い物に行ったとき、偶然風鬼に会ってさ。あ、これ使える! って」
「使えるってお前なぁ!」
「なに言ったのさ、かわいそうに」
 団蔵に続き、喜三太までが同情を禁じ得ない様子で口元を歪める。責めている様子ではないものの明らかに隠れ蓑として動かされた風鬼を慮かる級友達に、庄左ヱ門はバツが悪そうに視線を泳がせた。
「あー……いや、ほら。風鬼が普段からふぶ鬼の成績を気にしてるのはみんなも知ってるだろ? 街の塾に通わせるか悩んだり、利吉さんに家庭教師になってもらえないか打診したり。そこをね、ちょっと、その。つっついたと言うか」
 しどろもどろと言葉を濁す姿に、さては事前の出題傾向対策として試験問題の持ち出しをそれとなく唆したなと察し、揃って深く溜め息を吐く。
「申し訳ない……」
「うちの級長が思いついちゃったばっかりに怪我なんてさせてたらなおのこと申し訳ない……」
「なんか、学園長に似てきちゃってて本当に申し訳ない……」
「ちょっとみんな、そこまで言うの」
 仏壇に手を合わせるように、風鬼の逃げ去っていった方角に向かう級友達に、さしもの庄左ヱ門も苦笑を浮かべる。思いついたのは今回限りなのにと僅かに唇を尖らせるも、その単語を出してしまった以上、似てきたと言われても仕方がないかと思い直した。
 そんな十人の後ろから、侵入者が無事に逃げおおせた事を確認してきたらしい金吾が少し疲れた様子で合流を果たす。
「侵入者、風鬼だったみたいだな。先輩達に散々追い回された後、どうにか逃げてった。……って、みんなどうした?」
 不穏な空気を感じたのか少々引いた様子の問いかけに、誰もが庄左ヱ門を指さして無言を貫く。しかしそれだけで真相の概要を察したのか、剣道とナイフ術に長けた少年剣士はあぁと残念そうな表情を浮かべ、やはり風鬼の逃げ去った方角へと手を合わせた。



−−−続.