翌日の昼休み、職員室前では呆れ果てたような説教の声が響いていた。
 室内に入るでもなく廊下で繰り広げられる光景を、通り過ぎる生徒達が物珍しそうにチラチラと眺め見ていく。
 それを説教されている側――きり丸は非常に居心地悪そうに気にする素振りを見せ、僅かに唇を尖らせたまま眉尻を下げた。
「あのー、土井先生? いくらなんでもここで説教ってのはちょっと……。せめて職員室の中でしましょうよ。そしたらそのお説教、ありがたぁーく聞かせてもらいますからぁ」
 しかしその進言は、出席簿の一撃とともに却下される。
「イッテぇ!!」
「アホ、テスト前のこの時期に職員室になんて入れられるか! どうせお前達のことだ。勉強なんて無理とハナから諦めて、テスト問題を盗み見ようとでも思ってるんだろうがそうはいかないからな。分かったらおとなしく勉強を……って、今はその説教じゃなかったか……。じゃあ改めて、きり丸! 学校内でバイトするんじゃないと何度も何度も言わせるな! ったく、購買に行くのを面倒くさがって手数料百円で買い物を頼む奴らも奴らだが……」
 痛む胃を押さえながら嘆く土井に、スンマセンと気のない謝罪を口にする。それを恨めしそうに睨めつけ、担任教師はがっくりと肩を落とした。
「どうせ言っても聞かんのだろうなぁ、お前の場合……。もういい、行け行け。その代わり、ホントにちゃんと勉強してくれよ?」
「はーい!」
 予想より早く切り上げられた説教に歓声を上げ、ポケットに入れていた食券を握りしめて食堂へと走っていく。廊下を走るなと怒鳴る声を背に受けてはハイハイとやはり気のない返事を投げ、きり丸は隠れて唇を吊り上げた。
 それからおよそ十分後、食堂の一角ではランチを掻き込むきり丸を中心にして三年三組の面々が勉強道具を広げていた。
 カリカリとシャーペンの芯が擦れる音の合間に、たびたびの説教を労う他愛ない会話が交わされる。目立つ場所で揃って勉強などという目立つ行為をしているために否応なく人の目が集まり、特に食事を終えたばかりのライバル学級、一組の生徒からはニヤニヤと嫌味が投げかけられた。
「おいおい、ついに最後通告でもされたのか? 三組の奴らがこーんなところで勉強なんて! なぁ伝七」
「だな、左吉。土井先生と山田先生にも匙を投げられて、卒業を待たずに退学なんて前代未聞なことが起こったりして」
 本気の発言ではなく明らかに軽口と分かる様子ではあるものの、少々棘のある言葉選びに数人の額に青筋が浮かぶ。しかし今は相手をする時間も惜しいのか無視を決め込んだ三組に、伝七は気分を害した様子で唇をへの時に曲げた。
「なんだよ、せっかく僕らが声をかけてやってるっていうのに無視なんて。それとも本当に匙でも投げられたのか? いくら初等科入学当初から名高いアホの三組でも、まっさかそんな」
「伝七」
 せせら笑う言葉が終わらぬうちに、低く押し込められた声が漏れる。それが耳に入ると同時にひくりと頬が引きつり、伝七は恐る恐ると声の方へ向き直った。
 怒りを孕んだその声が長年同じ作法委員会に所属し、互いに嫌味とからかいを応酬しながらも今ではクラス違いの友人と明言できるほどに友好を深めている兵太夫からと察し、ごくりと唾液を嚥下する。
「……なんだよ、兵太夫」
 明らかに怯えた様子で伺う姿に、問われた学園一のシステムアーキテクトはにっこりと親指を立てて見せた。
「後でお前のPC、クラッシュな!」
「ちょ……!!」
 不吉な言葉に、伝七のみならずその場に居合わせた全員が顔色を変える。
「待て待て待て! あのPCには夏休みの課題用に春から書き溜めておいた自作アプリケーションのシステムソースが大量に入ってるんだぞ!? 今から一から組み直すなんて無理だって! 夏休み中に終わらない! もう先生にも課題提出を予告してあるのに!」
「えー? 相変わらず真面目だなぁ伝七。そんじゃあ慈悲。PC内のやらしいもの全部削除。もしくは見た履歴を女子校側で一般公開」
「や、やめてさしあげて!」
「お宝削除もツラいし、社会的抹殺もキッツいからホントやめてさしあげて!!」
 泣き出しそうな顔をした伝七に対して出された妥協案に、今度は団蔵と虎若が悲鳴を上げる。それをケラケラと笑い飛ばし、兵太夫は見下すように顎を上げた。
「まぁ一般公開はさすがに冗談だけど、口が過ぎると僕も本気で怒るからな伝七。次に同じこと言ったらマジでクラッシュするから。それでもいいなら好きなだけバカにすりゃいいんじゃない?」
「あ、ちなみに左吉は別コースね! 足下に気をつけて歩く部類のやつだから! いつどこでどこにぶっ飛ぶか分かんないよ!」
 その上、畳みかけるように三治郎が極上の笑顔で手を振る。どちらにしろいい方向には転がらないことを予感し、二人は静かに目をそらした。
「……まぁ、あれだ。こんなところ占領して勉強なんて、その。迷惑だから明日からは他でやれよ!」
「あと、あれだ! 先生達に愛想尽かされないようにな!」
 ふんと鼻を鳴らし、そそくさと去っていく。その背中を見送り、一部始終を見守っていた彦四郎と一平が申し訳なさそうに歩み寄った。
「兵太夫と三治郎には口で勝てないんだから、やめときゃいいのに……。ホント、勉強の邪魔してごめんな。あの二人、未だに三組にコンプレックス抱いててさ」
「退学だなんて絶対思ってないはずだから、気にしないでやってねー?」
 両手を合わせ、恐らくは同級の二人の身を案じてのことなのかチラチラと兵太夫と三治郎を窺う様子に、庄左ヱ門が面白そうに肩を揺らした。
「大丈夫だよ。この二人だってなにも本気でそこまでやろうとは思ってないさ。ただそっちも同じだろうけど、うちのクラスは自分だけならまだしも、仲間全員を一緒にバカにされることを嫌う奴らが多いもんでね。左吉と伝七のことだってもう長い付き合いなんだし、軽口だっていうのは分かってるつもりだよ。そうだろ? 兵太夫、三治郎」
「ハーイ、ソウデース」
「ガッキューイーンチョーノオッシャルトーリー」
 腹話術人形にでもなったつもりか、カクカクとした動きとカタコトの話し方で返した二人の頭を、教科書の一撃が見舞う。
 いい音を響かせたその一発に思わず頭を抱えて蹲る二つの背中に、まったくと呆れた溜め息が漏れた。
「せっかく庄ちゃんがフォローしてくれてんだから、茶化すのやめろって」
「ごめんなさいママン……」
「結構痛かったですお母さん……」
「その呼び方もやめろ!」
 お前らなんて産んだ覚えはないし女じゃないと憤慨する三組の母親役を余所目に、彦四郎と一平は可笑しげに緩む口元を隠す。しかし一組恒例の午後の授業の予習が迫っているのかちらりと時計を見ると、それじゃあと慌てて踵を返した。
「僕らはそろそろ教室に戻るよ。お前らも午後の授業に遅れないようにな」
「じゃあねー!」
 力一杯手を振る一平に、三組の数人も相応の様子で手を振り返す。しかしその姿が食堂から消え、また、周囲の目が自分達から逸れたのを確認すると、誰かがとんとんとノートを叩いた。
――さぁ、じゃあ報告会の続きといこうか。
 シャーペンが紙を滑る音が、モールス信号となってそう告げる。それを合図に各自がペンを持ち、また、きり丸のみ箸を手にして、他愛ない雑談の陰で堂々たる作戦の途中報告会を再開した。
――しかし一組も相変わらずだな。ここで僕らが勉強してれば絶対野次りにくるだろうとは思ってたけど、予想通りだった。
――だねぇ。気付かれないようにはしたけど、僕と金吾、思わず顔見合わせちゃったもん。あ、でもあれはさすがにヒドかったよ兵太夫。ちょっと脅しすぎ。
――えー、だってあそこまで言われたらさー。
――まぁまぁ、いいんだよ喜三太。今回はそれも含めてパフォーマンスなんだから。
 カリカリとノートが埋まっていく音に耳を澄ませる。その間モールスでの会話に参加していない者で雑談を交わし、周囲の目からそれを誤魔化していた。
 ちらりと庄左ヱ門の目が動き、再度ノートにペンが走る。
――これで食堂にいた生徒達には僕達が勉強していたこと、そしてその件で一組と少々揉めたことが記憶されたはずだ。もちろん、食堂を占領していた迷惑行為と一緒にね。
――これはちょっと勇気がいる作戦だったけどなー。おばちゃんに許可が取れたからよかったけど。
 頬を掻きつつ乱入してきた団蔵の言葉に、誰もが苦々しくも同意する。迷惑行為と知っていてそれを実行するのは、確かに少しばかり気合いの必要な策だった。
――でもおかげで学園中に僕らが切羽詰まっているという認識と、仮に僕らが昼休みや放課後に別の場所で集まって筆記用具を広げていたとしても【勉強】しているんだろうという刷り込みを与えることができる。この件は先生方にも伝わるはずだ。もちろんこの程度のことで土井先生と山田先生が僕達への警戒を解くとは思えないし、勉強に全力だとは思ってくれないだろうけど、少なくともやる気はあるんだなとは思ってもらえるはずだよ。例えそれが今回以降すべて、筆談による作戦会議だったとしてもね。
 一気に書き終え、ふぅと静かに溜め息を吐く。それを半ば呆れた目で見、虎若がペンを走らせた。
――相変わらず周到すぎて感心するよ。
――そうでなくちゃ、策士だなんて呼んではもらえないよ。
 どこか自慢げに頬を緩める庄左ヱ門に、さもありなんと何人かがこっそり頷く。
 その中で、もうすぐランチを食べ終える量になったきり丸が大きく伸びをした。
「っあー! 俺もバイトしないで勉強してたら、ちょっとは成績もマシなのかもなー」
 突然の発言に、全員の目が集中する。しかし誰も慌てず騒がず、特に乱太郎としんべヱがにこにことその発言を受けた。
「きり丸はここの学費、自分で払ってるのがすごいよねぇ」
「うんうん。それにバイトしないで勉強するきり丸なんて、なんだか想像できないよー」
「まぁな! 俺だって想像できねーもん」
 楽しげにじゃれたあと、最後の食事に箸を伸ばす。その箸が皿の底にぶつかる音を聞き漏らすまいと、一瞬、全員が口を閉ざした。
――まぁなんにせよ、さっきも言ったとおり先生達はちゃっかり警戒してくれてるな。テスト二週間前を切ってるから職員室に生徒は立ち入り禁止ってのは通常通りだけど、問題を奪りにくるだろうってのも予想されてる。庄左ヱ門の策、うまくいくか?
「ごちそーさんっ! あーうまかった!」
 残りの昼食を素早く掻き込みながら疑問を投げると、大きな音で手を合わせて食器を下げに席を立つ。時計を見ればすでに午後の授業開始の五分前で、会議に集中しすぎていたことに気付いた乱太郎達は慌てて筆記用具をまとめ始めた。
「でも本当、大丈夫かな。今回のテスト」
 乱太郎の口から小さな呟きが落とされる。覚悟してのこととは言えど、警戒されている事実を改めて認識すると少なからず寒心に駆られた。
それを耳聡く聞き咎め、庄左ヱ門が軽くその肩を叩く。
「大丈夫だよ乱太郎。こう見えて僕、ヤマを張るのは得意なんだ。――さぁみんな、授業に遅れたりしたらまた土井先生の胃が病むぞ! 早く戻ろう!」
 高らかに声を張って軽快な足取りで食堂を出る級長の背中に追い縋り、騒がしい足音が一つまた一つと駆けていく。
 それを最後尾から眺め、不安要素が強いはずのこんな作戦だったとしても、学級委員長にかかれば何とかなると思えてしまうあたり信頼とは恐ろしいと、乱太郎は頬を掻いた。


  ■  □  ■


 それから毎日、職員室はなんらかの騒動に巻き込まれることになる。
 翌日金曜は職員室の中に喜三太のナメクジ達が大量に侵入し、潔癖症で知られる斜堂を卒倒させた。
 ざわめく教職員の中、ただ一人、即座に声を上げる。
「こら喜三太ー!!」
 もちろんナメクジを大量に連れ歩いている人間など、この諜報学園広しといえども一人しかいない。そして声を上げたのも当然、担任を務める土井だった。
 故に即座に名指しで怒鳴られたわけだが、もちろんただで起きるわけはない。怒声に慌てふためきながらも、学園一の変わり者は音を立てて手を合わせる。
「はにゃあああああっ! ごめんなさい先生! すぐにナメクジさん達を回収しますから、職員室に入れてくださぁーいっ!」
「おま……! それが目的か!!」
 目的は察されたものの、ナメクジがペットである以上処分するわけにもいかない。
かといって相手は害虫としても名高く、且つぐにゃりと動く軟体だ。大人であっても道具を介してですら進んで触りたいと思う者はいない。だからこそ喜三太は無事に職員室内に入ることに成功したが、あくまで入ることには、である。
「……土井先生ー、僕もう子どもじゃありませんからぁー。そんなにぴったり後ろから見てなくても大丈夫ですから、普段通りにお仕事していてくださいよぉー」
「テスト前の職員室で、生徒を好きに動かしてやるわけないだろうが! ほら、とっとと捕まえて早く外に出なさい。言っとくがこれ自体、異例中の異例なんだからな」
 情けなさそうに額を押さえ、追い出す仕草で手の甲を振る。それを不服そうに仰ぎ見て、喜三太はひゃあと甲高い悲鳴を上げた。
「待って、土井先生、土井先生っ! 肩車! 肩車してください! 早く!」
「肩車ぁ? って、こらこらこら、そんな無理矢理登ってくるんじゃ……!!」
 眉間を寄せる土井の言葉を聞かず、肩の上によじ登る。
「重っ……! お前なぁ、いくらお前がクラスで軽い方だと言っても、十五の男子を肩車するというのは……!」
「いいから土井先生、このまま窓の方に行ってください! あー、そっちじゃなくて! 校庭の方の! あ、もうちょっと右側に! そうですそうです、このまままっすぐー!」
「ったく、好き勝手言ってくれるなお前は……!」
 重圧に苦悶の声を漏らしながらも言われたとおりに窓側へ移動する土井に、ごめんなさいと謝罪する。しかし目的の天窓サッシへと手をかけると、喜三太はようやく安堵の声を漏らした。
「あぁ良かったぁー……。先生ありがとうございます、ナメさんいましたぁー! ダメじゃないかナメ之丞、こんなところに登っちゃあ! 落ちたら大変なんだからね? ほら、みんなのところにお戻り」
 ゴソゴソとナメクジを入れる虫かごを動かす気配を感じながらも、足や肩が限界なのか土井の体が小刻みに震え始める。それをバツの悪い顔で見下ろし、喜三太は用事を終えると慌てて背中を滑り降りた。
「ごめんなさい土井先生、大丈夫ですかぁ?」
「謝るくらいなら……椅子とか机を使いなさい……。私だってもう三十路になるんだからな……」
「とっさに思いつかなかったんですよー。それに先生はまだお若いですから大丈夫! でもやっぱりごめんなさいー」
 大きく肩で呼吸する土井の背中をさすりながら、心底申し訳なさそうに眉尻を下げる。それを制止する動きで手をかざし、担任教師はもういいから早く出なさいと途切れる息遣いでそう告げた。
 夏休みがほぼ勉強のみで埋め尽くされる苦痛を考えればなりふり構っていられないのも理解はできるがと、そんな話を交わす教職員達をを流し見、喜三太は失礼しましたと頭を下る。
 後ろ手に閉めた扉にぴったりと背をつけ、さすがにテスト一週間前に入れば大人しく勉強に集中するでしょうと聞こえた言葉にぺろりと舌を出した。
「ごめんね先生、聞き分け悪い生徒達で」
 体についた埃を叩き落とし、鼻歌交じりに職員室を後にする。
 喜三太か、または同室の金吾でなければ気付かないことだが――ナメクジ達の蠢く虫かごの中に、ナメ之丞と呼ばれるナメクジは入ってはいなかった。
 そして週明けの月曜。
 今度は用具及びセキュリティ管理主任の吉野がやつれた顔で土井と山田の元に訪れた。
「土井先生、山田先生……三組の笹山君だと思うんですがね、ちょっとどうにかなりませんか……」
「は? どうにか、とは」
 嫌な予感に冷や汗を掻きつつ、詳細を聞かないわけにもいかず頬を引きつらせる。
「いえね、土曜の昼過ぎからなんですが、校内のデータベースにアタックが集中しましてね……。慌ててファイアウォールを増設したんですがものの十分程度で突破されてしまうもので、今日の朝、アタックが止むまで目が離せなかったんです。既存のスクリプトやツールを利用している様子もありませんでしたし、あそこまで楽々とクラックしてくるような人物は笹山君しか思いつかないんですが……」
 疲労困憊した様子でうなだれる吉野に、心当たりしかない二人は頭を抱えた。
「すみません……中途半端な結果に終わるなら実践はやめなさいと言ってはあるんですが……」
「お手数をおかけして本当に申し訳ない。とにかく、後で謝罪に行かせますので……」
 平身低頭して謝る姿勢に、吉野は慌てて付け足す。
「いえいえ、中途半端だなんてとんでもない。市販の警備ソフトでは太刀打ちできませんでしたから、私がセキュリティ巡回を行う時間でなければ、実際かなり危険だったと思いますよ。しかし技術が素晴らしいのはいいことなんですが、なにぶん私も歳ですからねぇ。二日間食事抜きで徹夜というのはさすがに堪えました」
 疲れた顔色ではあるもののやりがいもあったのか、まるで騙し絵のような吉野の顔がにこにこと緩む。その言葉にもやはり申し訳なさそうに頭を下げ、土井は胃を、山田は頭を押さえた。
 その上、終業後に生徒指導室に呼び出した犯人ははぐらかすでもなく、得意満面で胸を張る。
「吉野先生が僕をスクリプト・キディでないと認めてくださっただけで充分です!」
「そういう話じゃない!」
 システムアーキテクトを自称し、クラッカーの面も併せ持つハッカー、もしくはそれ以上の実力者達の称号であるウィザードを志す兵太夫の目はきらきらと輝き、もはや担任教師達の説教も耳に入る様子はない。それを知りながらも肩を落とし、土井はずいとその眼前に迫った。
「いいか兵太夫、来週月曜からテスト期間なんだぞ? お前達は真面目に勉強する気にゃならんのか?」
「えー? やだなぁ土井先生、ちゃんと勉強もしてますよ。でも全員が確実に点数獲得を目指すのだって大事じゃないですかー」
「やかましいっ! 第一お前達が日頃からちゃんと勉強をしてくれてさえいたら、私らだってあんな決断はせずにすんだんだぞ?」
 ひらひらと調子良く笑ってみせる兵太夫に、山田が困り果てた表情で言って聞かせる。その一言でようやく反省の色を浮かべて肩身を狭めたものの、多少不服そうに視線を泳がせた。
「それについては全員しっかり反省しましたし、庄左ヱ門主催で毎晩勉強会も開かれてます。でももしテスト問題を手に入れる事ができたら、それはそれで諜報の技術を先生方に認めてもらえるかなぁって……」
「それが成功してればな。とにかく、もう吉野先生に迷惑をかけるんじゃないぞ。二日間も食事抜きで徹夜だなんて、私だって想像したらぞっとする」
 パシリと軽い音を立て、指導要項が兵太夫の頭を叩く。さして痛いわけもないがその痕を自分で撫で、ふてくされた唇は小さくはいと返答した。
 その甲斐あってか吉野個人が対処に追われる事態はこの一回のみで終了を迎える。
 が、あくまで吉野個人は、に限定された。
 翌火曜日には、前日の放課後から実家に戻っていたという団蔵が遅刻間際でバイク登校し、ブレーキとハンドルのタイミングを誤ったとして職員室の窓を破って侵入。
 水曜には誘導尋問に長けたしんべヱの手腕により、世間話に花を咲かせていた小松田からテスト問題の保管場所をあわや聞き出す寸前。
 さらに木曜には保健医である新野に扮した庄左ヱ門が、職員同士の会話を装って土井と山田の机近くまで入り込むことに成功した。
 もちろんすべて失敗に終わり、特に道交法違反も犯したと思われた団蔵については手厳しい説教が降り注いだ。
 ただこれに関しては学園の門までを自社員の清八に送ってもらい、校門から先、つまり私有地のみを走ったのだという自信満々な言い訳が付随していた。
 その時点で、ハンドル操作やブレーキタイミング云々は関係なく、職員室に飛び込む前提なのが丸分かりだとツッコミが入ったのは言うまでもない。
 だがそれと同時に、しつこく繰り返される雑多で粗末な策の数々に、担任二人が苛立ちを募らせていくのは火を見るより明らかだった。
 庄左ヱ門を叱り飛ばした後、土井が立腹した様子で自席に腰を下ろす。
「いくらなんでも雑すぎる……!! あんなやり方、私らはおろかドクタケ興業にだって通じないのが分かっとらんのかあいつらは……!」
 憤慨の表情で卓上の書類を開くと、隣席の山田もが眉間に渓谷を刻んで頷いた。
「まったく同意見ですな。普段であればもう少しマシな作戦を練ると思うんだが、焦っているのかどうにも……」
「えぇ、普段であれば……」
 そこまで口にし、違和感を覚えたのか揃って口を閉ざし、はたと首を傾ぐ。
「山田先生、これはもしかして」
「えぇ土井先生、恐らくそうでしょう」
 視線を交わし、まったくと苦笑に噴き出す。
「そうと分かれば、最後まで油断するわけにはいきませんね」
「なにより恐ろしいのは、自分自身の油断ですからな」
 こつりと拳をぶつけ合わせ、ちらりとテスト問題の保管場所に目を走らせる。さてこれをどうやって奪取するつもりなのかと一転した楽しみに目を細めた。
 その翌日、試験前最後の週末を控えた金曜のことだった。
「土井先生、山田先生、失礼しますー。お客様がおみえなんですけどー」
 のんびりとした口調で職員室を開いたのは、事務員の小松田だった。
 三組の担任二人の名が呼ばれた時点で、室内はすでに疑惑の空気が渦を巻く。客といえども案内がへっぽこ事務員の異名をとる小松田であることで素性の信頼性は皆無に等しく、言うなればその客人すらも、三組の誰かが特殊メイクによって変装している可能性を考えないわけにはいかなかった。
 もはや他の学年、クラスの担当者でさえも、この一週間立て続けに騒動を巻き起こしている三組を警戒していると言ってもいい。
 それを踏まえながら、土井と山田はともに神妙な面持ちで席を立った。
 するりと室外に出、さてと息を抜く。
「で、小松田くん。お客人とは誰かな?」
「はい、えぇっと……オーマガトキ薬品のいばっとるさんと、カピバラ太郎さんですね」
 入門表を手にしてはいるものの見返すことなく、顎に人差し指を宛がって目だけで右上へと視線を泳がせる。
 しかし記憶を辿る仕草とともに告げられた名前に、背後に控えていた人影がかみつく勢いで訂正した。
「いばっとるじゃない! 射場亨だ!」
「私もカピバラ太郎じゃなくて、貝原太郎です」
「だそうです」
 憤慨と困惑を耳にしても反省している様子はなく、さらりと受け流す。それを半ば諦めたように肩を落とした二人の来客に、土井と山田はことさら胡散臭そうに眉間を寄せた。
「オーマガトキぃ?」
「社長の命令で無理矢理諜報部に入れられたアンタら二人が、なんのためにこんなところに来とるんだ」
 怪訝な雰囲気を見せる教師達に、まぁそう邪険にするなと咳払う。しかし理由は言いづらいのか情けないのか、どうにも煮えきらない態度でうだうだと時間をかける射場の隣で、貝原があっけらかんと口を開いた。
「中間試験と期末試験の問題をもらってきて、お前達も諜報の勉強成果を確かめてみろって社長が言うんですよー。なので、テスト問題くださいー」
 のんびりとした口調で手を差し出す邪気のなさに、思わず呆気にとられて口が開く。しかし最近の騒動をはたと思い出し、土井と山田は言葉なく頷きあった。
「あー、失礼。ちょっと確かめさせてもらいますよ」
「中等部三年ともなれば、特殊メイク術も相当技術が上がっていますからな」
 と――
 言うが早いか、揃って来客の顔を無遠慮に引っ掴む。
「いだだだだだだだだっ!?」
「首なんて引っ張られてもなにも……あー! ひはひ、ひはひへふっへ! なにするんですかー!?」
 首から、生え際から、耳の付け根から。とにかく変装であれば人工皮膚の端がくるはずの場所を、片っ端から爪を立てて確かめる。
 そんな顔の皮を引き剥がさんばかりに力をこめて掴み掛かってくる二人から命からがら逃げ出し、射場と貝原は涙目になって距離をとり、必死の声色で訴えた。
「そんなにあれか!? 諜報学園のテスト問題というのは、ここまで痛い目を見なきゃ手に入れられんもんなのか!?」
「各企業の弱みを答えろとか書いてあるんですか!? それにしたってヒドいですけど!?」
 その言葉と暖かな感触に、ようやく本人と判断したらしい二人が肩の荷を下ろす。
「あぁいや、そんなにたいしたもんじゃない。今ちょうど、うちの生徒達が問題用紙を狙っていて、それを警戒しているんだ。と言うかむしろ、そっちだって一応は社内に設けられた諜報部の所属なんだから、本来は侵入して情報を取ってくるのが仕事だろうに……」
「こんな時期の教師を相手にテスト問題の譲渡を求めるなどということをするから、裏を掻いた生徒達の企みかと疑われるのだ。愚か者め」
 しかし教師達の反応はいたって冷たい。だが仕事柄を考えれば当然ともいえる返答に、二人はぐぅの音も出せず押し黙り、恨めしそうな視線だけで懇願を示してみせた。
 その姿に、やれやれとため息が落ちる。
「仕方ない。半助」
「はい。普通の営業係だったのに無理矢理諜報にさせられた哀れさは、同情せずにはいられませんからね」
 山田の呼びかけに、すべて心得た様子で土井が頷く。その言葉を耳にするや否や表情を華やがせた二人は、その場で手を取り合い、やったやったと声を上げて飛び跳ねた。
 子供じみたその仕草に、学生でもあるまいにと教師二人は苦笑を禁じ得ない。
 しかしその瞬間、土井の視界に不意に飛び込む見慣れた顔達が映った。
「っっ! こら、お前達!!」
 怒鳴りつければ、大慌てで柱の陰に収まる十一の頭。たとえどんなにうまく収まったつもりでも、十一個の頭が綺麗に縦に並んで覗いていたことを考えれば、決して身軽な体勢ではなかったはずだと嘆息する。
 つまり一応隠れてみたはいいものの、今はまだその陰で慌てて逃げる体勢に移っているだろうことを予測し、担任教師はガリガリと頭を掻いた。
「お前達はいい加減に諦めて、ちゃんと勉強に専念しろ! この人達は特別だ!」
 声に、やはり時を置かず不満の声が返る。
「えー!」
「僕達だっていいじゃないですかー」
「ケチなこと言わないでくださいよー。って言うか、オーマガトキの人達と俺達のなにが違うっていうんですかー」
 次から次へ聞こえてくる不服申し立てに、土井のこめかみがひくりと動く。そしてすぐさま走り出して柱を回り込むと、やはり一人ずつ体を起こしていた十一の顔がぎょっとした様子で振り向いた。
「いいわけがあるかっ! 慣れない仕事を無理矢理やらされることになった人達とお前達とじゃ全然立場が違うだろう! だいたいきり丸、お前にケチだなんだと言われたかぁないわいっ!」
 嵐のごとき怒濤の勢いで浴びせかけられる怒声に耳をふさぎ、ごめんなさいと言葉が重なる。それを当然だと憤慨した顔で見下ろし、土井は肩を怒らせたまま職員室前へと戻った。
 未だ怒りのオーラが揺らぐ後ろ姿を見送り、生徒達はこそこそと小さく囁き合う。
「でもさ、僕らが中に入るのは無理でも、あの二人から奪るなら簡単じゃない?」
「確かに! おだてるか惑わせるかで結構楽に……!」
「聞こえてるぞ!!」
 再度響いた怒鳴り声に、新たな作戦を口にしたばかりの喜三太と虎若が肩を竦める。どうやらこれ以上ここにいても収穫どころか怒りを買うばかりらしいと決断を下し、名残惜しさを見せながら渋々足を踏み出した。
 そんな中、しんべヱがへらりと表情を崩す。
「でも良かった、早く切り上がって。実は僕、さっきからおトイレに行きたかったんだぁ」
 照れながらの一言に、その言葉を耳に挟んだ貝原がきょとんと振り返る。しばらく何事か考えるように沈黙していたがぶるりと震え上がり、やがてもじもじと身を捩らせた。
「あ、あのー射場さん? 僕ちょっとお茶を飲み過ぎたみたいで、お手洗いに行ってきたいんですが……」
 まるで出掛けの準備を怠った子供のような言い方に射場は物も言わずうなだれ、追い払うような仕草を見せる。その隣で土井と山田も思わずなのか生徒に接するような表情を見せ、中で待っていますよと手を振った。
「じゃあカピバラさん、僕が案内しますよ。一緒にいきましょうー」
 慣れない場所で一人になる居心地の悪さに目を泳がせていた貝原を、しんべヱが人好きのする笑顔で手招く。カピバラじゃなくて貝原だよといつものように訂正するも、とてもではないが諜報に向きそうもない素直な背中が続いた。
 その後――
 無事に社長からの命令をこなし、オーマガトキ薬品の二人が職員室を後にする。
 テスト問題のコピーを持ちほくほくとした笑顔で帰社していく射場と貝原の後ろ姿を、教室から見下ろす三年三組十一人の姿があった。



−−−続.