――― 盗み見遣るは孵り一葉の一大試験





 教室にはずっしりと重苦しい空気が渦巻いていた。
 梅雨も明けた夏の放課後、すっかり青々と繁った木の葉が窓の外を彩る頃だ。
 本来であれば爽やかに擦り抜ける風に目を細め、早々に退校してはどこか遊びに繰り出そうかという気候。だがこの日ばかりはそんな気分になれないのか、無邪気にはしゃぐ声の一つも聞こえない。
 中間試験の悲喜こもごもの残り香も消え、迫り来る眩しい長期休暇は目前。
 しかしそれこそが苦悩の種とも言うべき憂慮を醸し出し、大川中学三年三組の教室には陰鬱な影が落ちていた。
「事実上の死刑宣告だ……」
 卓上に組んだ手の甲に額を乗せ、這いずる声音で呟いたのは虎若だった。
 肺胞の一つ一つから絞り出したような長い溜め息を吐き出し、それ以上なにも言葉にできず机に突っ伏す。だが周囲からは慰めの声一つかかることはなく、むしろそれに便乗するように重い呻き声が続いた。
「中間がちょっと悪すぎたのは認めるけどなー。でもだからってアレはきついわ」
「だねー。あんなこと言われちゃ、なおのことやる気なんて起きないよ」
 ふてくされた表情で机の上に足を乗せた団蔵と、まさしくやる気なさげにスマートフォンをいじっている兵太夫が落ち込んだ様子でぼやく。さすがに悪すぎる行儀を見かねた伊助によって卓上の足は払い落とされたものの、なお鬱々とした空気は場を濁していた。
 中学三年という将来のためにも大事な時期。しかもその一学期の中間試験で、三年三組の成績平均は全教科揃って学年最下位を叩き出していた。
 もちろんこんな事態を担任、副担任が喜ばしく思うはずもなく、嘆きは表記に耐えうるものではない。
 当人達は喉元過ぎればとでもいうのか説教の翌日にはケロリとしたものだったが、教師側の立場からすれば、受け持っているクラスの生徒達の学力が崖っぷちどころか首に縄がかかった状態と判明しては、強行手段を用いるのも無理からぬ話だった。
 結果、その強行手段がこの日のホームルームで伝達されたわけである。
 いわく。
「期末で他のクラスの平均点を下回ったら、夏休み中、家族全員でのリフレッシュ以外……」
「バイトも! 遊びも! 全部返上で勉強時間作ってくれって親に伝えるとか! 先生達は鬼だ!!」
 ぐったりとした喜三太の言葉尻に被せ、きり丸が机を激しく叩いて声を荒げる。興奮のためか、はたまた純粋に金銭感覚によるメンタルの危機なのか、その目ははっきりと涙目だった。
 それをまぁまぁと諌め、乱太郎が短く息を吐く。
「二年までは補習でなんとかすればよかったけど、さすがに三年になると受験のこともあるしね。先生達ものんびり構えていられなくなったんだよ」
「学園に通うほぼ全員が内部進学狙いって言っても、やっぱりある程度の成績じゃないと具合が悪いだろうからなー。それに気付かず、いつも通り遊び回ってた私らが一番悪いんだし仕方ないよ」
 苦笑で去年を振り返る乱太郎に、身に覚えのある様子で伊助も同意する。しかしそれを頭では理解しながらも納得はできないのか、だけどと叫んで三治郎が立ち上がった。
「だけどさっ! 休日の生徒の自由を取り上げるのはいくらなんでも横暴だよ! 断固抗議!」
「僕も三治郎に賛成ー。でも今から猛勉強するのも無理そうじゃない? 僕ら授業は真面目に受けてるのに、ほとんど頭から抜け落ちちゃうんだよ? ……庄左ヱ門は別だけどさー」
 頬杖をつきつつ、しんべヱが疑問を口にする。その一言に室内が静まり返ると、金吾の目が伺うように級長へと移された。
 揃いも揃って嘆かわしいほどの点数を並べる中、ただ一人全教科で他クラスの平均点をも上回り、それによって平均点を吊り上げることに成功していたのは庄左ヱ門だけだった。
 しかしだからと言って、そこに頼りすぎるのも気が引けると頭を掻く。
「全員分の勉強を庄左ヱ門に見てもらうっていうのは……現実的じゃないしな。なにより時間がない。でも僕らのせいでお前まで勉強尽くめの夏休みに巻き込むっていうのは気が引けるんだけど……どうする? 級長」
 言葉に、十対の目が庄左ヱ門を見る。
 しかしそれを負担に思うでもなく、大きな丸い目は冗談でも言うように仄かな三日月に歪んだ。
「どうするもこうするも。金吾が言うように、僕一人でみんなに一学期分の勉強を教えるなんてのは到底無理な話だよ。でもだからと言って一組の左吉や伝七達に教えを乞うって選択肢は……ほら、みんなそういう顔をするんだから。ないんだよね? となれば選べる方法はかなり少なくなってくるわけなんだけど、少々特殊な我が校ではこういう場合、非公式にではあるけれど勉強以外の選択肢も許されている。それはみんなもよく知ってるはずだ。それに僕の読みが正しいなら……みんなそっちに挑戦したいんじゃないのかな?」
 ふふと喉を揺らしながらの楽しげな返答を受け、それぞれがチラチラと見交わしあう。
 どこかそわそわとした落ち着きのない雰囲気は、やがてこの場の誰もが同じ考えらしいと確信を得るとともにいたずらっ子の笑みに染まった。
「テスト問題の事前入手とカンニングの決行!」
「そういうこと」
 揃った声に、明察とばかり庄左ヱ門が指を立てる。
「夏休みを謳歌できる条件は他クラスの平均点を上回ること。つまり2組の怪士丸達はおろか、当然、秀才揃いの一組もってことだ。それを無事成し遂げるためには、試験範囲をくまなく勉強していく正攻法はあまりにも効率が悪い。それなら出番を待って眠っている問題用紙を連れ出して満点回答を準備し、当日鼻歌交じりに書き込むのがもっとも適切だ。もちろんその回答も丸暗記なんて個人差のある非効率的な手段じゃなく、より確率の高いものを採択することが絶対条件だよね」
 言い切り、学級委員長は力ある眼で全員を見回す。
「僕の狙いはこの場にいる全員が全教科で満点を取ること。なにか異論や反論は?」
「ない!!」
 あまりにも大胆な宣言に、諫める声は一つもない。
「先生を出し抜いて、カンニングしたことも最後は堂々とバラすってことだろ? 面白そうじゃん、それ! テスト前にバレたら次こそヤバイけど!」
 ニヤリと顔を見合わせ、団蔵が武者震いと共に立ち上がる。
「夏休み返上なんてまっぴらだ! 先生達がそうくるなら、俺達だって全力で勉強から逃げてやる! 実技だけは俺らがダントツ一番ってところ、先生達に思い知らせてやろうぜー!」
 叫ぶ声に誰もが便乗し、はしゃいだ様子で鬨の声をあげる。そのあまりの大音声に、二組に残っていた面々が何事かとひょっこりと顔を覗かせるのも気にせず大声ではしゃぎ続ける姿を目にし、顔色の悪い四人は静かに首を傾げるばかりだった。


  ■  □  ■


 ――私立大川学園は公に学園法人として登録されてはいるものの、一般に広く生徒を募集している類いの学校ではない。
 もちろん教養としてそれなりの科目は勉強するものの、それは常識や流行に対して無知であることで、他者からの好奇の目を引くことを厭うためだ。
 正式名称は私立大川諜報学園中等部。
 巨大な敷地内に初等科、中等部、高等部、各校生徒達が日常を送る寮、さらには別棟として女子校部分をも併設しているこの学園は、日本國の極秘省庁である「外交情報調査省」、通称「諜報省」認定の教育機関で、企業や政府関係を始め、他国諜報機関にまで卒業生が在籍しているその筋の有名校である。
 各企業の抱えるスパイ養成校とは一線を画し、どんな組織にも属さない代わりに求められればさまざまな組織に手を貸す独立した特殊な教育機関。
 故に複数企業から敵対視されることもしばしばだが、創業者の大川平次渦正はそんなことなど気にも留めずにのらりくらりとその怨嗟の中をすり抜けている。
 そんな中、現中等部三年三組の面々は創立以来となる少々面倒な特色を持っていた。
 トラブルに巻き込まれやすく、しかもそれに自らも赴く習性もさることながら、学園内のみならず既に各企業にも知れ渡るその面倒な特色。それは知識ではどのクラスより劣る彼らがひとたび実技ともなれば、戦術を理解していないとは思えない成績で他を圧倒するところにあった。
 そして自他共に認める偏りと連携を最大限に駆使して数々のトラブルを潜り抜けてきた十一人は、今回は教師達の裏を掻くべく、寮の一室に集まっていた。
 塵一つ落ちていない清掃された室内はいかにも級長と、綺麗好きな伊助の部屋らしい。
 そのベッドや椅子、絨毯の上に思い思いに腰を落ち着け、三年三組の面々は熱のこもった表情で視線を尖らせていた。
 たびたび起こるこういった騒動のために庄左ヱ門が持ち込んだ、初等科時代から愛用のホワイトボードにはすでにところ狭しと作戦メモが書き連ねられ、黒々としている。
 不足なく作戦が練られているか、無駄な部分はないか、または綻びができたとしてもそれを修正できるだけの余力は残されているか。
 それを一つ一つ確認するようにぶつぶつと呟きながら、やがて級長はにっこりと微笑んで全員を見回した。
「さぁみんな! 作戦は以上だ。もう自分がどのタイミングでなにをするか、役割を頭に叩き込んでくれたね? メモなんて取ってくれるなよ。もし落としでもして、そこから誰かに策が漏れでもしたらひとたまりもないんだからね」
 注意を口にし、今一度全員を見回す。そこには両手になにも持っていないことを知らせるためにヒラヒラと手を挙げている十人がいるばかりで、庄左ヱ門はよしと満足げに頷いた。
「さて、だ。決行日はテスト開始の二日前の晩と決まったわけだけど、知っての通り、なにより大事なのは事前準備だ。それさえ十全にしていれば恐れることはなにもない。今回はあんな告知をなさった以上、先生方もこういった事態は想定してのことだろう。きっと警戒も普段より固いはずだ。この警戒をいかに掻い潜るかに成功の鍵がある。だがみんなが自負するように、実技であれば、そしてこの十一人であれば、不可能はないと僕は信じている。各自役割をきっちり果たしてテスト期間を無事に乗りきり、充実した夏休みを過ごせるよう全力で挑もうじゃないか」
「おー!!」
 演説に腕を振り上げ、今から始まる作戦の完遂を願う。まずは最初の担当者が学園を抜け出し、とある場所に連絡を取るところからだと視線が三治郎へと集まった。
 それを誇らしげに見返し、現代では数少ない山岳信仰の寵児は目を細めて窓を開く。
「じゃ、ちょっとひとっ走り電話ボックスまで行ってくるね。ついでにコンビニ行ってくるけど、欲しいものある人いるー?」
「あ! じゃあ僕ねー、カップラーメンと唐揚げとチャーハンとポテチとソーダとフランクフルトー!」
「初っぱなから多すぎるよしんべヱ!」
「とりあえずメモ書けメモ! あとちゃんと金渡しとけ!」
 騒がしくツッコミを入れた乱太郎、きり丸の言葉に、それもそうかと肉厚な手が頭を掻く。それを皮切りにそれぞれが買い物メモと代金を三治郎に手渡すと、その多さにヒュウと甲高い口笛が漏れた。
作戦のように各自細分化されているものならともかく、大量の買い物内容を覚えるのは無理だと笑って軽口を叩き、全てを大事そうに財布の中にしまいこむ。
それじゃあと手が翻り、次の瞬間、窓の外へと姿が消えた。
 中等部三年の部屋は寮の三階に位置している。しかし誰一人騒ぎ立てることも、かといって無事を確認しようともすることなく、残された十人は平常通りの様子で解散し始めていた。
「ドキドキだねー」
「バレたらバレたで、そんときはマジで夏休みがなくなる覚悟を決めるしかないよなー」
 わいわいと騒がしく、一人、また一人と退室していく。それを見送りながら何事か考えている庄左ヱ門に、乱太郎がふと足を止めた。
「庄左ヱ門? どうかした?」
「うん? あぁいや、別に大したことじゃないよ。一応リスク軽減の方法をもう一つ考えているだけ。あ、ねぇ兵太夫! ちょっと策のことで相談に乗ってよ」
 呼び止められた兵太夫をはじめ、退室しかけていた面々も興味を惹かれた様子で立ち止まる。しかし兵太夫以外に用はないんだとばかりに笑顔で拒絶して見せた学級委員長に、またなにか身内にも内緒の計画か、はたまた誰かの迷惑になりかねない依頼かと誰もが冷や汗を掻いた。
 試験開始まで二週間弱。土日を除けばこの日を含めてたった八日しかない期間で、さてどこまで万全を喫すつもりかと誰かの鼻唄が響いた。



−−−続.