しずしずとした摺り足の音を響かせ、女中小袖に身を包んだ兵太夫は当然の顔をして若君の寝所へと進んでいた。
 細い月の浮かぶ空は僅かに照らされていると言ってもやはり暗く、後に続くきり丸、伊助、三治郎の目は敵を警戒するように忙しなく辺りを窺う。それはカエンタケに入り込む曲者を奉公人として警戒しているようにも見えれば、実際はその曲者である自分達の発見を少しでも遅らせようと気を張っているようにも見えた。
 しかし事前に見張りがつくことも承知し、尚且つ先程から探るように体中に突き刺さる視線を感じてもいればなにも不安に思うこともない。むしろ相手がそう思ってくれることこそがこちらの思う壷だと内心で嘲笑い、四人はちらりと視線を見交わした。
「それでは若様がお休みになられるまでの間、外をよろしくお願い致します」
 本来は男らしい低い声を不自然でない程度に上擦らせて女声を演じ、するりと振り返って頭を下げる兵太夫の言葉に三人もまた淑やかに頭を下げる。しかしその目はどれも大人しい女性的なものではなく、まるで遊びに興じる童のように輝いて役割の完遂を虎視眈々と狙っているようだった。
 膝を折り、静かに寝所の木戸を開く。部屋の隅にぽつんと灯された火と伸びる影に気付きそちらを見れば、真剣な様子で卓に向かっている若君が目に入った。
 その真面目さに目を細め、柔らかに声をかける。
「若様、火消し番に参りました。そろそろお休みになられる刻限にございます」
「なんだ、もうそんな時分か? もうちょっとでこれを読み終わるところなのに……。なぁ、もう少し待ってくれないか」
 三人を残して入室すれば、火の下で本を読み耽っていた若君が些か不満げに頬を膨らませる。その幼い仕草を見ていると学園にいる自分の教え子達を思い出すのか、兵太夫は思わず困ったような表情を浮かべて慈愛の溜息を吐いた。
「お目が悪くなられますよ? ……けれどそれほどまでに夢中でおいでなのでしたら、お布団を敷かせて頂いている間は大目に見ることに致しましょう。でもそのあとはきちんと横になってくださいませ。若様はまだお小さくていらっしゃいますから、しっかりとお眠りあそばされることが大事でございますので」
 ともすれば普段生徒達に接しているときのように気安い言葉を発しそうになる舌先をすんでのところで戒め、あくまで女中の立場で潜入していることを脳内で復唱する。しかし妥協を口にした自分の言葉に心底嬉しげな表情が返ると、元来子供好きを自負してやまないその頬は自制も効かずにふにゃりと緩んで見せた。
 布団を敷き終わり、約束通り横たわった若君の隣に座す。それを期待に満ちた目で見上げ、幼い体はぐずるように体を揺すった。
「今日はどんな話をしてくれる? 黒麻がな、知らない間に大人になってるって言って驚いてくれたんだ。いつの間にか私は勉強をしていたんだな。面倒だし難しいとばかり思っていたけど、お前の話は面白いから私でもちゃんと学ぶことが出来るぞ。なぁ、今日はなにを話してくれるんだ?」
「まぁまぁ、そのように嬉しいことを。なにせ私も勉強が大嫌いでございましたから、もし教える側になったらきっと楽しい授業をしてやるのだと心に……おっと、これ言っちゃいけなかっ……」
 思いがけない褒め言葉に調子に乗り、失言してしまったことに気付いてももう遅く。
「町から雇い入れている女中ごときが教育など受けていようはずもない! やはりご家老の睨まれた通り、貴様どこぞの手の者であったか!!」
 口を手で覆っている間に天井から舞い降りた黒い影に、やはり聞き逃してはもらえないらしいと舌を打つ。突然降って湧いた騒がしさに目を丸くしている若君の頭をくしゃりと撫で、兵太夫ははにかむように笑った。
「悪いな若様。実は僕、ここの女中じゃないんだよね」
 素の声と口調に戻ってそう告げれば、大きな目がぱちぱちと瞬く。けれど恐れる風もなく先程同様にそうかと呟くと、若君はようやく身を起こして首を傾いだ。
「だから今の声のほうがしっくりくるんだな。そっちのほうが先生らしいから、私の前でくらいそのままいてくれたらよかったのに」
 にこにこと話された言葉に、兵太夫の体が衝撃を受けたように僅かによろめく。その隙に二人の間に割り入った忍者隊が若君を背後に庇ってじりじりと後退すると、遅れ、伊助が怯えた表情で木戸を開いた。
「何やら騒がしゅうございますが……ッ、ヒィ!」
「臆するな! 間者が紛れ込んでおったのよ。共に動いておきながら気付かなんだのか」
 動転する演技に叱責が飛ぶもそれには応えず、ただ若君の安否を気遣う言葉を繰り返しながらその場でオロオロと役立たずぶりを見せつける。するとあまりの使えなさに苛立ったのか、忍装束の影は些か乱暴な動作で若君を伊助に押し付けた。
「ここは良いから、若君を安全な場所にお連れしろ! 女子とはいえどこのようなときになんと不甲斐無いザマだ!」
「は、はいっ! さ、若様こちらへ!」
 柔らかな手を引き、若君をきり丸の腕の中に押し込める。ここに至ってもまだ怖気づく様子もないその気丈な姿に器の大きさを感じ、伊助は思わず感嘆の声を漏らした。
 託されたきり丸も、腕に抱きながら小さく口笛を吹く。
「ホント、こりゃ思ってたよりイイ殿様になりそうな若様だ」
 女中らしからぬ言葉に、男達が驚愕の目を向ける間に。
「んじゃまぁ安全な場所にお連れしとくぜオッサンがた! 心配しなくてもこちとら子守りにゃ慣れてっから、ちゃんとゆっくり寝かしとくんでドーゾごゆっくりー!」
 小さな体を抱え上げ、悪戯な表情で手を振る。そのまま闇の中へ姿を消したきり丸を追おうと奥歯を軋ませたカエンタケ忍者の前に、ようやく陳腐な演技と窮屈な小袖を脱ぎ捨てた伊助、そして三治郎が立ちはだかった。
「すいませんね、追わせるわけにはいかないんで!」
「でも僕達、そっちのご家老よりずーっと善良な曲者だから! とりあえず安心してもらえたら嬉しいな!」
「……ッ、貴様らも間者であったか……! どこの手の者だ!」
 みすみす敵に若君を渡してしまったことを悔いているのか、忌々しげに顔を歪めた男が吠える。けれどその問いに二人は顔を見合わせ、困ったように眉間を寄せた。
「間者……んー、間者ねぇ……」
「別にどこの城のーとかってわけじゃないしねぇ。そう聞かれても困るっていうか……」
 真剣に回答を悩みだした二人の様子に、少々毒気を抜かれてしまったのか男達も反応に困って顔を見合わせる。およそ敵に囲まれているとは思えない和やかささえ感じる雰囲気の中、やがて兵太夫がにやりと唇を吊り上げた。
「まぁ間者だとか違うとかそういうのはどうでも良くってさ。つまり僕らはこんな小さい子が悪い奴に利用されそうだってのを聞きつけて、それを助けに来た義賊ってわけ。おじさん達も黒麻の企みに全面的に乗っかってるわけじゃないなら、ここは目を瞑って僕らの好きにさせてもらいたいんだけど」
 さらさらと紡がれた口上に男達が身構える。その姿勢を申し出に対する拒絶と受け止め、仕方なさそうに肩を竦めた。
「あらま残念。じゃあ仕方ないからやらかすけど、この部屋ぐっちゃぐちゃにしちゃっても怒らないでよね」
 ちろりと舌を出し、懐から小さなからくりを取り出す。不敵とも言える笑みを怪訝に見つめる男達を前に、三人は楽しそうに視線を見交わした。


 ■  □  ■


 静けさが押し寄せているはずの闇の中、不意に騒々しさが増していく。とは言ったところで、廊下を走り回る音や敵襲を知らせる怒号が聞こえるわけでもない。しかし天井裏や床下、屋敷周りの庭や塀の上、果ては屋根の上までをざわざわとした威嚇の意識が走り抜けて行くのを感じ、女物の小袖に身を包み、顔を変えた庄左ヱ門は僅かに目を見開いて辺りを見回した。
 ゆっくりと腰を落ち着けている女中部屋の中は眠り火の効果によって既に掌握され尽くし、微かな寝息だけがそこかしこに満ち溢れる。その中央に座し、頃合いを図っていた策士の表情に戸惑いの色が差したのを見止め、向き合って時を待っていた侍姿の乱太郎がほんの少し顎を引いた。
「もしかして、計算狂った?」
 こくりと喉を上下させての懸念に、否と濃茶の髪が揺れる。
「考えていたより随分早いけど、さしたる問題ではないよ。きっと兵太夫辺りがなにかやらかしたんだろうね。あいつはホント、小さい子の前では調子付きやすいから。でもまぁ、あちらに忍者隊の目が向けられるのは予定通り。賊が侵入したとなれば、奥座敷だけでなく喜三太を捕らえてる牢にも護りの手を割いてるはずだ。この風魔とナギナタタケ城を巻き込む一件が黒麻の独断である以上、末端の人間にまで話が広まっているはずもないから、動くのはごく少数の人間だけ。その上騒動がご城主に知られないようあちらには最低限の警備の者しか置けない。今なら乱太郎一人でも容易く寝所に入れるはずだ」
「あぁ、そういうことかぁ。事情説明に走ろうと思ったらちょっと待ってなんて言うもんだから、計画の変更でもあるのかと思ってドキドキしてたのに」
「侵入術の基本だろ? 騒ぎの直後を狙えってさ。今回はどれもこれも重要な役回りだけど、あそこは囮役に近いからね。ある意味では水月の術とも言えるかな」
 肩を竦めておどけてみせる庄左ヱ門の言葉に、ははと安堵の笑いが漏れる。
「相変わらずの策士っぷりで安心するよ。じゃあ、もういいんだね?」
「うん。油断のないようにね」
 見送りの言葉に返答することなく、乱太郎の姿は木戸の向こうへと消える。敵方が秘密裏に動いているのならばこちらは堂々と姿を見せたまま城内の廊下を往くが得策と、あえて指示した経路だった。
 ただ、やはり思っていたよりも早い作戦の流れに、少々眉間を顰めて溜息を吐く。
「風魔勢に指示したのは半刻後。四半刻とは言わないまでも、まだ少し時間があるはずだ。金吾の中のは組の勘が鈍ってなけりゃあ早めに動いてくれてると思うけど、さすがにそれを期待して策を動かすのは……無謀か。仕方ない。もうちょっと大騒ぎにさせてもらおうか」
 かりかりと頬を掻き、懐の中から打ち竹と紙切れを取り出す。そのまましずしずと庭へ出ると、庄左ヱ門はひょっこりと井戸の中を覗き込んだ。
 揺らぐ水面には火縄の明かりが灯り、女中部屋を寝静まらせた直後に準備したものが崩れることなくそこにあることを知らせる。井戸の中に浮かべた薄い木板の上には大量の小枝と藁が積み上げられ、そこから僅かに上、本来ならば汲上桶が結わえられているはずの縄には大国火矢の鏃を替えた鏑矢が括りつけられていた。
 紙切れに火を灯し、燃えるのを確認して井戸へと落とす。
 火は紙から藁へ燃え移り、爆ぜる音を響かせて炎を上げる。それがやがて矢の火縄に移り音を上げて空へ放たれることを確信して、庄左ヱ門は何食わぬ顔でその場を離れた。
 あらかじめ用意しておいた握り飯を手に、門番達のもとへ足を向ける。井戸の中の仕掛けはほどなくして水中に燃え落ちるため、よほど素早く場所を特定されない限り夜間に発見されることはない。例えこの場からの矢が放たれる瞬間を誰かが見たとしても差し入れに回っていたとなれば門番達によって不在が証明され、また若君が攫われたこの混乱の中では思考は短絡化され、女中部屋を離れていたために曲者の被害に遭わずに済んだと解釈されることはほぼ確定的だった。
 捧げ持った盆の上、鎮座する握り飯の中でも特に小さな一個を口の中に放り込む。
「さて、ここからは風魔の領域。面倒な人達が二手に分かれてくれてる内に、ちゃんと動きに気付いてくれよ」
 小さく呟き、目前に迫った門番達に頭を下げて淑やかに微笑みかける。差し出した握り飯に歓喜の声を上げて表情を崩す男達と他愛ない談笑を交わす頃、背後で甲高い音が天に向けて駆け上がった。
 勿論その音に浮足立つのはなにも事情を知らぬ末端の者ばかりではない。特に内密に喜三太を幽閉している座敷牢の警備に当たっている者は急襲の予感にざわめき、近辺に侵入者が迫っていないか殺気立った様子でそれぞれに捜索の目を光らせていた。
「ご家老の仰せになっていた若様に近付く者か、それとも風魔の手の者かもしれん! どちらにせよ見つけ次第捕えろ! 風魔であれば交渉決裂の証に、その他の者であればどこの手の者か吐かせねばならん!」
 突然のことに混乱を見せる足軽達の声に紛れ、明らかに仔細を承知している者に向けられた指示が飛ぶ。そのあまりの烈しい声色に、深く事情を知らぬ者までもとにかく曲者を捕らえなければいけないのだという使命感に駆られ、城内を忙しなく走り回っていた。
 その中で一人、青髭の目立つみすぼらしい雰囲気をした足軽が人目を気にした素振りでこそこそと走り寄ってくる。
「あのぉ、オラさっき向こうのほうを飛んでく、あやしー奴を見かけたんですがよ」
 口元を間誤付かせ、おずおずと上目遣いに進言してくる男に数人が素早く反応を見せる。どこへ向かった、なぜ追わなかったと口々に責め立てる言葉に震え上がり、男は恐縮しきった様子で肩身を狭めた。
「いやぁそったら無理なことを! オラァ見てのとーり田舎モンでよー、足軽に取り上げてもらっただけでもめっけもんだってくれーで、そんなオラが一人で曲者をつらめーるなんてとてもじゃねーけどできねー話だーよ。そんでお強そーなオメー様がたに助けてもらうべと思ったんだけども……」
 もじもじと身を揺する情けない姿を目にし、分かったもういいと呆れ果てた言葉が返る。仮にも足軽兵がなにを弱気なと憤慨して見せた男達に、青髭の足軽は申し訳なさそうに頭を垂れた。
「まったくもって申し訳ねー話だべ。したらオラが見たとこまで案内すっから、みんなあいこに来てくれんせーよ」
 へこへこと媚び諂いながら先を行く足軽に、不満と文句を投げつけながら男達が続く。騒動の中にありながらどこか緊張感に欠けたその光景を見送って、物見櫓脇の叢が大きく揺れた。
 蹴りつけられた砂利の音すら遅れるほど早く、一つの影が座敷牢の誂えられた建物に飛び込む。微かな音に気付いて振り返った牢番の男が視界に捉えたのは、視界を掠めるように横切った瓶覗色の着物だけだった。
 叫ぶことも叶わず、男は鳩尾の一撃を食らい崩れ落ちる。
 しかし風魔の頭領を捕らえた牢に見張りがその一人だけであるはずもなく。
「っ、やはり風魔の者か!」
 異変に気付き、木窓から外を警戒していた男が声を上げる。すると外周を回っていた者もその声を耳にしたのか、刀や槍に手をかけた姿で慌ただしく駆け込んできた。
 瞬く間に取り囲まれ、侵入者は深く息を吐く。それは諦めとも降参とも毛色が違い、むしろこの状況にあって尚も落ち着き払った心情を感じさせた。
 やがて研ぎ澄まされた白刃のような鋭い瞳が、ぎらりと殺気立って男達を睨み付ける。
「皆本金吾、推参仕る」
 低く呟かれた言葉が終わらぬ内に鯉口が切られ、大きな踏み込みと共に横薙ぎの一閃が男達を退ける。咄嗟の機転で後ろに跳んだものの、風を孕んで膨らんだ着物の袷が裁たれたその切り口に、誰かが大きく舌を打った。
「皆本だと……! 貴様が風魔の護り刀か!」
「その呼び名、恥ずかしいからやめてほしいんだけどな!!」
 叫ばれた近年の通り名に、金吾の頬に朱が走る。しかし羞恥に戸惑っていようともその斬撃の力は緩むことなく、峰に返した刀は既に数人を跪かせていた。
 一人、恐らくは忍者隊の頭目だろう男が楽しげにその剣を受け流す。
「風魔には三本刀と一つ盾があると聞いてはいたが、まさか本当にお目にかかるとは思わなかった!」
「僕に関しちゃ思われてるほど大層なものじゃないんですよ! 買い被りもいいところだ!」
 気恥ずかしさに声を荒げ、受け止められた刀を鐔で弾いて距離をとる。かと思えば次の瞬間にはひゅうと細い息を吐いた金吾が、滑り込むようにして足元からの一撃を狙った。
 横薙ぎの剣は立てて遮り、時に軸足を蹴りつけて互いに体制を崩させる。峰を用いる金吾の剣技は相手にとってやはり止めやすくはあるのか、立ち合いの内に何度か手甲を以てして受け流されていた。
 二人の剣戟の速さにおよそ入り込む隙はないと気を殺がれてしまったのか、他の者は皆たじろいだ様子で剣舞を見守る。
 しかしその誰もが、気付けば強い痺れを訴える体の異変に気付き驚愕の表情を浮かべた。
「あーあー、敵襲だってーのにそんなじちねーツラぁ晒してっからそうなるんだーよ。ここに来てんのは、なンも金吾だけじゃねーべ」
 天井裏からひょっこりと顔を出し、与四郎がにんまりと嫌味に唇を歪める。天井板を一枚剥がせばそこには何人かの倒れた人影が窺え、体の自由を奪われた男達は成す術もなくそれを見上げながら、痺れた舌で掠れた声を漏らした。
 ひらりと身軽に降り立ち、くるりと回した苦無を腰帯に納める。
「オメーらの言うところの三本刀、オラは忍び刀だっけかー? 上にいた奴らはみーんな、もうとっくにおネンネしてもらったからよー。もう毒は焚かなくてもどうにかなりそうじゃんかよ、懐刀」
 可笑しそうに喉を揺らしての呼びかけに、立ち尽くす男達の背後から照れた野太い声が響く。青髭の目立つその足軽の影はどこか遠慮気に間を擦り抜け、気のいい中年の素顔を晒した。
「やめてくれ与四郎。オラもその呼び名ぁ、なんつーかオベンチャラせわれてるみてーでどうも好きになれねーのよ」
「なぁに。剣術も体術もへたっぴだけどよ、今じゃ相手のさらーっと相手の懐に忍び込んで毒でいごけなく出来るじゃんかよ。だからこその呼び名だンべ」
 気まずげに口を引き結ぶ仁之進の肩を叩き、与四郎が気楽そうに激励を飛ばす。傍らで剣戟を演じているとは思えないその和やかさに困り果てた表情を浮かべ、金吾は改めて、今や孤立した状況となった男に刀を向けた。
「この狭い屋内に今や動けるのはあなた一人。もう見てお分かりの通り、こちらは山村喜三太の無事の救出を目的としているだけであなた方を傷つけるつもりは毛頭ありません。風魔の三本刀と呼んで頂けるのなら尚のこと、その三名に囲まれた現時点を以て、刀を置いてくださいませんか」
 切っ先を突き付けながらも切実さを訴えて唇を噛む。卑劣な手をも厭わぬはずの忍の中にあってまさしく武士の潔さと実直さを体現するその姿に、男は小さく肩を落とし、やれやれと溜息を吐いた。
「刀でやりあって勝てそうな相手とは思えんし、何より我らの主はあくまでお屋形様。ご家老の独断からくる務めを死守するのも少々馬鹿らしいか」
「そうですよぉ。だいたい金吾と刀同士でやりあって勝てる忍者なんて、そうそういるわけないですし」
 言外に降参を告げた男の言葉尻を追い、のほほんとした声が機嫌良さげな弾みをつけて牢内に転がる。聞き慣れた、しかしこの数日間聞くことの出来なかったその困り者の声に思わず顔を綻ばせ、金吾は座敷牢の奥へと目を向けた。
「遠路はるばる迎えに来たぞ、このバカ頭領」
「うん、ご苦労様」
 カエンタケ忍者隊の頭目から牢の鍵を受け取り、にこやかに歩み寄ってくる喜三太の進む道を開ける。嫌味にも悪びれることなく扉を潜り、さして変わらないはずの空気に背筋を伸ばした柔らかな猫毛は、忍者隊の面々を見返って深く頭を下げた。
「お世話になりました。迎えが来たんで帰りますね」
 あっけらかんと告げられた言葉に、思わず誰も彼もが噴き出す。つい先刻まで捕縛を叫んで緊張の糸を張りつめていたとは思えないほどの柔和な雰囲気に、喜三太は満足そうに頬を緩めた。
「さて、どうせみんなも来てるんでしょ? じゃあ今からそっちの手伝いに出向こうか」
 楽しげでありながら、不意にその目だけが冷めたものに変わる。その変貌を横目に見遣り、これだから手綱が取りにくいのだと金吾は肩を落とした。



−−−続.