ぱたんと音を立てて、薄い書物が閉じられる。表紙に置かれた幼い手はいまだ柔らかにふくふくとし、おそらく込み入った作業の一つもしたことがないだろうことが見て取れる。身につけた着物は木綿で仕立てられた上物で庶民のそれとは格段の差があり、例え身分を明かさず下町に降りることがあったとしても一目でその正体が知れる身なりだった。
 既に日は陰り、空は朱を通り越して紫闇が迫る。屋外ならばまだ少量の光があるものの、闇に閉ざされた室内に行燈の火を煌々と灯し、黒目がちな幼い瞳はなにごとか考え込む素振りで押し黙っていた。
 カエンタケ城の奥座敷。そこで寝物語のような薄い本を前に物思いに耽る若君に、家老である黒麻がゆっくりと歩み寄る。
「若様は今日もまた本を前にしてお悩みですかな? つい先日までは絵物語をお好みであらせられたとばかり思っておりましたが、このところ急に色々と考えを巡らせておいでだ。何やら突然大人びてしまわれたようで、爺は少々寂しゅうございますぞ。若様はまだまだ遊びの中に学ばれる時期にございます。今はまだ楽しいことだけをお考え召されればよろしゅうございますのに」
 にこやかに近付き、傍らに腰を下ろす。その目は孫を見遣る好々爺のような光を見せてはいるものの、時折酷く狡猾な臭いを感じさせた。
 その目が、ちらりと若君の手元の本を盗み見る。
 かな文字交じりに書かれたその表題は見覚えがあり、城下で見られる芝居の台本と窺えた。ただ芝居見物に出かける機会もない黒麻にはその内容まで思い至ることが出来ず、眉間を寄せてわずかに首を傾ぐ。
「お悩みはその芝居本が原因のご様子。若様、なにを考えておいでか」
 如何にも親切心からの声色を使いながらも、その表情は厄介ごとを懸念する疑念を満面に映し出す。しかし幼い若君はそんな気配を気にも留めず、差し出された気遣いを言葉のままに受け止めて黒麻を見返った。
「なぁ黒麻。民を治めて、城の外で争いが起こらないようにする私達の仕事なのだろう? それは民を守るためでもあって、……えっと、領地? を広げるのも、国と国の差をなくして、いつかこの天下を一個にまとめて、それで皆が平穏に暮らせるようにするための大事な仕事だと聞いた。でも、よく分からないことがあるんだ。黒麻なら私よりたくさんいろんなことを知ってるから、答えがわかるかもしれない」
 困り顔のまま、時折戸惑うように幼い目を泳がせる若君の言葉に黒麻は唖然として言葉を失う。
 むしろそれも仕方がないことと言える。若君といえどもつい七日前まで文字の多い本など興味もない様子で、そして政治に関する知識も皆無だった幼子。それが突然当然の顔をして次期城主として持っていて然るべき知識を口にすれば、それまでを知っている者であればこう反応するのも無理はなかった。
 まして自らが画策してそういった類のものから遠ざけていた黒麻であれば、より衝撃は顕著なものとなる。
 一瞬の動揺。明らかに想定外の事態に対する嫌悪と苦渋を孕んだその表情はしかし次の瞬間には上塗りされ、またしても柔らかな好々爺の仮面の下に押し込められた。
「……っ、これは、これは。子供の成長は早いと申しますが、我らが若様は本当に気付かぬうちに大人になっておいでだ。いつの間にそのようなことをお学びになられました? 殿より若様の教育係を仰せつかっておりますが、政など若様にはまだまだ早いとばかり思っておりました。いや、これは失礼ながらこの爺が若様のおつむりを見誤っておりましたかな。……して、この爺になにをお聞きになりたいので」
 あくまでもにこやかな問いに、幼子の目は真摯な光で黒麻を射抜く。
「皆が平穏に暮らせるようにと言いながら、城の外の争いをなくすのが仕事と言いながら、なぜいろんなところで戦が起こる?」
 言葉に、黒麻の顔が今度こそはっきりと引き攣る。
「……なぜ、と仰せか」
「うん。天下を統一? するのに、なぜ戦をする必要があるのだろう。自分の城の周りで争いごとを減らせるなら、国を違えたほかの城とも争いをするべきではないだろう? 人に対して争いをやめろという者がそれを守らないなら、誰も従うわけがない。なのにいろんな場所で戦が起こって、本当は守らなきゃいけないはずの民が巻き込まれてずいぶん困っていると聞いた。戦は痛い思いもするし、たくさん物も壊れるんだろう? この芝居本にも書かれていた。自分達もケガをして民も困るんなら、戦などしないで仲良くすればいいのに。なぜそれが出来ないんだろう」
 心底不可解そうに腕を組む若君の声などもはや耳にも入っていない様子で、黒麻の唇が忌々しげに歪む。わなわなと震えたそれはやがて立腹した心情を示すかのように奥から軋んだ音を響かせた。
「黒麻? どうした、腹でも痛むのか?」
 ぎりと音を立てた奥歯に気付いたのか、稚い顔が不安に曇って黒麻を覗き込む。視界のほとんどを埋めるようにして回り込んできたその表情にようやく我に返り、家老は引き攣りながらもどうにか笑みを作って上辺を繕った。
「……あぁ、いえいえお気になさいますな。若様があまりにも難しいことをお考えでおられたので、この爺も考えに耽るあまり少々頭が痛んで参りましてな。残念ながらその答え、爺ごときでは皆目見当もつきませぬ。さすがはカエンタケ城をお継ぎになるお方、凡骨なこの頭では思いもつかぬことを仰せになられる。まったく、若様の元服が待ち遠しい限りですな」
 かかと大笑するかに見せかけ、不自然なまでに強張る口元を気取られまいと早々に立ち上がる。答えを得られないことに肩を落とした若君がそうかと気落ちした声をこぼすと、黒麻は退室しようとした足を止め、もう一度腰を落としてずいと身を乗り出した。
「しかし若様、斯様な本をどこでお手になさいました。下賤の者の見世物本など、我が城にあるはずもなし。それに政に関する知識までもどこでお耳に挟まれましたのか。問答にも随分と慣れをお見受け申し上げましたし、もしや教育係たる爺を差し置いて他の者が若様に余計な……いえ、若様のお勉強を見ておりますので……?」
 瞳の奥にギラリと光る獰猛さを隠し、己の計画を阻害した存在の特定を狙って声色を低くする。その問いに若君は無邪気な様子で二、三度瞬き、あぁと嬉しそうに顔を綻ばせた。
「ちょうど七日前の夜からだったか、寝る前と朝のまだ早い内に女中が色々な話をしてくれる。大名がどういう仕事をしているかとか、市井の民の話とか、本を読んでくれたり絵を描いてくれたり、難しいこともあるがとても楽しいぞ。勉強というのはもっと面倒くさいものだとばかり思っていたが、そうか、あれも勉強なのだな。あれなら私も好きになれそうだ」
 にこにこと機嫌よく話して聞かせる姿に困惑しながら、女中という言葉を口の中で復唱する。そのあとさらに話を続けようとした若君に中座する無礼を詫びて、黒麻は今度こそ足早に部屋を後にした。
 腹立たしさが滲み出るかのような大きな足音を立てて廊下を進み、やがて暗い突き当りになっている場所で足を止める。周囲に人の気配がないかちらりと見まわした上で壁を三度叩き、顔を寄せるようにして囁いた。
「若様に入れ知恵をしておる者がいるようじゃ。朝晩の若様の世話係らしいが、恐らく同じ者であろう。いずこかの間者やもしれぬ。ただの女中であれば若様から遠ざけよ。間者であれば……処分せい」
 早口に言い切り、何事もなかったかのようにその場を去る。その背中を見送り、天井裏から一部始終を覗き見ていた勝気な吊り目がにんまりと笑みに歪んだ。
「なーるほど、あそこが忍者隊との秘密の連絡口ってワケか。黒幕のオッサンに知られたからにゃあそろそろこっちも潮時だし、本格的にケリつける準備かね」
 どこか舌なめずりでもしそうな愉快さで呟き、ひらりと音もなく身を翻して城を後にする。
 残っていたはずの僅かな光も消え失せ、闇に閉ざされた山中。月の出までまだ時間のある空を見上げ、猫に似た八重歯が白く浮かんだ。


  ■  □  ■


 芝居小屋の広間。その中央に一つだけ据えられた火が揺らぐたび、巨大な影達もまた笑うように体を揺する。もはや何人分の影なのか円を成して連なる数を見分けることも出来ず、まるで妖魅の集会のようだと金吾は口の中で苦笑した。
 やがて大きな柏手が広間に響く。
 遠征前の幼子のようにどこか浮足立った雰囲気をたった一音で戒めて集中を促すその動作に、やはりこういうところも変わっていないと目尻を下げる。妖魅集会を取り仕切る妖怪総大将然とした頭目は速やかに視線が集まったことに満足したのかにんまりと笑み、さてそれでは始めようかと唇を開いた。
「先日から城内で暗躍してもらっていた通り、若君は今や立派に次期城主として持ち合わせておくべき最低限の知識と、そして思案に耽るという行為を会得してくださった。ここに関してはさすが血筋と言うか、大名家の若君だけあって覚えが早くていらっしゃるよね。学園に入ったばかりの頃の僕らよりも幼くておいでなのに、その頃の僕らよりもずっと優秀な生徒だ。それこそい組の連中と同等、もしくはそれ以上じゃないか? 実際七日間、朝夕と実質上の教鞭をとっている身としてはどう思う? 笹山先生」
 ちらりと視線が動いた先で、苦々しい顔をした現職教諭がまあねと笑う。その苦笑が過去の自分達の不出来を恥らってのものなのか、それとも未だ一種の敵対心が消えない旧友達を褒めることに抵抗があるためのものなのか判別がつかないが、それでも事実は事実として否定出来なかった兵太夫が頭を掻いた。
 傍らには風呂敷包みが置かれ、中から僅かに本と筆が覗き見える。教材と思しきそれが本来この芝居小屋に置き去りにされていた識者の手習い本だと思い出し、不用品であっても使用者によっては活用の場などいくらでもあるものだと半ば関心して金吾は低く唸った。
 遣り取りを追いやり、今度はきり丸がわざとらしく喉の調子を整える。
「んっ、うん! あー、で、若君が賢いよい子になってきちまってるのに、今日になって黒麻が気付いたわけだ。まぁ都合よく動かしやすい殿様にしようと思えば、アホのほうがいいんだろうしな。頭良くなってるって気付いた時のあのオッサンの面ったらなかったぜ。……まぁそれはそれとして、直後に忍者隊に女中っつか兵太夫の始末を命じてたからな。相当容赦ねぇ奴なことは間違いねぇよ。俺なら絶対あんな奴に子育ては任したくないね」
「例え悪巧みがなかったとしても、そんな人に育てられちゃったら性格悪くなりそうだもんねぇ」
 うんざりといった風に舌を出すきり丸の隣で、しんべヱが笑って同調する。昔から人畜無害な雰囲気でさらりと毒舌を発揮する大店の御曹司にもはや誰も突っ込もうとはせず、与四郎だけが困ったように頬を軽く掻いた。
「とにかく今夜で全体の締めをしないと引き時を失うということだね。乱太郎には昨日、按摩の振りをしてご城主に直接会ってきてもらったけど、その報告を改めてしてもらえるかな」
 話が脱線する気配を感じ取ったのか、家老の悪口合戦に発展する前に庄左ヱ門が話題を切り替える。にこやかでありながらも有無を言わさぬ強制力を有する声色に、さすがと伊助が呟くのが聞こえた。
 そして求めに応じ、乱太郎が僅かに膝を進める。
「じゃあ、昨日同席していなかった人もいるから改めて。お殿様のお加減が良くないと耳にした按摩を装って城に行ったんだけど、目が見えないってことでちょっと安心してたのか、比較的簡単に中に入れたよ。もちろん揉み解してる最中は家臣の人が痛いくらい監視してたからお殿様にご注進申し上げるとかは出来なかったんだけどね。昔は戦好きで随分と尖ってたって聞いていたけど、お歳を召して丸くなったのか結構感じのいい方だったし、それなりに人好きのするおじいちゃんって思ったよ。お孫さん……若君が可愛くて仕方ないみたい。でも家老の黒麻のことは全面的に信頼してるようだったし、下剋上や乗っ取りなんて考えてもないんじゃないかなぁ。若君がきちんと執政出来るよう成長するのを楽しみにしてたよ。ナギナタタケ城とは仲良くやっていってほしいみたい」
「そりゃ腹違いって言っても、兄弟仲が険悪になってほしいと思う身内なんていないだろうしな。特に両方まだちっさいわけだし、将来的にどうあれ今くらいは出来るだけ平和な環境で育ってほしいんだろ」
 もはや自らの手による覇権は諦め柔らかくなったという城主の人柄に多少ならず好感を抱いたのか、気遣う様子を見せた乱太郎の言葉に団蔵が便乗して口を開く。確かに当人達にとってはまだ互いに敵対心など持っているわけもなく、そうであるからには身内としても諍いは避けて平穏な日々を願うのは必然とも言えた。
 その報告に、ふむと悩ましげな唸りが漏れる。
「そンじっさま、デンボに火ぃついてんのに気ィ付いてねーんだべな。てめーが死んじまったらかーえーかーえーこっこが、すえたかんげーにけーも抱っ込まれちまうかもしんねーってのに。……んー、リリーのばっさまにゃああんまり派手なこたーしちゃーなんねーとせわれたけども、こいつぁーちぃっとばっかり、かっくらがしてやりてー話だーよ」
 神妙な顔つきで紡がれるも、その内容が理解出来ない様子で大多数が首を傾げながら目を瞬かせる。相模訛りが畿内の人間に通じないことは既に当たり前として理解し、あぁと金吾は笑顔を見せた。
「簡単に言うと、リリーさんには止められているけど家老をブッ飛ばしてやりたいってこと」
「うん、それなら同意」
 解説が済むや否や、は組全員が即座に声を揃える。その息の合い方に与四郎が声をあげて笑い、大きく膝を打った。
「そーはせっても、オラたちゃあくまで喜三太奪還が忍務だーよ。家老と若様ンこったぁオメーらに任せるべ。きり丸、兵太夫、乱太郎。うちの頭領がとっつらまってんのは二の丸の北東だってぇ話で一致してンだったな?」
 問いに、三人が同時に頷く。それを満足げに見遣り、それではと庄左ヱ門が顎を引いた。
「それじゃ、風魔勢は半刻後にカエンタケ城内での行動を開始してください。兵太夫、登城するのはそろそろだろ? 今日も若君への授業をよろしく。それに加えてきり丸、伊助、あと三治郎も女中の姿で近くに控えておいてくれ。僕は城内の見回りと女中部屋の見張りを請け負うから、乱太郎はご城主へ事情をお伝えして。しんべヱ、団蔵、虎若は適当な兵から衣装を借りて、どこの動きにも対応出来るように目を配っておいてほしい。喜三太奪還が完了したら焙烙火矢か何かの音で知らせてくれ。恐らくその頃には、黒麻が若君のところに乗り込んできてるだろうからね」
 さらさらと紡がれる割り当てを各自が口の中で復唱し、了承の意思を伝える。それを最後まで見届けることなく立ち上がった風魔の先達が、刀の曇りを確認していた金吾の肩を叩いた。
「さーて、オラ達も支度すンべ。サクッと喜三太を連れてけーって、さんざっぱらうんならかしてやんなきゃいけねーぞ、金吾。いつもみてーに甘やかそーモンならよ、オメーも一発ゲンコしなきゃなんねー」
 にやりと唇を吊り上げた与四郎の言葉に肩を竦め、刀を納めて並び立つ。
「甘やかしたりしませんよ。なんせあいつが捕まったのをきっかけに、これだけ大掛かりな騒動になったんです。心配した分だけしっかり叱って、あいつが持て余してるだろう退屈を発散させてやるのは……その後ですかね」
 付け足すようにぼそりと呟けば、結局は甘やかす予定かと大笑が返る。そんなつもりではないと声を荒げても取り合う気のないらしい茶化し言葉に憤慨した表情を見せ、大股で一歩分先に進み出た。
 後ろから聞こえる押し殺した笑いを聞こえないものと決めて、金吾は大きく息を吐く。
「ホント、今回ばっかりは一発殴るくらいはしてやんないと」
 自身に言い聞かせるように呟き、腰に差した刀を握って唇を噛む。風魔とカエンタケとの交渉が遠隔地での文の遣り取りということもあって時間を稼げたものの、喜三太が囚われてから既に二十日足らず。人質であるからには危害を加えられるようなことはないと確信しながらも、万が一のことを考えては背筋に寒いものが走った。
 その不吉な考えを頭を振ることで消し去り、今は忍務の達成だけを思って集中する。空を見れば弓月が浮かび、町を仄かに照らし出していた。



−−−続.